第13話 守るための戦い
「失礼します」
ノックをしてから、応接間の扉を開けると、革張りのソファに腰掛けた男が顔を上げた。
灰色の髪に、鋭い赤い瞳。威圧的な空気が部屋全体を支配していた。イリヤと同じ赤い瞳なのに、そこには温かさのかけらもない。
ルリシアは、丁寧に頭を下げた。
「座れ」
伯爵の声が冷たく響く。ルリシアは向かいのソファに腰を下ろした。背筋を伸ばして、視線を真っ直ぐに向ける。
伯爵はしばらくルリシアを無言で見つめた。値踏みするような視線。やがて、手に持っていたグラスをゆっくりとテーブルに置いた。
「単刀直入に聞く。いくらが望みだ」
その言葉に、ルリシアは息を呑んだ。
金銭で買収しようとする、露骨な侮辱だった。胸の奥で何かが静かに燃え上がる。それでも、ルリシアは表情を動かさなかった。
「……お金など、望みません」
青い瞳が、まっすぐに伯爵を見据えた。
「私はイリヤを愛しています。それだけです」
伯爵は鼻で笑い、腕を組んで睨むような視線でルリシアを捉える。
「愛だと……? あいつの容姿に惹かれて、立場も弁えずに近づいてくる者など掃いて捨てるほどいる。貴族の血筋に関わろうとする平民の娘が、どれほどいると思っている」
ルリシアは唇を引き結んだ。
「イリヤにはすでに婚約の話が進んでいる。相手は侯爵家の令嬢だ。お前のような者が関わる余地はない。身を引け。金で解決するなら幾らでも出す。学院を辞めて、遠くへ行け」
――婚約。
その言葉が、胸の奥に鋭く刺さった。
イリヤが「話したいことがある」と言いかけていたこと、その先に何があるか――心のどこかで感じていた。
だが、今この瞬間に伯爵の口から聞かされると、やはり息が詰まった。
無意識に右手が左手の指輪に触れ、ほんのりと温かさを感じる。
――ずっとそばに居る。
イリヤの声が、耳の奥で蘇る。
ルリシアは一度だけ深く息を吸い、顔を上げた。
「伯爵様」
声は震えていなかった。
「イリヤは、あなたのおっしゃるような飾り物ではありません。彼は自分の意志で剣を握り、自分の力で未来を切り開こうとしている人です」
伯爵の鋭い目がより細まる。それでも、ルリシアは続けた。
「婚約のことは、今初めて知りました。でも――」
青い瞳に、静かな炎が灯る。
「イリヤがその婚約を望むなら、私は身を引きます。だけど、そうでないのなら私はイリヤの言葉を待ちます。彼はあなたの都合の良い道具ではありません。申し訳ありませんが、伯爵様の命令には従えません」
「生意気な」
伯爵がゆっくりと立ち上がった。威圧的な視線がルリシアを射抜く。
「平民風情が口を出すな。イリヤは家系の誇りを守るために存在する。それが貴族の務めだ。お前の戯言など、聞く価値もない。失せろ。見ているだけで不快だ」
ルリシアは立ち上がる。膝がわずかに震えていた。それでも、背筋を伸ばしたまま、伯爵を真っ直ぐに見つめた。
「イリヤが帰ってきたら、二人で話します」
深く頭を下げ、応接間を出ると、扉が閉まる音が背中で響いた。
廊下に出た瞬間、壁に手をついた。
膝が笑って、息が上手く吸えない。目の奥が熱くて、視界がにじんだ。
婚約。侯爵家の令嬢。
(イリヤ……)
左手の指輪がじんわりと温かくなった。規則正しい鼓動が、かすかに伝わってくる。遠い戦場から、確かに届く温もり。
ルリシアは目を閉じ、その鼓動を全身で受け止めた。
(……信じてる)
涙を一粒だけ指先で拭った。それから顔を上げて廊下の先を見据えた。
王都には、自分にしかできないことがある。ルディナがそう言っていた。
イリヤが戻ってくる場所を守ること――それが今の自分の戦いだ。
ルリシアは壁から手を離し、歩き出した。
**
空の端が赤く燃え、分厚い雲が地平線を覆い、山脈の稜線を血のように染め上げている。風が吹くたびに枯れた草が波打ち、砂埃が低く舞い上がった。水気を失った大地には岩が転がり、まばらに立つ枯れ木が黒い枝を空へ伸ばしている。
森の入り口はすぐそこだ。
木々の間から黒いモヤが滲み出し、地面を這うように荒野へと広がっている。生き物の気配は無く、風の音だけが、この場所に何かが潜んでいることを告げていた。
偵察兵が駆け戻ってきた。
「鋼角獣、四頭確認。森の縁から出てきます!」
地響きが迫った。
黒い霧を纏った四頭の巨体が、砂埃を巻き上げて荒野を疾駆してくる。頭部・胴体・足を覆う鋼のような硬い装甲が、赤く沈む夕陽を鈍く反射していた。
ジルケットが即座に前に出た。
