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第18話 偽りの水鏡、呼ぶ声

「ちょっと! どういうこと!?」


 大広間にレイラの叫び声が響き渡った。

 ルリシアの親友の怒りは、頂点に達していた。


 遡ること数分前――。


 ゴーレムとの戦闘を終え、ルリシアが意識を取り戻したとき、彼女はイリヤの腕の中にいた。

 温かく力強い抱擁に、思わず頰が染まる。顔が熱いのも、きっとそのせいだと思い込んでいた。


「起きたか……。痛むところは?」


 イリヤの声は優しかった。「大丈夫、また気を失っちゃってごめんね」と気丈に振る舞うルリシアの頰を、彼はそっと指先で触れた。


 その自然な仕草に、ルリシアの胸がドキリと高鳴る。イリヤの赤い瞳には、罪悪感と深い心配が混ざり合っていた。


「ルリ! イリヤ!」


 聞き慣れた声が回廊から聞こえてきた。

 レイラとライルが手を振りながら、二人の元へ近づいてくる。


「約束通り、取ってきたわよ! 『炎の鍵』……本当に大変だったんだから――」


 レイラが笑顔で緋の煌きを帯びた炎の鍵を掲げた瞬間、ルリシアの顔を捉えて言葉が止まった。

 彼女は表情を一変させ、早歩きでルリシアのそばまで来ると、両手で優しくルリシアの顔を包み込んだ。


 その指先が、わなわなと震え始める。


「ちょっと! どういうこと!? その顔、どうしたのよ!?」


 レイラの金色の瞳に、怒りの炎が燃え上がった。レイラに言われて、ルリシアは頬が僅かに腫れていることに気づいた。力強く押し付けられた影響だ。

 さらに、彼女の視線がルリシアの手首に赤く残った指の跡に釘付けになる。


「この手首の痕……! 誰にやられたの!?

