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第11話 冷めた紅茶

 応接室で、向かい合って座る二人の間に、静かな緊張が流れている。

 ソフィアは膝の上で手を重ね、まっすぐにイリヤを見つめた。


「急に呼び出してごめんなさい。討伐に出ると聞いたから……その前に、どうしても話したかったの」

「俺も、君に話があった」


 イリヤは一瞬視線を落としてから、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。


「婚約の話、君はずっと知っていたんだな。俺は知らなかった……だが、それは言い訳にならない。知らぬ間に、君に対して誠実ではなかった。それを、伝えたかった」


 ソフィアの目がわずかに見開かれた。それから、柔らかな微笑みが浮かぶ。


「……謝りに来てくれたの?」

「ああ。すまない」

「理不尽だと怒ってもいいのに……本当に、イリヤらしいわね」


 ソフィアは小さく笑うと、膝の上の手をそっと重ね直した。


「あなたは婚約のことを知らなかった。だから直接、聞きたかったの。あなたの、本当の気持ちを」


 イリヤはしばらく沈黙した。やがて、赤い瞳をまっすぐに彼女に向けた。


「……君との婚約は、確かに有益だ。ヴェルモント侯爵家が管轄する北方水上交易路は、王国経済の要だ。クロウリー家の軍事力と結びつけば、交易路の安全と王宮への影響力を同時に手に入れられる。両家にとって、利のある話だ」


 彼はそこで一度息を吸い、続けた。


「それは理解している。だが――」


 赤い瞳が、ソフィアを真っ直ぐに捉えた。


「今、俺には守りたい人がいる」


 応接室に、重い静寂が落ちた。


「……ルリシア・クリスティーノさん?」


 イリヤの目がわずかに細まる。


「この間、噴水広場で見かけたの。少し、調べさせてもらったわ」


 ソフィアは視線を落としながら、言葉を紡いだ。


「四大魔法を扱う魔法科の優等生。素晴らしい才能の持ち主だと思う」


 一拍置いて、ゆっくりと顔を上げた。水色の瞳に、静かな痛みが滲む。


「だけど、彼女との交際をクロウリー伯爵が許すとは思えない。イリヤ、あなたはどうするつもりなの。……こんなこと言いたくないけれど、あなたが今まで築いてきたものを、そんな簡単に手放すの? あなたは――」


