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第26話 氷華の騎士

 石畳を蹴る硬い音が、長い廊下に鋭く響いた。

 ――イリヤは全力で走る。

 心臓が胸の奥で激しく暴れている。胸の奥底から込み上げる焦燥と、得体の知れない恐怖が、彼の足を動かしていた。

 走りながら、記憶が鮮やかに蘇った。



 まだ幼かった頃。

 クロウリー伯爵邸の物置の隅。埃と古い木材の匂いが濃く立ち込める薄暗い場所に、小さなイリヤは膝を抱えて座り込んでいた。剣の稽古が終わると、いつもここへ逃げ込んだ。


 手が、小刻みに震える。


 剣を握るたび、何かが自分の中から遠ざかっていく気がした。幼い指先に感じていた、柔らかく優しい水の感触が、少しずつ、確かに薄れていく。

 亡き母から受け継いだ唯一無二の力――水の加護が、失われていくような恐怖が、幼い胸を締め付けた。


「……坊ちゃん、こんなところにいらっしゃったんですか」


 重い木の扉が軋む音と共に開き、温かな光が差し込んだ。

 侍女のエレノア。艶やかな黒髪を丁寧にまとめ、柔らかな丸みを帯びた優しい瞳をした女性。彼女は、イリヤを見つけると、叱るでもなくそっと近づき、その隣に腰を下ろした。


「また……お泣きになったんですね」

「……泣いてないっ」


 涙を堪える声で否定しても、エレノアは穏やかに微笑むだけだった。長年の奉公が滲むような指が、そっとイリヤの頭に置かれる。


「剣を握ると、魔力が消えそうで……怖い……」


 声が震えた。伯爵家の跡取りとして、こんな弱音を吐いてはいけないとわかっていた。それでも、エレノアの前だけは、素直になれた。


「坊ちゃん」


 エレノアは穏やかでありながら、芯の通った声で言った。


「あなたの力は、剣を握っても消えません」

「……でも」

「消えないんです」


 それは、迷いのない断言だった。彼女の柔らかく温かな手が、イリヤの小さな手を両手で優しく包み込む。


「奥様の水の加護は、あなたの中に確かに生きています。どれだけ剣を握ろうと、あなたの覚悟に精霊がきっと応えてくださいます。――かけがえのないものを守ろうと心から願った時、惜しみなく使ってください」


 イリヤは涙で滲む目でエレノアを見つめた。


 エレノアは優しく目を細め、柔らかく温かな笑顔を浮かべた。

 その表情には、母のような包容力と、静かな強さが宿っていた。


「あなたは、特別な子です。だから、どうか自分を信じて」



 記憶が、霧のようにゆっくりと散り、イリヤはひたすらに走り続ける。

 校舎を飛び出し、演習林へと続く石畳の道を駆け抜ける。靴底が土を踏みしめ、木の根を跳ね越え、木々の間を縫うように森の中へ突入した。


 胸のざわめきは、もう抑えきれなかった。心臓が痛いほどに脈打っている。


(――ルリ!!)


 その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、足にさらに力がこもった。握った剣の柄が軋むほど強く指に食い込む。


