第17話 氷華の剣
王宮内。
高い天井の下、床に複雑に幾重にも描かれた魔法陣が、淡い四色の光を放っていた。その中心で、白銀の髪の老人が片膝をつき、両手を床について必死に身体を支えていた。
エルウィン・ヴァレリウス。王宮魔導士部隊最高顧問。
深い皺の刻まれた顔に、玉のような大粒の汗が浮かび、流れ落ちている。荒く乱れた呼吸を繰り返しながら、彼は崩れかけた結界へ、なおも残り少ない魔力を注ぎ続けていた。
王都全体を覆う高位防御結界。影の侵入を、これまで何とか食い止めてきた。だが、君主が目覚めた今、押し寄せる闇の奔流は、老体の魔力をとうに超えていた。
「……まだ、だ……まだ、保たせねば……!」
声を絞り出すように魔力を込めると、結界が一段と輝きを増した。しかしその代償はあまりにも大きかった。
ぐらり、と視界が大きく傾く。
糸が切れたように、エルウィンの身体が床に崩れ落ちた。魔法陣の光が、ふっと弱まり、瞬いた。
「エルウィン様!」
扉が勢いよく開き、ルディナが血相を変えて駆け込んできた。倒れた老顧問のもとへ膝をつき、震える手でその身体を支える。
「しっかりしてください、エルウィン様!」
エルウィンは薄く目を開けた。焦点の定まらない瞳で、それでもルディナの顔を必死に捉えようとする。
「……ルディナか」
「すぐに治癒師を――」
「いい。それより……聞け」
声は掠れ、息も絶え絶えだった。それでも、その言葉には最高顧問としての鋭い意志が宿っていた。
「君主の……影は……人の悲観を喰らう」
ルディナの目が見開かれた。
「負の感情に……引き寄せられ、それを糧に膨れ上がる。恐怖、絶望……悲しみ。喰わせるな。住民を……絶望させるな。それが、影を抑える唯一の道だ」
「……承知しました」
「私の結界は……もう、完全に解ける。早く行け」
エルウィンの瞼が、再びゆっくりと落ちていく。ルディナはその身体をそっと床に横たえると、立ち上がった。
「……行ってきます」
ルディナの背に、エルウィンの言葉が追いかける。
「……若い君たちが、希望だ」
**
王宮の高台。
ルディナは欄干に両手をつき、眼下に広がる王都の惨状を見渡した。
大通りのあちこちから黒いモヤが立ち上り、実体を持ち始めた影が街中に侵入していた。逃げ惑う人々の悲鳴と泣き声が、風に乗ってここまで届いてくる。
「……っ、もうここまで」
ルディナは唇を強く噛みしめた。一刻の猶予もなかった。
両手を高く掲げ、風の魔力を解き放つ。彼女の周囲に、激しく渦を巻く風が生まれ、長い髪を激しくなびかせ、その風に声を乗せる。
「王都の住民に告ぐ!」
風が、ルディナの声を王都の隅々へと力強く運んでいく。
「闇の影は、人の絶望を喰らう! 恐れるな! 悲観に呑まれるな! 心を強く持て! 希望を捨てた者から、影に喰われるぞ!」
風に乗った声が街全体に響き渡る。逃げ惑っていた人々が足を止め、顔を上げた。
「諦めるな! 助けは必ず来る! 顔を上げて、前を向け!」
ルディナの声には、人々の心を奮い立たせる確かな力と揺るぎない信念があった。
怯えきっていた人々の目に、わずかながら光が戻っていくのが見えた。
**
「レイラ! レイラ……っ!」
ルリシアは倒れたレイラに必死に駆け寄り、その身体を抱き起こした。赤い髪が、わずかに血で濡れている。
心臓が、激しく痛いほどに打っていた。
「しっかりして……お願い、レイラ……!」
焦りと恐怖が、胸の奥から黒い波のように込み上げてくる。視界がにじみ、喉が熱くなった。
近くで蠢いていた影が、ぴくりと反応した。ルリシアの負の感情を嗅ぎつけたように、ゆらりとこちらへ向きを変える。
ルリシアの頰を、一筋の涙が伝う。
「……っ」
その雫が、レイラの頰に落ちた瞬間。
「……ルリ」
絞り出すような声でルリシアの名を呼ぶと、レイラの瞼がゆっくりと開いた。
「レイラ……!」
「……大丈夫よ。急所は、外してる」
レイラは痛みに顔をしかめながらも、わずかに口元を緩めて微笑んだ。額には汗が浮かび、唇は血の気がない。
「だから……そんな顔、しないで。ルリが泣いたら……イリヤが心配するわ」
ルリシアは、ぎゅっとレイラを抱きしめた。
「……うん。うん……っ」
その温もりが、込み上げる涙を今度は安堵のものに変えた。胸の奥が熱くなり、震えが止まらない。
「ルリシアさん、危ないわ! 前っ!」