「ソフィア」


 揺るぎない声が彼女の言葉を断ち切った。

 イリヤの赤い瞳が、真っ直ぐに自分を見据えている。今まで一度も、伯爵の命令に背いたことなどなかったあのイリヤが、こんな目をするなんて。


「……そう」


 ソフィアは小さく息を吐いた。


「彼女は、あなたの心を動かした子なのね」


 どこか安堵していた自分がいた。あなたは変わらない。だから私が、変わらずそばに――そう信じていた自分が。


「あなたの気持ちはわかったわ。でもこの婚約は、私にはどうにもできない。お父様たちが認めない限り。それだけは、わかってちょうだい」


「ああ。わかっている」


 沈黙が、二人の間に落ちた。

 やがてソフィアは、ふっと表情を和らげた。


「……ルリシアさんって、どんな子なの?」


 イリヤは少し間を置き、それから語り始めた。


「泣いたり、笑ったり、忙しい。何事にも一生懸命で、努力を惜しまない。お人好しで、少し抜けている」


 話すうちに、彼の表情が自然と緩んでいく。自分でも気づいていないように、口元がわずかに上がっていた。

 視線がゆっくりと落ち、左手の薬指に触れる。指輪の石が伝えるかすかな温かさに、イリヤの瞳がさらに柔らかくなった。


「だが、いつも真っ直ぐに俺を見てくる。彼女に出会って初めて、俺は俺で良かったと思えた。だからこそ、手放したくない」


 ソフィアは目を見開いた。


 あのイリヤが。感情を抑え、何事にも動じなかったあのイリヤが、こんなにも迷いのない言葉を、こんなにも優しい表情で語るなんて。


 窓の外で、一羽の鳥が枝を離れて飛び立った。


 ソフィアはしばらく彼の顔を見つめ、それからゆっくりと視線を落とした。胸の奥に、小さな痛みがじわりと広がっていく。

 脳裏に、あの日の言葉が蘇った。


 ――ソフィアにしかできないことだ。誇っていい。


 あの時のイリヤの声が、今も耳の奥に残ってる。


「私があなたと一緒に学院へ行けていたなら、もしかしたら――」


 言いかけて、ソフィアは小さく微笑んだ。続きを口にする意味など、今さらなかった。



**



 応接室に、再び静寂が戻る。

 窓から差し込む陽の光がソフィアの頬を撫でる。彼女は椅子に腰を下ろしたまま、長い間動かなかった。


『だから直接、聞きたかったの。あなたの、本当の気持ちを』


 そう切り出したのは自分だった。王宮の回廊で、イリヤが婚約のことを知らないと悟った瞬間から、はっきりさせないといけないと、ずっと決めていたことだった。


 彼の答えは、予想していたものとは違っていた。違っていたのに――どこかで、こうなることを予感していたような気もする。彼の中に自分がいないことは、薄々わかっていたから。


「……私、馬鹿ね」


 ソフィアはゆっくりとカップに手を伸ばし、口元に運んだ。紅茶はすっかり冷めていた。


「……お嬢様」


 執事が静かに近づいた。


「新しいものをお淹れします」

「いいの」


 ソフィアはカップをそっと撫でる。


「温かかったはずなのに、冷めてしまったわ。……放置してしまったせいね」

「お嬢様……」


 執事はそれ以上、何も言えない。長年この家に仕えてきた彼は、ただ黙って主の横顔を見つめるしかなかった。


「彼が彼のままでいてくれたら、それだけで良かった。だから私は、何もしなかったの。でも、それでは駄目だと気付いた頃には、もう手遅れだった」


 水色の瞳が、窓の外の光を映す。その光の中に、先ほどのイリヤの柔らかな表情が重なった。


 ――彼女に出会って初めて、俺は俺で良かったと思えた。


 あのイリヤが、初めて見せた素顔。言葉を失ったのは、驚きだけではなかった。


 ただ、羨ましかった。


「お言葉ですが、お嬢様」


 執事が慎重に口を開くと、ソフィアは彼に顔を向けた。


「イリヤ様が簡単に婚約を破棄することは、叶いません。クロウリー家とヴェルモント家の結びつきは強固です。伯爵様が許すはずがございません」

「どうかしら」


 ソフィアは困ったように微笑んだ。冷めたカップを指先で軽く回しながら、再び、窓の外に視線を向ける。


「イリヤ自身が、それを上回る権力を持てば、話は変わるわ」

「権力、でございますか?」


「おそらく彼は……『王の執行者』の権力を手に入れようとしている。あの子のために」


 執事が息を呑む。


「イリヤの祖父であるラドルフ卿が、闇の君主封印の功績の褒賞として制定した権力の一つよ。ラドルフ卿が一人娘であるラヴィーネ様のために望んだもの。でもラヴィーネ様は、それを手に入れることはなかった」


