第22話 仮面の夜 イリヤside
ルリシアside、イリヤside同時投稿してます。
イリヤsideは三人称視点です。
クロウリー伯爵邸は、学院とは全く異なる空気を纏っていた。石造りの廊下は静寂に満ち、使用人たちの足音さえも吸い込まれるように消えていく。
イリヤは父の執務室の前に立ち、扉を叩いた。
「入れ」
低く威圧的な声が返ってきた。扉を開けると、窓を背にした大きな椅子にクロウリー伯爵が座っている。
イリヤと同じ赤い瞳が、こちらを捉えた。ただ父の目は、長年の権力と冷たさでずっと鋭く研ぎ澄まされている。
「実務任務、やり遂げたそうだな」
「はい」
「当たり前のことだがな」
伯爵は書類から目を上げることなく、続けた。
「お前とペアを組んだのは、ルリシア・クリスティーノ。四大魔法を扱う、平民の娘だったな」
イリヤは答えなかった。
「魔法科の首席であるとは聞いた。だが身分のない娘だ。その娘とお前がずいぶんと親しくしているとの報告があった」
伯爵はようやく書類を置き、赤い瞳をイリヤに向けた。
「お前は何故、彼女をパートナーに選んだ? 彼女の実力を買い、騎士としての格を上げる為か? それとも、それ以上の気持ちがあるのか?」
沈黙が、執務室に落ちた。
「返答次第では、もうお前を学院へ帰すわけにはいかなくなる。答えろ」
イリヤは静かに口を開いた。
「父上が何を疑っていらっしゃるのか、分かりません」
「……」
「彼女は優秀な魔導士であり、努力家でもあります。生まれは関係ありません。私は彼女を――尊敬しております」
伯爵の視線がさらに鋭くなった。イリヤもその目を逸らさなかった。
沈黙が長く続いたが、やがて伯爵は小さく息を吐き、視線を窓の外へ逃がした。
「三日後に家督継承の儀を取り行う。お前は家督を継ぎ、特待生として本年度の認定試験を受け卒業しろ」
イリヤは静かに立っていた。
「下がれ」
一礼し、踵を返す。
扉に手をかけたとき――
「卒業後、王宮での地位も既に確立している」
背中に、言葉が刺さる。
「王国一の騎士、ジルケット・ブライアン。平民上がりの男にこれ以上の遅れをとるな」
イリヤは振り返らず、ただ黙って扉を閉めた。
**
バルコニーに出ると、夜風が頰を撫でた。
……息苦しい。
胸の奥に何か重いものが沈み込んでいるようだった。イリヤは手すりに両手をつき、空を見上げた。月が静かに光っている。
(……ルリ)
自然とその名前が浮かんだ。すると少しだけ、胸のつかえが緩む気がした。イリヤは月を見つめたまま、しばらくその場を動けなかった。
**
そして、三日後。
クロウリー伯爵邸の大広間は、煌びやかな光に満ちていた。
王都の名だたる貴族たちが一堂に会し、家督継承の儀が粛々と執り行われていく。
イリヤは礼装に身を包み、伯爵家の跡取りとして広間に立っていた。
(……別の人間になったようだ)
内心でそう思いながら、表情は一切崩さない。儀が始まる前、人波の中から遠慮がちな声がした。
「クロウリーくん」
振り返ると、温和な顔立ちの初老の男性が立っていた。その表情には、わずかな罪悪感が滲んでいる。
ローレンス伯爵。シーラの父親だ。
「この度は……娘が大変なご迷惑を。然るべき処罰は受けさせます。どうか、お許しいただけますでしょうか。……娘なりに、一生懸命だったのだと思います」
イリヤは穏やかに、しかし確かな声で答えた。伯爵家の跡取りの仮面が、完璧に顔に張り付いている。
「いいえ。こちらこそ、シーラ嬢を追い詰めてしまいましたこと、お詫び申し上げます」
ローレンス伯爵が、目を丸くした。
「と、とんでもない……あなた様のお優しさに、何と申し上げれば……」
「いずれにせよ、学院での出来事です。シーラ嬢も、この経験で多くを学ばれたことと存じます。水に流しましょう」
ローレンス伯爵の表情が、罪悪感から安堵へと変わっていく。目元が少し赤くなった。
「……寛大なお言葉、痛み入ります。娘も必ず反省して、立派に……」
「ローレンス伯爵」
イリヤは口元に穏やかな笑みを浮かべた。普段、学院では決して見せない表情だ。
「娘思いの父上のもとで育たれた方です。シーラ嬢の今後を、私は楽しみにしております」
ローレンス伯爵が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
イリヤは静かに続けた。
「それより、ローレンス伯爵。魔導兵器開発局のお仕事、以前から大変興味を持っておりました。よろしければ、お話をお伺いできますか?」
ローレンス伯爵の表情が、警戒から困惑へ、そして満更でもない色へと変わっていく。
