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第10話 話したいこと

 王宮内は、夜の静けさに包まれている。

 案内の騎士に連れられ、イリヤとルリシアが執務室の扉の前に立つと、中から穏やかな声が響いた。


「どうぞ」


 扉を開けると、広い室内に三人の姿があった。

 クロヴィス殿下が重厚な執務机の椅子に腰掛け、その隣にジルケットとルディナが並んでいる。


「来てくれたか」


 殿下の翡翠色の瞳が、二人を迎えた。イリヤが一礼すると、殿下はルリシアに視線を移し、口元を柔らかく緩めた。


「ルリシア嬢、風邪は治ったかい?」

「はい、おかげさまで。ご心配をおかけしました」

「それはよかった。……今日は大活躍したようではないか。騎士からの報告を聞いて驚いたよ」


 ルリシアは視線を少し落とした。頰がわずかに熱を持つ。


「いえ……イリヤがいてくれたおかげです」

「これから君は、ますます有名になるだろうから、イリヤも苦労するね」


 殿下の軽口に、ジルケットが「ほんとにな」と笑い、ルディナが小さく息を吐いた。イリヤの赤い瞳が細くなり、その口元がわずかに引き結ばれていた。


「ルリ、久しぶり。無事でよかった」


 ジルケットが気さくに声をかけると、ルリシアは「ジル、久しぶり」と笑顔を向けた。ルディナとも視線が合い、ルリシアは少し背筋を伸ばした。


「ルディナ様、お久しぶりです」

「無事だったようで何よりね」


 ルディナの声は相変わらず簡潔だったが、その目には確かな安堵が宿っていた。

 殿下が表情が引き締まる。翡翠色の瞳は、真剣そのもの。


「では、本題に入ろう」



**



 机の上に、小さな指輪が置かれた。

 殿下がそれをそっと手に取り、家紋を見て、翡翠色の瞳がわずかに揺れていた。


「……これは、ヴァルハン家の紋章だ」


 全員の視線が指輪の家紋に集まるなか、殿下は続けた。


「数十年前、闇の君主の討伐隊に参加した魔導士の中に、ヴァルハン家の女性がいた。封印後、消息を絶ったと記録にある」


 殿下の声は穏やかだったが、その奥に深い痛みが滲んでいた。


「今回の大樹の件により、数十年越しに見つかったわけだが……」


 ルリシアは唇を引き結んだ。あの地底の光景が、脳裏に蘇る。幹に取り込まれ、長い年月を闇の中で過ごしたあの人のことを。


「大樹を内側から浄化した際に、彼女の遺骸も灰となり、回収することは叶いませんでした。申し訳ありません」


 イリヤが静かに頭を下げると、ルリシアも隣で深く頭を垂れた。

 殿下はしばらく指輪をじっと見つめ、ゆっくりと目を閉じた。長い睫毛が影を落とす。


「……いや、ご苦労だった」


 しばらくの沈黙の後、殿下は指輪を机に戻して顔を上げた。


「イリヤ。ラドルフ・クロウリー卿の記録について話してくれるか。今回の件と照らし合わせて、全員に共有しておきたい」


 イリヤは一つ頷き、赤い瞳を真剣に室内に巡らせながら口を開いた。


「祖父の記録によれば、当時の討伐は四大属性による封印魔法を施し、剣にて核を封じることで完了した。しかし闇の君主の封印は完全ではないと、記されております」


 ルディナが眉を寄せ、鋭い視線をイリヤに向ける。


「完全ではない、というのは?」

「君主の意識の断片が残存する可能性を祖父は懸念していたようです」


 イリヤの言葉に、空気そのものが張りつめた。


「先程、殿下のお話にあった通り、当時の討伐メンバーである炎の魔導士、ヴァルハン家の女性は性別を隠して討伐に参加していた。彼女は封印後に性別が発覚し、精神を病んだ。祖父の記録には、討伐中に彼女の心の一部が闇に囚われた可能性がある、と」


 誰も口を開けず、重い緊張が張り詰める。


「封印された君主の意識の断片が彼女に移った場合、封印の綻びは外側からではなく、内側から生じる。祖父は数十年のうちに封印が薄れることを懸念していた」


 殿下が長い息を吐いた。指先が机の縁を軽く叩く。


「……つまり、今回地底で見つかったヴァルハン家の女性が、その綻びの一端を担っていた可能性があるということか」


 イリヤは殿下の視線を受け止め、小さく頷いた。


「大樹の根が封印の綻びを利用して地に根を張り、魔力を集めていたとするなら、辻褄が合います。浄火によって大樹が浄化されたことで、内側からの綻びは一時的に塞がれましたが――」


「封印そのものが完全ではない以上、時間の問題だ、ということだな?」


「はい、そうです」


 室内の空気が、一段と重くなる。


「ルディナ、現状を」


 殿下の指示にルディナが一歩前に出た。


「王宮魔導士部隊の観測では、封印の揺らぎが一週間前と比較して三割以上増加しています。現在、王都近郊だけでなく各地で黒いモヤの影響による魔獣の暴走が相次いでいます。討伐に人員を割かれ、封印の監視に充てられる魔導士が慢性的に不足しています」


