第15話 忍び寄る影
講堂に集められた学院生たちの前に立っていたのは、ルディナ・ヴォルテール。
いつもと変わらない凛とした佇まい。ざわつく生徒たちを一瞥し、ルディナは口を開いた。
「静粛に。緊急の事態だ」
その一言で、講堂が静まり返った。
「エルウィン様の高位防御結界が届かない王都周辺の地域で、女性が意識を乗っ取られる事案が多発している。すでに王宮魔導士と騎士を増派したため、王都内の警備が手薄になっている」
生徒たちの間に、緊張が走った。
「現在、慌ただしい気配を察した住民たちが不安を募らせており、各所で混乱が起きている状態だ。中には、他者へ暴力を振るう者まで出始めた」
ルディナは一拍置き、声を強めた。
「クロヴィス殿下は、全住民へ向けて防壁区画に避難を宣言された。闇の君主が完全に目覚めれば、エルウィン様の結界をもってしても防ぎきれない可能性がある。だからこそ、その前に避難を完了させる」
ルリシアの青い瞳が揺れた。
――意識を乗っ取られる。
あの森で見た、虚ろな瞳の孤児院の女の子たちが脳裏に蘇る。黒いモヤに操られ、斧を振り下ろしてきた少女たち――あの恐怖が、今度は王都の住民に起きようとしている。
「残っている諸君には、住民の避難誘導と監視を手伝ってもらいたい。乗っ取りの兆候を見せる者がいれば、速やかに報告すること。魔導士と剣士はペアで行動するように。決して単独で対処しようとするな」
ルディナの視線が、ルリシアに一瞬留まった。
「ルリシア。あなたには特に期待している」
「……はい」
ルリシアは指輪をそっと握りしめ、頷いた。
「では、各自配置につけ。急げ」
学院生たちが一斉に動き始める。
「行きましょう、ルリ」
「うん、レイラ」
ルリシアとレイラは互いの視線を交わして、街中へと駆け出した。
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王都の一角、緑に囲まれた別荘宅。
「ソフィア様!」
ヴェルモント家の騎士が、血相を変えて室内に駆け込んできた。
ソフィアは窓辺で読書をしていた手を止め、慌ただしい様子の騎士を見上げた。
「どうしたの? そんなに慌てて……」
「避難指示が出されました。早急に移動を」
ソフィアの表情が、わずかに強張った。
「……何ですって……?」
騎士の硬い表情に、ソフィアは本を静かに閉じた。窓の外を見ると、いつもと変わらない昼の街並みの奥に、かすかな喧騒が漂い始めていた。
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王都の正門前。
門番が二名、困り果てた顔で立ち尽くしていた。その前に、小さな子どもを抱えた母親が必死に縋りついている。
周辺の町から逃げてきたらしく、衣服は土埃にまみれ、息が上がっていた。
「お願いします! 中に入れてください……!」
「今は状況が状況だ。避難指示が出ている。外部からの立ち入りは――」
「夫が、夫が王都にいるんです! どうか、お願いします……!」
母親は一歩も引かない。母親の焦りに呼応するように腕の中の子どもは、火がついたように泣き続けている。やっと歩けるくらいの、まだ一歳ほどの幼子だ。
二人の門番が顔を見合わせ、困り果てる。騒ぎを聞きつけ、王宮騎士が一人やってきた。
「どうした。何の騒ぎだ?」
「周辺の町から逃げてきた母子です。夫が王都にいると……」
王宮騎士は母親と泣き続ける子どもをしばらく見つめた。母親の瞳に乗っ取りの兆候はない。子どもも、ただ泣いているだけの幼子だ。
「……通せ。子連れを締め出すわけにはいかない」
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
母親は深々と頭を下げ、子どもを抱きしめたまま王都の中へと走り出した。
門の扉が閉まる音が響く――泣き続けていた子どもが、ぴたりと泣き止んだ。
母親の肩越しに揺れる小さな顔。その瞳には幼子とは思えぬ、深い影が落ちていた。
――だが、その影に気付く者はいない。