全員締め上げてくるわ! いえ、家ごと潰してやるわ!」


 レイラの声は本気だった。公爵令嬢の威圧感が、遺跡の空気を一瞬で凍りつかせる。


 ライルが眼鏡を押し上げ、苦笑いを浮かべながら横からツッコミを入れた。


「レイラさん……公爵令嬢様がそんなことを本気で言うと、かなり怖いんですけどね。

実際に家ごと潰せる権力があるのが一番の問題です」


 ルリシアは慌ててレイラの両手を握り返し、宥めるように微笑んだ。


「レイラ、落ち着いて……。イリヤくんがすぐに助けてくれたし、もう平気だよ。本当に大丈夫だから」


 レイラはまだ怒りを完全に収めきれていない様子だったが、ルリシアの優しい声に少し肩の力を抜いた。


 ルリシアは少し迷ったあと、申し訳なさそうに二人を見つめた。


「……でも、本当にいいの? 炎の鍵を私たちに渡して。レイラたちは不合格になるかもしれないのに……」


 レイラは、にっこりと笑った。


「ルリのために参加したんだから、当たり前でしょ。私はもう十分満足よ」


 ライルも肩をすくめながら、軽い調子で続けた。


「僕は観察させてもらえればそれでいいんですよ。その代わり、最後までしっかり観察させてくださいね」


 そう言ってライルはルリシアの前にしゃがみ込み、じっくりと彼女の魔力の流れを診始めた。「ふん……ふん……」と小さく相槌を打ちながら、眼鏡の奥の瞳が真剣に揺れる。


 イリヤの目が、わずかに細くなった。

 やがてライルが顔を上げ、満足げに頷いた。


「任務を開始した時点より、だいぶ落ち着いてきてますね。四大属性の波長が少しずつ整ってきています」


 ライルは意味深にイリヤの方へ視線を向け、にやりと笑った。


 レイラが興味深そうに尋ねる。


「よく見るだけで、バランスがわかるわね……」


 するとライルは、何でもないような顔で言った。


「ええ。僕は毎日ルリシアさんを舐め回すように見ていますからね」


 瞬間、イリヤの目つきが冷たく、鋭く変わった。赤い瞳に明確な敵意が宿る。


「……レイラ。こいつ、斬っていいか?」


 レイラは即座に首を振り、拳を握りしめた。


「いいえ、私が斬るわ。親友を如何わしい目で見るなんて、絶対に許せない」

「ちょ、ちょっと待って! 二人とも!」


 ルリシアが慌てて両手を大きく振り、声を上げた。


「ライルくんは毎日朝に私の四大魔力のバランスを診て教えてくれるの! 本当に調整に助かってるんだから……ライルくん、言葉をもっとちゃんと選んでよ!」

「……何がですか?」

「舐め回すように、って! 適切な言葉を使って!」


 ライルが首を傾げる。眼鏡の奥の目が、純粋に困惑している。


「正確な表現だと思いますが。細部まで丁寧に観察するという意味で」

「意味はわかるけど! 言葉の選び方があるでしょ!!」

「例えば?」

「……『毎朝、丁寧に観察しています』とか」


 ライルはしばらく考え、小さく頷いた。


「……なるほど。語感の問題ですか。了解です」


 空気が少し和らいだところで、レイラがもう一つ、小さな袋から別の鍵を取り出した。


「それと、これ。別の場所にいた魔獣が持っていた炎の鍵よ。危うく本物だと思い込みそうになったんだけど、ライルが見抜いてくれたの」


レイラは鍵を光にかざしながら、眉を寄せた。


「これ、どう見ても学院側が用意したダミーの鍵ではないわよね?」


 イリヤは腰から偽物の地の鍵を取り外して、偽物の炎の鍵の隣に並べた。


「ああ。持ち込んだ者がいる」


 短く、しかし迷いのない断言だった。


「……そんなこと……一体、誰が?」


 ルリシアの声が小さく揺れる。

 イリヤはルリシアに視線を向けて、首を横に振った。ライルへと向き直り、静かに問いかける。


「鍵に宿った魔力を解析できるか?」

「やってみます」


 ライルは鍵を受け取り、眼鏡の位置を直しながら魔力を走らせた。

 しばらく無言が続く。やがて小さく息を吐いた。


「……巧妙ですね。表面の魔力は本物に近い精度で塗り重ねてある。完全な解析は難しいですが……ただの悪戯でできる工作じゃない。魔力の扱いに、かなりの素養がある人間の仕事です」


 イリヤの瞳がさらに細くなる。

 心当たりはあったが、今は口にはしなかった。


 不穏な空気をレイラが切り替えるように明るく言った。


「不確定なことを考えていても意味ないわ。私たちは情報を探ってくる。あなたたちは水の鍵を急いで」

「……わかった」


 イリヤはルリシアに視線を落とした。まだ顔色は優れない。それでも彼女は小さく頷き、立ち上がろうとする。イリヤはその手を取り、そっと支えた。



**



 水のエリアに続く回廊は、他の場所とは明らかに空気が違った。湿った石の匂いの奥に、澄んだ冷たさが混じっている。


「……不思議。ここに来てから、魔力が少し落ち着いてる気がする」


 ルリシアが呟くと、イリヤは前を向いたまま小さく頷いた。


 水のエリアに続く回廊を進むと、やがて大きな石造りの大広間への入り口が現れる。

 中に入ると、正面に青白く淡く光る扉があった。


 イリヤがその扉を押し開けると、そこは息を呑むような場所だった。

 壁も天井も一面に無数の鏡が並び、床は静かな水面で覆われている。

 水面の奥に、鍵らしき光が揺らめいていた。


 イリヤが水面に手を伸ばした瞬間、水面が激しく波打ち、腕を引き込もうとした。即座に引き抜く。


「……潜るのは危険だ」

「私がやってみる」


 ルリシアが水面の前に膝をつき、振り返ってイリヤを見上げた。少し頰を染めながら、真剣な目で。


「……ねえ、イリヤくん。お願いがあるの」

「何だ?」

「鍵、取れたら……ルリって呼んで」


 沈黙が流れた。

 イリヤの赤い瞳が小さく丸くなり、ルリシアをじっと見つめる。


「……やっぱり……いい。忘れて」


 ルリシアが恥ずかしそうに視線を逸らしたとき、イリヤが静かに答えた。


「……取れたら、な」


 それだけ言って、イリヤは扉の外へ歩き出した。


「周囲を警戒する。何かあったら、すぐに呼んでくれ」


 ルリシアは彼の背中に小さく微笑んだ。


「……うん」


 目を閉じ、指先を水面にそっと触れる。

 魔力を水に溶かすように流していくと、水属性の感知が水の流れの声を拾い始めた。


 一つずつ鍵を確かめていく。偽物は魔力の流れが単調で平坦。本物は水の精霊の息吹が複雑に脈打っている。


 残り三つまで絞れたとき――水面が、不意に大きく揺らいだ。


 水面に映る自分が、ゆっくりと微笑みながら語りかけてくる。


『ねえ、ルリシア……あなた、本当は分かってるんでしょう? 自分がどれだけ役に立たないか……』


 ルリシアの息が止まる。

 底知れぬ恐怖が、足元から這い上がってきた。まるで暗い沼に沈んでいくような、逃げ場のない感覚。


『彼に優しくされて、自惚れてる』


 壁の鏡から、自分の声が降ってくる。

 顔を上げると、無数の鏡に映る自分が皆、彼女を冷たく見つめていた。


『イリヤくんの足を引っ張ってばかり。魔力は乱れて、守ってもらってばかりで。平民のくせに』


『四大魔法を扱えるだけで、特別扱いされて……みんなにちやほやされて、勘違いしてるの?』


『首席を取れたのも、イリヤくんが手を抜いただけって、なんでわからないの?』


『……そんな実力もないくせに』


 畳み掛けるように、自分の口から自分の声で浴びせられる言葉が、心を抉る。


『役立たず』


「違う……」


 ルリシアは立ち上がり、ふらつきながら後ずさった。


『本当に? あなたがいなければ、イリヤくんはもっと自由に戦える。あなたがいるから、あの人は弱くなる。あなたがいるから――』


『――あの人は、本当はあなたのことなんて』


「やめて……!」


 水面が激しく波打ち、ルリシアの視界を白く染めた。


『――彼の隣に、あなたは相応しくない――』


 足元が崩れ、身体が冷たい水の中に沈んでいく。


(イリヤ、くん……!)


