第3話 消えないうさぎ
「どうして居ないの!?」
週末、みっちりと働いて貯めたお給金を握りしめ、ルリシアは小さなガラス細工の店先でショーウィンドウに張り付いていた。
いない。あの日見つけた、赤い目と青い目の寄り添う二体のうさぎが。
(うそっ……まさか、売れちゃった……?)
何度も夢に見て、仕事中も頭の片隅にずっとあった。それなのに――。
ショーウィンドウの中を隈なく探しても、あの二体はどこにも見当たらない。ルリシアの顔から、すうっと血の気が引いた。
(ううん、店内に移動してるだけかも……!)
慌てて店の扉を押し開ける。ちりん、と小さなベルの音が鳴った。
「いらっしゃいま――」
「あの! ここに、うさぎが! 赤い目と青い目の、二体のガラスのうさぎがあったと思うんです!」
息せき切って詰め寄るルリシアに、店員の女性は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ああ……あのうさぎですね。大変申し訳ございません。あちらは他のお客様が、ご予約されておりまして」
「……えっ」
ルリシアの心臓が、どくんと嫌な音を立てた。
「同じものは……? もう、ないんですか……?」
「申し訳ございません。あれは職人の手仕事で、世界に一点限りの品です。同じものは二つとございません」
「そ、そんな……」
足から力が抜けた。ルリシアはへたり込みそうになるのを必死で堪えた。
(……間に合わなかった)
頑張って貯めたお金。やっと手が届くと思ったのに、ほんの少し遅かった。握りしめた給金が急にひどく重くなり、目の奥がじわりと熱くなった。
「……そう、ですか。わかりました……ありがとうございます……」
俯いたまま、消え入りそうな声でお礼を言い、ルリシアはとぼとぼと店を後にしようとした。
「……あの、失礼ですが」
店員が呼び止めた。
「もしかして……お客様、ルリシア様では?」
「……え?」
涙の滲む青い瞳を瞬かせる。どうして名前を知っているのだろう。
「はい……ルリシアですけど……」
その瞬間、店員の表情がぱあっと明るくなった。
「まあ! よかった! それでしたら――あのうさぎたち、あなた様にお売りいたします!」
「……え? どういうことですか?」
「ちゃんと、お取り置きしてございますよ」
ルリシアは意味がすぐには飲み込めなかった。取り置きなど頼んだ覚えはない。
「だって、他の人が予約してるはずじゃ……」
店員はにこにこと微笑みながら、奥から小さな箱を慎重に運んできた。
「数日前のことです。背の高い男性のお客様が、一人でいらっしゃいました。あのうさぎたちを、長い時間じっと見つめておいでで」
箱の蓋がゆっくり開かれる。
「ずいぶん悩まれた末に、ご予約されていかれたのです」
箱の中には、赤い目と青い目の二体のうさぎが、柔らかな光を受けて寄り添っていた。
「その方がこう仰っておりました。『金色の髪に青い瞳のルリシアという女の子が来たら、その子に売ってやってほしい』と」
「……っ」
ルリシアの息が止まった。
「とても素敵な方でしたよ。紺色の髪に、印象的な赤い瞳の……どこかでお見かけしたような……」
(……イリヤだ)
あの日は「指輪だけで十分」と自分が断った。けれどイリヤは、買い取るのではなく、ルリシアが自分の力で買いに来るその日を、ちゃんと待っていてくれたのだ。
ぽろり、と堪えていた涙がこぼれ落ちた。
「……っ、う……イリヤ……」
胸の奥から熱い想いが込み上げる。今すぐに会いたい。ルリシアは涙を手の甲でぐいっと拭い、顔を上げた。
「……あの! このうさぎたち、買わせてください!」
店員は優しい目で深く頷いた。
「はい。確かに承りました」
**
緑と花々が彩る王都・中央広場。
その日の午後、ルリシアはイリヤとデートの約束をしていた。彼女は芝生の一角に敷布を広げ、手作りのサンドイッチを詰めたバスケットを置くと、ぱんぱんと皺を伸ばした。
「今日は天気もいいから、外でお昼ごはんはどうかなって思って……」
意気込んで顔を上げたルリシアは、急に不安になった。伯爵家の人間であるイリヤにとって、地面に布を敷いただけの食事は品がないかもしれない。
「あの、イリヤ……やっぱりこういうの、嫌かな。ちゃんとしたお店の方が……」
