序章
シルヴァリス帝国――帝宮の書斎。
磨き上げられた黒大理石の床に、暖炉の炎が妖しく揺れている。
皇太子アレクシス・ヴァルドリックスは、一通の報告書を手に、革張りの椅子に腰を下ろしていた。
エメラルド王国、『闇の君主』討伐。
討伐者、イリヤ・クロウリー。
紫の瞳が、その名を刻み込むようになぞる。
「……闇の君主を単独で。しかも封印ではなく、完全に断ち切った……と」
口の端が、わずかに吊り上がった。
密かに追跡していた魔力感知の魔法が、確かに捉えた。あの場で放たれた、水を極めた力の波動。あれは間違いなく――。
「水の加護の使者。やはり、お前だったか。イリヤ・クロウリー」
アレクシスは報告書のページをめくった。指が、ある一文の上で止まる。
「そして……もう一つ。興味深い力……」
四大属性を完全に調和させた、伝説の守護魔法。天蓋の四柱。それを発動させたのは、一人の学生だという。
「四大魔法を扱い、金色の髪に青い瞳……平民の娘にしては、ずいぶんと珍しい」
紫の瞳が、冷たく光った。
「加護の使者と、四大属性の使い手。面白い駒が都合良く、二つも揃っている」
その時、書斎の扉が静かに開いた。
「兄上」
黄金の髪に、紫の瞳。穏やかな面立ちの少年が、入ってくる。シルヴァリス第二皇子、レオン・ヴァルドリックス。
「エメラルド王国のこと、聞きました。闇の君主が現れたと……でも、無事に討伐されたそうですね。大きな被害が出なくて、本当に良かった……」
レオンは、心からの安堵を顔に浮かべていた。兄とは違う、慈愛に満ちた紫の瞳だった。
アレクシスは、報告書をそっと閉じた。
「……ああ。無事で何より――残念だ」
最後の一言は、吐息のように小さかった。
「……兄上? 今、何か……」
レオンがわずかに首を傾げる。ほんの一瞬、兄を案じるような陰りがその瞳に差した。
だが、アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「いや、何でもない。それより、よい知らせだ。エメラルド魔導学院から、交流会への正式な返事が届いた」
「交流会……あの招待の」
「ああ。彼らは、我が帝国へやってくる」
アレクシスは立ち上がり、窓の外の暮れゆく空を見つめた。その口元に、楽しげな笑みが浮かぶ。
「歓迎の準備をしよう。スノウとリヒトに、通達を出しておけ」
「はい、兄上」
レオンは一礼して、書斎を後にした。
一人になった書斎で、アレクシスは静かに呟いた。
「……私をどれほど楽しませてくれるのか――本当に、楽しみだ」
暖炉の炎が、ぱちりと爆ぜた。
**
シルヴァリス闇魔導学院。古びた石造りの講義室で、一人の魔導士が窓辺に佇む。
リヒト・ノヴァリス――長身に、肩まで伸びた漆黒の髪を緩く結い、銀縁眼鏡の奥に深い藍色の瞳を湛えている。
その肩に、一羽のカラスが舞い降りた。足には、小さな通達が結ばれている。
リヒトは細い指でそれを解き、目を通した。
「……ふむ」
口元に柔らかな微笑みが浮かぶ。しかしその奥には、どこか見透かすような静けさが漂っていた。
「エメラルド魔導学院との、交流会……これは、また面白そうですね」
藍色の瞳が、わずかに細められた。
**
帝国立図書館の一室。そこは足の踏み場もないほど本が積み上げられ、混沌と化していた。床にも、椅子にも、机の上にも、禁断の魔導書がうずたかく重なっている。
机に突っ伏して、一人の青年が爆睡していた。
スノウ・シルヴァート――銀の髪を投げ出し、整った美貌を惜しげもなく晒している……が。
「ぐがぁ……がぁぁ……ずびっ……」
その口から、綺麗な顔立ちからは想像できないほどの、盛大ないびきが漏れていた。よだれの跡が、貴重な禁書のページにうっすらと滲んでいる。
コンコン、と窓を叩く音。一羽のカラスが、通達を携えて止まっていた。
カラスは室内へ入り、スノウの肩口で鳴いた。
「がぁぁ……ぐぅぅ……」
反応はない。スノウは微動だにせずに、いびきをかき続けている。
カラスが「つん」とくちばしでつついた。
反応なし。
つん、つん。
また反応なし。
カラスの目が、すんっと細まった。
次の瞬間――つんつんつんつんっ!!と、くちばしが高速で連打を繰り出す。
「いっ……いたたたたっ!!痛い痛い痛いっ!」
スノウが飛び起きた。頭を押さえて、涙目でカラスを睨む。
「何だよもう!? 人が気持ちよく寝てたのに……っ」
カラスは、我関せずと足を差し出す。通達が結ばれている。スノウは恨めしげにそれを引き抜くと、寝ぼけ眼で目を通した。
しばしの沈黙――通達を持つ手が、力なく垂れ下がる。
「……え〜……」
スノウは、心底うんざりした声を漏らした。
「交流会ぃ?……めんどっ……」
文句を垂れながら、スノウは再び机に突っ伏した。
「……あと五時間、寝よう」
カラスが、呆れたように一声鳴いた。
**
エメラルド魔導学院、中庭。
昼下がりの柔らかな陽射しの中、いつものベンチに、ルリシアとイリヤは並んで座っていた。
