第19話 水の記憶と精霊
鍵を入手した水鏡の間への扉がある大広間の一角、石の窪みに二人は腰を落ち着けていた。
しばらくして、ルリシアが微かな気配を感じて目を向ける。石の床を、小さな生き物がちょこちょこと歩いていた。
まんまるな目、細長い体。トカゲに似た姿をした、淡い水色の光を纏う生命体。
『精霊』だ、とルリシアは直感した。
精霊はイリヤの傍らまで来ると、その足元にするりと寄り添い、まんまるな目で彼を見上げた。そして小さな前足で、イリヤの膝を軽く叩く。
イリヤは無言で、しかしごく自然な動作で精霊の頭を指で触れた。
精霊が気持ちよさそうに目を細める。
「……イリヤくん」
ルリシアが小さく声を上げると、イリヤが顔を上げた。
「その子……なんで、イリヤくんに懐いてるの?」
「……さあ」
ルリシアは言葉を失った。精霊はすでにイリヤの頭の上に乗り、完全にくつろいでいる。
精霊は普段、人前には姿を表さない。ルリシアも授業で見たことはあっても、野生の精霊を間近で見たのは初めてだった。
その光景に、彼女は少し嫉妬した。
精霊に懐かれているイリヤもずるいし、精霊がイリヤの頭にくっついて甘えている姿も、なんだか羨ましかった。
ルリシアはその不思議な光景をしばらく凝視した後、イリヤが居た堪れなくなったのか、渋々口を開いた。
「昔から爬虫類には、よく好かれるんだ」
爬虫類呼ばわりされた精霊がまん丸い目でイリヤをじっと見つめ、ぷいっと顔を背けた。
ルリシアも目を丸くする。
「……爬虫類?」
「ああ」
「この子が?」
「見た目がそうだろ?」
ルリシアはイリヤと精霊を交互に見つめ、こらえきれずに小さく笑い出した。
疲れた顔のままだったが、その笑いは本当に楽しげで、柔らかかった。
やがてルリシアの笑い声が静かになり、壁に頭を預けたままゆっくりと目を閉じた。
呼吸が穏やかに整っていき、ほどなく小さな寝息が聞こえてきた。
イリヤはルリシアをしばらく見つめ、上着を脱いで彼女の肩にかけた。それから懐に手を入れ、取り出したのは偽造された水の鍵だった。
偽物のルリシアが手に持って出てきた、あの鍵。イリヤはゆっくりと立ち上がった。
水鏡の間への扉は、静寂し開いている。
鏡はすべて割れ落ち、広間には静かな水面だけが残っている。
イリヤは水面の前に膝をつき、偽造の鍵を握り直す。背後で小さな足音がした。
精霊がちょこちょこと後を追ってきていた。
イリヤは精霊を一瞥し、小さな声で告げる。
「魔力が漏れないよう、結界を張れ」
精霊がまん丸い目でイリヤを見上げ、一拍置いて小さく体を震わせた。
淡い水色の光が広間をふわりと包み、外界との気配が遮断された。
イリヤは水面に手をかざし、小さく呟いた。
「――氷華」
水面が音もなく凍りつく。白く澄んだ氷の表面に、淡い銀色の光がゆっくりと広がっていく。
氷の奥底から、かすかな波紋のような輝きが立ち上り、じわりと映像が滲み出す。
まるで別の世界の断片を映し出す、冷たく美しい鏡のようだった。
――水が記憶していた光景。
氷の中に映し出されたのは、シーラ・ローレンスとガレン・ヴォルドだった。
二人はこの水鏡の間に立ち、シーラの細い指が偽造された水の鍵を水面の奥へと沈めていく。
『……本当に、滑稽ね』
シーラが呟いた。その声は静かで、しかし底に冷たい炎が揺れている。
『あの娘が現れてから、イリヤくんは変わった。守る、なんて言葉が似合う人じゃなかったのに』
ガレンが呆れたように問いかける。
『それだけのために、ここまでするか』
『当たり前でしょう』
シーラは振り返らず、水面を見つめたまま答えた。
『イリヤくんは伯爵家の跡取りよ。あんな平民の娘に足を引っ張られていい立場じゃない。……早く目を覚ましてほしいの』
シーラの指先が水面を撫でる。
『ルリシアさえ崩れれば、イリヤくんはわかる。あの娘は守る価値もないって』
氷の映像が、徐々に薄れていった。
イリヤはしばらく動かなかった。
