第2話 星空の下で
学院の正門を出たのは、夕暮れが深まり始めた頃。
石畳の道を並んで歩くルリシアとイリヤの影が、長い橙色に伸びている。遠くから祭りの賑わいと、甘くて美味しそうな香りが風に乗って漂ってきた。
「楽しみだなぁ……イリヤ、緊張してる?」
ルリシアが横を見上げて尋ねると、イリヤは前を向いたまま静かに答えた。
「していない」
「私はしてるよ……。イリヤは何をお願い事するつもりなの?」
イリヤがわずかに視線を下げ、ルリシアを見た。赤い瞳の奥に、微かな遊び心が浮かんでいる。
「豆を克服できますように、とかか?」
ルリシアは思わず噴き出した。
「えー! もったいない! そんなので願い事使っちゃうの?」
「ならルリは?」
「じゃあ私は……セロリを克服できますように、ってお願いしようかな」
「却下だ」
「えっ、ひどい!」
イリヤの口元がかすかに緩む。ルリシアは笑いながら彼の腕に軽く寄りかかった。
恋人同士の、気取らないやり取りが心地よくて、胸の奥が温かくなった。そんな他愛もない会話さえ、今夜は特別に輝いて感じられた。
**
星祭りの会場は、色とりどりの魔導提灯で華やかに彩られていた。屋台が立ち並び、香ばしい食べ物の匂いと人々の笑い声が辺りに満ちている。
ルリシアは思わず足を止め、あちこちに視線を走らせた。
「わあ……すごい人」
「はぐれるな」
イリヤが自然にルリシアの手を握った。大きくて温かい手のひらに、彼女の心臓が小さく跳ねる。
「……うん」
二人は人混みの中をゆっくり歩いた。ルリシアの視線が次々と屋台に吸い寄せられる。
「あ、見て! 星の形のお菓子! かわいい……!」
星型に型抜きされた砂糖がけの飴を指差すと、イリヤは無言で代金を支払い、それを手に取って彼女に差し出した。
「え、いいよ、自分で――」
「遠慮しなくていい」
ルリシアは両手で受け取り、その場で口に含んだ。甘さがふわりと広がり、目が自然と細くなる。
「……甘い、美味しい。ありがとう」
頰を緩めて微笑むルリシアを、イリヤはじっと見つめていた。赤い瞳に、柔らかな光が宿っている。
少し歩くと、今度は大きなランタンを売る屋台が目に入った。
橙色、青、淡い紫――光を透かした紙が、まるで星のように輝いている。
「綺麗……」
ルリシアが足を止めて見上げると、ランタンの柔らかな光がその横顔を照らした。
イリヤは一歩後ろから、黙ってその姿を見つめていた。普段と変わらない静かな表情だったが、その視線だけは、ずっとルリシアだけを追っていた。
**
会場の奥へ進むにつれ、喧騒が徐々に遠ざかっていく。
木立の間を抜けると、視界が一気に開けた。
そこに、湖はあった。
夜空をそのまま映し込んだ水面は静かで、流星が一筋降るたびに湖の上でも光が滑るように走る。上も下も星。世界の境界が溶け合ったような、幻想的な美しさだった。
「……すごい」
ルリシアは息を呑んだ。
小さな桟橋に繋がれた一艘のボートに二人は乗り込み、イリヤがゆっくりとオールを漕ぎ出した。湖の中央へ向かうにつれ、岸の灯りが遠くなり、星と水だけの世界が二人を優しく包み込んだ。
しばらくして、ルリシアがそっとイリヤの袖を引いた。
「……イリヤに、見せたいものがあるの」
小さな声だったが、瞳は真剣だった。
「最近、勉強の合間にずっと練習してた魔法……今日、イリヤに見てほしくて」
イリヤが頷くと、ルリシアはボートの縁に膝をつき、両手を湖面にそっと触れた。
指先から淡い青の光が広がり、静かな水面に優しい波紋が生まれる。
ふわりと水が弾け、透明な水球がいくつも浮かび上がった。
ひとつひとつが内側から淡く輝き、流星の光を受けて虹色に瞬きながら、二人の周りをゆっくりと漂い始める。
まるで湖が星空を閉じ込め、この場所だけに小さな宇宙を創り出したようだった。
「……綺麗だ」
イリヤの声が静かに落ちた。
ルリシアが照れくさそうに見上げると、頰が赤く染まっていた。イリヤは彼女をまっすぐに見つめ、もう一度、穏やかに言った。
「綺麗だ、ルリ」
水球のことか、それとも彼女自身のことか。ルリシアの心臓が、大きく高鳴った。
甘い沈黙が、二人の間に漂う。
イリヤがゆっくりと身を傾け、ルリシアも自然と顔を上げた。
吐息が触れ合う距離まで近づいたそのとき――
ぱん、という小気味よい音が響いた。
