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第4話 そのままでいい

騎士科と魔法科の合同ダンス授業の日がやってきた。


このエメラルド魔導学院では、年に数回、両学科の交流を深めるために、華やかな舞踏会形式の特別授業が開かれる。


魔法の燭台が淡い光を散らし、ドレスアップした生徒たちがきらびやかなホールで優雅にステップを踏む。そんな光景は、いつも学院中を甘くざわつかせた。


──パートナーはくじ引きで決まる。


誰と組むかわからないドキドキ感が、まるで運命のいたずらのように胸をくすぐる。


「あの人と踊れたら……」「まさかイリヤくんと……?」


そんな期待と不安の囁きが女子たちの間を絶え間なく飛び交い、授業前から学院は甘い熱気に包まれていた。


私はというと……数日前からレイラに死にもの狂いでダンスを仕込まれていた。


「ルリ、もう一回! 腰のひねりが甘いわ! もっと優雅に、優雅に! イリヤに見せたいんでしょ?」


レイラの赤い髪が揺れながら、私の腰に手を回してくる。

鏡の前で何度も繰り返されるステップ練習。足が棒のようになっても、彼女は容赦なく「もう一回!」と笑顔で言う。

くるくる回りすぎて、気持ち悪い。


それでも、頑張る理由はひとつだけ。

もしもイリヤくんと当たったら——そのために、苦手なステップを体に叩き込んだ。


……本当は、くじ引きで彼と当たるなんて、夢みたいな話だってわかってる。


でも、もし万が一……彼の手が私の腰に触れて、赤い瞳が近くで私を映してくれたら。

想像しただけで、胸がきゅっと甘く締めつけられる。


**


そして、運命のくじ引き。

名前を呼ばれるたびに、ホールの空気が変わる。

私の手の中の紙片には、番号が書かれていた。

自分の番号を確かめながら、私はそっと顔を上げた。


「二十三番——イリヤ・クロウリー」


静寂が一瞬広がった。


「二十三番……」


小さな声で繰り返して、手元の紙片を見た。

二十三番。

心臓が、信じられないほど大きく跳ねた。


ふらつく視線でイリヤくんを探すと、彼はすでにこちらを見ていた。

赤い瞳が、まっすぐ私を捉えている。


彼はただ静かに歩み寄ってきて、無言で片手を差し出した。


「……よろしく」


それだけだった。

短くて、感情のない声。でも、私の耳にはその一言だけがはっきりと届いた。


その瞬間、ホールのざわめきが一気に弾けた。


「えっ、ルリちゃんが!?」「うそでしょう……!」


ざわめきの中にシーラさんがいた。

彼女の表情が、ほんの一瞬——笑顔のまま、凍りついたのを私は見た。

瞬きひとつで、もとの優雅な微笑みに戻ったけれど。


私は呆然と立ち尽くして、震える指先でイリヤくんの手を取った。


「……はい。よろしくお願いします」


イリヤくんの手は、温かかった。

私の片思いは、ほんの少しだけ次のページに進んだ気がした。


今日、私はイリヤくんと踊れる。

彼の手を取って、同じ音楽に合わせて、ステップを踏める。それだけでもう、十分すぎるほど幸せ。


**


学院のグランドホールは、夜の帳が下りると別世界に変わっていた。

魔法の燭台がいくつも宙を漂い、淡い光の粒が雪のように舞う。弦楽器の調べが流れ始め、ドレス姿の生徒たちがパートナーと手を取り合ってフロアに並んだ。


私は、イリヤくんの隣に立つ。手が触れ合うだけで心臓が暴れそう。


(大丈夫。あれだけ、練習したんだからできる)


何度も言い聞かせた。

レイラのスパルタ特訓、朝から何十回と繰り返したステップ、頭の中では完璧に動いている。


——でも。

曲が始まった瞬間、体が石になった。


(……どうしよう、動けない)


最初の一歩が出ない。

視界が狭くなる。頰から血の気が引いていく。

イリヤくんの手がそっと腰に触れて、体が引き寄せられた。


それでも足が言うことを聞かなくて——踏み出した瞬間、彼の足を踏んだ。


「……っ、ごめんなさい」

「構わない」


短く、でも静かに返ってきた。

もう一度、踏み出す。また踏んだ。


「ご、ごめんなさい……!」

「気にするな」


三度目も、踏んだ。


「……本当に、申し訳——」

「ルリシア・クリスティーノ」


静かな声が遮った。

はっとして顔を上げると、赤い瞳がすぐそこにあった。


「君は、本も燃やしたことがあるか」

「……え?」

「魔法の暴発で。栞ごと」


唐突すぎる問いに、思考が追いつかなくて——反射的に答えていた。


「あるよ……一度だけ。ちょうど一巻の終わりのところで。すごく悲しかった」

「一巻の終わりか」

「続きが気になるところで止まってたの。でも本が燃えちゃったから、あらすじを先に調べてしまって……。後から新しいのを買ったんだけど、もう最初のドキドキには戻れなくて」


言いながら、自分でも不思議だった。

さっきまであんなに緊張していたのに。


「それは損をした読み方だ」

「そうなの! やっぱり調べなければ——」


はっと気づいた。

ちゃんと、踊れている。足が自然と動いて、強張っていた肩が、いつのまにか下りている。


(……イリヤくん、もしかして私のために?)


顔が熱くなった。

彼はそれについては何も言わず、ただ前を向いたまま続けてくれた。


「好きな作家はいるか?」

「……翻訳ものなんだけど、マイナーすぎて誰も知らなくて」

「名前は」


作家名を言うと、イリヤくんは少し間を置いた。


「……知っている」

「え、本当に?」


思わず声が上がって、周りの視線が集まった。

でも今は関係なかった。


「第三部の結末、どう思った? あの終わり方、賛否あるから……」

「悪くはない。ただ二部の伏線を回収しきれていない」

「そうなの! あの鏡の描写、絶対もっと意味があると思ってたのに……!」


気づいたら笑っていた。演技じゃない。

誰かに見せるための笑顔でもなく、ただ、嬉しくて——自然にこぼれた笑顔だった。


イリヤくんが、一瞬だけ私を見た。

何かを言おうとして——でも、何も言わなかった。

ただ、静かに視線を前に戻した。


最後の音が消えて、ホールに拍手が沸き起こった。余韻の中で、私はようやく息を吐いた。


頰が熱い。でも、さっきとは違う熱さ——ずっと楽しかったから。


「イリヤくん……ありがとう。本の話、嬉しかった」


彼は短く頷いた。

そして、静かに口を開く。


「……そのままでいい」

「……え?」

「笑顔のことだ」


それだけ言って、踵を返した。

人の流れの中へ、静かに歩いていく背中。

数歩進んで——イリヤくんは、ほんの一瞬だけ振り返った。


何も言わなかったけど、ただ視線だけが私に触れて、すぐに離れた。

私は胸に手を当てたまま、その背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


(イリヤくん……)


まだ片思いのまま。届いているかどうかなんてわからない。でも今日、私は演じずに笑えた。

そして彼は、それを「いい」と言ってくれた。

それだけで、私の世界はまた少し、輝きを増した。


ダンスホールの出口に向かうと、シーラさんとその友人たちが私の方を見ながらひそひそと囁き合っている。


鋭い視線が、真っ直ぐ私を射抜いたけど、私は気にしないようにその場を離れた。

でも、その突き刺さるような視線が、甘い余韻の裏で、胸に小さな棘として残った。

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