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第1話 メイド、始めました

「本日から週末のみ、お世話になります。ルリシアと申します」


 ずらりと並ぶメイドたちの前で、ルリシアは緊張しながら頭を下げた。

 先頭に立つメイド長は、年の頃は五十ほどだろうか。背筋をぴんと伸ばして、鋭い眼差しをルリシアに向ける。値踏みするような視線に彼女の身体が強張った。


「家名は?」


 短く、メイド長が問う。


「……は、はい。クリスティーノ、です」


 その瞬間、整然と並んでいたメイドたちの列が、さざ波のように揺れた。


「クリスティーノって……」

「ねえ、まさか、こないだの――」

「伝説の、クリスティーノ!?」


 最後の声が、ひときわ高く響いた。途端、ほかのざわめきは押し流され、その一語だけが部屋を満たしていく。


「あの『伝説のメイド』の!? クリスティーノさん!?」

「え? なに? 娘さんってこと?」

「何でも完璧速攻に、全てをこなすフリーのあの人でしょう!?」


 ルリシアは、ぱちぱちと目を瞬かせた。


(……さすが、お母さん。有名なんだ)


 その名で胸が騒ぐのは悪い気はしなかった。けれど同時に、ずっしりとした重みものしかかってくる。


「静粛に」


 メイド長の一言で、ざわめきは水を打ったように引いた。


「……あなたが、あのクリスティーノの。なるほど」


 メイド長の瞳がほんのわずかに細められる。値踏みの色は消えていない。むしろ増したようにも見えた。


「言っておきますが、ここでは家名は何の役にも立ちません。母上がどれほどの方であろうと、あなたの仕事ぶりだけを見ます」

「は、はい!」

「返事は一度。声は通るのに、なぜそんなに上ずるのです」

「……はい。申し訳ありません」


 ぴしゃりと正されて、ルリシアは首をすくめた。けれど気を引き締めて、ぐっと顔を上げる。


「あの……私、お母さんほど要領よくはできないと思います」


 メイド長の眉が、片方だけ上がった。


「でも、一生懸命やります。よろしくお願いします!」


 まっすぐな声が、ぱっと部屋に響く。


 メイド長は小さく「ふん」と息をついた。肯定とも否定ともつかないその音に、ルリシアの青い瞳にやる気の炎が瞬いた。



**



 最初にルリシアに叩き込まれたのは、立ち居振る舞い。


「違います。背筋。反らし過ぎない。顎を引きすぎ。スカートの裾はそんなに掴まない」

「は、はいっ……ぅ、わ」


 カーテシーひとつとっても、ルリシアの体はいちいち言うことを聞かなかった。膝を折る角度、目線の落とし方、手の添え方。指摘されるたびにあたふたと直すのだが、直したそばから別のところが崩れていく。


「お辞儀の最中に足を動かさない」

「すみませ……っ」


 先輩メイドたちが、くすくすと忍び笑いを漏らす。


(うぅ……お母さん、これどうやって身につけたの……習っておけばよかったぁ……)


 伝説と呼ばれた母の娘が、お辞儀ひとつでこの有様である。ルリシアは半泣きになりながら、それでも食らいついた。


「では。次にお茶を、淹れていただきます」


 ルリシアの目の色が変わった。


「はい!」


 ポットを手に取った瞬間、それまでの危なっかしさが嘘のように消える。湯の温度を手の甲で確かめ、茶葉の量を目分量で計り、蒸らす時間を指先で数える。注ぐ手つきには一切の迷いがなく、カップに落ちる琥珀色の筋が、すっと美しい弧を描いた。


