序章
シルヴァリス帝国――帝宮内。
石造りの高い天井と、整然と並ぶ巨大な書架。磨き上げられた黒大理石の床が、暖炉の炎を冷たく反射している。
帝国の威容と冷徹さを体現したような書斎で、皇太子アレクシス・ヴァルドリックは一人、暖炉の前に立っていた。
炎が、揺れた。
ただの炎ではない。赤と金が渦を巻き、まるで生き物のようにうねりながら燃え上がる。
熱気が部屋の空気を歪め、書架の端に置かれた古書がわずかに軋む。
やがて、炎の奥から低く愉しげな声が響いた。
「――見つかったようだな。水の加護の使者が」
アレクシスは表情一つ変えなかった。紫の瞳が、静かに炎を見つめる。
「ガレンの一件で、エメラルド王国でその存在が明確になりました」
「ほう……」
炎がぼっと大きく燃え上がり、部屋を橙色に染めた。
「……存在していた。やはりな」
声のトーンに、抑えきれない興奮が滲む。炎が天井に届きそうなほど激しく踊り、熱波がアレクシスの黒髪をわずかに揺らした。
「お気持ちはわかりますが、落ち着いていただけますか。書架が焦げます」
アレクシスが淡々と告げると、炎はゆっくりと勢いを収めた。
「……して、使者の正体は?」
「不明です」
アレクシスは続けた。
「ガレンが使用した闇魔法に魔力追跡を仕込んでおきましたが――使者が放った魔法により、完全に破壊されました。情報は途絶えています」
「破壊された?」
炎の声が低く沈んだ。
「はい。現場に魔力の残滓すら残っていません。その後の足取りも、完全に消えています」
短い沈黙の後、炎がくつくつと笑うように揺れた。
「……頭が切れる。隠す術を心得ている。ただの力持ちではないな」
「そのようです」
アレクシスの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。冷たく、しかし興味深げな笑み。
「おかげで、興味が湧きました」
炎が激しく躍動した。
「必ず表舞台へ引きずり出してやる。水の加護の使者、逃げ切れると思うな」
その声には、熱い執着と、底知れぬ欲望が滲み出ていた。
ややあって、炎が思い出したように続けた。
「ガレンとやらが、エメラルド王国に拘束されたそうだな」
「ええ」
「お前にとって、まずいのではないか?」
アレクシスは小さく笑った。
口元だけが弧を描く、冷たい笑み。
「私が痕跡を残すはずがありません」
紫の瞳が、暖炉の炎を冷たく映した。
「手は、打ってあります」
**
エメラルド王国――王宮内。
磨き上げられた石畳に、二人の足音が軽やかに、しかし心地よいリズムを刻んで響く。
並んで歩くジルケットとルディナの間には、信頼と、互いを知る者特有の柔らかな空気が流れていた。
しばらく二人の足音だけが続いた後、ルディナがわずかに声のトーンを落とした。
「……ねえ。イリヤ・クロウリーとは、どういう知り合いなの?」
ジルケットは少し間を置いてから、記憶を辿るように答えた。
「俺が王宮へ入って間もない頃だ。謁見に来ていたあいつと、たまたま出会った」
「それで?」
「まだ子供のくせに、強いと聞いていたから手合わせした」
「若き英雄のあなたと、大して歳の差はないでしょう」
「はは、まあな」
ルディナがちらりと横目で彼を見た。
「あの頃の俺は……騎士たちに色々言われていたからな。平民上がりだと、どこか舐めてかかってくる奴も多かった」
深緑の瞳が、遠い記憶を思い起こすように細められた。
「でもあいつだけは違った。真剣に、対等に相手をしてくれた」
声の端に、わずかな温かさと、それと同じくらいの寂しさが混じっていた。
「イリヤは誰に対しても対等だ。ルリが惹かれるのも……よくわかる」
ルディナは前を向いたまま、しばらく沈黙した。やがて、小さくため息をついた。
「……なに、その失恋しましたみたいな顔」
「は?」
「腹立つわ」
ルディナは急に早足になり、さっさと先へ行ってしまった。
