第2話 殿下の受難と、白い飛竜
「クロヴィス殿下……かくれんぼ、ですか?」
メイド二日目。風に飛ばされた寝具の白い布を追いかけて、ルリシアは中庭の植え込みまでやってきた。
布を拾い上げ、ひょいと足元の草陰を覗き込んだ。そこには、この国の王太子が身を縮こませて隠れていたのである。
「しーーっ!」
クロヴィスは唇に指を当て、ルリシアをくいくいと手招きした。その顔は妙に必死だ。
「は、はい……?」
ただならぬ気配に、ルリシアも草陰にしゃがみ込む。なぜ自分まで隠れないといけないのか、よくわからない。
「あの、殿下。何から隠れて――」
「捕まったら、もう逃げられない」
クロヴィスは、悲壮な面持ちで前方を見据えていた。僅かに肩が震えている。
「そ、そんなに恐ろしいものから、逃げていらっしゃるんですか……?」
ごくり、とルリシアは喉を鳴らした。
「ああ。恐ろしいとも。……夢にまで出てくるくらいにはな」
低く絞り出された声に、ルリシアの背筋がぞっと冷えた。
(夢にまで……!? いったい、どんな化け物が……!)
王宮には、自分の知らない恐ろしい何かが潜んでいるのかもしれない。ルリシアは固唾を呑んで、殿下とともに草陰に身を潜めた。
――と、そのときだ。
「おや。イリヤ卿ではないか」
朗らかで、よく通る声が中庭に響いた。
その名にルリシアの肩がびくんと跳ねる。思わず、ぱっと身を乗り出した。
「イリヤ!? イリヤが王宮に来てるの!?」
「待て、ルリシア嬢! 我慢しなさい!」
クロヴィスが慌ててルリシアの肩を掴んで草陰へと引き戻す。ルリシアは仕方なく、ふたたび身を縮めて、そっと植え込みの隙間から様子を窺った。
中庭の小道に見慣れた紺色の髪があった。
イリヤだ。彼は、一人の女性に向かって礼儀正しく頭を垂れている。
その女性を見て、ルリシアは目を見張った。
結い上げた美しい金の髪。気品に満ちた佇まい。けれど、どこかクロヴィス殿下の面影を宿した、優しげな目元。
(あの方……もしかして……)
「あらあら、そんなにかしこまらないで。イリヤ卿。あなたには、本当に感謝しているのよ」
女性は、ふわりと微笑んだ。
「あなたが会いに来てくださってから、あの人……陛下が、見違えるほどお元気になられてね。今朝なんて、ご自分で身を起こして、お茶を召し上がっていたの」
「……それは、何よりです」
イリヤは静かに答えた。
「あの人ったら、もっとイリヤ卿とお話ししたいと、そればかり。本当に、あなたは我が国の恩人だわ」
(やっぱり……!)
ルリシアは息を呑んだ。あの方はクロヴィス殿下の母君――この国の王妃様だ。
「ところで、イリヤ卿。あなた、クロヴィスを見ていないかしら」
王后妃は、ふと辺りを見回しながら尋ねた。
「あの子ったら、わたくしの顔を見るたびに、どこかへ消えてしまうのよ。今日こそ、ゆっくり話があるのだけれど」
イリヤの赤い瞳が、つい、と中庭の植え込みに動いた。二人が隠れる草陰へとまっすぐに向いた。
(――っ!)
気配を感じ取られて、クロヴィスはさらに身を縮める。草陰の中でぶんぶんと首を横に振り、両手を合わせて拝むように、「頼む、言うな」と圧をイリヤに送る。
イリヤは、すっと視線を戻した。
「……いえ。お見かけしておりません」
「あら、そう。残念だわ」
王后妃が小さく息をつく。草陰のクロヴィスが、ほうっと胸を撫で下ろした。「助かった」とその顔に書いてある。
ところが――王后妃は立ち去りかけて、思い出したように振り返った。
「ああ、そうそう」
その口元に、にっこりと優美な笑みが浮かぶ。
「次の舞踏会には、ラピス王国のアメリア王女がいらっしゃるの。くれぐれも、よろしくね。かくれんぼも――ほどほどに」
びくっ! と、草陰の影が跳ねた。
(――バレてる!?)
