第19話 光を届けて
遺跡の前は、すでに混乱の渦と化していた。倒しても倒しても、黒いモヤの中から魔獣が湧き出てくる。精鋭の騎士団も魔導士部隊も、すでに限界が近い。
その空を、一頭の白い飛竜が駆け抜けた。
ジルケットだ。飛竜の背から剣を振るい、群がる鳥型の魔獣を次々と斬り落としていく。風を切り、宙を舞い、まさに王国一の騎士の名にふさわしい戦いぶりだ。
「イリヤ! このままだと埒が開かない! お前は先に行け!」
ジルケットが空から叫んだ。飛竜が翼を大きく広げ、鳥型の魔獣の群れを一手に引きつける。地上の魔獣の注意も、空の派手な戦闘に逸れた。
その一瞬の隙をついて、イリヤは地を蹴り、魔獣の壁の隙間を縫って駆け抜けた。祭壇の入り口へまっすぐに降りる。
「……後は頼む」
短く呟き、イリヤは闇の口へと飛び込んだ。その背後で、ジルケットの飛竜が咆哮を上げた。
「今回の手柄は、譲ってやるよ! 派手に行ってこい!」
地下へと続く階段は、一歩進むごとに闇が濃くなっていく。
黒いモヤが視界を覆い、空気が重く淀む。生者を拒むような冷気が肌を刺した。それでもイリヤの足は止まらない。
剣を握る手に力が入ると、左手の指輪が温かく脈打った。
ルリシアの鼓動。だがそれは、いつもとは違っていた。強く、激しく、何かを成し遂げようとする熱を帯びている。
――氷華の剣。
預けた守護の力が、今ルリシアの手で振るわれている。彼女が戦っている。王都の人々を守るために。
「……お前はどこまでも眩しいな」
唇の端が、わずかに緩んだ。だがすぐに表情を引き締める。
ルリシアが戦っているなら、自分が遅れるわけにはいかない。一刻も早く、この根源を断つ。
イリヤは闇の奥へと、足を速めた。
**
王宮、高台。
窓の外では黒いモヤが渦巻き、街の悲鳴が遠く響いていた。クロヴィス殿下は険しい表情で、王都を見下ろしていた。
その背後には、エルウィン・ヴァレリウス。一度は力尽きたその身体を、最後の気力で起こしているのを、ルディナが支える。
「殿下。残された道は、一つです」
エルウィンの声は掠れていたが、揺るぎなかった。
「光の精霊『エンジェル』の召喚。闇そのものを消し去る、守護の精霊。あれを呼べば、影の使徒も、君主の瘴気も、根こそぎ浄化できましょう」
「……エルウィン。何を言ってる……それは」
殿下の声が、わずかに震えた。
「学生の頃、複数人で召喚したと聞いている。だが今、そなたは一人だ。二度目の召喚は、対価を求められるのではないか」
エルウィンは、静かに目を伏せた。
「……ええ。我が命を、対価に」
殿下の拳が、固く握られた。
「それは許可できない! あなたの命と引き換えになど……できるものか!」
「殿下」
エルウィンが顔を上げた。落ち窪んだ瞳に、それでも鋭い光が宿っている。
「殿下は、お優しい。それは貴方様の何よりの美徳でございます。されど――」
老顧問の声が、低く響いた。
「国を守る王には、時に人を捨て置く残酷な覚悟も必要です。一人を救えず、万を救う。それが、王の背負う業にございます。老いぼれ一人の命で王都が救えるなら、安いものだ」
殿下は、言葉を失った。ルディナは、痛みをこらえるように目を閉じる。
重い沈黙が、その場を満たした。やがて殿下は、長い葛藤の末に震える唇を開いた。
「……エルウィン。その覚悟に――」
握る拳に震えるほどの力が込められる。
次の言葉を、殿下が口にしかけた――まさにそのときだった。
澄んだ声が飛び込んでくる。
「待ってください……っ!」
息を切らした少女が、負傷した友に支えられながら、駆け込んできた。
青い瞳に強い光を宿して、真っ直ぐに皆を見据える。
「ルリシア……!」
ルディナが目を見開いた。
「犠牲なんて必要ありません! 私が……王都を守ります!」
ルリシアの宣言に、殿下が驚いたように目を見開く。
「……ルリシア嬢。だが、君は……」
ルリシアはレイラに支えられながら、一歩前に出た。その身体は満身創痍で、立っているのもやっとだった。それでも、青い瞳には確かな決意が宿っていた。
「四大属性の究極守護術式――『天蓋の四柱』を発動します」
エルウィンが、息を呑んだ。
「天蓋の四柱……だと。最古の文献にしか記されぬ、伝説級の守護魔法……。炎・水・風・地、四大属性を同時に操り、国内全体を覆うほどの結界を張る術。しかし、あれは……」
「はい、一人の魔力では到底足りないこと……わかっています」
ルリシアは静かに頷いた。それでも、引かなかった。
「でも、やります。私には……届けたい人がいるんです。約束だから」
ルリシアは一人で前へ進み出る。左手の指輪をそっと胸に押し当て、右手で包み込む。
誰もが息を呑んで見守る中、ルリシアはひとつ、深く息を吐き出した。
ルリシアの全身から、四色の魔力が溢れ出した。炎の赤、水の青、風の緑、地の紫。四つの光が螺旋を描いて立ち上る。
だが――術が完成する前に、ルリシアの膝が震えた。
魔力が足りない。すでに影との戦いで消耗しきった身体では、王都を覆う結界にも遠く及ばなかった。四色の光が、不安定に明滅する。
「っ……まだ……まだ……!」
「ルリ……!」
