第5話 悪意の棘
『そのままでいい』
あの夜のイリヤくんのひと言がずっと耳から離れない。余韻がまだ抜けなくて……朝起きた瞬間から、イリヤくんの顔が浮かぶ。
騎士科棟の入り口の前を通ると自然に足を止めてしまう。図書室でも、食堂でも、どこにいても彼の姿を探してしまう。赤い瞳が少しだけ私を捉えるだけで、心臓が跳ね上がる。
夜になると、ベッドに入っても眠れなくて、枕を抱きしめて彼を想う。
こんなに誰かを想うなんて、初めてで……怖いくらいに想いが溢れて止まらない。
レイラの部屋に転がり込んで、いつものように本音を漏らす。
「もう、毎日イリヤくんのことばっかり考えてて……頭おかしくなりそう……」
レイラはベッドの上で膝を抱え、ニヤニヤしながら私を見下ろす。
「そんなに好きなら、告白したら?」
「もう! 面白がらないで! レイラってば!」
私は枕を投げつけたけど、レイラは軽くかわして笑う。
「ごめん、ごめん。でもさ、イリヤ、間違いなくルリの事、特別視してると思う。
ダンスの時だって、あんなに話すイリヤ初めて見たわ。それに『そのままでいい』なんて、あのイリヤが言うセリフじゃないわよ。普通に照れてるだけだと思う」
「……う〜ん、そうかなぁ?」
胸がきゅっと締めつけられる。特別視か。そう思いたいけど、まだ信じきれない自分がいる。
そして、待ちに待った日が来た。
騎士科と魔法科の合同実技演習。
騎士科は剣術や防御術を模擬戦形式で披露し、魔法科は四大属性それぞれの魔法を演じて見せる。
今日こそ、完璧に決める。
四大属性──炎、水、風、地──四つの属性を繋げる。私だけができる唯一無二の魔法──これが、私の一番の見せ場だ。
下町出身のただの女の子じゃなくて、「天才美少女優等生」としてイリヤくんに、かっこいいところを見せたい。
授業前にレイラに決意表明したら、またニヤニヤされた。
「やだ、ルリ。まだ演じるの?」
「そ、そういうのじゃなくて……! 流石に失敗ばかりは見せたくないよ! かっこいいところ見せたいの! 四大魔法は私の一番の見せ場なんだから!」
レイラはため息をつき、優しく肩を叩いた。
「わかったわかった。頑張りなさい。でも……無理しすぎないでね?」
グラウンドに全生徒が集まる。
合同授業のグラウンドは、いつもより熱気に満ちていた。
まずは騎士科の模擬戦から始まる。
観客席に並ぶ生徒たちの視線が、一斉に中央の円陣に向けられた。
「次、イリヤ・クロウリー!」
先生の声が響くと同時に、女子たちの歓声が爆発した。
私は少し離れた場所から、息を潜めて見つめていた。心臓が早鐘のように鳴る。彼の剣術を見るのは、何度見ても胸が熱くなるから。
イリヤくんはゆっくりと円陣の中央へ歩み出た。
黒い制服の上着を脱ぎ、軽いシャツ姿。
腰に差した訓練用の剣を、静かに抜く。
対戦相手は騎士科のエース級で、自信たっぷりに剣を構えたが、イリヤくんはただ、無表情で立っているだけ。
「始め!」
合図と同時に、相手が飛び込んだ。
重い一撃を振り下ろす剣が、空気を切り裂く。
──でも、イリヤくんは動かなかった。
いや、動いた。
ほとんど目に見えない速さで。
相手の剣が地面に叩きつけられる寸前、彼の体はすでに横に滑っていた。風を切る音さえ優雅に聞こえる。そのまま流れるように剣を返し、相手の剣首をぴたりと止めた。
一切の無駄がなく、力任せじゃない。
ただ、正確で圧倒的なその姿に、観客席から悲鳴のような歓声が上がった。
彼は視線を上げ、観客席をゆっくりと見回した。
そして──まっすぐ、私のところへ。
赤い瞳が私だけを捉える。
一瞬、息が止まった。周りの歓声が、遠くに聞こえる。
(……見てくれてる)
その視線に、勇気をもらった気がした。
騎士科の模擬戦が終わると、次は魔法科のターン。私は中央に立ち、深呼吸した。
(大丈夫。練習した通りに。イリヤくん、見てて……)
最初は炎。
掌を広げると、赤い炎が優雅に舞い上がる。
渦を巻きながら柱のように伸び、熱を抑えつつ美しい軌跡を描く。
周囲から感嘆の声が漏れた。
次は水。
指先を炎へと向けると——炎が揺らいだ。
水の糸が螺旋を描きながら絡みつき、燃え盛る赤が青白い輝きへと変わっていく。
空中で生まれた球体は、炎の残り火を内側に閉じ込めたまま、ゆっくりと回転を続けた。
光を反射して虹色に輝く。
続いて風。
球体が揺れるたびに、微かな気流が生まれていた。私はその息吹を捕まえ、育てるように腕を広げる。炎の熱が、水の冷気が、ひとつになって渦を巻き——穏やかな旋風となって周囲を包んだ。髪がふわりと舞い、スカートの裾が優しく揺れる。
最後は地。
風が地面を撫でた瞬間、土がざわりと震えた。
まるで呼ばれたように、柔らかな緑のつるが盛り上がり、渦巻く風に沿って伸びていく。
炎の赤、水の青、風の白——三つの色を宿した花を咲かせながら、つるは私を優しく包んだ。
淡い光が全てを溶かすように広がり、そして、静かに消えていく。
……はずだったのに。
最後の集中力を振り絞った瞬間、魔力の流れがほんの少し、ぶれた気がした。
──その直後、足元が熱くなった。
つるが異常に速く太く、制御不能に広がり始める。花ではなく、棘のような鋭い突起が生えて私の足を絡め取ろうとする。
(……え? なにこれ……?)
