第9話 絆の響き
茜色の光が、石畳の街路を染め上げていた。空の端に残る淡い紫が、夜の訪れを静かに予感させている。
エンチャント・ジェムズの重い扉が開かれると、カウンターで帳面を整えていた婦人が顔を上げ、目を丸くした。
「まあ……お二人とも、いったい……どうされましたか?」
泥は落としてきたものの、衣服に残る染みや深い皺、そして何より顔に浮かぶ疲労の色までは隠せなかった。二人は今朝とは明らかに違う身なりだった。
「……色々ありまして」
ルリシアは苦笑いを浮かべ、小さく肩をすくめた。頰にまだ薄く残る汚れを、イリヤが無言でハンカチで優しく拭い取る。
「ありがとう」
「ああ」
婦人は見つめ合う二人をしばらく見比べ、それからふっと表情を和らげ、温かな微笑みを浮かべた。
「お怪我はございませんか?」
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
ルリシアが丁寧に頭を下げると、婦人は「それならよかった」と安堵の息を漏らし、奥に向かって声をかけた。
すぐに職人が姿を現した。革のエプロンを外し、逞しい腕を組み、二人の姿を一瞥する。何も言わずにカウンターへ小さな箱を置くと、蓋をそっと開けた。
二つの指輪が、柔らかな照明の下に静かに並んでいた。
細身の銀のリングに、ライアスの結晶石がそれぞれ一粒ずつ、丁寧に埋め込まれている。石の内側から淡い、澄んだ光がほんのりと滲み出ていた。濁りのない清らかな輝き――まるで二人の絆そのものを映しているかのようだった。
「……綺麗」
ルリシアは思わず息を詰め、瞳を輝かせた。さっきまでの疲労が、瞬く間に溶けていくような感覚に包まれた。
職人は鼻を一つ鳴らし、腕を組み直した。
「加工しながら何度も確認したが、どの角度から光を当てても濁りが出ない。石の輝きを殺さんよう、慎重に削った」
「本当に……ありがとうございます」
ルリシアが深く頭を下げると、職人はぶっきらぼうに「いい仕事をした」とだけ返した。しかしその口元には、わずかに柔らかな笑みが浮かんでいた。
婦人がそっと言葉を添える。
「こちらの石、魔法をかける際に一切反発がございませんでした。ご希望通り、『絆の響き』を施しております」
二人は顔を上げた。
「絆の響きは、触れると互いの心拍を感じられるものです。離れていても、繋がっている感覚を得られます。そして、お二人が互いを思いやるほど、指輪は温かくなります」
ルリシアは箱の中の指輪をじっと見つめた。淡く光る石が、今はまるで生きているように感じられた。
イリヤが自然な動作でルリシアの肩に手を添え、二人は並んで指輪を覗き込んだ。
その様子を見ていた婦人が、カウンター越しに柔らかく微笑む。
「……もしかして、婚約指輪でございますか?」
何気ない、問いかけだった。
「ち、違います……! まだ、そんなんじゃ……!」
ルリシアの顔が一瞬で真っ赤に染まった。慌てて首を横に振りながらも、唇の端がどうしても緩み、嬉しさが隠しきれていない。瞳は恥ずかしさと喜びで潤み、耳の先まで赤くなっていた。
婦人は上品にくすくすと笑い、それ以上は何も言わなかった。
その隣で、イリヤは口を固く横に結んだまま、表情を強張らせていた。「婚約」という言葉が胸の奥底に重く沈み、ソフィアの穏やかな声が回廊の空気ごと蘇る。
――私たちの婚約の話。
イリヤは表情を固くしたまま動かない。ルリシアは彼の様子に気づき、眉を寄せて心配そうに声をかけた。
「イリヤ、どうしたの? 大丈夫?」
