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第二部・最終話 初恋の終わり、そして再会

 闇の君主討伐から、数日後。


 討伐隊の帰還に王都は賑わいを見せていた。

 イリヤが王都の門をくぐると、街は割れんばかりの歓声に包まれた。人々が押し寄せて涙を流す者までいる。『イリヤ・クロウリー』の名が、伝説のように街中に響き渡っていた。


 あまりの熱狂にイリヤはわずかに眉を寄せて、足を止めた。こういう注目には、どうにも慣れない。戸惑いがそのまま、固い無表情になって顔に出る。


 その様子を見て、隣のジルケットが噴き出した。


「ははっ、何だその顔は。手くらい振ってやれよ。英雄様!」


 イリヤは、ちらりとジルケットを睨んでから、群衆に向き直った。そして――真顔のまま、ぎこちなく片手を上げた。


 ざわっと群衆が色めき立つ。


「きゃああっ、イリヤ様ぁ――!!」


 黄色い声援が、一斉に湧き上がった。沿道の令嬢たちが頰を染め、悲鳴のような歓声を上げる。熱狂が、さらに膨れ上がった。


 イリヤの眉間の皺が、さらに深くなる。下ろすに下ろせなくなった手を、中途半端に上げたまま、完全に固まっていた。


「くっ……は、ははっ……」


 ジルケットは、必死に笑いを堪えていた。肩が小刻みに震えている。


「おモテになって何より……ルリに誤解されないように、頑張れよ……っ」

「……身体中の液体、すべて凍らせようか?」


 イリヤが鋭く呟くと、ジルケットはとうとう声を上げて笑い出した。



**



 王宮の大広間。

 貴族たちが息を潜め、騎士たちが敬礼の姿勢で立ち、広間全体が厳粛で温かな空気に満ちていた。


 玉座の傍らに立つクロヴィス殿下が、イリヤを迎えた。国王は病床にあり、この日の式典は王太子である殿下が執り行っていた。


「クロウリー家のイリヤ卿。此度の働き、まことに大儀であった」


 殿下の朗々とした声が、広間に響き渡る。


「特級魔獣『闇の君主』の討伐。かつて英雄ラドルフ・クロウリーが封じた脅威を、その孫が完全に断った。王国史上、比類なき偉業である。ここに、『王の執行者』の称号と、その証を授与する」


 王家の紋章が刻まれた、小さな銀の勲章をイリヤが手にすると、掌に確かな重みを残す。

 胸元に留められるそれは、王の執行者である証だった。


 王の執行者――家格や身分に縛られず、王の名のもとに動くことを許された地位。伯爵といえど、もはやイリヤの意思を無視できない。

 

 かつて祖父ラドルフが、娘ラヴィーネのために制定を望んだ力が、今イリヤの手に渡った。


「そして、此度の戦いには、もう一人――忘れ得ぬ働きをした者がいる。エメラルド魔導学院の学生、ルリシア・クリスティーノだ」


 広間が静まり返り、皆の視線が穏やかな期待に満ちる。


「彼女は、王都の結界が崩壊寸前となった時、自ら決断し、最古の究極守護魔法『天蓋の四柱(テトラ・ピラー)』を成功させた。四大属性を完全に調和させた、奇跡の結界だ。影の使徒を浄化し、王都を守り抜き、前線にまで加護の光を届けた。多くの命を救い、希望を灯した、光そのものだった」


 貴族たちが息を呑み、騎士たちが静かに頭を下げる。広間は深い感動に包まれた。


「本来であれば、彼女にもまた名誉ある称号を授けるべきところだ。だが、彼女はそれを自ら辞退した」


 「辞退」の言葉に貴族たちが顔を見合わせた。

 殿下は、あの時のルリシアの言葉を思い出すように目を閉じた。


 ――この奇跡は、私一人の力ではありません。みんなの想いがあったからこそ成し得たことです。だから、栄誉はみんなと分かち合いたい。自分の力だけで王宮に立てる日まで、称号は受け取れません――


 そう言って、まっすぐに辞退を申し出た少女の姿が、今も瞼に焼きついている。


「謙虚で、芯の強い娘だ。その彼女が、称号の代わりに、たった一つだけ願いを口にした」


 殿下は、イリヤへと視線を向けた。


「イリヤ卿。そなたの願いを、叶えてやってほしい。――それが、ルリシア嬢の願いだそうだ」


 隣に立つジルケットが、小さく呟いた。


「まったく……ルリらしいな」


 殿下はイリヤに問いかける。


「そなたに、望みを一つ許そう。何を望む」


 周囲が息を呑む。富か、領地か、権力か。誰もが英雄らしい望みを想像した。


 イリヤは深く頭を下げ、揺るぎない声で答えた。


「学院に帰りたい。卒業まで、あと一年。学院が俺の帰る場所です」


 イリヤの望みに、一斉にどよめきが広がった。


「学院に……?」

「王の執行者が、学生に戻るというのか……」


 広間の端に立っていた伯爵とイリヤの目が合った。だが伯爵は、すぐにバツが悪そうに視線を逸らした。

 