直後、ぱんぱんぱんぱん、と水球が次々に破裂し、無数の水滴が雨のように降り注いだ。
「ひゃっ……!」
ルリシアが目を瞬かせ、イリヤも動きを止めた。二人はびしょ濡れになったまま、しばらく呆然と互いを見つめ合った。
やがてイリヤは顔を背けて、肩が小さく揺れ始める。
「……っ」
声を殺した笑い。ルリシアは頰を膨らませた。
「わ、笑わないでよぉ……!」
濡れた前髪が顔に張り付いている。
「……本当に、ルリといると飽きないな」
イリヤが小さく呟いた。その声には、深い温かさが滲んでいた。
「全てが愛おしい」
その言葉に、ルリシアは抗議の言葉を飲み込んだ。頰の熱がさらに増す。
ふと、イリヤの濡れた前髪が目に入った。いつも整った紺色の髪が、水滴でぺたりと額に張り付いている。自分もきっと同じような有様だろう。
ルリシアもまた、おかしくてたまらなくなった。
「……ふふ」
こらえようとしたのに、笑いがこぼれる。イリヤがルリシアを見る。その表情がまた可笑しくて、笑いが止まらなくなった。
「ふふ、ふふふ……っ」
やがてイリヤも、再び肩を揺らした。二人の笑い声が、静かな湖の上に溶けていく。
笑いが収まった頃、自然と視線が絡み合った。
イリヤの手がルリシアの頰にそっと触れ、濡れた髪を耳にかけてくれる。その指先が頰に留まったまま、距離がゆっくりと縮まる。
星空と水面が溶け合い、世界そのものが夢のようにぼやけていく中、ルリシアはそっと目を閉じた。
吐息が重なり、温かな唇が静かに触れ合った。
静かな湖の上で、二人の世界だけが星空の中に溶け込み、輝いているかのようだった。
一筋の流れ星が、夜空を長く横切っていった。
**
二人が離れると、イリヤがルリシアの片手を取る。
「もう一度、やってみてくれ」
「……うん」
深呼吸をひとつ。ルリシアが再び湖面に手を触れると、淡い青の光が広がった。水球がひとつ、またひとつと浮かび上がる。
握られた手から、じんわりと温かい魔力が流れ込んできた。
「――氷華」
イリヤが静かに呟いた。
水球のひとつひとつの中に、白い氷の花が咲き始めた。繊細な結晶が内側から広がり、花びら一枚一枚が流星の光を受けて青く、白く、虹色に輝く。
二人の魔力が重なり合い、溶け合うように調和していた。
「……すごい、素敵。イリヤ、こんなことまで出来るの……?」
「ああ、だが……ルリとではなければ出来ない」
その言葉が胸の奥に刺さり、ルリシアは青い瞳を潤ませた。
水球の中で咲き誇る氷の花が湖面にも映り込み、二人の周りに無数の光の花が広がる。
イリヤがルリシアを見つめる。その眼差しは深い愛おしさに満ちている。
二人が自然と額を寄せ合うと、ひときわ大きな一筋の流れ星が夜空を滑った。
二人は目を閉じ、心の中でそっと祈る。
――ずっと、一緒にいられますように。
**
桟橋に戻り、ボートを降りた瞬間だった。
イリヤの足がぴたりと止まる。何も言わず、暗闇の中に鋭い視線を向けて警戒している。
ルリシアは自然と彼の背中に寄り添いながら、周囲を見渡した。
暗闇の奥、目を凝らすと、木立の間から黒いモヤが這い出すように広がり始めた。音もなく、気配もなく、じわじわと二人を取り囲むように近づいてくる。
「……イリヤ」
「動くな。囲まれている」
赤い瞳が鋭く周囲を走査する。ルリシアはイリヤの背中にそっと手を添え、息を潜めた。
その時、胸元のライアスの結晶石が突然、強く輝いた。
闇を押し返すような、温かく力強い光。
モヤが光に触れた瞬間、ひるむように揺らぎ、萎縮した。
「……ライアス」
ルリシアが思わず呟いた。光が和らいだ直後、ぱきりと小さな音が響き、結晶石に一筋の亀裂が走った。そして静かに二つに割れた。
黒いモヤは、跡形もなく消え去っていた。
しばらくの沈黙の後、イリヤがゆっくりと振り返った。その瞳が、ルリシアの手の中の割れた石に落ちる。
「……これは」
「うん」
ルリシアは割れた石を両手で包み込み、頷いた。
「ライアスが、守ってくれたんだと思う」
「ただの魔獣の気配ではなかった。王宮に報告が必要だ」
「うん、学院長にも報告しないと。最近、奇妙な気配が強い気がする」
二人は寄り添ったまま歩き始めた。ルリシアがふと見上げると、イリヤも同時に視線を落とし、二人の目が絡み合った。
どちらともなく、強く手を握る。夜道に伸びる二つの影が、寄り添うように重なり合っていた。




