第8話 浄火
気配を辿って進むと、急に視界が開けた。そこは地下に広がる広い自然の空洞だった。
二人の女の子が根に絡め取られるように、ぐったりと吊り下げられている。意識を失い、根の内部を流れる薄紫の光が、二人からゆっくりと何かを吸い上げていた。
さらにその奥深くには、より濃く漆黒の闇が続いていた。まるで全てを飲み込むような底知れぬ暗黒が、静かに息を潜めている。
「マリア……! エリン!」
カイが血相を変えて駆け寄ろうとした瞬間、ルリシアは咄嗟にその腕を強く掴んだ。
「待って……! 根に触れたら危ないよ」
ルリシアは眉を寄せ、慎重に魔力を探った。空気中に漂う微かな波動が、根が二人の魔力を少しずつ、吸い取っているのを教えてくれる。少女たちの頰は血の気を失い、唇は紫色に変色していた。
「……魔力を吸い取られてる」
ルリシアの声に、嫌悪と驚愕が混じった。一連の黒いモヤの元凶が闇の君主の影響ならば、まさかこうして人間から魔力を貪り、養分に変える性質を持っているとは。
彼女は視線をさらに奥へと移した。根の束はさらに深く続き、巨大な樹木の根元のような異様な塊へと繋がっていた。
無数の根がそこから放射状に広がり、岩壁全体を支配するように這い回っている。
その太い幹は地上へと突き出ており、相当な大きさの「大樹」であることが容易に想像できた。
ルリシアはその幹を注視した瞬間、背筋に凍てつく悪寒が走った。
――人の輪郭が、埋め込まれている。
「……っ」
女性の顔が、幹の中に半ば飲み込まれるようにして佇んでいた。目は固く閉じられ、表情は長年の苦痛の果てに失われていた。身体は朽ちかけ、木肌と皮膚の境界が曖昧になるほど根に侵食され、絡め取られていた。何年、何十年――この闇の中で、魔力を生命を魂さえも養分にされ続けてきたのだろう。
「……ねえちゃん、あれ」
カイの声が掠れ、喉の奥で震えた。少年の灰色の瞳に、恐怖と怒りが同時に浮かぶ。
「うん……騎士の人が『女性は危ない』と言った理由、女の子たちだけが行方不明になった理由……わかった。女性を好んで養分にしているのかもしれない」
ルリシアは自分の身体を抱きしめるように両腕を回し、唇を強く引き結んだ。
胃の奥が冷たく重くなるのを感じながらも、今は目の前の二人を助けることが最優先だった。
「まずは二人を助けよう」
ルリシアが風の刃を放つと、黒い根が断ち切られ、少女たちがゆっくりと地面に倒れる。
――そのとき。
黒い根が、ざわりと不気味に蠢いた。養分を奪われた怒りか、新たな獲物を求めて触手のような根が一斉に伸びる。それはまっすぐに、ルリシアへと殺到した。
「カイくん、下がって!」
ルリシアが四大魔法を展開しようと、カイを庇うように手を伸ばす。だが、カイが横から彼女の身体を全力で突き飛ばした。
「カイくん!?」
カイの足首に太い根が絡みつき、一気に引き寄せる。少年の身体に無数の根が腕、胴、首にまで一瞬で絡みついた。
「っ、くそ……!」
カイは必死に抵抗した。歯を食いしばり、灰色の瞳に必死の光を宿す。しかし根は容赦なく魔力を吸い上げ、少年の身体からじわりと淡い光が滲み出していく。
「う、あ……っ! 熱い……! やめ、ろ……!」
カイの声が苦痛に歪み、灰色の瞳からみるみる光が消えていく。唇が青ざめ、頰から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。やがて全身から力が抜け落ち、少年はぐったりと根に吊るされた。
「カイくん!!」
ルリシアの叫びが地底に響いた。
その瞬間、彼女の手首と足首にも根が絡みつき締め上げてくる。
身体が地面に縫い止められ、身動き一つ取れない。
「っ……!」
激しい締め付けと、魔力を根こそぎ吸い取られる感覚にルリシアは歯を食いしばった。視界がちらつき膝が震える。だが彼女は決して目を逸らさず大樹の幹を睨みつけた。
幹の奥から、禍々しい魔力の波動が濃密に滲み出ていた。あの黒いモヤと同じ、底知れぬ闇の気配。同じ根源の悪意。
(あそこに私の魔力が届けば……)
大樹を内側から壊せば、この根すべてを無力化できる。しかし、幹には女性の亡骸が埋め込まれている。無差別に炎を流し込めば、彼女の魂さえも焼き払ってしまうだろう。
精密な制御が必要だった。魔力を吸われながら、炎を逆流させ、女性には決して届かせないように。できるだろうか。
(やるんだ。みんなを、絶対に助ける!)
