第18話 隣に立つ少女
青白い氷の剣が、ルリシアの手の中で鼓動を打つように震えている。
周囲には、魂を喰われた人々が力なく倒れ伏していた。虚ろに見開かれた目。顔は土気色に染まり、まるで抜け殻のようだ。
彼らから吸い上げた「絶望」を糧に、影は見上げるほどに膨れ上がっていく。
黒い巨体がぐにゃりと蠢き、無数の腕が生えた。その一本一本が、ルリシアを喰らおうと一斉に伸びてくる。
ルリシアは氷華の剣を握り直した。
――剣の流れに、魔力を重ねる。
影の腕が、唸りを上げて振り下ろされた。ルリシアは地を蹴り、横へ跳ぶ。風圧が頰を打った。
「……展開!」
足元に四色の魔法陣が十字を描くように広がった。紫の陣が強く瞬くと、地の槍がせり上がる。
その穂先に、氷華の剣が触れた。
土の槍が一瞬で凍てつき、透き通った氷の刃へと変わる。鋭さを増した氷槍が、影の腕を串刺しにして砕いた。
黒い飛沫が散る。だが、影はひるまない。視界の端で、別の腕が背後に回り込んだ。
(……後ろっ!)
振り向きざま、青い陣が水を噴き上げる。氷華の剣がきらめくと、水の壁は瞬時に分厚い氷の盾へと姿を変えた。影の一撃が氷の盾に激突し、鈍い音とともに弾かれる。
ルリシアは盾を蹴って跳躍した――だが、空中で体勢を崩す。
(上へ……!)
赤い陣から炎の螺旋が渦巻く。その炎が氷華の剣に巻きつくと、ルリシアは影に向けて剣を大きく振り上げた。
螺旋は凍りつき、宙へと氷の足場を形作る。ルリシアはその足場を駆け上がり、影の頭上へと躍り出る。
眼下に、影の使徒の全貌が見えた。
黒く渦巻く身体の奥。一点だけ、ひときわ濃く脈打つ場所がある。
(あそこだ。あれが、核)
影が、無数の腕を一斉にルリシアへ伸ばした。
(――動きを止める!)
緑の陣が輝くと、ルリシアの周囲に竜巻が巻き起こる。氷華の剣がそれを撫でると、渦巻く風の中に無数の氷の塊が発生し、迫りくる腕に絡みつき、凍てつかせた。
動きを止められた影の腕が、空中でびきびきと音を立てて固まっていく。
その一瞬の隙。
ルリシアは氷の足場を蹴り、まっすぐに落下した。氷華の剣を両手で握り、切っ先を核へと向ける。
全身の魔力を、剣の一点に集束させる。
「届いてっ!!」
青白い光の尾を引いて、ルリシアは影の核へと急降下した。
氷華の剣の切っ先が、闇の核を捉えた。
――ずぶり、と刃が沈み込む。
核を貫いたと同時に、剣身から青白い光が一気に溢れ出した。氷の冷気が影の内側を駆け巡り、黒い巨体が内から凍てついていく。
影が断末魔のように身を強張らせ、無数の腕が虚空を掻き、巨体が大きく痙攣する。
そして――貫いた核から、淡い光の粒がぶわっと溢れ返った。
影に喰われた人々の魂。
その一つ一つを、氷華の剣から広がる青白い光が、優しく包み込み、寄り添うように囚われた魂を闇から引き剥がしていく。
(これが守護の加護……イリヤの守るための力……)
解き放たれた魂が、ふわりと宙に舞い上がり、それぞれの身体へと還っていった。
倒れていた人々の頰に、わずかに血の気が戻る。虚ろだった目がゆっくりと閉じられ、穏やかな寝息へと変わっていく。
核を失った影が、バリンッとガラスが割れるような音を立てて砕け散った。
影は細かい破片となって、青白い光の中へと溶けて消えていった。
街中にようやく静寂が訪れた。
ルリシアは風を纏い、地に降り立つと、手にした氷華の剣を見つめる。
役目を終えた剣が、淡い光の粒となってさらりと空気に溶けていく。
指輪が、最後にもう一度だけ温かく瞬いた。
その熱が引いていくのと同時に――身体の芯から、ごっそりと何かが抜け落ちる感覚がした。
「……終わった」
膝から力が抜けると、その場に崩れ落ちて両手で必死に身体を支える。
「ルリ……!」
負傷したレイラがソフィアに支えられながら、ルリシアの元へゆっくりと歩み寄る。
「レイラ……」
ルリシアは、霞む視界の中でレイラの顔を見上げた。無事でいてくれた――その安堵感が胸に広がり、いっそう力が抜け落ちた。
「無茶を……してくれるわ」
レイラが、痛みをこらえながら、それでも微笑んだ。ルリシアも、へにゃりと笑い返そうとして――けれど、もう頰を持ち上げる力さえ残っていなかった。
「……みんな……助かったから……結果オーライだよ」
吐く息が、震えていた。
ソフィアは水色の瞳で、ルリシアをじっと見つめた。こんなにも小さくて細い身体で、あの巨大な影を退けたのだ。
胸の奥が、ざわめいた。
悔しさでも、嫉妬でもない。ただ――まぶしかった。
命を懸けて彼の隣に立とうとする少女。
誰にも興味を抱かなかった彼が、なぜあんなにも心を動かされたのか、ソフィアにはもう、痛いほどわかってしまった。
「……素敵な人ね」
ソフィアは小さく呟いた。ルリシアが、きょとんと顔を上げる。
「え?」
「いいえ。なんでもないわ」
ソフィアは穏やかに微笑むと、レイラへ向き直った。
「レイラ様、早く治療を……」
「……いいえ」
レイラが、首を振る。
「私たちは、まだ退けない。ソフィア、あなたこそ、早く避難を。ここもまだ危険よ」
ソフィアは一瞬目を見開き、ルリシアの顔を見つめた。ルリシアは苦しげな表情を浮かべながらも、力強く頷いた。
「……エルウィン様の元へ行かないと。結界を張り直す。みんなを守るために」
ソフィアは言葉を失った。だが、自分に戦う力はない。今、自分に出来ることはただこの二人の無事を祈ることだけだと、瞬時に悟った。
レイラは傷の痛みを噛み殺すように、ぐっと唇を結んだ。
「……ルリ、立てる?」
「うん……立つよ」
魔力を絞り尽くした身体は、鉛のように重い。このまま、目を閉じてしまえたらどんなに楽だろう。
瞼の裏に、ふとイリヤの顔が浮かんだ。一番闇の深い場所で彼は戦っている。
ルリシアは、震える腕を地面についた。
「……っ」
力の入らない足を、無理やり踏みしめる。
「……行かなきゃ……イリヤとの約束を果たすために」
ふらつくルリシアの身体をレイラが横から、ぐっと支える。自身の傷もかえりみず、ルリシアの腕を自分の肩へと回した。
「私が、連れて行くわ。どこまでも一緒よ」
レイラの肩は温かい。その優しさはいつも変わらない。
「……うん。ごめんね、レイラ」
「謝らないの」
レイラが、ふっと笑う。
「……ありがとう」
「ええ。私の方こそ守ってくれて、ありがとう」
互いを見やり、小さく笑い合う。
ルリシアはレイラに支えられ、王宮の方角を見上げた。空には、いまだ黒いモヤが渦巻いている。
――まだ、終わっていない。
ルリシアは指輪の鼓動を感じながら左手を握りしめ、震える足に力を込めた。
「行こう、レイラ」
二人は、王宮へと歩き出していく。
その二人の背を見送りながら、ソフィアは胸の前で両手を組み、二人の無事を祈った。




