第20話 第三の加護
地下空洞に重く淀んだ沈黙が満ちる時、イリヤは剣を構え、闇の君主と静かに対峙していた。君主の昏く濁った瞳が、ゆっくりとイリヤの全身を舐めるように見定める。
やがて、軋むような嘲笑が闇の底から響き渡った。
「はっ……魔力を持たぬ貴様が、たった一人で来たのか。供も連れず、剣一本で」
君主の巨大な鎌が、ぎりっと不気味に持ち上がる。闇を纏った刃が、微かな光を吸い込むように黒く輝いた。
「舐められたものだ。この我を、その細腕で倒せると思うているのか。クロウリーの小僧」
イリヤは表情を変えなかった。赤い瞳は静かに、しかし燃えるような決意を宿している。
「一人?」
静けさの中に、力強い声が落ちる。
「心配するな。俺たちは、繋がっている」
左手の指輪が、白く強く瞬いた。
その光から溢れかえるように、イリヤの全身に四色の魔力が流れ込んできた。
炎の赤、水の青、風の緑、地の紫。遠く離れた王都から、ルリシアの四大魔法が指輪を通して確かに届いていた。
天蓋の四柱――究極の守護の術――
離れた二人の想いを、二欠片に割れたライアスの結晶石が繋ぐ。
イリヤの剣に、四色の輝きが宿る。刀身が力強く震え、魔力の光が地下空洞を鮮やかに照らした。
「……お前は、俺たちの試練を越えるための踏み台でしかない」
イリヤの赤い瞳が冷たく君主を捉える。鋭い剣先を向けて、地を蹴り上げた。風を纏い、爆発的な速度で闇の君主へと迫る。
**
王宮、高台。
ルリシアは両手を高く掲げ、天蓋の四柱を必死に維持し続けていた。
全身から四属性の魔力を均等に、限界まで絞り出し、指輪を通してイリヤへと送り続ける。
額に冷たい汗が滲み、呼吸が荒く乱れていた。すでに限界をとうに超えた身体が、激しい痛みと共に悲鳴を上げていた。視界が時折白くかすむ。
それでも指輪から伝わってくる。イリヤの鼓動が彼女を鼓舞していた。
彼が戦っている――それだけが、ルリシアを必死にその場に立たせる理由。
「……イリヤ……負けないで……っ」
ルリシアの膝が、がくりと折れた瞬間、床に手をついて身体を支える。
「ルリ!」
レイラがすかさず背後から抱き支えた。強い腕が、ルリシアの震える肩をしっかりと掴む。
「しっかりして! 大丈夫よ! あなたは一人じゃないわ!」
「……うん……まだ……まだ、大丈夫……」
ルリシアは歯を食いしばって青い瞳に強い光を灯した。レイラに支えられながら、なおも光を送り続ける。
その横顔を見守るクロヴィス殿下とルディナの表情に、緊張と祈りが浮かんでいる。
**
闇と、四色の光が激しくぶつかり合った。
イリヤの剣が炎を纏って君主の鎌を弾き、返す刀で水の刃を放ち、風で身を翻し、地の槍で死角を突く。
ルリシアの四大魔法を引き出しながら、イリヤは死神に果敢に斬りかかっていく。
だが――君主の巨大な鎌が、四大魔法ごとイリヤを薙ぎ払う。
「くっ……!」
イリヤは地面を転がり、すぐに体勢を立て直すが、肩に激痛が走る。堪えるように歯を食いしばった。どの攻撃も、君主にはほとんど通じていない。
「くくく……効かん」
君主の身体から、黒いモヤが噴き上がり、毒のように空洞を満たす。
「封じられていた数十年。我は、ただ眠っていたわけではない。人の負の感情を喰らい続けてきた。戦争、裏切り、嫉妬、憎悪……飽くなき人の闇を糧に、我は進化したのだ」
君主の巨体が、さらに膨れ上がり、圧倒的な威圧感を放つ。四大魔法では、もはや抑えきれない。