 殿下は、深く感じ入ったように頷いた。


「許そう。そなたの望み、確かに聞き届けた」


 穏やかな声が広間に染み渡ると、どよめきが引いていく。


「守るべき者のもとへ帰りたいと願う、その心こそ、真の英雄に何より相応しい望みであろう」


 広間は、拍手に包まれた。

 


**



 式典の後の王宮の回廊で、クロウリー伯爵がイリヤを待ち構えていた。いつもの威圧的な態度で声をかける。


「本当に、お前が成し遂げたのか。イリヤ」


 伯爵の目が、疑わしげに細まる。


「目撃者はジルケット殿だけだと聞いた。英雄のおこぼれを、頂いただけではないのか」


 ジルケットが、即座にイリヤの前に出た。


「それはどういう意味ですか、クロウリー伯爵。私が、嘘の証言をしているとでも?」


 深緑の瞳が、鋭く伯爵を射抜く。伯爵の言葉が詰まった。


「立派な侮辱ですね。確かに私はあの場にいましたが、地上で魔獣の残党を抑えるので手一杯だった。イリヤは、たった一人で地下へ降り、闇の君主を討ち取った。あれは紛れもなくイリヤの力だ。いい加減、ご自分の息子の力を認めたらどうです。見苦しい」


 伯爵は何も返せず、怒りに唇を震わせた。やがてその怒りを別の方向へ向ける。


「……いいか、イリヤ。婚約の話は、予定通り進める。ヴェルモント家との結びつきは、クロウリー家にとって――」

「『クロウリー家の人間としての務めを果たす』それを成し遂げたら、私の意見を聞き入れてくれると、出立前に約束したはずです」


 イリヤは力強い声で、伯爵の言葉を遮った。


「婚約の話は両家で進めている。お前一人の意見でどうにかなるものではない。大人しく――」


「その件でしたら」


 凛とした声が回廊に響くと、全員が振り返った。


 銀色の髪を結い上げて、薄紫のドレスを纏ったソフィア・ヴェルモントが、ゆっくりと歩み寄ってきた。水色の瞳が、穏やかに伯爵を捉える。


「ソフィア嬢……?」


 伯爵が戸惑う中、ソフィアは優雅に一礼すると、落ち着いた声で告げた。


「クロウリー伯爵。此度の婚約のお話ですが――ヴェルモント家として、解消を申し入れます」


 伯爵の目が、大きく見開かれた。


「な……何を、言って……」

「イリヤ卿は、騎士として、英雄として、王国にその身を捧げる道を選ばれました。素晴らしいことです。心から敬意を表します」


 ソフィアは、わずかに微笑んだ。


「ですが――ヴェルモント家は、北方水上交易路を預かる家。私はいずれ、その重責を担います。戦場に身を置く英雄を夫に持つことは……正直に申し上げて、肝が冷えますわ。私には、私の守るべきものがございます。生きる道が違うのです」


 伯爵は、二の句を継げなかった。ヴェルモント家の当主の名代として告げられた言葉に、反論する術がなかった。


「もちろん、両家の協力関係は、今後も変わらず続けてまいりたいと存じます。クロウリー家とヴェルモント家が手を取り合うことに、変わりはございません」


 ソフィアは、最後にイリヤへと視線を向けた。その瞳に、ほんの一瞬だけ何かが揺れた。けれどそれは、すぐに令嬢としての微笑みの中へと消えていった。


 イリヤに小さく会釈をすると、ソフィアは踵を返した。


「では、失礼いたします」


 その背を、誰も止められなかった。伯爵は蒼白なまま立ち尽くしていた。



**



 ソフィアは歩きながら、込み上げてくるものを、必死に堪えるように唇を引き結んでいた。


 (……これで、よかったのよ)


