第7話 届かなかった手
「イリヤ、見て! 影、捕まえたの!」
悲鳴の聞こえた方へ駆けつけたイリヤの目に、異様な光景が飛び込んできた。
ルリシアが、地面に這いつくばるようにして影を押さえ込んでいた。細い両腕で必死に影を羽交い締めにし、青い瞳を輝かせている。
足元では地の魔力が淡く、しかし力強く光り、影をその場に縫い止めていた。影は苦しげに蠢き、黒い霧のような触手をばたつかせて逃れようとしていた。
ルリシアの瞳が、まっすぐにイリヤを捉えた。
「見てほしい」その想いが、溢れんばかりの輝きとなって瞳に宿っている。
イリヤはただ、凝視した。
遅れて駆けつけたカイが、その光景を見て足を止めた。
「……ねえちゃん、凄え」
呆然と呟く声に、ルリシアの顔がぱっと明るく輝いた。頰が上気し、唇の端がどうしようもなく上がる。
「でしょ! 最初は風で追ってたんだけど全然捕まらなくて、光がある限りどこにでも逃げるから……じゃあ地面ごと封じればいいんじゃないかと思って、地の魔法で周囲を圧縮したの!」
イリヤはルリシアを凝視したまま、思わず口を開く。
「……よく対処した」
その一言で、ルリシアの頰が赤くなった。
「……っ、ありがとう!」
嬉しさを隠しきれない笑顔が、満開に咲き誇った。だが、その一瞬の隙、集中がわずかに途切れた。足元の地の魔力が揺らぎ、影がびくりと大きく暴れた。
「っ、ちょっと待って、待って待って――!」
慌てて魔力を注ぎ直し、必死に押さえ込む。ルリシアの額に薄く汗が浮かび、唇をきつく噛む。しかし、再び影を地面に縫い付けた途端、彼女はイリヤの顔をじっと見つめた。その瞳は僅かに潤んでいる。
「でも……動けないの! 助けて!!」
涙目で最大限に叫ぶルリシア。
「おぉう?」
カイが間の抜けた声を上げた。
イリヤは小さく息を吐き、無言で剣を抜いた。一閃――剣閃が闇を切り裂き、影の核を正確に断ち切る。黒い霧が悲鳴のような音を立てて霧散した。
地の魔力が解け、ルリシアはようやく身を起こした。
「ごめんね……結局、助けてもらっちゃった」
「いや、よくやった。怪我はないか?」
「うん、大丈夫……」
イリヤの肩から、ふっと力が抜けた。それでもすぐに周囲へ鋭い視線を走らせる。
三人の女の子が、意識を失って倒れていた。
「操られてたみたい……斧を持って襲いかかってきて。黒いモヤが絡みついてたから、あれに意識を乗っ取られてたんだと思う」
ルリシアが手短に状況を説明する。彼女の声には、まだ興奮と安堵が混じっていた。
イリヤは三人を一瞥し、静かに言った。
「ひとまず、三人を安全な場所へ連れて行こう」
ルリシアが頷いたその瞬間――ザザッと草陰が大きく揺れた。
全員の視線がそちらへ向く。
「君たち、何をしている! ここは危険だ!」
木々の間から、王宮騎士が二名と魔導士が一名、姿を現した。
「孤児院の子どもたちを探していました。あと二人、まだ見つからなくて……」
ルリシアが説明すると、騎士たちの表情がわずかに変わった。一人の騎士がイリヤに視線を向け、目を細める。
「……クロウリー家の?」
イリヤが短く頷いた。だが、再び騎士の視線がルリシアへ向いたとき、ハッとするように鋭く声を上げた。
「君っ! 女性がこの場にいてはいけない! 今すぐ戻りなさい!」
「え?」
ルリシアが瞬きした、その刹那だった。
地面が、黒く染まった。
黒いモヤが足元に広がり、闇の中から白い手がぬっと伸びてくる。幼い女の子のような手だった。二本、三本――ルリシアの足首を、信じられないほどの強い力で掴んだ。
「――っ! イリヤ!」
地面が口を開くように、ルリシアの身体が引き摺り込まれていく。冷たい闇の息吹が彼女の肌を絡め取る。
イリヤの手が、素早く伸びた。しかし、指先がルリシアの指先をかすめる。
闇が閉じ、ルリシアの姿が飲み込まれると、森が嘲笑うかのように、風音を立てた。
イリヤの普段冷静な顔に、焦りが滲み出ていた。唇が固く引き結ばれ、瞳の奥で激しい感情が渦巻く。
**
ドサッ、という重い音と共に、ルリシアは固い地面に叩きつけられた。
「……っ、痛い!」
顔をしかめながら身を起こすと、すぐ隣でカイが土埃まみれになりながらよろよろと立ち上がっていた。