 ――守る。


 それだけが、今の彼にできる全てだった。



◇◆



 森の中は、異様なほど静かだった。

 鳥の声も、葉ずれの音も、風の囁きすら消えている。木々の隙間から差し込む淡い光だけが、まるで死んだ世界のように冷たく揺れている。


 ガレンがセナの細い腕を強く掴み、狂気の笑みを浮かべている。


「離して……! 痛いっ……!」


 セナが必死に身を捩るが、ガレンの握力は鉄のように固く、びくともしない。彼女の腕に、指の跡が赤く浮かび上がっていた。


「セナッ!!」


 私は右手を素早く前に突き出した。

 まず風。鋭利な刃状に圧縮した真空の刃がガレンに向かって疾走する。

 次に炎。灼熱の火球が炸裂するように放つ。

 さらに水の奔流と、大地の尖った岩槍を連続で展開した。

 四大魔法――炎、水、風、地。私の全ての力を込めた攻撃だった。


 ――そのとき、瞬時に闇が広がった。


 全ての魔法が、ガレンの身体の周囲に展開された黒い渦に飲み込まれていった。音もなく、抵抗もなく、まるで霧が霧散するように跡形もなく吸収される。


「……え」


 私の息が止まった。指先が冷たくなる。

 ガレンがゆっくりと顔を上げた。焦点の合わない虚ろな瞳と、引きつったように歪んだ口元。首元からぶら下げた黒く濁った結晶石が、禍々しい光を放っている。


「驚いたか?」


 彼は口角を上げてあざ笑った。


「シルヴァリス帝国の闇魔法は、あらゆる属性を吸収する。四大魔法など、俺の前では無力だ」


  私は歯を食いしばり、拳を小刻みに震わせてガレンを睨みつけた。


「自分が何をしているのか、わかってるの!? 闇魔法の国内での使用は国際法で固く禁じられた違法魔法! そんなものを媒体の結晶石まで使って……!」


「うるせえ」


 ガレンの表情が、狂気へと変わっていく。目が血走り、唇の端から涎が垂れ、顔全体が醜く歪んだ。


「もう手段なんて選ばねえ……! イリヤを、完全に壊してやりたいんだよ! あいつの弱点はお前なんだ! お前を失えば、あいつは終わる」


 ガレンはセナの首を乱暴に掴んだまま、狂ったような笑みを浮かべて私を見た。


「ついてこい。もっと面白いものを見せてやるよ……!」

「誰があなたなんかにっ……!」

「大人しく言うこと聞けないなら、まずはこの女を殺す」


 ガレンがセナの首に力を込めた瞬間、セナの顔が苦痛に歪んだ。

 私は息を呑み、拳を強く握りしめた。怒りと無力感が胸を焼くが――今は堪えるしかない。


「……わかった。だから、セナに乱暴しないで」


 声を押し殺して答えると、私は唇を噛みしめ、ガレンの後について歩き出した。


 ガレンは私たちを森の奥の崖縁まで強引に連れて行った。足を捻った痛みが激しく、左足を引きずるようにして歩くしかなかった。

 足元が崩れそうな不安定な場所で、ガレンは乱暴に私を突き飛ばすように立たせ、眼下の奈落を指差した。


 そこにあったのは、底の見えない暗黒の深淵と、その中心で不気味に脈打つ巨大な黒紫の魔法陣だった。陣の周囲には禍々しい黒い霧が渦を巻き、時折、人の悲鳴のような幻聴が聞こえてくる。


