第12話 帰る場所
学院の訓練場に、木刀が風を切る乾いた音が連続して響いていた。
ルリシアは息を乱しながらも、構えを崩さない。汗が額を伝い、顎の先から滴り落ちる。足元がわずかに震えていたが、彼女は歯を食いしばって踏ん張った。
「ルリ、少し休みましょう」
レイラが木刀を下ろし、真剣な目でルリシアを見つめた。
「大丈夫……もう少しだけ……」
「大丈夫じゃないわ。もう二時間よ」
ルリシアは構えを取り直し、足を踏み込んだ。レイラは小さくため息をつきながらも、木刀を構え直した。打ち合いが再開されるたび、ルリシアの頭の中から余計な雑念が削ぎ落とされていく。
イリヤの出発は、明日。
一緒に戦場へ行けないもどかしさを、ただひたすら木刀にぶつける。汗と痛みで何も考えなくなりたかった。目の前のレイラの木刀だけに集中していれば、余計なことを考えずに済む。
やがてレイラが踏み込みを止め、木刀を下ろした。
「今日はここまで!」
「あと、少しだけ――」
「だめっ! 魔導士が身体を酷使しすぎると壊れる。あなたが倒れたら、明日出発するイリヤにどんな影響があるか……わかるでしょ?」
その名が出た瞬間、ルリシアの構えが崩れた。木刀を持つ手から、するりと力が抜け落ちる。
「……うん」
レイラはルリシアの肩にそっと手を置き、優しく微笑んだ。
「明日も付き合うわ。明後日も。だから今日はもう休みましょう」
「うん……ごめんね。ありがとう、レイラ」
レイラはルリシアを優しく抱きしめ、背中をゆっくりと撫でた。
**
訓練場を後にし、女子寮へと続く廊下を二人は並んで歩いた。
「ルリ、先生に呼ばれてるの。一人で部屋に戻れる?」
「うん、大丈夫。またね」
レイラが角を曲がって見えなくなったところで、ルリシアは階段を上り始めた。
途中まで上がったところで、ふっと視界が揺れた。
――身体を酷使した反動が、一気に襲ってきた。
「あっ……」
足が階段の縁を踏み外す。身体が傾いたその瞬間、力強い腕が彼女を抱き留めた。
気づけば、宙に浮いていた。
「……また無理したのか?」
見上げると、赤い瞳が真っ直ぐに自分を見下ろしていた。
「イリヤ……? どうしてここに……」
「ルリに会いに来た」
イリヤはそれだけ言うと、ルリシアを抱えたまま歩き出した。
「あの、下ろして……誰かに見られたら恥ずかしいよ」
「手を離すとまた無理をするだろ。駄目だ」
「もうしないから……歩けるよ」
「まだ足が震えている」
ルリシアは反論できず、おとなしく彼の胸に身を預けた。夕陽に染まる廊下を運ばれていく感覚は、どこか夢のように甘く、切なかった。
**
イリヤは慣れた足取りで廊下を進み、やがて一つの扉の前で立ち止まった。鍵を取り出し、静かに開ける。
ルリシアは目を瞬かせた。
そこは学院内とは思えない、落ち着いた空間だった。
深みのある栗色の書棚に革張りのソファ、厚手のカーテンと上質な絨毯。壁には古い油絵が掛けられ、貴族の私室のようなに静かで品の良い執務室だった。
イリヤはルリシアをソファにそっと下ろし、隣に腰を下ろした。
「……ここ、何の部屋?」
「首席に与えられる専用執務室だ」
ルリシアは少し考えてから、眉を下げた。
「……私、一度だけ首席になったことあるけど、こんな部屋はもらえなかった」
「この部屋を与えられるのは、首席の中でも子爵以上の貴族だけだ」
イリヤは静かに続けた。
「俺は今まで一度も使ったことはなかった。貴族だけが優遇される制度が、どうしても気に入らなかったからな。図書室や寮の自室で十分だった」
そこで言葉を切り、彼はルリシアの頰にそっと触れた。
「だが、ルリと二人で使うなら……いいと思った」
ルリシアの表情がわずかに曇った。胸の奥がざわつく。貴族と平民という、越えがたい壁を改めて突きつけられた気がした。
イリヤはその変化を敏感に察し、穏やかな声で言った。
「クロヴィス殿下の政策で、実力主義が少しずつ根付き始めている。それでも、古いしきたりはまだ強く残っているのも事実だ」
一拍置き、彼は真っ直ぐにルリシアを見つめた。
「お前と二人でなら、その壁を乗り越えていける」
「イリヤ……」
名前を呼ぶと同時に、イリヤの腕が彼女を優しく引き寄せた。
「だから、無茶をするな。お前が倒れたり、怪我をしたりしたら……俺の帰る場所がなくなる」