「え、待て、何が――?」
ジルケットは困惑した表情で、小走りに後を追った。
**
クロヴィス殿下の執務室。
翡翠色の瞳が穏やかに入室した二人を迎える。
「来てくれたか、ジルケット、ルディナ」
二人が一礼すると、殿下は優しく手を振った。
「楽にしてくれ。それで――ガレン・ヴォルドの件、報告を聞かせてほしい」
ルディナが詳細に報告を始めた。
しかし殿下は、話を聞きながらも何かを察したように瞳を細めた。
「……他には? 何か、変わったことはなかったか」
ジルケットとルディナが一瞬、顔を見合わせた。その沈黙に、殿下の声がわずかに鋭さを帯びる。
「……何かあったのか」
ルディナは一拍置いてから、答えた。
「イリヤ・クロウリーが、近いうちに殿下にお話したいことがあるそうです」
「イリヤが?」
その時、執務室の扉が勢いよく叩かれた。
「失礼します!」
息を切らした騎士が飛び込んできて、顔面蒼白で報告した。
**
地下牢は、松明の炎が壁を赤く染める中、異様な静寂が支配していた。
牢の奥で、ガレンは壁に背を預けたまま動かない。目を見開き、口元に白い泡を浮かべていた。
「……死んでるのか」
ジルケットが膝をつき、首筋に指を当てる。
「……ダメだ、死んでる」
重い沈黙が落ちた。ルディナが松明を高く掲げ、周囲を慎重に確認する。
「魔法結界を破壊された形跡はない。外傷もない」
ジルケットが立ち上がり、眉を深く寄せた。
「なら、何故……」
ルディナは亡骸をじっと見つめて呟いた。
「……まるで、心臓を一瞬で仕留められたような死に方ね」
松明の炎だけが、静かに揺れ続けていた。
**
再び、シルヴァリス帝宮の書斎。
暖炉の前で、アレクシスは告げた。
「闇の小さな棘を、やつの心臓に仕込んでおきました。もう起動しているはずです」
炎が、くつくつと楽しげに笑う。
「簡単に切り捨てるとは、非道な奴だ」
「貴方に言われたくはありません」
アレクシスは冷めた瞳を炎に向ける。
炎が、ゆらりと揺れた。やがて笑い声のように揺らめきながら、ゆっくりと小さくなっていく。
「――またな、アレクシス」
炎が完全に消え、部屋に再び重い暗闇が戻った。
アレクシスはゆっくりと書斎の大きな机に向かい、革張りの椅子に腰を下ろした。
長い指で書類を整えながら視線を落とし、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「さあ」
紫の瞳が、冷たく光る。
「どちらがこの世界の覇権を握れるか。一興と行こうじゃないか、クロヴィス・ヴェルディア」
アレクシスは書類に視線を落とした。
次のページをめくる。そこには、古い記録があった。
――闇の君主。封印記録。
「そういえば」
アレクシスは独り言のように呟いた。
「この特級魔獣を封印するために一役買った、英雄と呼ばれた騎士がいたな」
紫の瞳が、ページの上を滑る。
「その孫にあたる男が、エメラルド魔導学院にいたはずだ」
書類をめくる指が、止まった。
「確か名は――」
**
「イリヤ! もう一度!」
夕暮れの訓練所に、ルリシアの元気な声が響いた。木刀を構えたルリシアの目は、真剣さと輝きに満ちている。
イリヤはその姿を見つめて問いかけた。
「そろそろへばってきたんじゃないのか?」
「甘くみないで。 いつか私に負けても知らないからね!」
ルリシアが頰を膨らませた。拗ねているが、足は構えたままだった。
イリヤは小さく息を吐いた。
「剣を習いたいとか無茶を言い出したと思ったら」
口元が、わずかに緩んだ。
「……なかなか筋はいいな、ルリ」
「先生の教えが上手いからです!」
二人の笑い声が、夕陽に染まる訓練所に温かく響いた。長く伸びた二つの影が、寄り添うように重なり合っていた。
まだ、二人は知らない。この穏やかな夕暮れの向こうに、何が待ち受けているかを。
第二部、5月22日より開始予定です。