恐る恐る尋ねると、イリヤは何も言わず、敷布の上に腰を下ろした。そしてそのまま仰向けに寝転んだ。
「えっ!?」
ルリシアが目を丸くする。いつも背筋を伸ばし、隙のない彼が、芝生の上で無防備に空を見上げている。
「イ、イリヤ! 大丈夫? 具合でも悪い……!?」
「……問題ない。ルリも、来い」
隣をぽんと叩かれ、ルリシアは戸惑いながらもその横に腰を下ろし、思い切って寝転んだ。
「わぁ……」
視界いっぱいに青い空が広がる。流れていく雲、頰を撫でる風、芝生の香りと背中に感じるひんやりとした地面の感触。
「地面に寝転ぶなんて、久しぶり……」
「……俺は初めてだ」
イリヤがぽつりと言った。
「ルリから教わることは、初めてのことばかりだ」
ルリシアが横顔を見ると、イリヤの赤い瞳が空を映して柔らかく細められた。
「……呆れてる?」
「まさか」
小さく息を吐くような笑みがこぼれる。
「すべて新鮮で……楽しい。ルリといるだけで、世界がこんなにも違って見える」
ルリシアの胸が、とくんと高鳴った。彼の視線がこちらに向いて、穏やかな温度を宿した赤い瞳がまっすぐに見つめてくる。
「出会ってくれて……ありがとう、ルリ」
その瞳があまりにも優しくて、ルリシアの目からまた涙がこぼれた。
「……本当に、ルリは泣き虫だな」
イリヤが困ったように、けれど愛おしげに笑う。
「だって……」
「こういうときは、笑うんだ」
そっと手が伸び、涙を拭ってくれる。
「ルリには、笑顔が一番似合う」
「……うん。ありがとう、イリヤ」
ぐしゃぐしゃの顔で、それでもルリシアは精一杯に笑った。
二人はしばらく並んで空を見上げていた。噴水の音と、遠くの街のざわめきが心地よく耳を撫でる。
「……ねえ、イリヤ」
「何だ?」
「指輪を作りに行った日のこと、覚えてる?」
「ああ」
ルリシアは記憶を辿るように微笑んだ。
「あの日ね……私、運命的な出会いをしたの」
イリヤの眉がぴくりと動いた。
「……それは」
声がわずかに低くなる。
「ものすごく妬けるな」
「ふふっ」
わかりやすいやきもちに、ルリシアは思わず笑みをこぼした。そしてバスケットから小さな包みを取り出す。
――中から現れたのは、赤い目のガラスのうさぎ。
「……この子に、出会ったの」
掌に乗せ、愛おしげに見つめる。
「王宮でのお仕事はね……この子が欲しくて頑張ったんだ」
イリヤもゆっくり身を起こす。
「でもね」
ルリシアは、もう一つの包みを取り出した。
――青い目のガラスのうさぎ。
「この子の隣には、いつもこの青い目の子が寄り添ってたの。だから……私がこの子を連れて帰ったら……青い目のこの子が、ひとりぼっちになっちゃう」
イリヤに、青い目のうさぎを差し出す。
「だから……この子には、イリヤがそばに居てあげて」
イリヤはうさぎをじっと見つめながら、掌に包み込むように受け取った。
「……お前みたいに、綺麗だな」
ぽつりと零れた言葉に、ルリシアの頰が熱くなる。イリヤの片手が頰に触れ、吐息が触れ合うほどの距離で、額を寄せ合った。
「大事にする。……ずっと、一緒だ」
「うん……私も」
ルリシアは赤いうさぎを抱きしめながら、こくりと頷いた。二人の手の中で、赤と青のうさぎが陽の光を反射し、温かな光を放っていた。
**
サンドイッチを食べ終えた後、二人は穏やかな時間を過ごした。
傾きはじめた陽が広場を橙色に染めると、イリヤが静かに口を開いた。
「……ルリ」
声の響きが変わっていた。
「出立前に、戻ってきたら話すと言っていたこと……今、話したい」
「うん」
ルリシアは小さく顎を引いた。イリヤは一度視線を落としてから、まっすぐに彼女を見た。
「俺には、婚約の話があった。ヴェルモント侯爵家の令嬢との縁談だ」
ルリシアは静かに続きを待った。
「……その話を俺は知らなかった。知らぬ間に、お前にも彼女にも誠実でいられなかった」
赤い瞳が、ルリシアだけを映す。
「俺は討伐前に、彼女に『守りたい人がいる』とはっきり伝えた」
ルリシアは息を詰めて聞き入った。
「それでも彼女は怒らなかった。それどころか、俺が自分の道を選べるように身を引いて、送り出してくれた。俺は彼女に感謝している」
「……そっか」