イリヤは深く息を吸い、赤い瞳を鋭く細めた。
――ならば、使うしかない――『氷華』。
イリヤは剣を地面に突き立て目を閉じる。できることなら使用せずに事を終えたかった。魔力を感知されることを危惧した為だ。
だが、加護の使者である前に自分はエメラルド王国に忠誠を誓う騎士となる存在。
そのために今戦っている。かけがえのないものを守るためにイリヤは水の加護を昇華する「氷華」を解放する。
イリヤの剣に纏う四色の光が、青一色へと染まっていく。冷気が刃に集束し、周囲の空気が凍てつき、白い霜が広がった。
「……氷だと?」
君主の昏い瞳が、わずかに揺れた。
「剣を扱い、これほどの魔力……貴様、まさか……加護の使者か」
イリヤは真っ直ぐに君主を捉えて、剣を振るった。氷の刃が君主の腕を凍てつかせ、闇と氷の激しい攻防が空洞の中でぶつかり合う。
イリヤは凍てつく剣で君主を斬り、君主は鎌で氷を砕く。一進一退の死闘。
剣戟の音と魔力の衝突が、空洞に響き渡った。
だが、君主の力は底が知れなかった。
鎌の一撃が、イリヤの剣を弾き飛ばした。体勢が大きく崩れる。死神の鎌が、イリヤの首めがけて容赦なく振り下ろされた。
――死。黄泉への誘いが、僅かなその一瞬を突いてくる。
イリヤは身体を限界まで反らし、その一閃を避けた。すぐさま身を反転させて間合いを取る。剣を拾う暇などない。息つく一瞬すら、命取りになる猛攻。
その時、君主の巨体がぐらりと揺らいだ。
――闇が、視界から消え失せた。
イリヤの背後の闇から、死神の鎌が音もなく湧き上がる。昏い瞳が嘲笑うように細められた。
イリヤは即座に身体を捻る。だが、丸腰のこの体勢では間に合わない――。
その刹那――左手の指輪が、強く輝いた。
四色の光が、イリヤの身体を包み込む。ルリシアの守護結界が、闇の空洞を一瞬で白く染め上げた。振り下ろされた鎌が、その眩い光の壁に阻まれ、甲高い音を立てて弾かれる。
「ぐ……っ、目が……!」
あまりの眩しさに、君主が怯んだ。動きが止まる。
ほんの一瞬の隙――その隙を、イリヤは見逃さなかった。
(……ルリ、届いてる)
地に転がった剣を拾い上げ、全身の魔力を刃へと集中させる。赤い瞳に、燃えるような決意が宿った。
「氷華――」
爆発的な冷気が地下空洞を駆け巡ると、君主の巨体が、足元から急速に凍てついていく。
漆黒の身体。鎌。振り上げた腕が白銀の氷に閉じ込められていった。
地下空洞が、一面の氷の世界へと変わる。
――凍りついた世界に沈黙が満ちた。
その沈黙を破るように、ぴしりと氷に亀裂が走った。
「……愚かな」
君主の声が、氷の中から低く響いた。
「この程度で、我がやられるものか」
氷が、内側から激しく砕け始める。
「お前の水の加護では、我は倒せぬ。そのちっぽけな四大魔法でもな」
君主の昏い瞳が、嘲笑うように細まった。
「我を倒せるのは、ただ一つ――浄化の力のみ。だが、この世界で浄化の力を持つのは『聖女』だけだ。そして今の時代に、聖女など存在せぬ! 貴様に、我は滅ぼせぬのだ!」
勝ち誇る君主の声が、空洞に響き渡る。
その時――イリヤが静かに笑った。確信に満ちた微笑み。
「……知らないのか」
イリヤは、凍てつく剣を構え直した。赤い瞳が闇の中で強く輝く。
「ルーメンシア王国に、残る『聖女伝説』。――加護の使者とは、その聖女を守護する者から始まったのだと」
君主の動きが、ぴたりと止まった。
