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第4話 逃げないうさぎ

「おや、すまない。お取り込み中だったかな?」

 

 よく通る穏やかな声が回廊に響いた。

 殿下の声に、ソフィアは優雅にドレスの裾を持ち上げ、深く一礼する。その所作は洗練されていて銀色の髪が、わずかな動作で光を捉えてきらめく。


「クロヴィス殿下、お久しぶりでございます。本日はヴェルモント侯爵家が管轄する北方水上交易路の件で参りました。宰相閣下との会合の後、最終的なご承認をいただけますでしょうか」


 彼女の声は澄んでいて、緊張も媚びも感じさせない。侯爵令嬢として長年磨き上げてきた、完璧な貴族の微笑みを浮かべていた。


「ああ、聞いている。後ほどよろしく頼む、ソフィア・ヴェルモント嬢」

「はい。ありがとうございます」


 ソフィアはもう一度殿下に恭しく礼をすると、ゆっくりと顔を上げ、イリヤへと視線を移した。

 その瞬間、彼女の表情がわずかに柔らかくなった。唇の端に浮かぶ微笑みは、先ほどまでの公的なものとは明らかに違う、ほんの少しだけ甘さを帯びていた。


「またゆっくりと、お話しましょう……イリヤ」


 名前を呼ばれると、イリヤは一瞬言葉を詰まらせてから、静かに頷いた。


「……ああ」


 声がわずかに低く掠れた。ソフィアは瞳を細めて優しく微笑んだまま、もう一度軽く頭を下げる。


 そして、踵を返した。

 彼女の足音は、回廊の大理石に静かに反響しながら遠ざかっていく。

 イリヤは無言のまま、その背中を最後まで見送った。姿が見えなくなると、隣に立っていた殿下が、小さく息を吐いた。


「……タイミングが悪かったな」

「いいえ」


 その横顔は、感情を読み取りにくいほど平静を装っていた。

 しかし赤い瞳の奥には、複雑に絡み合う影が揺れているのを、殿下は鋭く見抜いていた。

 殿下は何も言わず、ただしばらくイリヤの横顔を見つめ、やがて穏やかな声で切り替えた。


「では、父上のところへ行こう」


 イリヤは無言で頷き、二人は並んで王宮の奥深くへと歩き出した。足音だけが、長い回廊に静かに響く。



**



 国王陛下の寝室は、重厚な扉の向こうに、まるで別の世界のように静まり返っていた。

 厚い深紅のカーテンが外光をほとんど遮り、室内は薄暗く、薬草の匂いが重く淀んでいる。大きな天蓋付きの寝台の上に、陛下は横たわっていた。


 以前の威厳に満ちた姿とは打って変わり、頰がほんの少しこけ、顔色も優れなかった。呼吸が、わずかに乱れている。

 殿下が近づくと、陛下の薄い瞼がゆっくりと持ち上がった。

 虚ろながらも、かつての鋭さをわずかに残している。殿下と同じ翡翠色の瞳が、イリヤを捉える。


「……久しいな」


 掠れた、しかし確かに王の威厳を宿した声だった。イリヤは即座に片膝をつき、深く頭を垂れた。


「変わりはないか?」

「はい、陛下」


 陛下は笑みを浮かべようとしたが、すぐに眉をわずかに寄せた。それでも無理に笑みを保とうとする。


「卒業は……まだか?」

「あと一年ほどです」


 陛下はゆっくりと息を吸い込み、苦しげに「そうか……」と呟いた。息の乱れが言葉を発することさえ、負担になっているのが明らかだった。

 それでも一国の王として、弱さを見せまいとする気概が、その声の端々に感じ取れた。


 天井の暗い影を見つめながら、陛下は続けた。


「クロヴィスは優秀だが……あれは優しすぎる。強い者が傍にいてやらねば……この国はもたん。お前のような人間が早く王宮へ来てくれると……私も安心できるのだがな」


 その言葉に、殿下が少し困ったように眉を寄せ、口を挟んだ。


「父上、まだまだお元気でいてください。縁起でもない」

「年寄りの本音くらい、聞いてくれ」


 陛下は小さく苦笑した。再びイリヤに視線を戻し、穏やかでありながら真剣な眼差しで言った。


「頼んだぞ、イリヤ」


 イリヤは深く頭を下げ、静かに答えた。


「……はい」


 陛下は満足げに小さく微笑み、再び目を閉じた。その寝顔は、わずかに安堵したように見えた。


 イリヤはそっと立ち上がり、寝台の傍らに近づいた。そして、陛下の手に自分の手を重ねた。

 指先から、淡い青色の光がゆっくりと広がっていく。


 癒しの加護――静かで深く、慈しみのある魔力の流れ。病の根源にまでは届かない。

 それでも、痛みと苦しみを和らげ、わずかでも安らぎを与えられるよう、イリヤは集中して魔力を注ぎ続けた。

 陛下の表情が和らいでゆく。苦しげに寄せられていた眉が緩み、呼吸も少しだけ深く、安定したものに変わる。


 その様子を、殿下が静かに見守っていた。


「……癒しの加護で、病を治すことはできないのか」


 声に隠しきれない切実さが滲んでいた。

 イリヤは手を離さずに答えた。


「アクアリスとの誓約が厳しいため、病そのものを治すことは、まだできません」