 ソフィアは窓の外を見つめたまま、続けた。


「初めてイリヤは、伯爵様に刃向かおうとしている。自分自身の全てをかけて――だから、紙の上だけの結びつきなんて、意味はないわ」


 執事は深く頭を垂れ、それ以上の言葉を飲み込んだ。

 水色の瞳が光に反射し、細い指に包まれた冷めた紅茶が、小さく波打っていた。



**



 エメラルド魔導学院の講堂。

 王宮での会議から五日が経ち、出発の日が迫っていた。


 普段は授業や集会で賑わうこの場所が、今日は別の重さを帯びている。

 集められたのは騎士科と魔法科の男子生徒たち。顔ぶれはいつも通りだったが、誰もが微かな緊張を隠せずにいた。


 壇上に立つジルケットは腕を組み、深緑の瞳で全員を見渡した。いつもの陽気さは微塵もない。王国一の騎士としてそこに立っていた。


「聞いてくれ。単刀直入に言う」


 講堂がしんと静まり返った。


「闇の君主の封印が崩壊する。早ければ五日後だ」


 どこかで息を呑む音がした。


「各地で魔獣の暴走が相次いでいる。王宮騎士団と魔導士部隊だけでは手が足りない。だからお前たちに声をかけた」


 ジルケットは一人ひとりの顔を確かめるように視線を巡らせた。


「勘違いするな。これは命令じゃない。志願だ。怖いなら残っていい。恥じゃない。だが、来ると決めたなら覚悟を決めろ。生半可な気持ちで来られると、仲間の足を引っ張る。それだけは許されない」


 重い沈黙が続く。

 やがて、一人が手を挙げると、次にもう一人。さらにもう一人。それが波のように広がっていく。

 ジルケットはそれを見届け、小さく頷いた。


「ありがとう。お前たちの覚悟、確かに受け取った」


 その言葉で、講堂の空気がわずかに緩んだ。

 眼鏡の奥の目を真剣に光らせた魔法科の次席ライル・レントが、手を挙げたまま質問を投げた。


「魔法科は支援部隊としての配置になりますか?」

「ああ。詳細は追って伝える。柔軟に動ける準備をしておいてくれ」


 その時、講堂の扉が重く開いた。


「お話の途中、失礼いたします」


 教師の声が緊張を帯びて響いた。


「イリヤ・クロウリー。伯爵閣下がお見えです」


 イリヤの赤い瞳が鋭く細まり、肩が微かに強張った。

 クロウリー伯爵が堂々と入ってくる。威圧的な存在感が、講堂の空気を一瞬で圧した。彼はジルケットに向き直り、深々と頭を下げた。


「ジルケット殿。お忙しい中、息子がお世話になります。今回の任務、王国の安寧のため、よろしくお願いします」

「伯爵閣下、ご子息の活躍を期待しています」


 伯爵はイリヤに向き直った。低く、重い声が響く。


「イリヤ、今回の任務で恥をかくな。失敗など許さん。今年中に騎士認定試験を受けなかったことは、クロウリー家の名に傷をつけたも同然だ。実戦で挽回しろ。家系の誇りを忘れるな」


 イリヤは黙って聞いていた。その落ち着きが、かえって伯爵の苛立ちを煽った。


「全く、平民の小娘などに現を抜かしているからに――」

「今は任務の会議中です。関係のないことはお控えください、閣下」


 イリヤの声は冷たく、しかし冷静だ。講堂に緊張が走る。伯爵の瞳が怒りに燃えた。


「お前には先代を超えられまい。クロウリー家の先代は英雄だった。お前のような軟弱者が、どうしてその血を継ぐのだ。魔獣の餌食になる前に、せいぜい足掻け」


 伯爵が背を向け、去ろうとした瞬間――


「約束は必ず守っていただきます。覚えておいてください」


 明確な脅威を帯びたイリヤの声が、伯爵の背中に突き刺さった。

 伯爵は振り返らない。重い扉が閉まる音が、講堂に長く残響した。


 隣にいた友人のエリックが、ため息混じりにイリヤの肩に手を置く。


「相変わらず、お前の親父は手厳しいな……ヒヤヒヤしたぜ。一触即発かと思った……」


 ジルケットがイリヤに視線を向けたが、彼は何も答えない。ただ、父が出て行った扉を鋭く見つめ、剣の柄を握る手に力を込めていた。


 (必ず、成し遂げる。ルリとの未来のために)


 イリヤの胸の内で、静かな炎が燃えていた。

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