第1話 願い事を賭けて
テストの延期が告知されたのは、先週のこと。ガレンの一件による学院の混乱を理由に、前期末試験が二週間後ろ倒しになったと聞いたとき、ルリシアは食堂の椅子にぐったりと崩れ落ちた。
追加された範囲は想像以上に膨大で、目の前が少し暗くなった気がした。
「……追加範囲、多すぎない……?」
「仕方ないわよ。先生たちも大慌てしてたわ」
向かいに座ったレイラが、呆れを含んだ笑みを浮かべて肩をすくめた。
「でもルリ、ちょうどいい機会じゃない」
「なにが?」
「星祭りよ。年に一度の流星群が降る夜」
レイラがにっこりと微笑んだ。その笑顔には、悪戯めいた期待がにじんでいる。
「今年は平日に当たるの、知ってる? 学院の規則では平日の夜間外出は原則禁止だけど……首席だけは特別に外出許可が出るの。同行者一名まで」
「……え」
ルリシアは顔を上げた。心臓が、どくりと大きく跳ねるのを感じた。
「しかも」
レイラは声をひそめ、身を乗り出してきた。
「会場の奥に特別な湖があるの。そこで夜、ボートに乗って星に願い事をすると、叶うって言い伝えられてるのよ」
夜の湖。静かに揺れるボート。頭上を横切る無数の流れ星。そして――向かいに座る、紺色の髪と赤い瞳の彼。
想像しただけでルリシアの頰が熱くなった。慌てて両手で自分の顔を覆うと、レイラがくすくすと笑いを漏らした。
「……ルリ?」
「な、なんでもない!」
「顔、真っ赤よ。恋人同士なんだから素直になりなさいよ」
「もう、ほっといて……!」
ルリシアは声をひそめて抗議したものの、胸の奥は甘くざわついていた。
(首席になれたら……イリヤを誘って、夜の湖で二人きり……)
どうせなら、自分が首席を取って彼を誘いたかった。お願いされるより、こちらから誘いたい。そんな想いが抑えきれなくなっていた。
ルリシアは小さく拳を握り、胸に決意を灯した。恋人になってからというもの、イリヤはいつも傍にいてくれる。
でも、特別な夜に、特別な場所で、彼と二人だけで過ごしたい――その願いが、日に日に大きくなっていた。
**
イリヤを見つけたのは、中庭のいつものベンチだった。古木の木陰に腰を下ろし、厚い本に視線を落としている。
紺色の髪が微風にそよぎ、横顔の輪郭が柔らかな光に縁取られていた。黒色の騎士科の制服を纏ったその姿は、相変わらず凛としており、どこか近寄りがたい美しさがあった。
ルリシアは深呼吸をしてから、彼に近づいた。
「イリヤ」
呼びかけると、赤い瞳がゆっくりとこちらを向いた。その瞬間、わずかに厳しかった表情が柔らかく緩むのがわかった。
あの瞳は、ルリシアの前でだけ、いつも優しくなる。
「ルリ」
いつもの落ち着いた声で名前を呼ばれるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ルリシアは彼の隣に腰を下ろし、意を決して切り出した。
「テスト、勝負しない?」
イリヤが本から目を離し、ルリシアを見つめた。細められた赤い瞳に、わずかな驚きと興味が浮かぶ。
「一位を賭けて。負けた方が、相手のお願いを何でも一つ聞くの」
短い沈黙の後、イリヤが小さく息を吐いた。
「……どうした? お前がそんな勝負を仕掛けてくるとは思わなかった」
「モチベーションを上げるためだよ……! イリヤが『本気で追いかけてくれる』って言ってくれたでしょ? だから、ちゃんと本気で来てほしいの」
イリヤは本を閉じて、ルリシアの方へ体を向けた。長い指が、彼女の髪を一筋そっと耳にかけてくれる。その優しい仕草に、甘い疼きが胸を走った。
「ああ、言ったな……」
「だから、勝負しよう? お願い事を賭けて」
イリヤはわずかに目を細め、口元に淡い微笑みを浮かべた。それは、彼が本気になったときに見せる、わずかだが確かな表情。
「いいだろう」
「やった……! 手加減は絶対なしだよ?」
ルリシアは思わず笑顔をこぼした。イリヤは小さく頷き、彼女の手に自分の大きな手を重ねてきた。
「望むところだ」
**
それからのルリシアは、傍から見ても明らかに様子が違っていた。
授業中は最前列で板書を一言も逃さず、自習時間は図書室に籠もり、夜は消灯ギリギリまでノートを広げた。