「まだ、か」


 殿下の声に、鋭い引っかかりが滲んだ。イリヤは少し間を置いてから、続けた。


「……癒しの加護の力が増す時期になれば、陛下の病を治すこともできるかと思います」


 殿下はしばらくイリヤの横顔をじっと見つめた。探るような、しかし優しい視線だった。


「……まるで、一度誰かのために加護の力を使ったような言い方だな」


 イリヤは唇を引き結んだまま、沈黙を保った。指先から注ぐ青い光が、わずかに揺れた。

 殿下は小さくため息をつき、寂しげに微笑んだ。


「まったく、まだまだ隠し事が多いな」


 その声には咎める色はなく、ただ寂しさが滲んでいた。


「……申し訳ありません」

「謝罪はいい」


 殿下は首を振り、陛下の穏やかな寝顔に目を落とした。


「ありがとう、イリヤ。父上の顔が楽そうだ」



**



 学院への帰り道、イリヤは王都の街を一人で歩いていた。王都の街では行き交う人々の賑わいが耳に届く。ルリシアへの土産を買って帰ろうと思ったのは、商店街の賑やかな通りへと差し掛かった時だった。

 彼は足を止め、並ぶ店々をゆっくりと眺めた。

 花屋の前で立ち止まる。色鮮やかな花々が咲き誇り、甘い香りが漂っていた。しかしすぐに首を横に振る。


(……すぐに枯れてしまうし、ありきたりだ)


 菓子屋の前では、焼き立ての甘い匂いが鼻をくすぐった。


(風邪の時に甘いものは味がわからないかもしれない……)


 雑貨屋の前では、かわいらしい小物や髪飾りが並んでいた。

 ルリシアなら何でも喜んでくれる。きっと目を輝かせて笑うだろう。だが、それが余計に悩ませる。


(……何でも喜んでくれるからこそ、適当なものは渡したくない)


 イリヤは小さく息を吐き、何度も店先を行きつ戻りつする。しかし結局、決断できずに通り過ぎてしまった。


 商店街を抜けたところで、イリヤは立ち止まった。振り返ると、夕陽に染まる賑やかな通りが遠くに見える。


 イリヤは小さく息を吸い込み、学院への道を歩き出した。

 


**



 女子寮の部屋で、ルリシアはベッドの上で小さく丸くなっていた。頰は熱で赤く、息は少し荒い。頭が重く、思考がぼんやりと溶けていくような感覚に包まれながらも、彼女は時折まぶたを開けては時計を見ていた。


(イリヤ……もう、帰ってきたかな……)


 そんなことを考えているうちに、再びうとうととまどろみ始めた時だった。

 

 ――コン、コン。


 小さく、控えめな音が窓ガラスを叩いた。

 ルリシアはぼんやりと顔を上げ、熱で潤んだ瞳を細めた。


 ――コン、コン。


 もう一度、同じリズムで音が響く。

 夢かもしれないと思いながらも、彼女はゆっくりと上半身を起こして、ベッドから降りて窓に近づいた。足元をふらつかせながら窓を開ける。そこに、夕暮れの淡い光の中で浮かんでいたのは――


 小さな、白い氷のうさぎだった。


 丸い体に、ぴんと立った長い耳、ちょこんと丸めた尻尾。美しい氷の表面が夕陽を反射してきらきらと輝いている。

 生きているように、ぴょこぴょこと軽やかにその場で跳ねるその姿にルリシアの目が大きく見開かれた。

 

「か、可愛い……!」


 熱で朦朧としていた意識が、一瞬で覚醒して思わず両手で頰を押さえ、声が上ずった。

 そっと両手を伸ばすと、うさぎは自然と手のひらに乗ってきた。ひんやりとした冷たさが、熱を持った掌に心地よく染み渡る。


「……冷たくて、気持ちいい……」


 ルリシアはうさぎをそっと頰に当てた。

 すうっと熱が引いていくような、優しい安らぎが体を包む。目尻にうっすらと涙が浮かんだ。


 これまで小さな生き物にはいつも逃げられてきたのに、このうさぎは逃げない。むしろ、ルリシアの視線に反応するように、耳をぴくぴくと動かしている。


「……可愛い……本当に、可愛い……」


 彼女はうさぎをぎゅっと胸に抱きしめ、ベッドに戻った。冷たい氷の感触が、熱で苦しかった体を優しく癒してくれる。

 ルリシアはうさぎの小さな頭を指でそっと撫でながら、誰にともなく小さく呟いた。


「……イリヤだ」


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。熱でぼやけていた視界の中で、うさぎの輝きが優しく揺れた。

 自然とまぶたが重くなり、穏やかな眠気が彼女を包み込んだ。



**



 学院の外壁の陰から、イリヤは女子寮の窓を見上げていた。うさぎを抱きしめ、小さな人影がベッドに戻るのが見えた。

 イリヤの唇にほんのわずかな柔らかな微笑みが浮かぶ。彼女を想うだけで、胸の奥にのしかかる重いものが、静かに溶けていくような感覚。

 

 イリヤはゆっくりと踵を返し、男子寮へ戻って行く。夕陽に照らされたその背中はどこか温かみを帯びて見えた。

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