第22話 残された温もり ルリシアside
イリヤくんが騎士たちを連れて去っていく背中を、私はただ見つめていた。
「イリヤくん……」
声は出なかった。喉が詰まって、指先が震えて、足がその場から動かない。
さっきまで私を包んでくれた彼の温もりが、まだ残っている。「必ず戻る」という約束だけ胸に刻まれた。
彼の背中は、もう廊下の角を曲がって見えなくなっていた。
「……ルリ?」
レイラの声が、すぐ後ろから聞こえた。彼女が私の肩にそっと手を置いてくれる。温かくて、優しい手。
「大丈夫?」
私は小さく首を頷いた。でも大丈夫じゃない。
言葉にしたら泣いてしまいそうで、唇を強く噛んだ。レイラは私の手を握って、静かに言った。
「イリヤ、すぐに戻ってくるわよ。信じて待ちましょう?」
「……うん」
私は無理に笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。左耳に触れると、もう赤いイヤリングはない。任務が終わった瞬間に、淡い光を放って崩れ落ちて消えてしまった。
あの石がなくなった途端、イリヤくんが急に遠くに感じる。まるで、繋がっていた糸が、ぷつりと切れてしまったみたいで。
その夜、女子寮の部屋でみんなが私のために集まってくれた。お菓子と紅茶を囲み、夜遅くまでおしゃべりして、少し寂しさは和らいだ。
――でも、ふっとした瞬間に不安が押し寄せる。
私はベッドに座り、枕を抱きしめる。セナとエマはもう寝息を立てている。レイラだけが、まだ私の横に座って、静かに私の髪を撫でてくれていた。
「……レイラ」
「ん?」
「イリヤくん、伯爵家で何を言われるんだろう……」
レイラの手が止まった。少し考えてから、静かに答えてくれる。
「クロウリー伯爵は厳しい人だって聞くわ。イリヤが学院で何をしてきたか、誰と関わってきたか……全部、報告を求められるんじゃないかしら」
私は足元を見つめたまま、胸の奥がざわつくのを感じた。
「私……やっぱりイリヤくんの足を引っ張ってるのかな」
レイラが小さくため息をついた。
「またそれ? ルリ、あなたはイリヤにとって、かけがえのない存在よ。彼はもう、あなたを選んでる。あなたが信じてあげないでどうするの?」
「……でも」
「でも、じゃないわ」
レイラは私の手をぎゅっと握って優しく、でもはっきりと言った。
「イリヤは、あなたを守るために動いているの。
あなたが不安がるたびに、彼の負担が増えるだけよ。信じてあげなさい」
私は目を閉じて、レイラの言葉を胸に刻んだ。
「……うん。信じる」
「まぁ、イリヤも口数少ないせいで……肝心なことはなかなか話さないし。不安になるのも仕方ないわね……私が殴っておこうか?」
「……ふふ。ありがとう、レイラ。でも大切な人たちが殴り合いになるのは嫌だな」
「それもそうね」
私たちは顔を見合わせて小さく笑う。レイラの強さと優しさがいつも私を支えてくれる。
心のどこかで、まだ小さな棘が刺さったままだった。でも今は、彼を信じて待つしかない。
イリヤくんが伯爵家に戻った理由。
シーラさんが遺跡で言っていた言葉。
そして、私が平民だということ。
全部が、頭の中でぐるぐる回る。試練を乗り越えてもまた新たな壁が立ちはだかる。
なのに、今回はイリヤくんのそばで共に立ち向かえない事への不安がどうしても拭えなかった。
眠れなくて、私はそっとベッドから抜け出した。窓辺に立って、夜空を見上げる。
月が、静かに光っていた。
(……イリヤくんも、今夜この月を見ているかな)
そんなことを思ったら、少しだけ胸のつかえが緩む気がした。
遠くても、同じ月の下にいる。それだけで、今夜はもう少し眠れそうな気がした。
**
イリヤくんが伯爵家に戻ってから、一週間が経った。
学院の日常は、変わらず続いている。授業を受け、図書室で勉強し、レイラやセナたちとご飯を食べる。
でも、私の中はどこか空っぽだった。
朝の女子寮の部屋で、私は窓辺に座って外をぼんやりと眺めていた。世界から色が少しだけ消えたように感じる。
その後、私はいつもより早めに教室に入り、席で一人ぼんやりと本を開いていた。
無意識に指先がネックレスの結晶石に触れる。ライアスを召喚した時に手に入れた、透明の小さな石。特に反応はしないけど、触れると不思議と胸の奥が静かになる気がした。
すると、聞き覚えのある軽い足音が近づいてきた。
「ルリシアさん、おはようございます」
ライルくんだ。
いつもの眼鏡を光らせ、にこにこと笑いながら私の向かいに座る。
「今日も魔力バランス診てもいいですか?」
私は小さく微笑んで、教科書を閉じた。
「……いつもありがとう、ライルくん」
ライルくんはジッと私を見つめて、時々「ふん、ふん」と鼻を鳴らしている。
しばらくして、彼は満足げに頷いた。
「守護精霊に過剰な魔力を譲渡したおかげで、四大属性のバランスはかなり整ってきましたね。もう、倒れ込むようなことはなくなったはずです」
「……よかった」
私はほっと息を吐いた。
でも、ライルくんは私の顔をじっと見て、眼鏡の奥の目を細めた。
「ただ……今は心のバランスが乱れていますね。イリヤさんが伯爵家に戻ってから、ずっとこんな感じですよね?」
私はびっくりして顔を上げた。
「え……?」
「一週間経つのに、まだ連絡もない感じですか?」
私は唇を軽く噛んで、視線を落とした。
「……うん。何かあったのかなって、心配で」
ライルくんは優しく微笑んだ。
「そういえば、シーラ嬢が偽物の鍵を王宮から持ち出した件で、謹慎処分になったそうですよ。彼女の友人たちが騒いでいました」
「……そう、なんだ」
少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
でも、それでもイリヤくんの不在は重くのしかかる。
ライルくんは立ち上がりながら、軽い調子で言った。
「まあ、イリヤさんは強くて賢い人ですから。
きっとすぐに戻ってきますよ。それまで、ルリシアさんは無理せず待っていてくださいね」
「……ありがとう、ライルくん」
ライルくんが出て行った後、私はまた本を開いたふりをしながら、窓の外をぼんやりと見つめた。
イリヤくん……今、どんな顔をしてるんだろう。
**
その日の午後、レイラが私の部屋にやってきた。赤い髪を優雅に揺らしながら、彼女は私の手を握って言った。
「ねえ、ルリ。週末にうちの公爵家が主催する舞踏会があるの。あなたも一緒に来ない? お父様がクロウリー家にも招待状出してるって」
私は目を丸くした。
「……私? でも、平民の私がそんな場所に……」
レイラは笑って、私のおでこを優しく突っつく。
「何言ってるの? あなたは今、学院の首席よ。
私がお父様に頼んで、正式な招待状を出してもらうわ。大丈夫、私の親友なんだから」
私は少し迷ったけど、レイラの笑顔を見て小さく頷いた。
「……行きたい。イリヤくんに……会えるかもしれないなら」
レイラはにっこり笑って、私の手を引いた。
「決まり! 早速、仕立て屋に行きましょう! あなたに似合う、素敵なドレスを用意させるわ。イリヤが、目を奪われるようなものを!」
私は頰を赤らめながら、レイラに引っ張られていった。
「……ありがとう、レイラ……私、頑張ってみる」
ドレスを選びながら、私は心の中でそっと願った。イリヤくん……舞踏会で、あなたに会えますように。