やがてゆっくりと立ち上がり、凍りついた水面を冷たく一瞥する。
「……滑稽だな」
一言、吐き捨てた。
氷はゆっくりと溶け、何事もなかったように水面が戻った。
イリヤは踵を返し、ルリシアの眠る石の窪みへと歩き戻った。精霊が小さな足音を立てながら、その後をついていく。
ルリシアが目を覚ましたとき、イリヤは傍らで剣の手入れをしていた。
「……起きたか」
「うん……どのくらい寝てた?」
「少しだ」
ルリシアは肩にかかった上着に気づき、頰をわずかに染めた。イリヤは剣を鞘に収め、ルリシアの耳元に顔を近づけた。
「ルリ、よく聞いてくれ」
落ち着いた、決意が宿るような声。
「これから先、誰が現れても信用するな。全てを疑え」
ルリシアの表情が引き締まる。
「……だが、それを悟られるな」
「……わかった」
ルリシアは小さく頷いた。その目に、覚悟の色が宿る。
そのとき、精霊がルリシアの頭の上に乗り、目を細めてくつろぎだした。ルリシアは青い瞳を輝かせて、嬉しそうに微笑む。
その光景を見守るイリヤの表情はいつもより穏やかだった。
**
二人が水のエリアを後にしようとしたとき、回廊の向こうから足音が聞こえてきた。
現れたのは、長身の男子生徒だった。騎士科の制服を着た筋肉質の体格に、野性味の強い鋭い目つき。どこか獣のような荒々しさをまとった男――ガレン・ヴォルド。
「……おお、人に会えた。良かった」
ガレンは安堵したように息を吐き、二人に近づいてきた。
「イリヤ・クロウリーだろ? 俺はガレン・ヴォルドだ。実はパートナーと逸れてしまって、一人で動いているんだ」
イリヤは無言でガレンを見つめた。表情一つ変えない。ガレンは苦笑いを浮かべ、気さくな調子で続けた。
「水の鍵を取りに来たんだが……君たちが居るってことは、どうやら先を越されたみたいだな」
ガレンの言葉にイリヤとルリシアは顔を見合わせた。
「困ったことに、俺は風の鍵を持っているんだが……パートナーが水属性でな。風の鍵じゃ意味がない」
その瞬間、イリヤの赤い瞳がわずかに細くなった。それ以上は表情に出さず、ただ静かにガレンを見ていた。
ガレンは少し声のトーンを落とし、探るように続けた。
「……ところで、一つ聞いていいか。他のペアから鍵を奪っているという噂が回っているんだが、本当のことか?」
その言葉に、ルリシアの表情が変わった。
眉を少し下げ、困惑したように両手を胸の前でそっと合わせる。青い瞳が、真剣な色を帯びてガレンを見上げた。
「……違います。誤解なんです」
「誤解?」
「私たちは奪ってなんていません。でも……そう思われているなら、証明したくて」
ルリシアは一瞬イリヤをちらりと見上げ、それからガレンへと向き直った。
「信じてもらえないかもしれないけど……最後は皆さんと分け合いたいと思っています。だから……」
ルリシアは懐から水の鍵を取り出し、両手でガレンに差し出した。
「これ、手に入れた水の鍵です。……ガレンさんが持っている風の鍵と交換していただけますか?」
ガレンの目が、わずかに見開かれた。
「……水の鍵を、俺に?」
「はい、私は風の鍵でも問題ありません。誠意として。疑いが晴れるなら……お願いします」
ルリシアの声は震えていたが、懸命に真っ直ぐにガレンを見つめている。
ガレンはしばらくルリシアの顔を見つめ、それから小さく息を吐いた。口元に柔らかい笑みを浮かべながら、ゆっくりと手を伸ばし、ルリシアの手をそっと握った。
「君みたいな子が悪い噂を立てられるのは、確かに理不尽だな。俺の方でも否定しておくよ」
その握り方は優しく、温かかった。しかしガレンの瞳の奥には、静かな親切の色とは別の、わずかな影が潜んでいるように見えた。
ルリシアは一瞬びくりと肩を震わせ、驚きを隠しながらも柔らかく微笑んだ。
「……ありがとうございます……助かります」
ガレンは満足げに頷き、ようやく手を離して、水の鍵を受け取り、風の鍵を手渡した。踵を返しながら、軽く手を振る。