 音もなくカップが置かれると、近くで見ていた年かさのメイドが「ほう」と感嘆の息を漏らした。一口含んで目を見開く。


「……美味しい。香りの立ち方が、まるで違う」

「ありがとうございます。お茶だけは、何度もお母さんに教わったんです」


 照れたように笑うルリシアに、メイドたちが顔を見合わせる。さっきまで笑っていた先輩が、今度は感心したように頷いていた。


 掃除も同じだった。雑巾の絞り方、窓の磨き方、埃の溜まる場所の見当――どれも体に染みついていて、教わるより先に手が動く。

 みるみるうちに、廊下の窓がぴかぴかと光を弾きはじめた。


「……作法はてんで駄目。でも、仕事はできる」


 少し離れたところで見ていたメイド長が、ぽつりと呟いた。その目元が、ほんのかすかに緩んだことに夢中で窓を磨くルリシアは気づかなかった。



**



「……なぁ、ジル。あれを見たまえ」


 回廊の柱の陰から、クロヴィスがそっと顔を覗かせていた。視線の先では、ルリシアが盆を抱えて廊下を小走りに駆けている。

 先輩メイドに呼ばれては返事をし、言いつけられた仕事に目を輝かせて飛んでいく。


「……信じられるか? ルリシア嬢は自分から、働きたいと言ったんだ。報酬は何でもいいと言ったのに、よりにもよって、ここで働かせてくれ、と」


 クロヴィスは心底不思議そうに、眉根を寄せた。


「……私には、理解が及ばない」


 傍らに立つジルケットが、片眉を上げる。周りに人の目がないのを確かめて、その口調がふっと砕けた。


「お前なあ。仮にも一国の王太子が、メイドの仕事ぶりに首をひねって柱の陰に隠れてるって、絵面がひどいぞ」

「だって不思議じゃないか。いいか、ジル。私はね、できることなら働きたくないんだ。五年……いや、五年と言わず、十年は休みを申請したい。陽の当たる中庭で、お茶でも飲んで、昼寝をして暮らしたい」


 うっとりと遠い目で語る親友に、ジルケットは半眼になった。


「国が滅びるわ」


 ジルケットの言葉にクロヴィスはじろりと軽く睨む。


「お前一人が十年も仕事せずに昼寝してみろ。その間にエメラルド王国は地図から消えてるぞ」


 クロヴィスは、ぐっと言葉に詰まった。それから恨めしげにジルケットを強く睨む。


「……ひどいな。親友なら、もう少し夢を見させてくれてもいいだろう」

「夢ねえ……執務室で決裁書類の山が、お前の帰りを今か今かと夢見て待ってるぞ」

「うわ、やめてくれ。せっかく現実を忘れていたのに」


 クロヴィスは、がっくりと肩を落とした。その様子に、ジルケットが声をあげて笑う。


 それでも王太子の視線は、もう一度ルリシアへと戻っていった。額に汗を浮かべ、それでも楽しくてたまらないという顔で動き回る少女を、眩しそうに見つめる。


「……不思議なものだね。あんなに生き生きと働く人間を見ると、なんだか、こちらまで元気が出てくる」


 クロヴィスの表情は、もう茶化す色もなく、どこか穏やかだった。


「ま、私はやっぱり休みたいけどね」

「おいっ」

「冗談だよ、冗談」


 ジルケットは、やれやれと肩をすくめた。それでも、その口元はどこか楽しげに緩んでいた。



**



 晴れやかな陽射しの中を、ルリシアが洗ったばかりの亜麻布のシーツを抱えて中庭を横切ろうとしたとき、見知った後ろ姿が目に入った。


(あっ!……ルディナ様だ!)


 王宮魔導士部隊の隊長、ルディナ・ヴォルテール。流れるような水色の髪に、藤色の瞳がひときわ輝く、いつも凛とした佇まいで美しい女性だ。彼女は柱の傍らに立ち、じっと一点を見つめている。その横顔は、静かで隙がない。


 ルリシアは何気なく、その視線の先を追った。


 中庭の向こう、騎士たちと何か言葉を交わしているのは――ジルケットだ。

 よく通る声で笑い、誰かの肩を叩いている。いつも風のように爽やかで、太陽みたいな温かい人。


 ルリシアはルディナとジルケットを、交互に見た。


 ジルケットを見つめるルディナ。冷静の横顔の藤色の瞳の奥に、ほんのかすかな――柔らかな何かが揺れている気がした。


 ジルケットを見て。ルディナを見て。もう一度、ジルケットを。


(……はっ)


 ルリシアの中で「ぱちん」と何かが弾けた。


(も、もしかして……ルディナ様って……ジルのこと……!?)


 気づいてしまえばもう、そうとしか見えない。あの静かな視線の熱も、ジルケットを目で追う仕草も、全部。ルリシアの胸が、勝手にどきどきと高鳴りはじめた。


 居ても立ってもいられず、ルリシアはシーツを抱えたまま、するするとルディナの傍らに寄っていった。


「ルディナ様」

「……っ!?」


 びくり、とルディナの肩が跳ねた。常に何事にも動じない彼女の、めったに見られない動揺だった。声がした方へ、素早く振り向いた。


「ルリシア……いつから、そこに?」

「あのっ!」


 ルリシアは、きらきらと瞳を輝かせて両手をぎゅっと握りしめた。一度深呼吸して溜め込んでから、力いっぱい言い放つ。


「私、応援します!」

「……は?」


 ルディナの整った眉が、ぐっと中央に寄って深い皺が刻まれる。


「いったい、何の話?」

「えっと、その……だ、大丈夫です! 私、何も言いませんから! でも心の中で、ずっと応援してます……!」

「だから、何の話を――」


 低く、抑えた声。眉間の皺はますます深くなり、その双眸が剣呑な光を帯びる。明らかに、不機嫌だ――なのに。


(……あ)