「初代聖女セレナ。彼女が大精霊を通して、守護者たちに分け与えた四つの加護。それが、加護の使者の起源だ。そして、水の加護は始まりの加護――」
イリヤの赤い瞳が、闇の中でさらに強く光った。
「俺に与えられた水の加護。その力は――『癒しと守護』」
剣に宿る冷気が、これまでとは異なる、神聖な白銀の光を帯び始めた。
「そして、もう一つ」
空気が、しんと静まり返る。
「第三の加護――『断絶』」
君主の昏い瞳が、大きく見開かれた。
「……なに?」
「断ち切る力だ。癒しをもって、終わらせるための力」
イリヤは、剣を高く掲げた。刃に宿る氷が、聖なる白銀の輝きを放つ。それは、聖女セレナの浄化の力の片鱗。闇を根源から断ち切る、絶対の力。
「ば、馬鹿な……断絶の加護だと……!そんなものが……!」
君主が、最後の力を振り絞った。砕けかけた氷を打ち破り、巨大な鎌を渾身の力でイリヤへと振り上げる。
だが、その動きが――途中で止まる。
イリヤの赤い瞳が、君主を見据えていた。
怒りでも、憎しみでもない。ただ静かに、揺らぎなく終わりを告げる瞳。
感情のない深く澄み切った赤。それは、命の在処を見定め、刈り取る刻を待つ者の眼差しだった。
君主は、その瞳の中に『自分』を見た。
長い年月、無数の命を闇へと引きずり込んできた、絶対的な闇が――今、終焉を見た。
「……ああ……」
君主の声が、震えた。
「……死神は……我ではなかったのか……」
漆黒の巨躯が、初めて怯えたように後ずさった。命を刈る者が、命を断つ者の前で、初めて己の終わりを悟っていた。
イリヤは、白銀に輝く剣を振り下ろした。
断絶の一閃が、振り上げられた鎌を――真っ二つに断ち切った。
刃はそのまま止まらず、君主の闇を深く切り裂いていく。
その瞬間、再び四色の光が君主に殺到し、巨体を捉えて縫い止めた。ルリシアの四大魔法が、死神を逃さない。
続けて氷華の冷気が君主を完全に凍てつかせ、その動きを封じる。
――断絶の刃が一閃。
白銀の刃が、凍てついた君主の核ごと切り裂く。
「があ……ああああ――――!!」
断絶の光が、切り裂いた綻びから闇を浄化していく。数十年もの間、人の負の感情を喰らい進化し続けた死神の存在が、根源から断ち切られていった。
パリィィン――――!!
闇の君主の核が粉々に砕け散り、黒い破片が白銀の光の中へと溶け消えていく。
数十年にわたる脅威が今、ついに断たれた。
君主の立ち消えた跡から、無数の光の粒が溢れ出した。君主に囚われ続けてきた魂たちだ。
光は地を離れ、天井をすり抜けて、解き放たれたように空へと昇っていく。
長い闇の終わりを告げるように、一つ、またひとつと名を失った魂たちが、寄り添い合いながら天に溶けていく。
どうか、安らかに――。
イリヤは誰へともなく、その光を見送った。
地下空洞に、静寂が戻る。
イリヤは剣を支えに、かろうじて立っていた。氷華と断絶を立て続けに解放した代償は、あまりに大きかった。全身から力が抜け落ち、視界が急速に暗くなっていく。
(……終わった……ルリ……)
左手の指輪が、温かく優しく脈打っている。その温もりを最後に感じながら、イリヤの身体がゆっくりと崩れ落ちた。
「イリヤ!」
駆け込んできたジルケットが、倒れゆくイリヤの身体を素早く抱き留めた。
「おい、しっかりしろ! イリヤ!」
イリヤの唇が、かすかに動いた。声にはならなかったが、その口元には――わずかながら安堵と満足の笑みが浮かんでいた。