 声にならなかった。


 バタン。


 重い音が響き、扉が閉じた。


 イリヤが振り返ったとき、すでに遅かった。


「……ルリシア」


 即座に駆け寄り、扉を押す。

 肩を当て、体重を乗せ、剣の刃を隙間に差し込むが、石の扉は微動だにしなかった。


(……中で何が起きている?)


 イリヤの表情が凍りつく。


 その時――


 低い音を立てて、扉がゆっくりと開いた。


 中から出てきたのは、金色の髪に青い瞳のルリシアだった。彼女はイリヤを見上げ、安堵したように微笑んだ。


「鍵、取れたよ、イリヤくん」


 手には蒼の流れを帯びた『水の鍵』。


 イリヤは彼女の顔をじっと見つめ、ゆっくりと近づいた。

 そして、ルリシアの()()のイヤリングにそっと指を触れた。


「……イリヤくん?」


 優しく触れられ、ルリシアが頰を赤らめて瞳を閉じる。イリヤは息がかかる距離まで顔を近づけ、低く静かに問いかけた。


「……いつ、付け替えたんだ?」


 その言葉にルリシアの表情が、一瞬固まった。

 イリヤは彼女から離れ、扉の中へと入る。


「イリヤくん! 待って!」


 呼び止める声に構わず、イリヤは自分の右耳のイヤリングに指を当てた。

 石が静かに熱を帯び、か細い鼓動が伝わってくる。


 イリヤは鏡を見渡し、静かに口を開いた。


「何してる……勝手に居なくなるな」


「君が俺のそばに来たんだろ。今更、離れるのは許さない」


 イリヤは水面に手を差し伸べた。


「戻ってこい、ルリ」


 水面に、小さく雫が落ちる音が響いた。


 暗闇の中、膝を抱えて座り込んでいた本物のルリシアの青い瞳が、ゆっくりと開いた。


 ……呼んでいる。

 頭の中に、彼の声が優しく響く。


『そのままでいい』『危なっかしくてほっとけない』『君を必ず助ける。不安にならなくていい』

『君が信じてくれなければ、俺は戦えない』


 ――君が俺の覚悟を受け止めてくれ――


 涙が溢れた。

 ルリシアは立ち上がり、無数の自分たちが囁く声に負けないよう、強く前を向いた。


 その瞬間、四色の魔法陣が足元で重なり合い、彼女を包み込んだ。


「いつも心配かけて……頼りないことくらい、言われなくてもわかってる! でも……イリヤくんのそばにいるかどうかは、私が決めるの!」


「大きなお世話! もう黙ってて!!」


 水面が激しく波打ち、光が爆ぜた。

 壁一面の鏡が一斉に割れ落ちる。


 水面からイリヤの手が伸びて、ルリシアの手を掴んだ。一気に引き上げる。


 その瞬間、イリヤの後ろにいた偽物のルリシアが、ガラスのように割れて消えた。


 イリヤは引き上げたルリシアを強く抱き止め、彼女の()()に触れて赤い石のイヤリングを確認した。


 ルリシアの細い指には、澄んだ蒼の流れを帯びた本物の『水の鍵』が、しっかりと握られていた。


「ルリシアは本当に……危なっかしいな」


 イリヤは低く呟きながら、彼女の濡れた金色の髪を優しくかき上げた。

 ルリシアは息を荒げ、力なく笑いながら鍵を少し持ち上げて見せた。


「……鍵、取ってきたよ……」


 その声はまだ震えていたが、確かに本物の水の鍵を握りしめている。

 イリヤは彼女の手から鍵をそっと受け取り、自分の懐にしまいながら、もう片方の手でルリシアの腰を支えた。


「……ねえ、イリヤくん」

「何だ?」

「違うよ」


 イリヤが眉をわずかに寄せる。


「……何が」

「ルリ、でしょ? 約束だよ?」


 一瞬の沈黙。

 イリヤの視線が揺れ――珍しく、頰がわずかに赤く染まった。


「……ルリ」


 視線を逸らしながら、絞り出すような短い一言。ルリシアはそれを聞いて、ふんわりと笑った。その笑顔に、イリヤの口元が僅かに緩む。


(やっと……笑ったな)


 水面が小さく波打ち、二人の姿を優しく映し出した。

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