クロヴィスの顔から、さあっと血の気が引いていく。隠れていることなど、とうの昔にお見通しだったのだ。
ルリシアは、隣で固まる殿下と、涼やかに微笑む王后妃を見比べて、ぽかんと口を開けた。
そして、王后妃の視線が、今度はゆっくりと草陰のもう一つの影であるルリシアへと向けられる。
「それと、そちらのお嬢さん」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
「あなた、クリスティーノのお嬢さんでしょう? お母様の淹れる紅茶は、それはもう絶品だったわ。……あとで、あなたの紅茶もいただけるかしら?」
「はいっ! 喜んで――!」
ルリシアは反射的に、ぴしっと背筋を伸ばして、草陰から立ち上がる。
「……あ」
元気よく返事をしてから、はっと気づく。
「……あ」
隣で凍りついていたクロヴィスも、思わず声が漏れる。
必死に身を潜めていた意味も虚しく、その場に立ち竦むルリシアと、目を丸くして固まるクロヴィス。
王后妃は、そんな二人を見やって――くすり、と上品に笑った。
「ふふ。お邪魔したわね」
ドレスの裾を翻し、彼女は満足げに去っていく。最初から最後まで、すべてが手のひらの上だったとでも言うように。
穏やかな風の音が、そよそよと木々を揺らす。
「……殿下?」
「……何だい?」
「王妃様のどこが恐ろしいのですか?」
「……会うたびに何百枚もの女性の絵を私に押しつけるんだ」
クロヴィスは、心底うんざりした顔で頭を抱えた。
「あれは婚約者を見繕えという、無言の圧力でね。逃げても逃げても、追ってくる……まさに悪夢だよ」
「は、はあ……」
ルリシアは、なんとも返事に困って曖昧に頷いた。
「クロヴィス殿下」
イリヤが、ゆったりと歩み寄ってくる。
「……なんだ、イリヤ。君まで私に、何か言いたげだな?」
「いえ。先ほど陛下が、案じておられました。――息子はまだ、婚約者の一人もいないのか、と」
「ぐっ……!」
胸を押さえてよろめくクロヴィス。母からの圧に続き、父からの追撃である。
「お元気になられて、何よりです」
「……君ね、無表情でそれを言うの、やめてくれないか」
しれっとしているイリヤに、クロヴィスは「はあ」と深いため息をついてから、無理やり胸を張った。
「……いいんだ。私には、私の考えがある。政略でも、見合いでもない。運命の出会いというものが、いつか必ず――」
「ルリ。葉がついてる」
「え? どこ?」
クロヴィスの高らかな宣言の隣で、イリヤがルリシアの髪に絡んだ小さな葉を、そっと払い落としていた。
「今日も、馬車を用意してある。終わったら一緒に帰ろう」
「うん、嬉しい! いつもありがとう!」
二人の周りにだけ、すっかり甘い空気が流れている。彼の声は、その空気に押し流されて、誰の耳にも届いていなかった。
「…………」
クロヴィスは、ぴくりと口元を引きつらせた。
「……はあ、運命って何だっけ?」
その呟きもまた、甘ったるい空気に溶けて静かに消えていった。
**
午後の仕事の合間、ルリシアが洗濯物を干し終えて回廊を歩いていると、大きな荷を肩に担いだジルケットと、ばったり出くわした。
「お、ルリ。仕事はどうだ?」
「ジル! 王宮での仕事は慣れない礼儀作法に苦戦してるけど……でも、すごくやり甲斐があるよ!」
楽しげなルリシアに、ジルケットが釣られて笑う。
「はは、お前らしいな」
ルリシアは何気なく彼の肩の荷物に目をとめた。大きな樽と、束ねた布、それに刷毛のようなものが覗いている。
「ジルも、お仕事中?」
「ああ。これから相棒の世話しにいくとこ……ルリも見ていくか?」
「いいの!?」
好奇心に顔を輝かせるルリシアに、ジルケットは「こっちだ」と顎をしゃくった。
連れてこられたのは、王宮の一角にある飛竜舎だった。藁の匂いが満ちた、厩の奥でジルケットの相棒は静かに翼を畳んでいた。
「わぁ……」
純白の鱗が陽の光を弾いて、まるで雪のように輝いている。長い首をゆっくりとこちらへ向けた竜は、琥珀色の澄んだ瞳で、じっとルリシアを見つめた。
「すごい綺麗な子……飛竜をこんなに近くで見たのは初めてだよ」
「綺麗だろ? こいつはシェルト。白の飛竜は、滅多に生まれない。珍しい個体なんだ」
シェルトは、ふんっと鼻を鳴らすとルリシアの匂いを確かめるように、そっと鼻先を近づけてきた。
「ふふっ、くすぐったい。……かわいい」
とろけるような笑顔で、ルリシアがゆっくりと首筋を撫でる。シェルトは気持ちよさそうに目を細めた。