ルリシアは目を閉じ、根に吸われる感覚を逆に利用した。自身の炎の魔力を、内部へと押し込む。じわじわと熱を大樹の幹の奥深くへ送り続けた。
幹がぴしりと乾いた音を立て、表面にひび割れが走った。内部から白い蒸気が噴き出す。
根の締め付けが、わずかに緩んだ。
「っ……!」
ルリシアは手首を引き抜き、カイの元へ這い寄った。根がほどけ、カイの身体がずるりと地面に崩れ落ちる。
その瞬間――大樹の幹の奥で、何かが目覚めたように震えた。
ぼっ、という音とともに、橙色とは異なる激しい炎が内部で膨れ上がった。
長年ここに囚われていた女性の魔力の残滓が、ルリシアの炎と共鳴して暴走したのだ。
「あっ!」
ルリシアは咄嗟にカイを抱き寄せ、倒れている二人の少女に駆け寄り、覆い被さった。必死に身体を丸めて守る。
爆発的な炎が迫った。
目を固く閉じた瞬間――ぽん、柔らかい音が響く。
半透明の細長い四肢、身体を淡く光らせながら、ルリシアたちの周囲に泡のような結界を張り出した。
(この子たち、水の……精霊?)
炎が結界の表面を激しく舐めるが、熱は一切伝わってこない。
炎を纏った根が刃物のように変じ、結界へと振り下ろされる。
ザンッ――!
剣が一閃、水飛沫を散らした。
赤い瞳が炎の只中を真っ直ぐに見据え、ゆらゆらと揺れる火影を映し出していた。
剣に纏わりつく青い魔力は、水の流れのようにしなやかで、振り翳すたびに清らかな飛沫を上げた。
「イリヤ……!」
彼は一歩も退かず、無数の根の攻撃を次々と切り裂いていく。根の断面からは白い蒸気が噴き上がり、続いて黒い粘液がどろりと滴り落ちた。
黒い粘液が水面に溶け出すにつれ、根の動きが徐々に鈍くなっていく。
イリヤが剣を振るうたび、水の魔法が足元をじわりと満たし始めた。水面が広がるにつれ、大樹の断面から滲み出た黒い粘液が浮き上がり、薄い油膜を張っていく。
油が、大樹の根元へと集まっていった。
イリヤは振り向かずにルリシアへ告げた。その声には、揺るぎない信頼が宿っている。
「ルリ、焼け。お前とならできる」
ルリシアは一瞬だけ目を見開き、その意図を汲み取った。瞳の奥に、決意の炎が灯る。
「うん、任せて!」
手のひらに炎を灯す。揺れる橙色の炎が水面に美しく映り、地底の闇を優しく照らした。
そして、油膜へと炎を落とした。
青白い炎が、鋭い光を放ちながら広がった。イリヤの加護の力とルリシアの炎の魔力が合わさり、生み出した「浄火」。炎は油膜を伝い、大樹の根元へ流れ込み、幹のひび割れから内部へと逆流していく。
大樹が、内側から光り始めた。
闇の魔力が、浄火に焼き尽くされていく。根の薄紫の脈動が橙色に変わり、やがて青白い輝きへと昇華した。
幹に埋め込まれていた女性の輪郭が、浄火の中でゆっくりと浮かび上がる。
長い年月、闇に囚われ続けたその身体は朽ち果て、浄火の中で静かに灰となっていった。
――どうか、安らかに。
ルリシアは胸の内で、そっと祈りを捧げた。
幹の中から、かすかな音を立てて何かが地面に落ちた。
小さな指輪――それだけは朽ち果てることなく、彼女の生涯を証明するように、きらりと輝いた。
大樹が根元から荘厳な光を放ち、浄化の光が幹を伝い、地上へ向かって吹き上がっていった。
大樹の葉から霧状の清らかな水が放出され、森全体へと降り注いだ。黒いモヤが水に触れるたびに蒸発し、森は少しずつ本来の明るさを取り戻していく。
やがて、大樹に七色の環がかかった。
**
「カイくん?」
名を呼ばれて、カイはぼんやりと目を開けた。
「……ここ、どこ」
「地上だよ。もう大丈夫」
ルリシアがカイの傍に膝をついて声をかけると、カイはしばらく空を見上げてから、むくりと身を起こした。
「……オレ、気絶してたの?」
「うん」
「……情けないや」
唇を噛むカイの頭に、ルリシアはそっと手を置いた。
「カイくんが私を守ってくれたから、私は戦えたんだよ。あの時のカイくん、凄くかっこよかったよ」
「……は、恥ずかしいこと言うなよ!」
カイは顔を背けた。耳が少し赤くなっていた。その様子にルリシアは頬を緩めた。
二人の女の子はまだ意識が戻っていなかったが、呼吸は落ち着いている。イリヤが二人を抱え上げ、告げた。
「行くぞ」
森の入り口で、養母が待っていた。子どもたちの姿を見た瞬間、彼女は声も出さずに駆け寄り、膝をついて、まだ虚ろな二人の女の子を抱きしめた。肩が震えている。
カイはその光景をしばらく眺めてから、ゆっくりと歩み寄った。
「……ただいま」
小さな声。養母はカイを見上げ、涙を拭う間もなく、そのままカイも抱きしめた。
「おかえり」
その様子を見守っていると、青い小鳥がひらりとルリシアの肩に舞い降りた。
伝達鳥だ。小さな足に結ばれた紙を解くと、几帳面な文字が並んでいた。ルリシアが目を通すと、青い瞳が輝いた。
「……イリヤ、指輪できたって」
ルリシアは微笑み、隣に立つイリヤの腕にそっと寄り添う。
「指輪、楽しみ」
「ああ。早く取りに行こう」