「闇の君主が完全に目覚めるまでの猶予は?」


「最短で十日。もって二週間といったところです」


 室内に満ちる重い沈黙が、事の深刻さを物語る。


「圧倒的に人員が足りない。今の状態で闇の君主が目覚めたら、王都への侵攻を防げない」


 ジルケットが眉間に深い皺を刻んで口を開くと、賛同するように頷きながら、殿下の視線がイリヤとルリシアに向いた。


「ああ、そうだ。正規の騎士団と魔導士部隊だけでは、最前線を支えきれない。そこで――エメラルド魔導学院の生徒にも、招集をかける予定だ」


 ルリシアは息を呑んだ。


「学院生も……戦うのですか?」

「状況が状況だ。学院側とも調整を進めている」


 殿下の声に一切の迷いはなく、続けた。


「ただし、条件がある。闇の君主の波動は女性を引き寄せる性質を持つ。ラドルフ卿の記録と、今回の地底の件で決定的となった」


 殿下の翡翠色の瞳が、ルリシアを真っ直ぐ見据える。


「ルディナを含む全ての女性は、王都に残留してもらう。最前線には出さない」


 ルリシアはすぐには言葉が出なかった。女性が残留することへの異論はない。闇の君主の性質は、身をもって理解していた。


 ――でも。


「……イリヤは」


 声が、わずかに震えた。

 殿下はルリシアの問いを受け止め、一拍置いてから答えた。


「イリヤには、最前線への参加を依頼したい。学生という立場ではあるが……今回の討伐には実力者を揃えなくてはならない」


 ルリシアの胸の奥で、何かが冷たく締め付けられた。


「そんな……」


 思わず声が漏れた。横目でイリヤを見ると、彼はまっすぐ前を向き、頷いていた。

 まるで最初から覚悟を決めていたかのように、その瞳に迷いはなかった。


「闇の君主と直接対峙することになる。イリヤはラドルフ卿の血を継ぐ、唯一の子孫だ。危険を承知の上で、お願いしたい」


 殿下の声は穏やかだったが、その重さは誤魔化しようがなかった。


「イリヤが……最前線に」


 ルリシアは無意識に左手を握りしめた。指輪がほんのりと温かい。その温もりが、今はひどく切なかった。

 一緒に行けない。隣で守ることもできない。


「ルリ」


 イリヤの声が、静かに降ってきた。


「……うん……わかってる」


 ルリシアは顔を上げ、唇をきつく引き結んで、溢れそうな感情を必死に胸の内に押し込む。イリヤは自然に彼女の肩に腕を回し、優しく抱き寄せた。

 殿下は二人の様子を静かに見守り、それから視線を全員に向けた。


「詳細な作戦については、改めて召集する。今夜はここまでにしよう」


 ジルケットが腕を組み、ルリシアに向かって口を開いた。


「ルリ。イリヤのことは俺が守る。だから、そんなに心配するな」


 その言葉は、軽い口調の中に確かな重さが宿っていた。


「……うん」


 ルリシアは小さく頷いた。ルディナがルリシアに視線を向けて言った。


「王都に残る者にも、役割がある。ルリシア、一緒に王都を守りましょう」

「はい、ルディナ様」



**



 外へ出ると、辺りは真っ暗で空には星が広がっていた。夜風が頰を冷たく撫で、二人の足音だけが静かに石畳に響く。

 女子寮への道を、イリヤはルリシアの手をしっかりと引きながら歩いた。

 ルリシアは何も言えなかった。言葉を探しているのか、ただこの温もりを少しでも長く感じていたかったのか、自分でもわからなかった。


 寮の前に着くと、イリヤが足を止めた。


「ルリ」

「……うん」


 返事をした瞬間、イリヤの腕がルリシアをそっと引き寄せた。

 温かい腕に抱きしめられ、胸の奥で堪えていたものが、じわりと溢れ出して目頭が熱くなる。


「……イリヤ」

「大丈夫だ」


 変わらない落ち着いた声。それでも、背中に回された腕に込められた力は、強い決意を伝えてくる。


「俺たちはずっと一緒だ。指輪に誓う」


 ルリシアが目を閉じると、指輪がほんのりと温かくなる。

 やがてイリヤがゆっくりと身を引き、ルリシアの顔を覗き込んだ。


 唇が触れ合い、離れるまでのわずかな時間が永遠のように感じられた。


「おやすみ、ルリ」

「……おやすみ、イリヤ」


 女子寮の扉が閉まるまで、イリヤは彼女の背中を見送っていた。



**



 王都の一角、緑の生け垣に囲まれた静かな別荘宅。昼の陽光が木々の葉を透かし、鳥のさえずりがのどかに響いている。


 扉が叩かれると、すぐに執事が姿を現した。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 薄いレースのカーテン越しに柔らかな昼の光が差し込む応接室。

 窓際の椅子に腰かけたこの別荘の主、ソフィア・ヴェルモントが、白磁のカップをそっと口元から離した。


「お嬢様、お見えになられました」


 執事の声に、ソフィアはカップをゆっくり置いた。水色の瞳がまっすぐに向けられる。


「大変な時にお呼びだてしてごめんなさい。どうしても会いたかったの」


 パタンと、扉が閉まる。


「イリヤ」


 ソフィアの声が、静寂の中に落ちた。赤い瞳と視線が絡み合い、互いの胸にさまざまな想いが渦巻く。


「俺も話がしたかった。ソフィア」

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