第一部・最終話 二人の歩む道
その夜、私はベッドの上で悶えていた。
「……っ、ずるい、ずるいずるいずるい――!」
枕に顔を埋め、足をばたばたさせる。
すると左足首にズキッと痛みが走り、私は小さく呻いた。
(そうだ、まだ完全に治っていないって、イリヤくんに言われたんだった……でも)
耳の奥に、あの甘い声が何度も蘇る。
――愛してる。
胸の奥が熱くなり、頰がカッと火照る。何度頭を振っても、温かい吐息と赤い瞳の記憶が消えてくれない。
身体の芯まで溶かされそうな甘い疼きに、私は枕をぎゅっと抱きしめた。
「無理――!!」
「うるさいぞ」
隣のベッドから、眠そうなセナの声が飛んできた。
「ご、ごめん……でも無理なの、無理――」
しばらくして、セナの声が柔らかく変わった。
「……良かったね、ルリ。初恋が実るなんて大したもんだわ」
私は枕から顔を上げた。
薄暗い寮室の中で、セナがこちらを向いて、にんまりと微笑んでいた。
その瞳が、ほんのり潤んでいる。
「……うん」
私も自然と笑みがこぼれた。
「応援してくれて、ありがとう」
胸の奥が、じんわりと温かい。親友の優しい眼差しに、ようやく気持ちが少し落ち着いた。
**
翌朝。
中庭のベンチで待ち合わせた場所に、イリヤくんはすでに座っていた。
朝の柔らかな光が紺色の髪を淡く輝かせている。イリヤくんは本を開いている。
イリヤくんを前に深呼吸。落ち着こう。
実はここに来る途中、廊下でライルくんに捕まってしまった。
「ルリシアさん、魔力がうるさいです。落ち着いてください」
眼鏡の奥で目を細め、どこか楽しげに笑う彼の顔を思い出すと、今でも頰が熱くなる。
「おはよう、イリヤくん。待たせてごめんね」
イリヤくんの隣に腰を下ろすと、彼がこちらを見た。
「おはよう、ルリ。今来たところだ」
赤い瞳が朝陽を映して、優しく細められる。
「ねえ、イリヤくん」
呼びかけると、その瞳がまっすぐに私を捉えた。
「伯爵様は……加護のこと、知ってるの?」
イリヤは少し間を置いてから、答えた。
「いや。母から受け継いだ水の魔力があることは知っている。だが父は、俺が魔法を扱うことを一切許さなかった」
声は落ち着いていたが、どこか遠い過去を思い出すような響きがあった。
「通常、一定の戦闘訓練を積むと魔力総量の上限が早期に頭打ちになり、直接行使できなくなる。だから父は――今はもう、俺が魔法を扱えないと思っているだろう」
「……そっか」
私はイリヤくんの横顔をそっと見つめた。
今この瞬間も、彼からは魔力の気配をほとんど感じない。隣に座っているのに、ただの騎士科の生徒のようにしか見えない。
その隠し方の巧みさに、改めて胸が締めつけられた。
「イリヤくんってすごいね。今も全然、魔力を感じない」
「幼い頃から訓練を積んでいる。感知されたら、騎士科に入れなかったからな」
「……そっか」
私は小さく笑った。
「私なんか、さっきライルくんに『魔力がうるさいです』って言われたよ。恥ずかしかった……」
するとイリヤくんの口元が、ほんのわずかに緩んだ。声には出さない、控えめな笑み。でもその笑顔は、私の胸をきゅっと掴んだ。
「……イリヤくんが騎士科でも、魔法科でも」
思わず本音がこぼれた。
「私、イリヤくんのこと好きになってたよ。どっちにいても……」
言いながら、じわじわと顔が熱くなる。
「恥ずかしいこと言ってる……忘れて」
「ルリ」
イリヤくんの声が、静かに落ちた。
「いつまで『イリヤくん』なんだ?」
「え?」
顔を上げると、赤い瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。逃げられないほど近い。
私はスカートの裾をぎゅっと握りしめ、掠れた声で呼び直した。
「……イリヤ」
「聞こえない」
「イリヤ……」
「もう一度」
「――イリヤ!」
ぽん、と頭に大きな手が乗せられた。
「よくできました」