ルリシアの胸の奥で、何かが決壊した。
「……ごめんなさい。もう無茶しない……しないから……必ず、帰ってきてね」
言葉の代わりに、イリヤの腕に力がこもった。
ルリシアは彼の胸に顔を埋め、堪えていたものがゆっくりと溢れ出した。小さく肩を震わせ、縋るように泣いた。
どれくらい時間が経っただろう。
ルリシアが弱々しくイリヤの胸を押した。
「……イリヤの制服、また汚しちゃった」
言いながら、涙で濡れたイリヤの制服をハンカチでそっと拭き始める。
「ルリは泣き虫だからな。防水加工でも施しておくか」
「もう、泣かないもん!」
「……どうだか」
「意地悪っ!」
ふっと、二人の笑い声が重なった。
額を押し付け合い、互いの口元がほころぶ。泣いた後の潤んだ瞳でルリシアが笑う姿に、イリヤの表情も自然と柔らかくなった。
笑いが収まると、イリヤはルリシアの手をそっと握り、真剣な眼差しで切り出した。
「ルリに、話さないといけないことがある……だが……」
珍しく言葉が途切れた。話すことを躊躇する様子にルリシアは彼の赤い瞳を見つめ、胸の内で決意を固めた。
「いいよ。今は話さなくていい」
「ルリ……」
「イリヤが私に言いにくいことって……私を不安にさせたくないことでしょう?」
イリヤの瞳がわずかに揺れた。
「今はイリヤを信じて待ってる。帰ってきたら、ゆっくり聞くから……今はいいよ」
ルリシアは左手の小指をそっと差し出した。
「だから、約束」
イリヤは一瞬その指を見つめ、それから自分の小指をゆっくりと絡めた。
「ああ。約束だ」
指輪から、規則正しい力強い鼓動と離れていても繋がっていると教えてくれる温もりが互いに伝わる。夕陽の光の中で、二人の指輪の石が輝いた。
**
翌朝、学院の正門前に人が集まっていた。
出発する男子生徒たちが装備を整え、並んでいる。その中にイリヤの姿があった。騎士科の制服ではなく、実戦用の装備に身を包んだ姿は、いつもとは違う鋭さを纏っていた。
ライルが眼鏡を押し上げ、イリヤに近づいた。
「イリヤさん、闇の君主の魔力構造を読み解くためにしっかりと僕を守ってくださいね」
「お前は分析のために行くのか」
イリヤの眉間に皺が寄りライルを見下ろした。
そのイリヤの肩にエリックが手を置き、感慨深く笑った。
「まさか、初めての実戦経験がこんな大舞台になるとは……夜も眠れなかったぜ!」
「嘘をつくな、昨夜いびきがうるさくて寝れなかったと同室の奴がぼやいていた」
「え、バレてたの!?」
周囲から笑いが起きた。レイラが呆れたように腕を組み、ライルとエリックを一瞥する。
「まったく……二人とも、気を引き締めなさい。学院生は後方支援だとしても、戦場よ? 授業とは違うのよ。イリヤ、みんなを頼むわ。全員、無事に帰ってきなさい」
「ああ」
「ルリのことは、私がしっかり守るから安心して」
レイラの言葉に、イリヤは小さく頷いた。二人の間には、長い付き合いが生んだ信頼が確かにあった。
セナがルリシアの背中をそっと押した。
「みんな、行ってらっしゃい。イリヤくん、ルリのことは任せてください」
「頼む」
ルリシアはイリヤの前に立った。
言いたいことは山ほどあったけれど、今はどれも言葉にする必要がない気がした。
イリヤが先に口を開いた。
「待っていてくれ」
「うん」
「必ず戻る」
「約束。いってらっしゃい」
イリヤの大きな手が、ルリシアの頭にそっと触れ、髪を一度だけ優しく撫でた。
それから彼は踵を返し、隊列の先頭へと歩いていく。
ルリシアはレイラに肩を抱かれながら、その背中が見えなくなるまで、ただじっとその場に立っていた。
**
午後の授業が終わった頃、廊下でルリシアを呼び止めたのは担任教師だった。
「ルリシア、少しいいか」
普段は穏やかな先生の表情が、今日は硬かった。周囲の視線が一瞬、彼女に集まる。
「応接間に……クロウリー伯爵がお待ちだ」
心臓が、ぎゅっと締めつけられた。
ルリシアが左手の指輪をそっと握りしめると、かすかな温もりが、掌に伝わってくる。
「……わかりました」
嫌な予感しかしなかった。
呼び出される理由など、容易に想像できる。きっと、イリヤとの関係を断ち切らせるための呼び出しだ。
ルリシアは一度ぎゅっと目を閉じ、それからゆっくりと前を向いた。
その青い瞳には、もう揺らぐ弱さはなかった。




