第25話 逃げない覚悟
舞踏会から数日後、イリヤくんが学院に戻ってきた。そのことを知ったのは、朝のホームルームが始まる前だった。
廊下を行き交う騎士科の生徒たちのざわめきが耳に入った。
「クロウリーが戻ってきたらしい」
「家督継承の儀、終わったんじゃないか」
胸が跳ねた。足が思わず止まる。
だけど、その日の授業の合間にすれ違っても、イリヤくんは私を見ようとしなかった。
視線が合いかけた瞬間、そらされる。それだけで、胸が痛く締め付けられた。
**
昼休み、私はレイラたちより早く食堂を出て、中庭のベンチに一人で座っていた。
何度も話しかけようと思った。でも、足が動かない。
(何を言えばいいんだろう……)
舞踏会の夜の言葉が、頭の中で繰り返される。
『君にはどうにもできないだろ! これは俺の問題だ』
確かに、私は何も知らない。貴族の世界で何が起きているのか、イリヤくんが何を抱えているのか、何一つ。
このままではいけない……わかっている。
でも、どうしていいかわからない。
**
午後の授業が終わると、私は学院長室の前に立っていた。
三度深呼吸して、扉をノックする。
「どうぞ」
穏やかな声が返ってきた。学院長は書類から顔を上げ、私を見て柔らかく微笑んだ。
「ルリシア君。どうしたんだ?」
「……相談があって来ました」
私は膝の上で手を組み、言葉を絞り出した。
「平民の私が、イリヤくんの隣に立つために、何が必要なのか。貴族社会のことを、知りたいんです」
学院長は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに微笑んだ。
「……真剣な顔だね」
「はい」
学院長はしばらく私を見つめていた。やがて、ゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
「ちょうどいい人物が今、学院に来ている。エルウィン・ヴァレリウス。王宮魔導士部隊の最高顧問だ」
私は息を呑んだ。魔法科の生徒なら知らない者はいない名前。王宮魔導士部隊を長年率い、エメラルド王国の魔導研究を牽引してきた伝説的な魔導士。教科書にも名前が載っている。
学院長は懐かしそうに目を細めた。
「あの男は私の同期でね。今でこそ王宮魔導士の最高顧問だが、学院にいた頃は本当に、見ていられないほど荒くれ者だった」
「あの、エルウィン様が……?」
学院長は苦笑を浮かべた。
「没落貴族の出で、魔力は同期最低。家名へのプライドだけは人一倍強かった。誰にも頼れず、何度も倒れながら、それでも諦めなかった男だ」
私は自然と背筋が伸びるのを感じた。
「君の召喚を、王宮の高台から見ていたらしい。彼も会いたいと言っていた。会ってみるかい?」
「……はい、お願いします」
**
応接室の扉を開けると、そこにエルウィン・ヴァレリウス様が静かに座っていた。
白銀の髪に刻まれた深い皺、しかしその瞳だけは驚くほど鋭く、まるで心の奥底まで見透かしているようだった。私は一瞬、息を呑んだ。
「座りなさい」
威厳を帯びた低い声だったが、不思議と威圧感はなかった。私は緊張で固くなった足を動かし、椅子に腰を下ろした。膝の上で両手を強く握りしめる。
「ライアスを召喚したのは君か」
「……はい」
エルウィン様はしばらく、無言のまま私を見つめていた。その視線が重くのしかかり、胸の鼓動が速くなる。
「学院長から魔力バランスが不安定だったと聞いている。それでもやり遂げた……立派なものだ」
「ありがとうございます……でも、仲間がいたから成し遂げられたことです。私一人の力ではありません」
「……ほう」
彼の口元が、わずかに緩んだ。その表情にほんの少しだけ温かみが宿った気がして、私はほっと息を吐いた。
「聞きたいことがあると、学院長から聞いた」
短い沈黙の後、私は勇気を振り絞った。指先が震えるのを抑えきれず、膝の上でさらに力を込める。
「平民の私が……貴族の世界で対等に立つことは、できますか?」
エルウィン様は即答しなかった。じっと私を観察するような視線が、長く続いた。
居心地が悪いのに、なぜか落ち着く気がした
「君は今、平民であることを引け目に感じているな」
「……それは……はい」
的を射た言葉に私の声が小さく掠れた。
「それが答えだ」