不思議と嫉妬は湧かなかった。イリヤをまっすぐに想い、彼の幸せを願ってくれた女性に、温かな気持ちが灯る。
「執行者の権限と、彼女の助けがあって……家にも、誰の命令にも縛られずに済んだ。お前と、共に生きる道を選べることができた」
真っ直ぐな想いが胸に届く。ルリシアはぐっと唇を噛んだ。
「……あのね、イリヤ。私も話したいことがあるの」
「ああ」
「実は、イリヤが討伐に行ってる間に……私、イリヤのお父様に呼び出されたんだ。そのときに婚約者の話は聞かされてたの」
その瞬間、イリヤの表情が鋭くなった。ルリシアの頰にそっと手が添えられる。
「……何かされたのか」
抑えた声の奥に、隠しきれない心配が滲む。
「ううん、大丈夫。私、傷ついてないよ」
「ルリ」
「……『いくら欲しいのか』って聞かれたの。クロウリー家の血筋を守るために、平民の私が関わるな、身を引けと」
イリヤの手に力がこもる。ルリシアは彼の手を優しく包み、柔らかく微笑んだ。
「正直、婚約者のもとに帰ってしまう未来も想像したよ。一瞬でも、あなたがもう私のところには戻ってこないんじゃないかって思った」
赤い瞳が複雑に揺れる。
「……でもイリヤは、討伐前に言ってくれたよね? ずっと一緒だって、共に戦おうって」
イリヤがゆっくり頷く。
「だから、あなたの言葉を信じた」
彼は言葉を失ったようにルリシアを見つめた。
「あなたを信じていたから、傷ついてない。そんなに心配しないで」
「……すまない。お前を、そんな目に遭わせて」
「謝らないで! 謝るくらいなら、抱きしめてほしい……」
頰を赤らめて視線を逸らすルリシアを、イリヤは強く抱き寄せた。二人の鼓動が、指輪を通して互いに響き合う。
「イリヤが今ここにいる。それが答えだって、私、わかるよ」
青い瞳がまっすぐに見上げる。
「戻ってきてくれて……ちゃんと話してくれてありがとう。大好きだよ、イリヤ」
「……俺もだ」
頭の上から、低く優しい声が降ってきた。
「お前がいてくれたから、迷わずに戦えた」
やがてイリヤはそっと身を離し、まだ赤いルリシアの顔を見て目元を緩めた。
「これから先も、二人で乗り越えていこう」
「うん」
ルリシアはこくりと頷いた。胸の奥にずっとつかえていたものが、すうっと消えていく。
気づけば空は藍色に染まり、広場の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。
「あ、もうこんな時間! 帰らなきゃ」
慌てて立ち上がるルリシアの隣で、イリヤも腰を上げ、手伝ってくれる。二人はそれぞれの胸に、赤と青のうさぎをそっとしまった。
灯り始めた道を並んで歩き出す。自然と手が繋がれた。
「あのね、イリヤ。シルヴァリス帝国に行くの、楽しみなんだ。闇魔法って未知の力だから少し怖いけど……イリヤも一緒だから、平気」
「ああ。何があっても、必ず守る」
迷いのない声に、ルリシアの頰が緩む。繋いだ手を軽く揺らした。
「うん。……ねえ、あっちでもデートしようね」
「……授業の一環だぞ。はしゃぎ過ぎて先生に怒られないようにな」
「そのときは、イリヤも一緒に怒られてね」
「道連れか……」
「もちろんっ!」
ルリシアが胸を張ると、イリヤがこらえきれずに吹き出した。つられてルリシアも笑う。二人の笑い声が、軽やかに夕暮れの道に溶けていった。
**
その頃、シルヴァリス帝国――帝国立図書館の一室。うずたかく積み上げられた禁書の山の谷間で、スノウ・シルヴァートは盛大に頭を抱えていた。
肩に止まったカラスの足に結ばれた、二通目の通達に目を通した瞬間、碧い瞳がまん丸に見開かれた。
「……はぁ? 監視ぃ?」
スノウは銀の髪をくしゃくしゃとかきむしった。
「なんで俺が、よりにもよって男の監視なんてしなきゃいけないわけ!? 可愛い女の子のお目付け役なら、喜んで引き受けてあげるのにさあ!」
ぶつぶつと文句を零しながら、通達に記された名前にちらりと目を走らせる。再び、盛大なため息が漏れた。
すると、唐突に禁書の山へとぼすんと突っ伏した。カラスが首を傾げて、その顔を覗き込む。
数秒後には「ぐが〜」という豪快ないびきが、静かな図書館の一室に響き始めた。
カラスは細めた瞳で彼を見つめ、一声、短く鳴いた。