 ルリシアの胸が、きゅんと跳ねた。


 その眉間の皺。感情を押し隠そうとして、かえって滲み出てしまう不器用さ。低くなる声。そっけなくしようとして、隠しきれていない動揺。


(……イリヤみたい)


 困ったような、けれど嘘のつけないその表情が大好きな人の面影と重なる。

 ルリシアの顔が、ふにゃりと幸せそうに緩んだ。


(私、つくづく……こういう人が、好きなんだなぁ)


 しみじみと、一人で深く納得する。


「……何を、にやにやしているの」


 ルディナの声が、さらに一段低くなった。けれど当のルリシアは、もうすっかり自分の世界に入りこんでいる。


「いえ! 何でもありません! 失礼しました!」


 ぺこりと頭を下げ、シーツを抱え直すと、ルリシアはのほほんとした足取りで去っていった。


 後に残されたルディナは、その背を呆然と見送る。


「…………いったい、なんなの?」


 形のいい眉根を寄せたまま、彼女はしばし、その場に立ち尽くしていた。



**



 メイドとしての初めての一日が終わった。

 通用門をくぐり抜けると、ルリシアは大きく伸びをする。慣れない仕事で体の節々が疲れているが、心地よい疲れだった。


 そっと、エプロンのポケットに手を入れる。指先に触れたのは、今日いただいたばかりの初めてのお給金。


(……これで、少しずつ)


 握りしめた手のひらに、じんわりと熱が灯る。胸の奥で小さな目標が、そっと顔を覗かせた。それが何なのかは、まだ誰にも言わない。自分だけの秘密だ。


 ルリシアは「ふふっ」と一人で笑う。


 門の前の道に、一台の馬車が停まっていた。その傍らに立つ人影を見た瞬間、ルリシアの疲れは、どこかへ吹き飛んでしまった。


「イリヤ!」


 紺色の髪に、赤い瞳。腕を組んで馬車に寄りかかっていたイリヤが、こちらに気づくと、わずかに目元を和らげる。

 ルリシアの顔が、ぱっと花が咲くように輝き、一目散に駆け出した。


「迎えに来てくれたの?」

「ああ、初日だろう。疲れてると思ってな」

「ありがとう! もう、くたくただったけど、イリヤの顔見たら元気出たよ!」


 頬を染めて笑うルリシアにイリヤの目が自然と緩やかに細まる。

 

「どうだった?」

「それがね……お辞儀が全然できなくて。でも、お茶とお掃除は、褒めてもらえたの!」

「そうか」


 イリヤは短く相槌を打ちながら、ルリシアを馬車へと促した。二人が乗り込むと、馬車はゆっくりと走り出す。


 ルリシアは、今日あった出来事を次から次へと話した。伝説のメイドと呼ばれた母のこと、厳しいメイド長のこと、不思議そうにこちらを見ていた殿下のこと。イリヤは口数こそ少なかったが彼女が話すたび、その横顔をやわらかな眼差しで見つめていた。


 やがて、ひとしきり喋り終えたルリシアの瞼が、とろんと重くなってきた。馬車の規則正しい揺れと、隣にいる彼の気配が張りつめていた気持ちをゆっくりとほどいていく。


 イリヤが不意に切り出した。


「なあ……ルリ」


 声を、少しだけ落とす。


「出立前に、戻ってきたら話すと言っていたこと、覚えているか?」


 ――返事がない。


「……ルリ?」


 イリヤがそっと顔を覗き込むと、ルリシアは、こてんと彼の左肩に頭を預けて、小さく、すうすうと寝息をたてていた。


 イリヤはしばらくの間、その安心しきった寝顔を見つめた。


 ふっと口元が緩まる。右手を伸ばすとルリシアの頰にかかった髪を、そっと耳にかけてやる。指先が触れた頰は、やわらかく温かい。


(……今は、ゆっくり眠れ)


 穏やかな時間が、馬車の中を流れていく。


 ――馬車が学院へ近づくころ。


 イリヤは、何気なく窓の外へと視線を移した。

 茜色に染まる夕暮れの空。その下を黒い影が、いくつも横切っていく。


 カラスだ。数羽のカラスが、隊列を組むように同じ方角へと飛んでいく。エメラルド王国では、あまり見ない光景だった。


 イリヤの赤い瞳が、すっと細められる。


 肩で眠るルリシアの温もりを、そっと守るように――その視線は、遠ざかっていく黒い影を息を潜めて追っていた。

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