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第24話 すれ違う想いと暖かい風

 殿下とのダンスが始まったときから、私はずっとイリヤくんの視線を感じていた。

 ダンスが終わった瞬間、私はクロヴィス殿下に深くお辞儀をした。殿下は優しく微笑み、翡翠の瞳を細めて私の肩に軽く触れた。


「……緊張していたようだね。無理をさせてしまったかな? 頰が赤い……少し休んだ方がいい」


「……ありがとうございます、殿下。とても、光栄でした……」


 殿下と別れた瞬間、人波をかき分けてこちらへ向かってくる姿が見えた。

 

 ――イリヤくんだ。


 胸が大きく跳ねた。数週間ぶりに会えた。心臓の音が自分でも聞こえそうなほどだった。


「……話がある」


 返事も待たずに手首を掴まれた。その指の力強さに、思わず息を飲む。

 人波を抜け、バルコニーの端の暗がりへ引き込まれる。音楽が徐々に遠ざかり、夜の空気が肌に触れた。

 

 やっと二人きりになれたと思った瞬間――


「ジルケット卿と、いつから親しいんだ」


 声が低く、抑えきれない棘を含んでいた。

 胸がちくりと痛んだ。


「……今日初めて会ったの。一人でいたところを助けてもらっただけで……」

「エスコートされて入場して、殿下とのダンスまであいつにエスコートされていた……それが『助けてもらっただけ』か?」


 言葉の端々が尖っていて、普段のイリヤくんとは違う苛立ちが滲んでいた。


「……どうして、そんな風に言うの?」


 イリヤくんの赤い瞳が、一瞬激しく揺れた。


「学院で……何故、待っていてくれないんだ」


 その言葉に、私は目を瞬いた。声の奥に、寂しさのようなものが混じっている気がした。


「……待ってたよ。ずっと待ってた。今日はイリヤくんに会いに来たの」


 抑えていた想いが、一気にこみ上げてくる。


「連絡もなかったから心配で……でも今日なら会えるって、ただ会いたくて、それだけで来たんだよ。なのに、なんでそんなこと言うの」


 イリヤくんの赤い瞳がまた揺れた。唇が開きかけて、しかし言葉は出てこない。

 しばらく、言葉はなかった。夜風が静かに吹き抜け、木々の葉を揺らす音だけが、二人の間をゆっくりと流れていった。


「あの学院で君と共にいるために、俺は――」


 イリヤくんは言いかけて、ぴたりと止まった。

 ぐっと奥歯を噛みしめるのがはっきりわかり、拳が脇で白くなるほど固く握られていた。肩が小刻みに震えている。


「……イリヤくん」

「……なんでもない」

「なんでもないって何? また一人で抱えてる。またそうやって……わかんないよ」


 声が震えていた。自分でも気づかないうちに、言葉が溢れ出していた。


「わかんないっ。どうしてイリヤくんはいつも一人で全部やろうとするの。私には何も言ってくれないの、私には――」


「君にはどうにもできないだろ!」


 鋭い声が夜の空気を切り裂いた。感情が爆発したような、痛々しい響きだった。


「これは俺の問題だ!」


 重い沈黙が落ちた。

 音楽が遠くで流れ続けている。シャンデリアの光はバルコニーまで届かず、薄暗い中でイリヤくんの表情がぼんやり浮かんでいた。


 イリヤくんは自分が何を言ったかに気づいたように、はっと目を見開いた。


 私の目から、熱い涙が一粒頰を伝った。


 止めようとした。笑おうとした。でも顔がうまく動かず、唇がただ震えるだけだった。


「……それって」


 声がかすれて、ほとんど喉から絞り出すようだった。


「私が平民だから? やっぱり私は……イリヤくんの負担でしかないの?」

「違う」


 即座に返ってきた。


「……違う! そうじゃない、そうじゃないんだ」


 イリヤくんの声が初めて大きく割れた。感情を抑えきれず、息が乱れている。赤い瞳が苦しげに歪み、必死に何かを堪えているのが痛いほど伝わってきた。


 苦虫を噛み潰したような顔で、唇を強く引き結んだ。


「……少し、頭を冷やしてくる」


 踵を返した背中に、引き留める言葉が出てこなかった。遠ざかっていく黒のタキシードの後ろ姿を見つめながら、私はバルコニーの手すりをぎゅっと握りしめた。指先が白くなるほど。