レイラには何もできない。魔力ばかりはどうにもならない。
その時、クロヴィス殿下が前に進み出た。
「ルリシア嬢。一人で抱え込むな」
殿下の翡翠色の瞳が、強い光を放った。
「この国には、まだ魔導士がいる。住民がいる。皆の力を、君に託そう」
殿下が欄干へ歩み寄り、王都を見渡した。
「ルディナ! 私の声を、王都全体へ!」
「はっ!」
ルディナが風の魔力を解き放った。渦巻く風が、殿下の声を受け止める。
「王都の民に告ぐ! 私はクロヴィス・ヴェルディアだ!」
風に乗った殿下の声が、街の隅々へと響き渡った。
「今、一人の少女が命を懸けて、この王都を守ろうとしている! だが、彼女一人の力では足りない!」
王都中に響く声に、人々の足が止まる。
「力を貸してほしい! 魔力を持つ者は、その力を空へ解き放て! 皆でこの国を護ろうではないか!」
どよめきが波のように広がっていく。殿下は怯む民衆を見据え、さらに声を強めた。
「恐れるな! 我がエメラルド王国は――決して闇に呑まれたりはしない!」
殿下の呼びかけが、王都に木霊した。
逃げ惑っていた魔導士たちが、足を止めた。怯えていた人々が、顔を上げる。
一人、また一人と、空へ向かって手をかざし始めた。
四属性それぞれの無数の魔力が、淡い光となって街から立ち上る。それらは風に乗り、ルディナの導きに従って、王宮のルリシアのもとへと集まっていった。
四色の光が、再び勢いを取り戻す。ルリシアの身体に温かな魔力が流れ込んでくる。
「……みんな……っ」
ルリシアの瞳から、涙が溢れた。一人ではない。たくさんの想いが、今、自分の中で一つになっている。
「ありがとうございます……!」
ルリシアは目を閉じて、遠い戦場で、闇の根源へ向かっているイリヤのその背中を思い浮かべる。
出発の前夜、首席専用の執務室で交わした約束。「お前ならできる」と、まっすぐに自分を見つめた赤い瞳。
――守護の力を預ける代わりに、ルリにやってほしいことがある。この魔法が発動できれば、お前の魔力が指輪を通して俺に届く。共に戦おう――
「……イリヤ」
ルリシアの頰を、涙が一筋伝った。
(どんなに離れていても……私はあなたのことを、ずっと想ってる……)
胸の奥が熱くなる。指輪が、それに応えるように温かく脈打った。
「だから……届いて。負けないで……私の光が、あなたを守るから」
ルリシアは指輪を握りしめ、四色の魔力を頭上へと解き放った。
「――『天蓋の四柱』! 開けっ……!」
凄まじい光が、王都全体を包み込んだ。
炎が空を焼き払い、水が瘴気を洗い流す。風が結界を広げ、地がそれを不動のものとして支える。四色の巨大なドームが、王都の上空に展開された。
影の使徒の大群が、結界に殺到する。だが、四色の光が触れた瞬間――使徒たちは悲鳴のような音を上げ、次々と浄化されていった。炎が闇を焼き、水が瘴気を溶かし、風が残骸を散らし、地が完全に封じる。
無数の影が、光の奔流に呑み込まれ、跡形もなく消えていった。
四色の光は、それだけにとどまらなかった。
ドームから清らかな波紋が広がり、城壁を越え、遠い山々までも駆け抜けていく。
国の隅々に巣食っていた黒いモヤが、光に触れて次々と蒸発した。乗っ取られた村人たちが正気を取り戻していく。
エメラルド王国全土が、四色の光に包まれると、街の悲鳴が、安堵のどよめきへと変わっていった。
**
その光は、遠く離れた魔の森にまで届いた。遺跡の前で剣を振るっていたジルケットが、空を見上げた。
四色の光の奔流が、地平の彼方から押し寄せてくる。その光が触れるたびに、群がっていた魔獣たちが浄化され、黒いモヤが晴れていく。
ジルケットの口元が、ふっと緩んだ。
「……これは、ルリの力か」
白い飛竜の背で、ジルケットは光に照らされながら笑った。
「大したもんだ。……あの二人なら、本当にやってのけそうだな」
**
地下の最奥。
天井の高い、巨大な地下空洞。中央には、ラドルフ・クロウリーが突き立てたという一振りの古い剣が、今もなお地に深く刺さっている。だが、その剣の周囲の封印の紋様は、ぼろぼろに砕け、禍々しい光を放っていた。
そして――その奥に、それは佇んでいる。
人の形をしているが、人ではなかった。
見上げるほどの巨体は、闇をそのまま固めたように黒い。その身には朽ちた漆黒のローブを纏い、裾も袖もぼろぼろに裂けている。袖から伸びる腕は骨のように細く長く、その手には人の背丈を超える巨大な鎌が握られていた。
顔は闇に覆われて見えない。ただその奥で、二つの昏い光が、瞳のようにゆらりと揺れていた。
まさに『死神』を現すような姿。
イリヤは、剣を構えたまま、その異形と対峙した。死神の昏い瞳が、イリヤを捉えた。喉の奥から、軋むような声が漏れる。
「……その魂の匂い」
黒いモヤが、ぞわりと蠢いた。
「貴様……クロウリー家の人間か」
鎌が、ぎりりと持ち上げられる。
「忌々しい……忌々しい魂め。あの男の血が、また我が前に立つか」
イリヤは答えない。ただ剣を握る手に、力を込めて、真っ直ぐに目の前の死神を赤い瞳に映す。二つの視線が、闇の中で交差する。
――最後の戦いが始まろうとしていた。