 胸の奥で、何度もそう繰り返した。

 脳裏に遠い日の記憶が蘇る。学院に入学する、前の年のあの日――。



 王立図書館の片隅で、ソフィアは一人、分厚い書物に齧りついていた。貿易の制度、交渉の理論、商業の慣習――手にはペンだこができて、指先はインクで汚れていた。


 エメラルド魔導学院に入学するための魔力値が、ソフィアには圧倒的に足りなかった。

 魔法も剣も使えない自分にできることは、父を助けるために、この知識を身につけることだけだった。


 みんなが学院で魔法を学ぶ中、自分だけが別の道を歩く。それが悔しくて、寂しかった。


 水色の瞳が潤んでぼやけたとき、ふと影が差した。


「……熱心だな」


 顔を上げると、紺色の髪の少年が書物を覗き込んでいた。


 ソフィアは慌てて涙を堪えた。彼は来年、学院へ行く。自分は行けなくて、一緒に学べない。その事実がどうしようもなく悲しかった。


 イリヤは、インクで汚れたソフィアの手をじっと見る。ペンだこのできた指を見られて、ソフィアはサッと机の下に手を隠した。


 恥ずかしそうに俯くソフィアに、イリヤの優しさを含む声が降ってきた。


「ソフィアにしかできないことだ。誇っていい」


 軽く、ソフィアの頭をぽんと撫でてから、イリヤは去っていく。


 たった、それだけのこと。

 それだけのことで――ソフィアは、『恋』に落ちた。初めての恋だった。



 あの一言が、どれほど自分を支えてくれたか。彼は知らない。きっと、覚えてさえいないだろう。それでもよかった。彼が彼であってくれたら、十分だったのだ。


 ――だけど、彼はあの子(ルリシア)と出会ってしまった。気づいた頃には、もう手遅れだった。


 ソフィアの頰を、ついに一筋の涙が伝った。


「ソフィア」


 背後から届いた声に、ソフィアは弾かれたように足を止めて、慌てて涙を拭った。

 深く息を整え、令嬢の微笑みを取り戻してから振り返る。


 イリヤが、真っ直ぐにソフィアを見ている。


「……どうかなさって?」


 ソフィアが平静を装って問うと、イリヤは深く頭を下げた。


「助けてくれたこと、感謝する。君のおかげで、俺に選べる道ができた」


 伯爵の定めた道を、これまで逆らうことなく歩いてきたイリヤ。その彼が今、自らの意志で道を選ぼうとしている。

 その一歩を、ソフィアはほんの少し、後押ししただけだ。選べることを勝ち取ったのはイリヤ自身の力。


 ソフィアは、ふっと微笑んだ。


「……イリヤらしいわね」


 彼は、きっとソフィアの想いに気づいている。けれど、それを口にすることはしない。

 彼女が言葉にしなかったものを、暴くことも、憐れむこともしない彼はしない。ただ、古い友人として礼を述べる。

 それが彼の誠意でもあり、そしてソフィアの誇りを守る、優しさでもあることを、誰よりも彼女は理解していた。


 ソフィアはドレスの裾をつまみ、深く優雅に一礼した。


「イリヤ卿。此度のご活躍、心よりお祝い申し上げます。あなたの今後のご武運と、幸多きことを、お祈りしておりますわ」


 顔を上げ、水色の瞳に彼を映す。秘めてきた想いを滲ませて。


「心から尊敬するあなたに――最大限の、敬意を」


 それは、令嬢としての完璧な別れの挨拶だった。初恋に自ら幕を引く言葉でもあった。


 イリヤは右手を胸に添え、深く一礼した。ソフィアの想いに、礼をもって応えるように。


「ありがとう、ソフィア」


 ソフィアは、もう一度微笑むと、背を向けようとして――ふと、足を止めた。


「そうだわ」


 振り返り、悪戯っぽく目を細める。


「ルリシアさん。あの子、たくましいけれど危なっかしいわ。だから……守ってあげてね」


 イリヤが、わずかに目を見開いた。


「今度、お茶をご一緒したいと、お伝えして。よろしくね」


 それだけ言うと、ソフィアは今度こそ背を向けて軽やかに歩き出した。


 その背中は、誰よりも美しいものだった。



**



 王宮の門の外で、ヴェルモント家の執事が、主を待っていた。

 ソフィアが姿を見せると、その表情をそっと窺う。


「……お嬢様」

「帰りましょう」


 ソフィアは、穏やかに微笑んだ。


「帰ったら、甘いものをたくさん食べたいわ。とびきりの甘いスイーツを。……お父様には、内緒でね」


 執事は、わずかに目を細めて深く頭を下げた。


「かしこまりました。すぐにご用意いたします」


 ソフィアを乗せた馬車が、午後の光の中をゆっくりと走り出した。



**



 夕刻――学院の門へと続く道を、イリヤは一人歩く。


 門の前に、見慣れた姿。うろうろして落ち着かない様子が遠目からもわかった。


 ルリシアが、足を止めて澄んだ青い瞳を真っ直ぐイリヤに向ける。

 イリヤの姿を見つけた瞬間、その顔に満面の笑みが広がる。堪えきれないというように、ルリシアが駆け出した。


「イリヤ……!」


 涙を浮かべた笑顔で、まっすぐに胸へ飛び込んでくる。イリヤは、その小さな身体を強く抱きしめた。ルリシアの温もりが、戦いに疲れた身体にじんわりと染み渡っていく。


「……ただいま、ルリ」


 ルリシアが顔を上げると涙がこぼれ落ちた。


「もう……心配したんだから……」


 涙声で、それでも嬉しそうに彼女は笑う。


「おかえりなさい、イリヤ」


 イリヤは、泣きながら笑うルリシアの顔に手を当て、頬を伝う涙を指でそっと拭った。


 優しく唇を重ね、二人の影が一つに重なり合う。


 あと一年。


 王の執行者でも、英雄でもなく。ただ一人の学生として、ルリシアと共に過ごす日々を。


 それが、イリヤの選んだ未来だった。


 これから先の日々――何があっても二人で歩んでいくことを胸に刻んで。

第二部完結です。第三部、舞台はシルヴァリス帝国へ!

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