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第3話 婚約、という言葉

 星祭り翌日の朝、ルリシアは盛大にやらかしていた。昨夜の濡れた帰り道が祟ったのだろう。

 目が覚めると頭が重く、鼻は完全に詰まり、喉は声を失っていた。ベッドの中で身動きもままならない。


 セナが額に手を当てて眉を寄せた。


「ルリ、すごい熱があるじゃない……」

「……ふぐ」


 返事の代わりに情けない鼻声しか出せない。ルリシアは情けなさと悔しさで布団を頭までまるっと被った。


(……せっかくの星祭りの次の日に、こんな姿……イリヤと謁見帰りに指輪作るって約束してたのに……)


 そこへレイラが部屋に飛び込んできた。


「ルリ! イリヤが今すぐ行くって聞き分けなくって!」


 ルリシアはびくりと跳ね起きた。頭がくらくらする。


「ふぐっ、ふぐふぐ!」

「わかった、来させないわ。でも何て伝えればいい?」


 ルリシアは必死に口を動かした。鼻が詰まってろれつが回らない。

 それでも、こんな情けない姿をイリヤに見せるわけにはいかない。乙女としての意地と、彼を心配させたくないという想いが、彼女を奮い立たせた。


「……ふごふご、ふごっ、ふごふごふご」


 レイラは真剣な顔で頷いている。


「わかった。『風邪移したくないから来ないで。すぐ治すから、治ったら一緒にエンチャント・ジェムズに行こう。謁見頑張ってね』でいい?」


 ルリシアは涙目で何度も頷いた。セナが二人を交互に見て、そっと手を挙げた。


「……ねえ、ちょっと待って? 今の何語?」

「ルリ語よ」

「……えぇ!? どうしたら習得できるの?」

「才能があれば自然に身につくわ」


 セナがしゅんと肩を落とした。レイラはルリシアの頭を優しく撫でた。


「イリヤにちゃんと伝えてくる。おとなしく寝てなさい」


 ルリシアはまた「ふごっ」と鼻声で返事をして、布団に再び潜り込んだ。


(イリヤ……謁見、うまくいくといいな……。早く治して、会いたい……)


 熱でぼんやりする頭の中で、彼の顔を思い浮かべながら目を閉じた。



**



 王宮の執務室には、午前も深まった柔らかな陽光がステンドグラスを通して色鮮やかに差し込んでいた。

 磨き上げられた調度品と、重厚な魔導書の書架が並ぶ室内は、学院とは明らかに異なる静かな威厳と緊張感を漂わせていた。


「私に秘密事とは悲しいな、イリヤ」


 クロヴィス殿下の翡翠色の瞳がイリヤを捉える。イリヤは深く頭を下げた。


「申し訳ありません」

「謝罪はいいさ。それより、改めて聞かせてくれ。加護の使者が、本当に実在したのだな」


 イリヤは静かに頷いた。殿下はしばらく沈黙した後、ゆっくりと息を吐いた。


「……伝承では読んだことがあった。だが正直、おとぎ話の類だと思っていた」

「信じていただけますか」


 殿下の口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。


「お前がわざわざ私に話しに来た。それだけで信じるには十分だよ、イリヤ」


 殿下は少し身を乗り出した。


「一つ確認させてくれ。剣と魔法を同時に極められる存在……それが加護の使者、ということか?」

「はい。そして四大精霊はそれぞれ一人にしか加護を与えられません。その者が死ぬまで、次の使者を選ぶことができない」


 殿下が小さく息をつく。


「……だからこそ、狙われる」

「はい。加護を持つ者を利用しようとする者たちが、この世界には存在します」


 殿下はしばらく考えるように視線を落としてから、顔を上げた。


「ヴェルディガルド帝国の炎帝のことだが……あの男も、もしかして……」


 イリヤはゆっくりと顎を引いた。


「間違いなく、炎の大精霊イグニスの加護を受けた者でしょう。炎を纏う大剣を片手で振り回し、何百頭もの魔獣を一人で(ほふ)ったという話は、加護の力なくしては説明がつかない」