「騎士団は二列縦隊で正面を押さえろ! 魔導士への突進ルートを塞げ! 魔導士は三班に分かれ――水班は足元、風班は頭上、地班は後方に防御壁! ライル、お前は炎の準備をしておけ。俺の合図で装甲を焼く!」
指示が飛ぶと同時に、全員が動き出した。
先頭の一頭が盾壁を無視して魔導士へ突進してきた。
「――水!」
水魔法が地面に流れ込む。みるみるうちに土が水を含み、黒い泥濘が広がった。鋼角獣の前脚が沈み込み、突進の勢いが殺される。
「――風、頭上から!」
渦を巻く竜巻が鋼角獣の視界を砂埃で塗り潰し、巨体をよろめかせた。首を振りながらもがく。
「ライル!」
「お任せあれっ!」
ライルが両手に炎を灯す。眼鏡の奥の目が、鋼角獣の頭部を冷静に見据えている。
「装甲、軟化します!」
炎が頭部へ集中した。高温の熱が鋼装甲を赤く染め、じわりと溶け始める。金属が軟化し、表面に歪みが走った。
イリヤはすでに踏み込んでいる。
軟化した鋼装甲の隙間へ、剣を正確に突き立てる。
――鋼角獣が地響きを立てて倒れた。
「止まるな、二頭目が来るぞ! 地班、壁を前へ出せ! 騎士団はその後ろに回れ!」
ジルケットの声が飛ぶ。地の防御壁が騎士団の前に立ち上がり、二頭目の突進を受け止めた。壁に阻まれた鋼角獣が頭を振り、突破口を探してもがく。
「水班、足を止めろ。風班は視界を塞げ。ライル、焼け!」
泥濘が広がり、竜巻が舞い、ライルの炎が頭部と足元の装甲を真っ赤に歪ませた。
ジルケットが正面から頭部に剣を叩きつけ、動きを封じる。
「イリヤ、仕留めろ!」
イリヤが滑り込み、軟化した足元を断ち切る。
二頭目が崩れ落ちた。
「よし、三頭目に集中しろ。陣形を崩――」
後方で悲鳴が上がった。騎士の声が飛ぶ。
「鋼角獣だ! 別働で回り込んでいる!」
ジルケットの表情が一瞬で変わった。
隠れていた五頭目だ。後方偵察班の学生騎士たちの陣を襲っている。
「くそっ、随分と頭が回るな!」
ジルケットが三頭目を斬り付けながら体を翻そうするより早くイリヤが動いた。
「俺が行く」
短く告げると、イリヤは荒野を駆け出した。
「イリヤさん! 僕も行きます!」
ライルが後を追った。
エリックが血まみれの肩を押さえ、地面に倒れていた。隣の学生騎士も脇腹を抉られて動けない。イリヤはエリックたちの前に立つと、五頭目に剣先を向ける。
エリックが掠れた声を絞り出した。
「イリヤ……構うな! お前は前線を……俺たちなんか……!」
イリヤは首を振った。
「誰も見捨てない」
迷いのない声。赤い瞳に揺るぎない光が宿っている。
五頭目が角を低く構えて迫る。イリヤは紙一重でかわし、側面へ回り込んだ。
ライルの炎が後脚に纏わりつくと、膝が歪んで動きが鈍った。
イリヤが踏み込み首筋の隙間へ、剣を突き入れる。
五頭目が落ち、静寂が戦場に戻った。
ライルが安堵の息を吐き、辺りを見渡した。
「エリックさん!」
ライルが血相を変えて駆け出した。地面に倒れたエリックのもとへ、一目散に向かう。
「しっかりしてください! 今、止血します」
「ライル……俺は大丈夫だ。それより……」
「喋らないでください!」
ライルが布を引き裂き、エリックの肩の傷に押し当てた。
その背中が、完全に無防備になったその直後――地面の黒いモヤが、ぞわりと蠢いた。
茂みの奥から、荒い息遣いが響いた。
身を潜めていた六頭目の真っ黒な鋼角獣が、ライルの背後から音もなく迫った。巨体が跳躍し、角がライルを狙って振り下ろされる。
「ライル、伏せろ!!」
イリヤは叫ぶと同時に、即座に地面を蹴り上げた。
ガキィィッ――鈍い音が荒野を震わせた。
イリヤがライルの前に滑り込み、剣で角を受け止める。
――だが。
ほか五頭とは異なる力がこの六頭目にはあった。受け止めるには衝撃が強すぎた。
防ぎきれなかった角の端が、左肩から胸にかけて深く切り裂く。
「ぐっ……!」
血が噴き出す。膝が折れても、剣を握る手は離さない。赤い瞳が六頭目を見据え――微動だにしない。
「イリヤさん!!」
ライルが青ざめた顔で叫んだ。
イリヤの視線の先が歪むと――左手の指輪が、激しく震えた。
**
学院の教室でルリシアは突然、椅子を倒しながら身体を起こした。
指輪から伝わるイリヤの鼓動が、激しく乱れていた。さっきまでの力強い拍動が、今は荒く、苦しげに脈打っている。
「……イリヤ?」
青い瞳が揺れ、左手を強く握りしめて胸元に当てる。指輪の石が熱く、不規則に光り続けていた。