「健闘を祈る」
足音が回廊の奥へと遠ざかる。その背中が完全に消えたとき――
イリヤは無言で後ろからルリシアの肩に腕を回し、彼女を自分の胸にそっと引き寄せた。
「……悟られるなとは言ったが、触れさせていいとは言ってないぞ?」
耳元で低く、抑えきれない嫉妬の声が響いた。
ルリシアの頰が一気に赤く染まる。
「え……い、イリヤくん……!」
ルリシアは慌てて身をよじりながら、戸惑った声で答えた。
「不可抗力だよ……! 演技だってば……本当に……!」
イリヤは少し間を置いて、ため息混じりに小さく呟いた。
「……気に入らない」
ルリシアはびっくりしたように目を丸くし、それからくすっと笑った。
「それって嫉妬?」
イリヤは答えず、代わりにルリシアの顔を優しく上に向かせた。真っ直ぐに目を見つめながら、近くで不機嫌そうに囁く。
「嫉妬させてる自覚があるのか?」
ルリシアの瞳が大きく揺れ、再び頰が真っ赤に染まった。
「ず、ずるい……!」
ルリシアは言葉に詰まり、恥ずかしさのあまりイリヤの胸に顔を埋めた。
赤いイヤリングが、二人の激しい鼓動に合わせて小さく揺れていた。
**
ガレンが戻ってきたのは、シーラが石柱の陰で待ち始めてから程なくしてのことだった。
「……水の鍵、手に入れたぞ」
ガレンが懐から水の鍵を取り出し、シーラに差し出す。シーラはそれを受け取り、指先に魔力を走らせた。澄んだ青の輝き、魔力の密度、水の精霊の息吹が、複雑に脈打っている。
「……間違いなく、本物ね」
シーラの口元が、わずかに緩んだ。
しかしすぐに眉を寄せ、ガレンを見上げた。
「……本当にイリヤくんたちが渡したの?」
「ああ。あの女が自分から差し出してきたから、風の鍵と交換した」
「自分から?」
シーラの声のトーンが、一段落ちた。
「……何を企んでいるのかしら」
「企む? ただの誠意じゃないのか?」
「違うわよ」
シーラは即座に遮った。
「イリヤくんが全ての鍵を集めているのは、こちらで確認している。なのに水の鍵を手放した……おかしいでしょ」
ガレンが腕を組み、眉を寄せる。
「……こちらを信用させる罠か?」
「わからない」
シーラは水の鍵を指先で触りながら、思考を巡らせる。
(イリヤくんが水の鍵を渡した。なぜ? 全属性の鍵が必要なはずなのに――)
しばらく沈黙が続いた。
やがてシーラは静かに顔を上げ、目を細めた。
「……ガレン。偽造した鍵の状況を確認するわ」
ガレンは懐から小さな魔道具を取り出した。
シーラが魔力を流すと、薄い光の地図が浮かび上がる。
「……全部、同じ場所に集まっている」
シーラの瞳が、すうっと細くなった。
「私が仕込んだ偽鍵が、全部ルリシアたちの手元にある」
しばらく沈黙が続いた。
(水の鍵を自ら渡した理由が、まだ引っかかる。イリヤくんが本物を手放すとは思えない)
何かあると感じながらも――しかし、シーラは静かに息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
「いいのか?」
「イリヤくんたちに全属性の本物を揃えさせて最奥まで行かせるつもりだったけど……」
シーラは口元に静かな笑みを浮かべた。
「私の偽鍵も全てあの子の手元にあるなら、それで十分」
シーラはゆっくりと立ち上がり、右手を静かに持ち上げた。指先に、青い魔力が滲み出す。
水の魔法陣が静かに展開し――無数の青い蝶が生まれた。光の粒のように揺らめきながら、蝶たちが回廊の空気に溶けていく。
「シーカーたち、始まりの合図を」
決意に満ちた声で呟いた。
蝶たちが一斉に散り、遺跡の奥へと消えていくのをシーラは蝶たちを見送りながら、静かに口を開いた。
「ルリシア・クリスティーノ」
その名前を、まるで宣告するように紡ぐ。
「貴方には絶対に、守護精霊を召喚させないわ」
青い蝶の残光が、石の回廊に静かに消えていった。