私は目を見張る。
「引け目に思う限り、それは君の枷となる。平民であることは弱点じゃない。まだ武器にしていないだけだ」
その言葉が、胸の奥深くまで突き刺さった。息が一瞬止まる。
「……私も昔、同じだった」
彼はゆっくりと窓の外へ視線を移した。遠い過去を思い出すような、苦い横顔だった。
「没落した家の名前だけを背負って、魔力は同期の中で最低だった。それでも家名へのプライドだけは捨てられなくてな。弱いくせに誰にも頼れなかった。弱さを認めることが、さらなる恥だと思っていた」
静かな声に、長い年月で磨かれた苦さが滲んでいた。私はその言葉を、一つ一つ胸に刻み込むように聞いた。
「何度倒れても、そのプライドだけは手放せなかった。馬鹿な話だろう」
「……馬鹿じゃないと、思います」
私は自然と身を乗り出していた。
「だって……手放したくなかったんですよね。それだけ、必死だったんだと思います」
エルウィン様は少し目を瞬いた。それから、低くくすりと笑った。
その笑みには、どこか懐かしさと自嘲が混じっていた。
「……そうだな。必死だった。あの頃の私は、たくさんの者に迷惑をかけて、やっと気づいた」
一拍、置いた。
「没落貴族だからこそ見える景色がある。落ちこぼれだからこそ届く場所がある。完璧な人間には決して持てない視点が、私にはあった。それを武器にしない手はない、と。気づいた時にはもう前に進む道しか見えなくなった」
私は唇を強く噛んだ。胸の奥が熱くなり、目頭がじんわりと熱を帯びてくる。
「武器にするには、どうすれば……」
「逃げないことだ」
その言葉が胸の中心に落ちた瞬間、別の声が重なった。
『諦めるのは簡単だ。だけど、この道でなければと思うなら――泣いている暇はない。やることがある』
ジルケット様の言葉。
全く違う人生を歩んできた二人が、同じことを言っている。それだけで、私はもう逃げられない気がした。背筋に熱い力が灯る。
エルウィン様は再び私を真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、迷いも曖昧さもない。
「引け目から逃げるな。平民であることから逃げるな。それをまっすぐ見て、受け入れることが君には必要なのではないか?」
私は唇を噛んだ。目の奥が、じわりと熱くなる。
「……私には、隣に立ちたい人がいます。でもその人は、私を守ろうとするあまり、遠ざけようとしてる」
「それは、その者の問題だ」
エルウィン様は静かに続けた。声に、確かな説得力があった。
「君がすべきことは、遠ざけられても揺るがない自分を作ることだ。君が平民であることを引け目に感じなくなった時――その者も、遠ざける理由を一つ失う」
私は視線を落としたまま、言葉を続けた。
「……でも、その人も苦しそうで。私のせいで余計に抱え込んでいるんじゃないかって」
エルウィン様はしばらく間を置いた。深い皺の間で、わずかに眉が寄せられる。
「互いを思いやるあまりに、互いが見えなくなっている……そういうことか」
私は顔を上げた。エルウィン様の目が、まっすぐに私を捉えている。
「まだまだ若いな、君たちは……」
エルウィン様は小さく息を吐き、口元に穏やかな微笑みを浮かべた。
「貴族というのはな、常に立場が付きまとう。家名、血筋、身分――何をするにも、それが先に立つ。たとえ、実力主義であるこの国であっても、自由に選ぶことを周りが許さない。その者も例外ではないだろう」
「……はい」
「だが、君は違う」
その一言が、静かに、しかし力強く落ちた。
「平民である君には、立場に縛られない強さがある。身分がないからこそ、真っ直ぐに立てる場所がある。それを弱点だと思っているうちは、一生弱点のままだ」
エルウィン様は私を真っ直ぐに見据えた。その眼差しに、静かな炎が宿っているように感じた。
「たとえ身分がなくても、それでも隣に立つと決めたなら、思い知らしめてやればいい。平民がどれほどのものか、この目で見せてやればいい」
胸の奥が、じわりと熱くなった。熱が、ゆっくりと全身に広がっていく。
「……自分を、誇りなさい」
削ぎ落とされた、重みのある声だった。飾りも慰めもない。ただまっすぐな、魂に響く言葉だった。
涙が一粒こぼれ、拭おうとしたら、もう一粒こぼれた。止まらなかった。