「珍しいな。こいつ、人見知りなのに。お前のこと、気に入ったらしい」
ジルケットは樽を下ろし、布を手に取った。
「ちょうど換鱗期の終わりでさ。古い鱗が浮いて、痒がるんだ。これから手入れしてやるとこだった」
「換鱗期って?」
「簡単に言うと、脱皮の季節みたいなもん。古い鱗を全部脱ぎ捨てて、新しい鎧に着替えるんだ」
「そうなんだ、私も手伝いたいな!」
「お、やる気だな。助かる。―― 鱗の目に沿ってそっと拭いてやってくれ」
二人は並んで、シェルトの鱗を丁寧に磨きはじめた。浮いた古い鱗をそっと払って布で艶を出してやると、白い体はますます輝きを増していく。シェルトはすっかり身を委ねて、うとうとと喉を鳴らしていた。
しばらく無心で手を動かしていたルリシアだが――不意に思い出す。
(……そうだ。ルディナ様のこと)
昨日見た、あの光景。ジルケットを目で追う、ルディナの横顔。気になって仕方ない。けれど、本人に気取られるわけにはいかない。
ルリシアは、できるだけさりげなさを装って口を開いた。
「ねえ、ジルって……気になる人とか、いるの?」
「何だよ、いきなり」
ジルケットが、布を動かす手を止めずに、片眉を上げた。
「……ほら、今ほっとけないなぁとか、気づいたら気にかけてるとか……いない?」
「う〜ん……まあ、いるか……ほっとけないやつ」
ジルケットの返答にルリシアは食いついた。
「えっ、どんな人?」
「どんな、ねえ……」
ジルケットは、シェルトの首筋を拭いながら、少し考えるように宙を見た。
「……強いよな。誰よりも。なのに肝心なところで不器用で……」
「うんうん」
「優しいくせに、それを表に出すのが下手でさ。すぐそっけない態度を取る……でも、本当は誰より、周りのことを気にかけてる」
ルリシアは、ぱあっと青い瞳を輝かせた。
(……それは、まさしくルディナ様のこと!)
まさに、昨日見たルディナそのものだった。凛として、隙がない美しさの奥に隠しきれない熱を抱えている、あの人。
「わかる気がする……! その人、まっすぐで、すごく綺麗な人だよね」
「……ん? まあ、綺麗系か……物静かなところとか」
「そうそう! 素敵だよね、そういう人!」
ルリシアは興奮気味に、何度も頷いた。応援したい気持ちがもう抑えきれない。
「その人のこと……割と、好きだったりする?」
「好き? いや、人としてなら、それなりに?」
「……人として?」
なんだか歯切れが悪い。照れているのだろうか。ルリシアが小首を傾げると、ジルケットはごく当たり前のことのように、言った。
「いや、あいつにはルリがいるだろ」
「……ん?」
「……ん?」
お互いを見やる。
「「だれの話?」」
二人の声が、ぴたりと重なった。
シェルトが不思議そうに、ぱちりと琥珀の目を瞬かせた。
**
飛竜舎をあとにしたルリシアは、夕暮れの回廊を一人で歩きながら、エプロンのポケットに触れる。
――今日の分のお給金。
昨日の分と合わせて少しずつ、けれど確かに増えている。
(……あと、もう少し)
胸の奥であたためている、小さな目標。
あの店先で見た、あの子たちを自分の手で彼に。
思い浮かべるだけで足取りが軽くなった。早く貯めて、早く渡したい。
「……早く、イリヤに……」
ぽつりと溢れ落ちた。
「――俺がどうした?」
「わっ!?」
すぐ背後から降ってきた声に、ルリシアは飛び上がった。勢いよく振り返ると、いつのまにかイリヤがすぐそこに立っている。少し首を傾げて、こちらを見下ろしていた。
「い、いつから居たの……!?」
「今、来たところだ。……何か言いかけていたな」
「なんでもないよ! 本当になんでもないの!」
ぶんぶんと笑顔で首を振るルリシアに、イリヤはわずかに目を細めた。
無理に聞き出そうとはしないが、その口元は、どこか面白がるように緩んでいる。
「……まあ、いい」
そう言って、イリヤは手を差し出した。
「帰るぞ。馬車を待たせてある」
こちらへ伸ばされた手に、ルリシアの頰がふわりと綻んだ。
「……うんっ」
頬を染めて自分の手を重ねる。自分の手より大きくてあたたかい手が、きゅっと包み込んでくれる。繋いだ手から伝わる温もりに、今日一日の疲れが溶けていく。
(……あと少し頑張るから)
茜色に染まる回廊に、二人の影が寄り添うように長く伸びていた。
今更ではありますが、6月22日の月曜日に第二部最終話と第三部序章を同日に投稿しております。読み飛ばしにはご注意ください。