心臓が冷たくなる。私の意思とは関係なく、魔法が勝手に暴走している。
周囲の生徒たちがざわつき出す。でも、つるは止まらない。 棘が私の足首に食い込み、痛みが走った。
「……ッ!!」
観客席から、シーラさんとその友人の令嬢たちの小さな声が聞こえた。でも、はっきりとした囁き。
「平民の分際で……調子乗りすぎて、笑えるわよね」
「ちょっとした『干渉』で、魔力が暴走するなんて、天才美少女もたいしたことないわね」
……干渉?
誰かが、私の魔法に干渉した?
先生の叫び声が響く。
「ルリシアくん、魔力を抑えなさい!」
つるがさらに暴れ、私の足を締め上げる。
棘が足に刺さり、痛くて、体に力が入らない。
魔力のコントロールが効かない。
──その時。
鋭い風切り音が響いた。
イリヤくんが、駆け寄ってきた。
訓練剣を抜き、つるを一閃で斬り裂く。
棘が散り、私の体が解放される。彼は即座に私の腰を抱き寄せ、暴走したつるを剣で抑え込む。
「……大丈夫か?」
低い声が耳元で響き、赤い瞳がすぐ近くで私を捉える。心配と怒りと、何か強い感情が混じった視線。
「イリヤ……くん……」
荒く息継ぎしながら、必死に彼の名を呼んだ。
彼は私をしっかりと支えながら、暴走の中心に剣を突き立てた。剣先から淡い光が広がり、つるが一瞬で枯れ、土に還る。
「ゆっくりでいい。深く呼吸しろ」
彼の手が背中を優しく摩る。私は彼の温もりを近くに感じながら、深くゆっくりと呼吸を整える。
魔法が、静かに収束していった。
周囲が静まり返る。
私たちを見て、令嬢たちが顔を青ざめさせている。シーラさんは唇を噛んで視線を逸らした。
イリヤくんは、私を離さずに、静かに言った。
「……もう、大丈夫だ。怖がるな」
その言葉が、凍りついていた心を溶かした。胸の奥が熱くなって、目頭がじんわりする。
涙が勝手にこぼれた。でもそれは怖さじゃなくて、安心と……嬉しさ。
「ありがとう……イリヤくん」
震える声で呟くと、彼は一瞬目を細めて頷いた。
そして──次の瞬間。
彼は私の体を持ち上げ、お姫様抱っこにした。
「え……っ!?」
周囲から、女子たちの悲鳴のような歓声が上がった。私は顔が一気に熱くなり真っ赤になって、彼の胸を軽く押す。
「イ、イリヤくん……!? 自分で歩けるよ……!」
「足、まだ棘が刺さってるだろ。動くな」
低い声で真っ直ぐ前を向いて言うと、彼は私を抱えたまま、医務室へ向かう。
ふと後ろを振り返ると、シーラさんの友人たちの視線が、私たちに突き刺さるように注がれていた。
**
医務室に着くと、彼は私をベッドにそっと下ろした。先生が来る前に、足首の棘を丁寧に抜き、消毒液と包帯を取り出す。
「自分で……やれるよ……」
「動くなと言っただろ」
彼は私の足を優しく持ち上げ、傷口を拭う。指先が肌に触れるたび、びくっと反応してしまう。熱いものが足から全身に広がって、息が浅くなる。
「……迷惑、かけてごめんね」
小さな声で謝ると、彼は手を止めて、私を見上げた。
「あまり、人といるのは好きじゃない。面倒だからな……」
一瞬、胸がちくりとする。
「だが……君は」
彼の赤い瞳が、じっと私を捉える。
「危なっかしくて、ほっとけない」
「……っ」
心臓が、大きく跳ねた。
彼は再び傷口に視線を戻し、丁寧に包帯を巻き始める。心臓の音が、うるさいくらい鳴っている。彼の手が優しいからこそ、苦しい。包帯を結び終えると、彼は立ち上がった。
「次は……もっと近くで、君の魔法を見せてくれ」
「イリヤくん……。うん……約束する」
彼は小さく頷き、背を向けた。
「……足、治るまでは、無理をするなよ」
そう言って、イリヤくんは歩き出す。扉が閉まる音を聞きながら、私は胸に手を当てた。
──少しずつ、でも確実に、距離が縮まってる……そう思っても、いいよね?