「見てみろよ……これが闇の禁呪魔法陣だ。四つの魔力を持つ生贄が必要なんだ。お前みたいな特別な人間が、ちょうどいい」


 ガレンは目を大きく見開き、興奮で肩を震わせながら笑った。笑い声が徐々に高くなり、喉が潰れるような狂った哄笑に変わっていく。


「解放されたら……エメラルド王国は終わりだ。お前も、イリヤも、みんな終わりだ! 全部、全部壊れてなくなっちまうんだよ! ははっ……ははははは!」


 彼の瞳には理性の光がほとんど残っていなかった。ただ破壊と復讐だけを求める、底知れぬ狂気が渦巻いている。

 セナの首を締める手に、さらに力がこもる。彼女の顔が苦痛に歪み、細い喉から苦しげな息が漏れた。


「ぐっ……ルリ……っ」

「……セナ!」

「選べ。お前が自ら飛び込むか、それとも後三人の魔導士をここに連れてくるか。どっちでもいい。まずはこの女から始めてやる」


 セナの瞳に、恐怖と諦めが浮かんだ。私は奥歯を噛み締めて告げる。


「……私が生贄になる。だからセナを離して」


 ガレンの動きが、一瞬止まった。


「……へえ」


 彼の顔に、ぞっとするほどの喜びが広がる。

 その手が僅かに緩んだとき――セナが全身の力を振り絞ってガレンの腕から身を捩った。


「ルリっ――今っ!!」


 私は足の痛みを堪えながら懐から短剣を抜き、ガレンの腕に向かって振り下ろした。

 刃が皮膚を浅く裂く。ガレンが舌打ちし、私の手首を強く掴み取った。


 その瞬間、セナの足が崖の縁で滑った。


「セナぁぁ!!」


 私の叫びが響く直後、白い影が空を裂いた。


 白い飛竜の背に跨ったジルケット様が、落下するセナに向かって手を伸ばす。


「捕まれ!」


 ジルケット様の力強い声が響き渡った。飛竜の翼が風を切り、セナの身体を間一髪で掴み取る。


 ガレンが驚愕して動きを止めた。

 背後から、凛とした女性の声が響く。


「ガレン・ヴォルド。闇魔法の不正使用、並びに国民を巻き込み王国を陥れようとした容疑により、国際法に基づき身柄を拘束する」


 銀色のローブを纏った女性が、杖を構えて立っていた。厳格な表情、しかし揺るぎない威厳。


 エメラルド王国王宮魔導士部隊長、ルディナ・ヴォルテール。


 ルディナ様の風と地の複合魔法がガレンに向かって奔った。しかし、それもまた黒い渦に飲み込まれ、跡形もなく消えていく。


 ガレンが嘲るように大笑した。


「効かねえっていってんだろ! お前らの魔法なんて俺には通用しねえんだよ!」


 ルディナ様は表情を変えず、静かに答えた。


「そうね。だから魔導士と騎士は共にあるのよ」


 ガレンの顔が一瞬歪んだとき――


 白い影が飛竜の背から飛び降り、魔力を纏った銀色の剣が空を裂いて振り下ろされた。

 ジルケット様の剣にルディナ様の魔力が剣身に絡みつき、重く鋭い一撃がガレンの頭上を襲う。


「――ちっ!」


 ガレンは咄嗟に闇魔法を纏った腕で剣を構え、間一髪で受け止めた。

 しかし、ジルケット様の魔力強化された重い剣捌きに押され、地面に膝を突きながら後退する。顔に焦りが浮かんだ。


「くそっ……!」


 ジルケット様は一撃で距離を詰め、容赦なく剣を振り回す。追い詰められたガレンの表情が、一瞬で変わった。

 次の瞬間、私の身体が乱暴に引き寄せられ、冷たい刃が喉元に突きつけられた。


「動くな! この女を殺す!」


 ジルケット様の動きがピタリと止まった。悔しげに歯を食いしばりながらも、隙を伺う。


 その時、私は気づいた。


 ガレンの身体を包む闇魔法と、崖下の巨大な禁呪魔法陣が、まるで同調するように脈打っている。魔法陣が光るたびにガレンの闇が強くなり、逆にガレンの闇が陣を活性化させている。


(……呼応している。外から攻撃しても無駄。根源を断たない限り、闇は止まらない)


 私は静かに息を吐いた。

 もう、迷いはなかった。


「お望み通り……私があなたの願いを叶えてあげる」


 ガレンの顔が、期待と狂喜に緩んだ。

 

 私は捕まれた腕ごと身体を捻り、ガレンが媒体として首に下げた黒い結晶石に手を伸ばした。


「――なっ!?」


 指先が結晶石を掴み、紐から引き千切る。

 そのまま、私は崖の縁から身を投げ出した。


「ルリシア!!」


 ジルケット様の叫び声が、急速に遠ざかっていく。白い飛竜の翼音がすぐ近くまで迫ってくるのが聞こえた。だけど、ガレンの闇魔法が作り出した黒い渦が壁のように立ち塞がり、飛竜の接近を阻んでいる。


 私は落ちながら、ゆっくりと目を閉じた。


(イリヤくん……)


 彼の顔が、瞼の裏に浮かんだ。いつも変わらない表情――でも私に向けるときだけ柔らかくなる赤い瞳。


(仲直り、したかったな……)


 涙が落ちる途中で風に飛ばされていく。


(あなたの隣がよかった……)


 底知れぬ暗闇が、私の身体を冷たく貪欲に飲み込んでいった。



◇◆



 崖上で、重い静寂が落ち、ガレンが獣のような怒号を上げた。結晶石を奪われた激昂で、闇魔法が暴走するように黒い渦を膨れ上がらせる。


「――氷華」


 冷たい声が戦場を一瞬で塗り替えた。

 世界が白く凍てついた。


 一瞬の出来事。空気が極限まで冷え切り、木々も、地面も、ガレンの周囲に渦巻く闇すらも、美しい蒼白の氷晶に包み込まれていく。

 音もなく、一切の抵抗を許さない絶対零度の冷気が全てを支配した。


 ガレンの狂った表情が氷の中に固まっていた。目を見開き、口を歪めたまま、動きを完全に奪われる。


 ジルケットが飛竜の背で息を呑んだ。

 ルディナもまた、目を見張っていた。これほどの規模と精度の氷魔法を、彼女は今まで一度も目にしたことがなかった。

 美しくも冷酷な蒼白の氷晶は、ガレンとその闇魔法だけを的確に捉え、周囲の自分たちには一切影響を及ぼしていない。


 崖の縁に、一人。


 黒の制服に身を包み、紺色の髪が風に揺れ、燃えるような赤い瞳は、静かな怒りと強い決意を宿していた。

 その右手には愛剣が握られ、蒼白い氷の魔力が剣身全体に美しく纏わりついている。


「……イリヤ・クロウリー」とジルケットは静かに呟いた。


 イリヤは氷を纏った剣を横へ薙ぎ払う。

 ガシャン、という澄んだ音と共に、凍りついた闇魔法が粉々に砕け散る。氷の欠片が光を反射しながら空に美しく舞い上がった。


 幼い日の記憶が、脳裏で蘇る。


(あなたの力は、剣を握っても消えません――)


 エレノアの温かな声。


(それは――あなたのかけがえのないものを守るための力)


 イリヤの瞳に、迷いはなかった。


 彼は剣を握ったまま、蒼白い氷の輝きを全身に纏い――奈落の底へと飛び込んだ。

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