「……イリヤくん」


 涙が次々と溢れ、堪えようとするほどに嗚咽が喉を突き上げて、肩が激しく震えた。

 拭おうとする手も指も制御が利かず、ただ熱い雫が止まることなく頰を伝い落ちた。

 それでも声は出せなかった。ただ、息を詰めて泣くことしかできなかった。



**



 どのくらいそうしていたかわからない。

 手すりを握ったまま、ただ涙が止まるのを待っていた。もう泣き続けることでしか、胸の痛みを和らげる方法が思い付かない。


「……また一人でいるのか」


 穏やかな声が背後から聞こえた。

 振り返ると、ジルケット様が月明かりの下に立っている。白い騎士服が夜の闇の中で静かに浮かび上がり、どこか神々しく見えた。


「っ……ジルケット様」


 慌てて目元を拭った。でも涙は一向に止まってくれず、頰を伝い落ちる。


「見ていたわけじゃない。ただ……声が聞こえた」


 ジルケット様は私の隣に静かに立ち、同じように庭園へ視線を向けた。こちらを直接見ないでいてくれるのが、せめてもの救いだった。


 しばらく、重い沈黙が続いた。


「……俺には、守ると誓った人がいる」


 ぽつりと、夜の闇に溶け込むような静かな声だった。


「クロヴィス殿下のことです……か?」

「ああ」


 ジルケット様の深緑の瞳が、遠い過去をたどるように遠くを見つめていた。


「平民の俺を守るために、殿下はずいぶん苦労した。地位を与えようとするたびに反発する者が出たんだ。それでも殿下は実力で黙らせる道を切り開いてくれた。俺のために」


 低い声に、静かで重い想いが込められていた。


「だから俺はひたすら剣を握った。殿下の苦労を無駄にしたくなかった。あの人に恥じない自分でいたかった」


 私は手すりを握ったまま、ジルケット様の横顔をじっと見つめた。月明かりがその横顔を優しく照らしている。


「……諦めるのは簡単だ」


 ジルケット様が静かに続けた。


「平民だから無理だと思うなら、別の道を探せばいい。それだけのことだ」


 少し間を置いて、


「だけど――君自身が、この道でなければと思うなら」


 深緑の瞳が、静かだが力強く私を捉えた。


「泣いている暇はないぞ。やることがある」


 胸の奥がじわりと熱くなった。

 涙がまた一粒こぼれた。でも今度は、さっきとは少し違う、決意に似た熱を帯びた涙だった。


「……ジルケット様は」


 声が震えた。


「諦めたいと思ったことは、ありましたか?」


 ジルケット様は少し間を置いてから、静かに微笑んだ。


「何度もあるさ。でも諦めなかったから今がある」


 その言葉が心に十分染み渡った。私は目元を拭い、小さく息を吸い込んだ。


「……ありがとうございます」


 ジルケット様は庭園へ視線を戻しながら、ふと思い出したように言った。


「……そういえば」

「はい?」

「今日、君の笑顔を見ていない」


 私は瞬いた。


「パーティーが始まってからずっと見ていたが……一度も笑っていなかっただろう」


 少し照れくさくなって視線を落とした。


「……それは、その……色々あったので」

「そうだな」


 ジルケット様は私の方へゆっくりと顔を向けた。深緑の瞳が月明かりの中で柔らかく細められる。


「君はどんな風に笑うんだ」

「え……」

「見てみたい」


 真っ直ぐで、飾り気のない言葉だった。誤魔化しも社交辞令もない。ただまっすぐに、私の心に届くように言った。頰に熱が一気に上った。


「……そんな、急に言われても」

「急で悪かった」


 ジルケット様は小さく笑って踵を返した。

 白い騎士服の背中がバルコニーの入口へ向かっていく。扉に手をかけたところで、振り返らずに静かに言った。


「……いつか笑顔を見せてくれ。楽しみにしている」


 それだけ残して、静かにその場を去っていった。私はしばらくその場に立ち尽くしていた。夜風が頰を撫でる。さっきより少し温かく感じた。


 ……なんだろう。あの人はまるで……穏やかで、静かで、まるで春の初風のような人だった。冷え切った胸の奥に、そっと温もりを運んでくれるような。強く吹き荒れるのではなく、ただ優しく通り過ぎて、固く閉ざしていた場所にふっと隙間を作ってくれる。


 胸の奥にまだ棘は残っている。でも不思議と今は少しだけ息ができる気がした。


 イリヤくん。諦めたくない。あなたの隣に立つことを、諦めたくない。

 だから――今の私にできることを、やるしかないんだ。

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