「ねえ、イリヤ。聞いたよ」
ルリシアが、嬉しそうに口を開いた。
「報酬のほとんどを、カイくんたちの孤児院に寄付したんでしょう?」
イリヤは、わずかに視線を逸らした。
「……大した額じゃない」
ルリシアは、ふわりと微笑んだ。その瞳に誇らしさが滲んでいる。
「カイくんたち、すごく喜んでると思う。イリヤって、本当に優しいね」
「……お前ほどじゃないだろ」
ルリシアは照れたように笑うと、膝の上の包みを開いた。
「今日はね……お昼ごはん、私が作ってきたの」
包みの中から現れたのは、ふんわりとした卵を挟んだサンドだった。
「たまごサンド。イリヤの口に合うか、わからないけど……」
少し不安そうに、ルリシアがそれを差し出す。イリヤは一つ手に取り、口に運んだ。
ゆっくりと、味わうように咀嚼する。
「……どうかな?」
ルリシアが、上目遣いに尋ねた。
「ああ」
イリヤは、静かに頷いた。
「好きな味だ。美味しい」
「よかったぁ……!」
ルリシアの顔が、ぱっと輝いた。
「私ね、料理だけは得意なの!」
「料理だけ、か?」
イリヤが、わずかに口元を緩める。
「洗濯も得意だろう。前に、俺の制服を綺麗に洗ってくれていた」
ルリシアは、ぱちぱちと瞬きをして、それから照れたように頰を染めた。
「うん……だけど、全部お母さんからの受け売りだよ。料理も、洗濯も」
イリヤのルリシアを見る赤い瞳が、柔らかく細まった。
「だが、この味はルリの味だ」
ルリシアの頰が、ぽっと赤くなる。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「……うん、ありがとう」
二人が顔を見合わせて笑った、その時だった。
ぱさり、と青い小鳥がイリヤの肩に舞い降りた。伝達鳥だ。小さな足に紙が結ばれている。
「あれ、手紙? ……誰から?」
ルリシアの問いに、イリヤが紙を解いて広げた。そこには、たどたどしい、お世辞にも上手とは言えない文字が並んでいた。
『はたしじょ』
ルリシアは覗き込んで、ぱちくりと目を瞬かせた。
「……はたしじょ?」
続きを読むと、こう書かれていた。
『つよくなって、みんなをまもれるようになる。つぎあったら、しょうぶだ。カイ』
ルリシアが、ぷっと噴き出した。
「もう、カイくん……! ふふっ、可愛い」
イリヤは、その文字をじっと見つめてから、冷静に言った。
「……まずは、教師をつけよう」
「えっ?」
「この字では、表に出せない」
ルリシアは、小さく笑う。
「ふふ、イリヤってば……お父さんみたい」
中庭に、二人の笑い声が、穏やかに響いた。
**
数日後。
ルリシアは、王宮に呼び出されていた。
応接間でクロヴィス殿下が、にこやかに彼女を迎える。その傍らには、ジルケットとルディナの姿もあった。
「ルリシア嬢。よく来てくれたね」
「あの……ご用件は何でしょう? 私、何かしましたでしょうか?」
ルリシアが不安を滲ませて緊張気味に尋ねると、殿下は気さくに切り出した。
「やはり、君には何か報酬を受け取ってもらわないと、私の気が済まなくてね」
「で、ですから、私は本当に……」
「君のおかげで王都は救われたんだ。何の礼もできないのでは、私の気が済まないよ。さあ、遠慮しないで。何でも言ってくれ」
ルリシアは少し困ったように微笑んだ。それから考えるように口を開く。
「……私、もう、十分すぎるくらいいただいているんです」
「ん? どういうことかな?」
「イリヤが、無事に帰ってきてくれました。ちゃんと、私のところに戻ってきてくれた。それ以上の報酬なんて……私にはありません」
まっすぐな言葉に、殿下が小さく息を呑む。ジルケットが、ふっと口元を緩めた。ルディナも、ゆっくりと目を細める。
殿下は、ぽりぽりと頰をかいて、それから困ったように笑った。
「……まいったな。そう言われると何も言えないじゃないか」
翡翠色の瞳が、優しく細められる。
「だからこそ何かしてあげたくなるんだ。よし、では言い方を変えよう」
殿下は身を乗り出して、にこやかに言った。
「何か、やりたいことはないのかな? お願い事でもいい。どんなことでも構わないよ」
その言葉にルリシアの青い瞳が、きらりと輝いた。はっと何かを思いついた顔で、ぐっと身を乗り出し返した。
「……あの! それなら、お願いがあります!」
「ああ、何だい。何でも言ってごらん」
殿下が、嬉しそうに頷いた。ジルケットとルディナも、興味深そうに見守っている。
ルリシアは目を輝かせて、元気いっぱいに言い放つ。
「週末だけ、しばらく王宮で働かせてください!」
しん、と応接間が静まり、殿下のにこやかな笑顔がそのまま固まる。
ジルケットが、ぽかんと口を開けた。ルディナも珍しく目を丸くしている。
「…………は??」
三人の声が、見事に重なった。
きょとんとするルリシアと、固まった三人。
穏やかな日々の裏で、新たな物語が動き出そうとしていた。