「は、はあ……それは、もちろん――」
二人はそのまま人波の端の方へ、ゆっくりと姿を消した。
**
儀の開始を告げる声が広間に響いた。
クロウリー伯爵がゆっくりと立ち上がり、厳かな声で宣言した。
「……今宵、我がクロウリー家は、次期当主を正式に定める。イリヤ・クロウリーよ」
広間が静まり返る。
「お前は学院一の剣士として名を馳せ、入学以来学力も首席を維持し続けた。クロウリー家は歴代最高位の騎士を輩出してきた名家だ。お前の実績は、すでに十分に認められている」
伯爵の赤い瞳が、イリヤを鋭く射抜く。
「家督を継ぐ準備は、整ったか?」
「はい、父上」
イリヤは静かに、しかし真っ直ぐに伯爵を見据えた。
「ただ、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「……言え」
「家督を継ぐ準備は、整っております。しかし――クロウリーの名を継ぐ者として、申し上げたいことがございます」
広間の空気が引き締まった。居並ぶ貴族たちの視線が、一斉にイリヤに集まる。
「私にはまだ、学院で積むべき経験がございます。特待生として早期に卒業することは――私には、勿体なきことと存じます」
イリヤは一拍置き、続けた。
「同期の者たちと共に学び、共に卒業することこそが、クロウリーの騎士として相応しい姿と考えております。焦って世に出るより、学院での学びを全うした上で父上の期待に応えたい。それが、私の願いでございます」
広間に、静寂が落ちた。
クロウリー伯爵は口を開こうとした。
その瞬間――
「まことに、もっともなお言葉かと存じます」
穏やかな声が響き渡り、広間にいた観衆の視線が一斉にローレンス伯爵へと向いた。
「クロウリー様のご子息のお言葉、さすがでございます。謙虚に学びを全うしようとする姿勢――これこそ、真の騎士の在り方ではないでしょうか」
続いて、別の貴族が口を開く。
「左様。焦って早期に世に出るより、学院での経験を積んでからの方が、クロウリー家の名にも箔がつきましょう」
「イリヤ様のお考え、私めも支持いたします」
次々と賛同の声が上がっていく。クロウリー伯爵の表情がわずかに強張った。しかしそれでも口を開こうとした。
その時、広間の奥から重厚な声がした。
「私からも一言よろしいでしょうか」
人波が自然に割れた。堂々とした体躯の壮年男性が現れる。
バーズフェルト公爵、レイラの父であり、この場で最も高い爵位を持つ者だ。
公爵はゆっくり歩み出て、クロウリー伯爵に向き直った。
「イリヤ殿のお言葉、私も支持いたします」
穏やかだが、揺るぎない声だった。
「早期に世に出ての経験も、確かに大事でございましょう。しかし――」
公爵は一拍置き、広間全体に響くように続けた。
「あの学院でなければ学べないこともある。それは、私自身が娘を通じて痛感していることでもございます」
公爵の瞳が、静かにクロウリー伯爵を見据えた。
「イリヤ殿は、学院でその名に恥じない実績を積み重ねてこられた。その若者が、自ら『まだ学ぶべきことがある』と申している。これほど頼もしい言葉が、他にありましょうか」
広間がしんと静まった。クロウリー伯爵は公爵をじっと見つめていた。
公爵位の重み、貴族たちの賛同、そして息子の言葉。反論の余地はどこにもなかった。
「……好きにしろ」
伯爵は小さく息を吐き、そう言って視線を逸らした。広間に張り詰めた空気から安堵の空気へと広がっていく。
イリヤは静かに一礼した。表情は変わらないままだったが、胸の奥でそっと息を吐いた。
(……時間は、作った)
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儀が終わった後、イリヤは人混みを抜けてバーズフェルト公爵のもとへ歩み寄った。
「公爵、本日はありがとうございます。おかげで私の願いを叶えることができました」
公爵は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「よい判断だったと思うよ、イリヤ殿。……実はレイラから、君の助けになってほしいと言われた。あの子は君のことを学院での良き競争相手だと言っている。互いに高め合える存在なのだろう」
公爵は少し目を細めて続けた。
「ところで、近いうちに我が家で小さな舞踏会を開く。よかったら顔を出してくれないか。レイラも喜ぶだろう」
イリヤは深く頭を下げた。
「光栄です。ぜひお伺いします」
公爵は満足げに頷くと、穏やかな足取りで人混みの中へ戻っていった。イリヤはその広い背中を、しばらく静かに見送っていた。