小さな瞳が王都の外観をじっと捉えていた。
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戦場の野営地。
イリヤがゆっくりと目を開けた。霞む視界に、見慣れた顔が映る。
「……どのくらい寝ていた?」
「まだ、ほんの三十分だ」
ジルケットが安堵の息を漏らしてから、傍らに腰を下ろす。
イリヤは身を起こした。左肩に手を当てると傷は塞がり、痛みは引いていた。
「――状況は?」
「エリックともう一人を除いて、学院生に大きな怪我はない。だが、これ以上の戦闘継続は不可能と判断した。周辺警備に下げる。負傷者には王都への帰還命令を出した」
ジルケットはイリヤを見据えた。
「ここから先は、お前と俺たちで向かう」
イリヤは頷き、ゆっくりと立ち上がると、ジルケットがその左肩を一瞥して不思議そうに眉を寄せる。
「傷、もう完全に塞がってるな。これも加護の力か?」
「ああ。致命傷を負わなければ、俺は死なない」
「……致命傷、ねぇ」
ジルケットは小さく息を吐き、立ち上がりながら腕を組んだ。
「それは不死身ってわけじゃないってことだろ。……ったく、無理すんなよ。お前にもしものことがあったら、ルリに顔向けできない」
「わかっている」
ジルケットは「頼むぞ」とイリヤの肩に手を置き、騎士団の元へと向かっていった。
イリヤは左手の薬指に嵌る指輪に視線を落とす。
頭に浮かぶのは、頰を染めて笑う青い瞳の少女。石が伝えてくる温もりに、自然と口元の力が抜けていった。
出発の準備が整う中、エリックが仲間に支えられながら、イリヤのもとへやってきた。
「悪いな……ちっとも役に立てなかった」
イリヤは首を振った。
「お前が大怪我を負ったのは、率先して前に出たからだろう。仲間を守ろうとしたんだ。恥じなくていい」
「……イリヤ」
「いつもやかましいが、お前の度胸は知っている」
エリックの目が、みるみる潤み出して身体が震えた。
「お前もなぁぁぁ! いい奴だって知ってるぞ……!」
感極まったエリックが、両手を広げてイリヤに抱きつこうとした。
だが、そのとき――肩に強烈な痛みが走り、その場にうずくまった。
「うぐっ……死ぬっ!」
「エリック!? 無理すんなよ!」
支えていた仲間の学生騎士が、慌てて声をかけた。その様子を横目にライルが進み出た。
「僕は、まだ着いて行きますよ」
ジルケットが困ったように眉を寄せる。
「お前の実力は知ってる。だが……ここから先は、何が起こるか分からない」
「覚悟してます」
イリヤがライルを見据えた。
「魔力、ほとんど残っていないだろう」
その指摘に、ライルがぎくりと肩を揺らした。
「だ、大丈夫です。すぐに回復します! ルリシアさんの代わりに、イリヤさんを連れて帰るって――」
「今は皆を連れて帰ってくれ。お前が守れ」
イリヤの真っ直ぐな赤い瞳に、ライルは言葉を失った。やがて、唇を噛んで頷く。
「……わかりました。必ず、全員無事に連れ帰ります」
**
負傷者たちを見送り、イリヤとジルケットたちは森の奥へと歩き出した。黒いモヤがいっそう濃くなっていく。封印の場所が近い。
しばらく無言で歩いた後、ジルケットがぽつりと言った。
「お前、本当に変わったな」
「別に変わってない」
「……そうかよ」
ジルケットは小さく笑った。
――確かに、こいつの信念はずっと前から変わっていない。変わったのは、それを表に出すようになったことだな。
そう思うと、自然とジルケットの口元が緩み、にやけが抑えられなくなる。
「やっぱり、ルリの前では甘えるのか?」
「……は? 『やっぱり』とは何だ?」
「いいから、教えろよ。殿下がルリのおかげでお前が柔らかくなったって言ってた」
「…………」
イリヤは無言で足の速度を早めた。
「無視すんな〜。答えないってことは、肯定と受け取るからなぁ」
「黙れっ!」
ジルケットが声を上げて笑った。その笑い声が、重い空気をわずかに払う。
黒いモヤの奥で、何かが静かに目を覚まそうとしていた。