ソフィアの叫びが響くと同時に、ルリシアは顔を上げた。
黒い影が、すぐ目の前まで迫っていた。人の形をした巨大な影。影はルリシアの悲しみを貪るように、ぬらりと口のような裂け目を大きく広げた。
ルリシアはレイラをそっと地面に横たえ、傍らに落ちていたレイラの剣を握りしめた。
立ち上がり、青い瞳に強い光を宿す。
――泣かない。絶望しない。私は戦う。
握りしめた剣の柄。その冷たい重みが、ある大切な記憶を呼び起こした。
◇
まだ、穏やかだった日のこと。
夕暮れの訓練場で、ルリシアはイリヤと木刀を打ち合っていた。
イリヤの剣が、軽く払うように振るわれる。その一撃で、ルリシアの木刀は弾き飛ばされ、勢いで足がもつれた。
「きゃっ……!」
倒れかけた身体を、イリヤの腕がすっと抱き止める。
「……っ、ありがとう」
ルリシアは肩を落とし、悔しげに唇を噛んだ。
「やっぱり……魔導士の私に、剣なんて無謀だったかな」
力ではイリヤに遠く及ばない。何度打ち合っても、弾かれてばかりだ。
イリヤは、ルリシアを支えたまま静かに首を振った。赤い瞳が優しく、しかし真剣に彼女を見つめる。
「いや。四大魔法を扱うお前にしか、できない戦い方がある」
「私にしか……?」
「力でねじ伏せる剣は、お前には向かない。だが、剣の流れに逆らわず、沿うように動けばいい。相手の力を受け流し、最小限の動きで対処する」
イリヤはルリシアの手をそっと取り、剣の構えを丁寧に直した。
「そして、その動きに魔力を同期させる。剣と魔法、その二つをお前の中で補い合わせるんだ」
「剣と、魔法を……」
「剣術は、力だけじゃない。戦術と工夫で、力不足はいくらでも補える」
イリヤの赤い瞳が、まっすぐにルリシアを見つめた。
「お前なら、できる」
その言葉が、胸の奥深くに温かな灯りをともした。ルリシアは木刀を握り直し、もう一度構えた。
「……うん。もう一回、お願いします!」
イリヤの口元が、優しく緩んだ。
◇
――そうだ。力で勝てなくていい。
ルリシアは剣を構え、影の動きを冷徹に見据えた。剣の流れに沿うように、魔力を全身に巡らせる。
影が、巨大な腕を振り下ろした。
ルリシアはその一撃を真正面から受けず、剣でいなすように受け流した。同時に風の魔力を纏わせ、身を翻す。
だが――影の力は想像をはるかに超えていた。
受け流したはずの衝撃が、剣を通して全身に激しく走る。
キィィン――!
レイラの剣が、根元から弾け飛んだ。
「あっ……!」
体勢を崩したルリシアの身体が、宙に投げ出される。地面に叩きつけられる――そう思った瞬間、誰かの腕が彼女をしっかりと支えた。
「しっかりして……!」
ソフィアだった。風の結界を抜け出し、ルリシアの身体を抱き留めていた。
二人の眼前に、影が容赦なく迫る。逃げ場はない。
その時――ルリシアの左手の指輪が、強く瞬いた。
ぴしり、と空気が凍てつく音を立てた。
二人を中心に、地面が、空気が、みるみる白く凍てついていく。冷気が影を押し返し、その動きを一瞬で封じた。
そして――二人を包み込むように、巨大な氷の花が咲き誇った。
幾重にも重なる氷の花弁が、淡く青白い光を放ち、ルリシアとソフィアを守るように優しく囲い込む。影の腕が何度も叩きつけられても、花弁は微動だにしなかった。
「これは……氷の……花?」
ソフィアが呆然と呟く。
ルリシアの胸の奥に、聞き慣れた声が響いてくる。出発前日の執務室での、イリヤの言葉が耳の奥で届く。
――守護の力を、一部預ける。
「……イリヤ」
――ルリ、一緒に戦おう。かけがえのないものを守るために。
ルリシアの瞳から涙がこぼれた。けれどそれは、もう悲しみの涙ではなかった。
彼が傍にいる。離れていても、確かに繋がっている。
「……うん。一緒に」
ルリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
氷の花の中心。冷気が一点に集束し、せり上がってくる。きらめく氷が形を成し、一振りの剣へと結晶していく。
澄み切った、青白く輝く氷の剣。
ルリシアの手が、その柄をそっと握った。ひやりとした冷たさが掌に馴染み、指輪を通して伝わるイリヤの鼓動が、剣の鼓動と重なった。
――氷華の剣――
ルリシアは剣を構え、影をまっすぐに見据えた。青い瞳が、凍てつくような決意の光を強く宿していた。