「……ありがとうございます」
声が震えた。だけど、エルウィン様はそれ以上は何も言わなかった。ただ、深く頷く。
少し間を置いて、エルウィン様はぼそりと付け足した。
「……学院長によろしく伝えてくれ。あの男はいつまで経っても、世話を焼きすぎる」
私は思わず、小さく笑った。涙の残る頰が、わずかに緩む。
エルウィン様は窓の外に視線を向けた。その口元が、ほんの少しだけ柔らかく緩んでいるように見えた。
**
近隣の森での課外授業の日。今日は魔法科のみの授業で、テーマは「自然環境下での属性魔法応用」。魔獣の痕跡を探り、四大属性魔法で安全に探査・対処する実践訓練だった。騎士科は別行動なので、イリヤくんの姿はない。
グループが決まり、男子二人と女子はセナと私の四人組になった。いつもはみんなと連携して楽しく授業を受けるのに、今日はなんだか落ち着かない。
森の中へ入ると木々が密集し、陽光が葉の間からまだらな影を落としていた。私は風魔法で周囲の空気をそっと探っていたが、何故か不安が拭えない。
男子の一人が大きな声で言ってくる。
「女子はもっと後ろに下がってろよ。女は足手まといになるだけだぜ」
「ちょっと、その言い方はないでしょ!? みんなで力を合わせないと意味ないじゃん!」
セナが私の手を握り締めて、反論する。
小さな言い合いをしながらも先に進む。だけど、些細なことで男子二人が言い合いを始めた。
「だからお前の炎魔法は制御が甘いんだよ! ここで派手に使ったら火事になるだろ!」
「はあ? お前こそ風魔法で散らかすだけじゃねえか! 俺が一掃してやるって言ってるだろ!」
二人の声が急に大きくなって、私は声を上げた。
「二人とも、落ち着いて。こんなところで喧嘩しないで――」
私が仲介に入ろうと一歩踏み出した瞬間、勢い余った男子の腕が私をかすめた。もう一人が押し返すように体をぶつけてくる。
その衝撃で、私は後ろに突き飛ばされた。
「あっ……!」
足が木の根に取られ、バランスを崩す。軽く足首を挫き、そのまま尻もちをついてしまった。地面の落ち葉が柔らかくクッションになったけれど、痛みがじんわりと広がる。
「ルリ!?」
セナが駆け寄ってくる。男子二人も口論をやめて、バツが悪そうな顔をした。
「わ、悪い……大丈夫か?」
「足首、捻ったか?」
「大丈夫、ちょっとびっくりしただけ……」
立ち上がろうとして、足首に痛みが走る。思ったより、きつい。セナが肩を貸してくれる。
「無理しないで。少し休もう」
私はセナに支えられながら、近くの木に寄りかかった。深呼吸して、痛みをやり過ごす。
情けないって思った。でも――
逃げるな。やることがある。
二人の声が、胸の奥で重なった。もう泣かない。私は足首をそっと押さえ、小さく息を吐いた。
(今は、できることをしっかりやらなきゃ……)
風魔法で再び、周囲の空気を探ろうとした、その瞬間だった。
魔力の流れが、ざわりと乱れた。
(……?)
動物の気配じゃない。もっと荒々しくて、歪んだ何かの気配が近づくのを感じた。
「……ねえ、みんな」
私は顔を上げて、みんなを見る。
「何か、近づいてくる……」
男子の一人が眉を寄せる。
「え……? 気のせいだろ? 何も感じな――」
その言葉が終わる前に茂みが激しく揺れた。
ゴッ――鈍い衝撃音が、続け様に二つ響く。
男子が二人、殴り飛ばされて地面に倒れた。
セナの悲鳴が上がった。
茂みから人影が現れた。
大柄な体躯。乱れた髪。焦点の合っていない目。
――ガレン・ヴォルド。
「……いた……ルリシア……」
悪意に満ちた声が、まっすぐ私に向いた。
◇◆
騎士科棟、戦術論の授業中。
突然、魔法科棟から教師が飛び込んできた。息を切らして何かを告げると、騎士科担当教師の顔が一瞬で強張った。
「自習だ。全員教室で待機しろ!」
生徒たちがざわめいた。
「先生、何があったんですか?」
「魔法科で何か――」
声が重なる中、イリヤはすでに立ち上がっていた。理由はわからない。ただ、胸の奥が激しく騒いでいた。
「クロウリー! 待機と言った――」
教師の制止も聞かずに、イリヤは扉を開け廊下へ踏み出した。
「おい、イリヤ!?」
エリックの声が後ろで弾けたが、イリヤは振り返らず全力で走り始めた。