一方、イリヤは普段とほとんど変わらない様子で、いつもと同じペースで過ごしているようだった。そのことが、ルリシアを少しムッとさせた。
ある日の放課後、ルリシアは図書室の窓際のいつもの席に、イリヤと並んで座っていた。
外の光が差し込むその場所は、二人がよく一緒に勉強する場所だった。
ふと、イリヤが開いている本に挟まれた栞に目が留まった。それは以前、ルリシアが拾ったイリヤの栞を魔力の乱れでうっかり焦がしてしまい、お詫びに渡した手作りの栞だった。
「……その栞、使ってくれてるの?」
ルリシアが小声で尋ねると、イリヤは本から目を上げ、静かに彼女を見た。
「当たり前だ。お前が焦がした栞も、大事に持ってる」
その言葉に、さっきまで胸の奥にあった小さなモヤモヤが、するりと溶けていくのがわかった。ルリシアの頰が、ふっと緩む。
「ここ……教えて?」
ルリシアがノートを指差して言うと、イリヤは優しく微笑んだ。椅子を少し寄せ、彼女の肩に軽く触れながら解説を始める。
その距離が自然と近くなり、机の下で二人の指がそっと絡み合った。
温かな手。繋がる指先。
自然と視線が絡み合い、時間が止まったかのように二人は見つめ合った。
赤い瞳に映る自分の顔が彼女の心臓を高鳴らせる。
そのとき、図書室の扉が押し開かれる音が響いた。ルリシアはびくりと肩を跳ね上げ、慌てて顔を背けた。耳まで熱くなっているのが自分でもわかった。
(テストまでは……イリヤと一緒に勉強するのは危険だっ……ときめき過ぎて、集中できない……!)
そんなルリシアの様子を、イリヤはじっと見つめていた。その視線を感じながら、ルリシアはノートに視線を落としたまま、胸の鼓動を必死に抑えて、ノートにしがみつきながらペンを走らせた。
**
試験結果が張り出されたのは、曇り空の朝。
掲示板の前に人だかりができている。ルリシアは背伸びをしながら、人の隙間から順位表を覗き込んだ。
一位、イリヤ・クロウリー。
二位、ルリシア・クリスティーノ。
「……っ」
悔しい。けれど、清々しいほどの完敗だった。ルリシアは唇を噛んで掲示板から目を離した。
振り返ると、少し離れた場所にイリヤが立っていた。こちらをまっすぐに見ている。
「見た?」
ルリシアが歩み寄ると、イリヤは小さく頷いた。
「ああ」
「……完敗だった」
素直に認めると、イリヤの口元がわずかに動いた。笑ったのか、そうでないのか、判断しにくい微かな変化。
「何でも、お願い事を聞いてくれるのか?」
「……うん、約束は守るよ」
ルリシアは覚悟を決めて顔を上げた。
イリヤは少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「ルリが俺にお願いしたいことを、教えてくれ」
ルリシアは瞬きをした。
「……え?」
「わざわざ勝負を挑んでまで、俺にしたかった願い事を教えてほしい」
赤い瞳が、真っ直ぐにルリシアを見つめていた。
「お前の願いを叶えてやりたい。それが俺の願いだ」
一瞬、周囲の声も足音も、すべてが遠くなった気がした。
ルリシアの頰に、じわじわと熱が広がっていく。掲示板の前だということも、周りに人がいることも、どこかへ飛んでいきそうだった。
「……ずるい」
掠れた声が、口からこぼれた。
「そんなこと言われたら」
ルリシアは俯いたまま、消え入りそうな声で続けた。
「……星祭り、一緒に行ってほしい。湖畔のボートで、イリヤと星に願い事がしたい」
沈黙が落ちた。
顔を上げられなかったルリシアの頭の上に、大きな手がそっと乗せられた。
「わかった」
短く、迷いのない声。
「連れて行く」
ルリシアが恐る恐る顔を上げると、赤い瞳が優しく細められていた。
二人の視線が静かに絡み合う。イリヤの唇に、穏やかで深い微笑みが浮かぶ。ルリシアも、胸の奥から自然と微笑みがこぼれた。照れくささと幸せで、目尻が少し熱くなる。
掲示板の前でざわめく人々の声も、足音も、すべてが遠く霞んで聞こえた。今この瞬間、世界にいるのは自分とイリヤだけのように感じられた。
赤い瞳の奥に映る、確かな自分への想いに、ルリシアはそっと目を細め、微笑みを深めた。
星祭りの夜が、待ち遠しくて仕方なかった。