「ねえちゃん、大丈夫か!?」
「う、うん……カイくんこそ、なんで!?」
「気づいたら、ねえちゃんの服掴んでた」
「……助けようとしてくれたの?」
「……ねえちゃんたちは助けてくれた。だから助けるのは当たり前だし」
照れ臭そうに目を逸らすカイ。しかし、その言葉の根底にある優しさがルリシアの胸を温かくした。その温かさに彼女は自然と微笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
周囲を見渡すと、そこは薄暗い空間だった。天井は高く、岩肌には黒いモヤが霧のように漂っている。遠くからぽたりぽたりと水滴が落ちる音が、底知れぬ静寂を強調していた。
「……ここ、どこだよ」
カイが緊張した声で呟くと、ルリシアは手のひらに小さな炎を灯した。橙色の柔らかな光が、二人の顔を照らし出す。
炎の揺らめきの中で、ルリシアの表情は真剣そのものだった。
「もしかして、地底かな……こんな空間があるなんて。黒いモヤの気配が……すごく濃い」
足元に視線を落とすと、地面から細い根のようなものが無数に這い出ていた。
黒く変色した根の内部には、血管のような筋が浮き上がり、薄暗い紫色と赤みを帯びた不気味な光を発していた。
その脈打つような光は、根全体をゆっくりと這うように明滅を繰り返して岩肌を伝って壁の奥深くまで広がっている。
まるでこの地底全体に、何か巨大な存在が根を張り、生きているかのように脈動しているようだった。あまりに不気味な光景に、ルリシアの背筋を冷たい悪寒が駆け上がった。
「……カイくん、あっちに人の気配がある」
魔力で探った先に、小さな気配がいくつか重なっていた。
「マリアたち?」
「たぶん」
二人は顔を見合わせ、根を踏まないよう細心の注意を払いながら、慎重に足を進めた。
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イリヤはその場に膝をついたまま、しばらく動けなかった。手のひらに、かすめたルリシアの指先の感触がまだ残っている。
胸の奥で、焦燥が激しく渦巻いていた。
「クロウリー殿!」
騎士の声が響き、イリヤは一呼吸深く吐き、ゆっくりと立ち上がって地面を見つめた。黒いモヤが薄れ、何事もなかったように草が揺れている。
意識を失った三人の女の子が、地面の上に倒れたままだ。
「三人を頼む」
イリヤは騎士に向き直り、冷静に告げた。
「王宮に報告を。闇の君主の目覚めが近い。地底から守護結界を張り直すよう上に伝えろ」
「しかし闇の君主はまだ完全には目覚めていないはずだ……なぜ、こんな王都近くに」
「これらの黒いモヤはおそらく撹乱だ。封印の弛みを利用して地の底に根を張っている可能性が高い」
騎士が息を呑む。
「祖父の推測通りなら、あと数日もしないで闇の君主は目覚める」
「……まさか、ラドルフ・クロウリー卿の」
イリヤは頷き、続けた。
「君主はまだ動けない。根を張るための媒体とする何かが地底にはある。封印が解かれる前にそれを見つけ出す」
踵を返し、森の奥へと駆け出した。
(ルリシアたちを引き摺り込んだなら、地底には空間があるはずだ)
周囲を確認し、目を閉じた。静かに水の魔力を解き放つ。
応えるように、草陰から気配が集まってきた。するりと音もなく現れたのは、水の精霊たち。半透明の身体が淡い青い光を帯び、爬虫類めいた細長い四肢が地面を這う。複数の瞳がイリヤを見上げた。
「地底に。ルリシアとカイを探せ」
精霊たちが静かに瞬いた。精霊の身体がとろりと溶け始めた。輪郭がほどけ、水に変わり、地面に薄く広がり、音もなく染み込んでいった。
イリヤは足元に水の魔力を流し、地面の振動を読んだ。二十歩ほど先で、足の裏に空洞の感触があった。剣の柄で叩くと、鈍い反響が返ってくる。
水の魔力を足元に静かに流し込む。地面がじわりと湿り気を帯び、泥となって地面が緩んでいく。
イリヤは剣を抜き、躊躇なく地面へ突き立てた。
ずぶり、と刃が沈む。緩んだ泥が剣身に絡みつくように引き込まれ、穴の中へ流れ落ちていく。亀裂が広がり、地面が口を開けた。
黒いモヤが、暗闇の底からゆっくりと滲み出してくる。
――無事でいてくれ、ルリ。