◇◆
医務室の扉が閉まり、廊下に重い静寂が落ちる。
「イリヤくん」
呼び止める声に、イリヤ・クロウリーは歩みを止め、ゆっくり振り返った。 視線の先に、シーラ・ローレンスが立っていた。彼女は優雅にスカートの裾を整え、柔らかな微笑みを浮かべて近づいてくる。
「ルリシアさん、ご無事でよかったわ。あの暴走……見ていて本当に怖かった。私たちも飛び出そうとしたのだけれど、あなたがあまりに素早くて……出番がなかったの」
くすりと笑う。後ろの友人である令嬢たちが、すかさず声を重ねる。
「本当に。急に魔力が乱れるなんて、体調が悪かったのかしら」
「まあ、しょうがないわよね。天才って言われても、下町育ちじゃ限界があるのかも……ふふっ」
柔らかな声の裏に、棘が滲む。シーラは眉を下げ、心配そうにため息をついた。
「もっと早く気づいてあげられていたら、よかったのに」
イリヤの表情は変わらない。ただ、赤い瞳が、ゆっくりと細くなる。
「……干渉したのは、どいつだ」
静かな問いが、空気を切り裂く。シーラたちの微笑みが、一瞬で止まる。
「え……?」
イリヤの視線が、彼女たちの指先へ落ちる。黒くゆらめく魔力の残滓が、まだ薄く漂っていた。
「お前たちから魔力が滲んでいる。ルリシアの魔法に割り込んだ跡だ」
令嬢の一人が、笑顔を取り繕って返す。
「あら、それは演習の残りじゃないかしら。勘違いされてるのでは? 剣士のイリヤくんには、魔力の細かな差異まではわからないでしょうし」
その言葉が終わった瞬間──
イリヤの目が、すうっと細くなる。怒りではない。もっと冷たいものが、瞳の奥に灯る。
「……そうやって笑うのか」
声は静かすぎるほどに静かだ。
「正面から向き合う度胸もなく、陰で魔法に干渉して、証拠を問われれば相手の無知を盾にする。それで今、俺の前で心配そうな顔をしている」
一語一語が、刃ではなく蔑みとして落ちる。
「反吐が出る」
短く、淡々と。しかしその言葉が、シーラたちの笑顔を完全に凍りつかせた。
令嬢たちが後ずさり、シーラの顔から血の気が引き、慌てて口を開く。
「ご、ごめんなさい、イリヤくん。悪気はなかったのよ。軽口を叩く子で……どうか気に──」
「ルリシアは努力している」
遮られ、シーラの言葉が途切れる。
イリヤの視線に、誰も動けない。
「お前たちは、彼女の何を知っている」
誰も答えない。答えられない。
「彼女の限界を、なぜお前たちが決める」
静かな声が、廊下に落ちていく。
「姑息な真似しかできないお前たちに、彼女を咎める資格があると思っているのか」
令嬢たちの唇が震え、声にならない。
誰かが何かを言おうとして──やめた。
沈黙が、答えだった。
シーラが一歩踏み出し、必死に表情を繕いながら声を絞り出す。
「イリヤくん、聞いて。何か、誤解してる! 私たちはただ、ルリシアさんのことを──」
「シーラ」
名前だけで遮られ、シーラの言葉が再び途切れる。イリヤはゆっくり彼女を見下ろして告げる。
「二度と、ルリシアの邪魔をするな。——次はない」
赤い瞳に熱はなく、底冷えするほど静かな光だけだ。それが、どんな怒号よりも重くシーラの足元に沈む。シーラの顔が引き攣り唇を強く噛み締める。
令嬢たちは顔を背け、足早にその場を去った。
足音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。シーラはその場に残ったまま、イリヤの背中を見つめる。
──なぜ、あの子なの。
胸の奥で、声にならない問いが渦を巻く。
──なぜ、私ではなく。
イリヤは振り返らない。医務室の扉を一度だけ見つめ、赤い瞳の奥に、ほんの一瞬、何かが過ぎる。
彼は踵を返し、歩き出した。 背中はいつもより、わずかに強張っている。 だけどその背中が、告げている。
──ルリシアに手を出すな。
それだけが、今のシーラにわかることだった。