その切実で優しい声に、イリヤははっと我に返った。
「大丈夫だ。行こう、ルリ」
「う、うん」
婦人は「ありがとうございました。また何かありましたらご来店ください」と丁寧に頭を下げ、二人は小さく会釈をして店を後にした。
**
噴水広場のベンチに、二人は並んで座った。
夕暮れの光が水面に揺れ、噴水の音が広場の賑わいの底に静かに溶けている。茜色に染まった石畳の上を、行き交う人々の影が伸びていた。
イリヤが箱を開け、一方の指輪をそっと取り出した。
「左手を」
ルリシアが左手を差し出しかけ、ふと動きを止めた。
「……薬指で、イリヤはいいの?」
少し躊躇うように上目遣いに尋ねる。頰がほんのり赤く染まり、瞳が恥ずかしげに揺れていた。
イリヤはルリシアを真っ直ぐに見つめ、迷いなく答えた。
「もちろんだ。ずっとそばに居る」
その声は、揺るぎない覚悟に満ちていた。
ルリシアの青い瞳がじわりと潤んだ。胸の奥が熱くなり、嬉しさが溢れそうになるのを堪えながら、ゆっくりと左手を差し出す。
イリヤの指が、優しい動作でルリシアの薬指に指輪を通した。ライアスの結晶石が淡く輝き、柔らかな光を放つ。
「……嬉しい」
ルリシアが囁くように言った。声がわずかに震えていた。
彼女はもう一方の指輪を箱から取り出し、イリヤの左手を両手で包み込むように持ち上げ、薬指にそっと通した。
指輪がほんのりと温かくなった。ルリシアの薬指に、規則正しく力強い鼓動が伝わってくる。自分のものより少し速い、イリヤの心拍だった。
「……あ」
思わず小さな声が漏れた。ルリシアが顔を上げると、イリヤも自分の指輪に視線を落とし、わずかに目を細めていた。
二人の手が、自然と絡み合った。
指輪越しに伝わる温もりと鼓動が、言葉以上に二人の絆を確かに感じさせた。
ルリシアは繋いだ手を見つめ、それからイリヤを見上げた。
イリヤの表情は穏やかだったが、どこか遠くを見つめるような影が瞳の奥にあった。
「……イリヤ」
「ん」
「やっぱり、何かあった?」
問われて、イリヤは彼女の澄んだ青い瞳を、じっと真っ直ぐに見つめる。
「話したいことがある」
声がわずかに低くなった――そのときだった。
ぱさり、と柔らかい羽音がして、赤い小鳥がイリヤの肩に降り立つ。
ルリシアの目がわずかに見開かれた。伝達鳥の鮮やかな赤は、【緊急】を意味する。
イリヤは無言で小鳥の足から手紙を解き、広げて目を走らせる。差出人の名を確認した瞬間、眉間に緊張の影が走った。
「ジルからだ。早急に王宮へ」
イリヤは手紙を静かに折り畳み、空を仰いだ。タイミングが悪いと思った。表情に隠しようのない曇りが滲み出る。
「……すぐに行かないと」
ルリシアは小さく声をかけながら、イリヤの腕にそっと寄り添い、繋いだ手に少し力を込めた。心配そうな青い瞳が、まっすぐに彼を見上げる。
「大丈夫?」
イリヤは一拍置いて、小さく頷いた。
「ああ、行こう」
**
広場を見渡す通りで、馬車が静かに止まっていた。
御者が「お嬢様、どうなさいましたか?」と小さく声をかけたが、車内の主は答えなかった。
水色の瞳が、窓の外に釘付けになっていた。
噴水のそばのベンチ。並んで座る二人。そして、寄り添うようにしっかりと繋がれた手――。
(あれは……イリヤ?)
ソフィア・ヴェルモントは、息を詰めたまま動けなかった。胸の奥が鋭く締め付けられ、指先が冷たくなる。
(……あの子は、誰なの?)
馬車が再び走り出しても、彼女はただ窓の外を、じっと見つめ続けていた。その瞳には、静かな混乱が渦巻いていた。