「もー! 子ども扱いしないで!」
イリヤがフッと小さく笑った。その笑顔に釣られて、私も自然と笑顔になる。
朝の光の中で、二人の笑い声が柔らかく重なった。
しばらくして、イリヤの手が私の手にそっと触れた。確かな温かさが触れる手から伝わってくる。
「ルリ」
声が少し低くなる。
「これから先、俺たちの進む道は決して楽なものじゃない。大精霊の加護に選ばれるということは幸運なことではないんだ。お前を危険なことに巻き込む可能性もある」
赤い瞳が、まっすぐに私を映していた。
「それでも――お前と一緒なら、乗り越えていける。隣に居てくれ、ずっと」
胸の奥が熱く震えた。
私はイリヤの手を、しっかりと握り返す。
「うん」
声が少し震える。
「二人でなら、どんな困難にも立ち向かえるよ。ずっと一緒にいる」
イリヤの指が、私の手を包み込むように強く握った。
「だから――離さないで」
その言葉を紡ぎながら、私は彼の温もりに身を委ねた。
**
翌日の授業は、驚くほど絶好調だった。
魔法実技の時間に、先生が提案した応用魔法を誰よりも早く正確に展開する。
「ルリシアさん、今日は随分と好調ね」
先生が目を丸くする。
「はい! なんか……全部うまくいく気がします」
クラスメートがざわめき、ライルくんが眼鏡を光らせながら頷いた。
「ふん、ふん……魔力のバランスが格段に安定していますね」
理論の授業でも、頭が冴え渡っていた。
ペンが止まらず、先生の質問に迷わず答えられる。
(なんだろう、世界の色が違う気がする)
胸の奥に、ずっと灯ったままの温かい光。
イリヤの想いが、私の魔力さえも優しく照らしてくれているようだった。
**
昼休み、食堂でイリヤの向かいに座った。
私は彼がフォークで皿の端に豆を一粒ずつ丁寧に追いやる様子を、じっと眺めていた。
真剣な顔。几帳面な仕草。一つ一つを丁寧に隅へ寄せていく。
「……イリヤ」
「ん」
「豆、嫌い?」
フォークが止まった。
「苦手なだけだ」
いつもの真顔だけど、少し眉が寄ってる。
「……嫌いと何が違うの?」
イリヤは少し間を置いて、至って真面目に答えた。
「嫌いじゃない。ただ、苦手なだけだ」
私は思わず吹き出してしまった。
「それ、同じじゃない?」
「違う」
「どう違うの?」
「……苦手なだけだ」
堂々巡りだったけど、それがなんだか愛おしくてたまらない。私は自分の皿を見て、提案した。
「じゃあ、私が食べてあげる。その代わり、私の苦手なセロリと交換して」
イリヤが顔を上げ、赤い瞳をわずかに丸くした。
「……悪くない取引だな」
「でしょ?」
賑やかな食堂の中で、豆が私の皿へ、セロリがイリヤの皿へ。
なんでもない小さな交換なのに、心がじんわりと甘く満たされていく。
お互いの苦手を、そっと引き受ける。
そんなささやかなことが、今は世界で一番幸せな時間だった。
**
午後の授業が終わった後、私は図書室に寄った。お気に入りの恋愛小説の最終巻を借りて、イリヤに会いに行くつもりだった。
本棚の前に立ち、背表紙を指でなぞりながら探す。
「……あった」
本を手に取り、貸出カードを確認した瞬間――目を疑った。
『イリヤ・クロウリー』
丁寧で、迷いのない筆跡。恋愛小説だけは読まなかった彼の名前が、確かにそこにあった。
私はしばらくそのカードを見つめていた。やがて胸の奥から笑みが溢れ、止まらなくなった。
「……ふふ、何それ。可愛い」
本をぎゅっと胸に抱きしめ、窓の外に目をやる。夕陽が学院の屋根を優しく橙色に染めていた。柔らかな風が、窓辺のレースカーテンを揺らす。
ねえ、イリヤ。世界で一番、大好きだよ。
第一部、完結
第一部「初恋編」完結です。お読みいただきました方々ありがとうございます。恋人同士となった、二人の試練は新たな展開へ。第二部5月22日より開始します。ぜひ応援をお願いします。16日0時に、第二部の序章を公開します。