「ならば、なぜ隠さない? お前が秘匿(ひとく)しているのとは対照的に」

「炎の加護の力は、煽動(せんどう)と支配を有するものです。民を煽動し支配することにその力が作用している。隠す必要がないのでしょう」

「……ふむ。では、水の加護は?」

「癒しと守護です」


 殿下は納得したように口元を緩める。


「支配と煽動に対して、癒しと守護か。……お前らしいな」


 イリヤに目を留める殿下の瞳は、どこか温かみを帯びていた。イリヤは次の疑問を切り出した。


「そういえば、ガレン・ヴォルドの件ですが」

「ああ、そうだな」


 殿下の表情がわずかに曇った。


「死亡が確認された後、帝国側への関与を調査した。だが証拠は何も得られなかった。帝国側も関与を否定している」

「であれば、現時点では闇商人の関与が濃厚ということですね」


 殿下は息を詰めてから、ゆっくり吐いた。


「だな。だが、帝国が直接手を汚さずに動いている可能性はある。あの国の皇太子も胸の内が読めない男だからな」


 しばらくの沈黙の後、殿下が続けた。


「それと、星祭りの夜に起きたことについて報告があると聞いた」


 イリヤは頷き、黒いモヤの一件を詳しく話した。殿下の表情が、徐々に険しくなっていく。


「……闇の君主の封印が薄れている兆候と見て間違いないだろう。実はここ最近、王宮の魔導士たちも封印の揺らぎを感知している」

「……やはり、そうですか」

「ああ、封印が破られるのも時間の問題かもしれない」


 重い沈黙が落ちた。やがて殿下が新たな話を切り出した。


「もう一つ。シルヴァリス帝国から、エメラルド魔導学院の生徒を対象とした交流会の招待が届いている」


 イリヤの目が、わずかに細まった。


「表向きは友好の名目だ。だが時期が時期だけに、素直には受け取れない」

「断ることは」

「難しいな。断れば外交上の火種になる。だが無警戒に送り出すわけにもいかない」


 二人の間に、重い空気が流れた。やがて殿下がふと肩の力を抜いて苦笑した。


「……まったく、周辺国というのはどこも癖が強くて困る。シルヴァリスは腹の底が読めないし、北の連合国は会議のたびに怒鳴り合っているし、ルーメンシア王国とヴェルディガルド帝国に至っては、会議に顔すら見せない。一体どこの国と話し合えというんだ。私の胃に穴が空きそうだ」


 殿下の愚痴に、イリヤは薄く笑みを刻んだ。その表情に殿下が目を丸くした。


「……今、笑ったか?」

「いいえ」

「笑った。確かに笑った。いつも真顔で『そうですか』とノリの悪いお前が……そうか……これが、ルリシア嬢の影響か、ルリちゃん効果というやつか」


 イリヤの眉間に、すっと皺が寄った。


「……気安く呼ばないでください」

「おっと失礼」


 殿下は楽しげに笑い、それからふと表情を和らげた。


「彼女は元気か? 今日は一緒に来なかったようだが」

「風邪を引いています」

「それは可哀想に。お大事に、と伝えてくれ」


 イリヤは一礼した。それから少し間を置いて、口を開いた。


「一つお願いがあります。国王陛下のご体調が優れないと伺っております。お会いさせていただくことは叶いますか」


殿下の表情が、穏やかに和らいだ。


「もちろんだ。ただ少し待ってもらえるか。急ぎの用件が入ってしまった」

「はい、お待ちします」

「悪いな、すぐに戻る」



**



 王宮の回廊は静けさに包まれている。

 磨き上げられた石畳に、イリヤの靴音だけが規則正しく響き、高い天井から差し込む光が白い壁を柔らかく照らしていた。

 殿下が戻るまで、しばらく時間がある。イリヤは窓の外に目をやり、王都の景色を静かに眺めた。


(……ルリ)


 一人になるといつも思考がルリシアへと向かう。今頃、どうしているだろう。熱は下がっているだろうか。顔を見たかったが、レイラに来るなと言われた。ならば、早く終わらせて戻ろう、と思った。


「……イリヤ」


 穏やかな声に振り返ると、回廊の奥から一人の令嬢が歩いてくるところだった。

 銀色の髪を丁寧に結い上げ、水色の瞳が真っ直ぐにイリヤに向けられている。

 薄紫のドレスをまとった、気品のある佇まい。穏やかな微笑みを浮かべたその顔を、イリヤはよく知っていた。


「……ソフィア嬢」

「久しぶりね。元気そうで何より」


 ソフィアは頬をほんのり染めて微笑み、イリヤの前に立った。


「貴方の活躍はいつも耳にしているわ。学院でも首席を維持しているとか」

「……おかげさまで」

「ふふ、相変わらずね」


 ソフィアは小さく笑った。それからふと、イリヤを見上げて柔らかく言った。


「ソフィアと呼んでくれていいのよ。昔のように」


 イリヤは少し間を置いてから、小さく頭を下げた。


「……ああ、ソフィア」


 ソフィアは満足そうに微笑み、それからわずかに躊躇うように視線を落とした。

 しばらくして、静かに口を開く。


「……イリヤは、知っている? 私たちの婚約の話」


 イリヤの目が、わずかに細まった。


「……婚約?」


 ソフィアは小さく頷く。その表情は穏やかで、責めるでも怒るでもなく、ただ確認するような眼差し。


「父と、クロウリー伯爵が進めているお話よ。私はずっと前から伺っていたから……てっきりイリヤも知っているものだと思っていたわ」


 イリヤは何も言えなくなった。


 父ならばやりかねない。黙って進めることくらい、容易に想像がついた。

 だがこの場で何を言うべきか、言葉を選ぶより先に、回廊の奥から足音が聞こえてきた。


「待たせたな、イリヤ」


 殿下の声に、イリヤは表情を引き締め、ゆっくりと振り返った。

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