第17話 揺らぐ大地、守護の誓い
試練の遺跡は、深く進むほどに石の重圧を増していた。崩れかけた石柱が林立する大広間の手前、薄暗い回廊の陰でライル・レントが双眼鏡を覗いていた。
「……動き出しましたよ! よしっ、後を──」
双眼鏡を構えたライルの声が弾んだ。しかしその言葉は途中で途切れる。
「何言ってるの? 私たちは早く『炎の鍵』を取りに行くわよ」
レイラがライルのマントのフードを掴み、容赦なく引きずり始めた。
「あ、ちょっと……後5分、いえ……あと3分だけ! お願いっ!」
「ダメ。時間がないの」
ずるずると引きずられるライルを背に、レイラは振り返ることなく回廊の奥へと姿を消した。
**
イリヤはルリシアを抱えたまま、広間から少し離れた石の窪みに腰を下ろした。
発熱した彼女の額に汗が浮かんでいた。先ほどの戦闘と魔力の乱れが、予想以上に彼女を蝕んでいた。
「……ここで少し休もう」
イリヤは荷物から手拭いを取り出し、近くの石壁から細く流れ落ちる水で湿らせ、彼女の額を拭う。
冷たい布が触れるたび、ルリシアの肩が小さく震えた。
「……ありがとう……イリヤくん」
掠れた声で小さく笑うルリシア。イリヤは小さく頷き、彼女の汗を拭う。
ルリシアは目を閉じ、荒かった呼吸をゆっくりと整えていく。
やがてイリヤは二つの鍵を取り出し、手のひらに並べた。翠の輝きを帯びた風の鍵と、藤色の光が帯びた地の鍵。
ルリシアが薄く目を開け、それに視線を向けた。
「……イリヤくん」
「何だ?」
「その地の鍵……魔力が、おかしい」
イリヤは地の鍵を注視した。
「精霊の魔力じゃない。純粋じゃない感じがする。混じってる、というか……上から塗ったみたいな」
ルリシアの発言にイリヤは鍵を指先で弄び、目を細めた。
(……言われてみれば)
重さは本物に近く、造形も精巧だ。だが魔力の密度に、僅かな違和感がある。風の鍵と並べると、その差は明らかだった。
(偽造か?)
思考が静かに動き始める。
ーーあのペアがこれほど早く本物を入手できるとは思えない。偽物と知りながら持っていたのか、それとも本物と思い込んでいたのか。
いずれにせよ、取引もせずに先制攻撃を仕掛けてきた理由が、単なる当てつけだけとは思えないーー
(……仕組まれている)
遺跡の奥、暗がりの向こうに視線を向ける。何も見えない。だが、確かに見られている気がした。
「……イリヤくん?」
ルリシアの心配そうな声に、イリヤは表情を戻した。
「何でもない。もう少し休め」
ルリシアが頰を染め、おとなしく目を閉じる。イリヤは彼女の顔を見ながら、思考の片隅で糸を手繰り続けた。
**
石の回廊を進む間、ルリシアの足取りは明らかにふらついていた。
発熱は落ち着いたが、体内で乱れ続ける魔力の影響で、彼女の呼吸は浅く、時折膝が折れそうになる。
イリヤは歩調を緩め、彼女の様子を横目で確かめた。
「……大丈夫か?」
「うん……平気。少し疲れただけだから」
ルリシアは気丈に微笑もうとしたが、声は弱々しかった。それでも彼女はイリヤの左手をそっと探り、細い指を絡めて握ってきた。
温かく、少し汗ばんだ掌の感触が、イリヤの胸を締め付ける。
イリヤは握り返し、彼女を支えるように歩みを進めた。
やがて、崩れかけた石柱が林立する大広間への入口が見えてくる。
大広間に、二人が足を踏み入れると、低い地響きが走った。
苔を全身に纏った巨大なゴーレムが、ゆっくりと起き上がり、赤い目が不気味に輝く。
イリヤはルリシアを背後に庇い、剣を抜いた。
ゴーレムが一歩踏み出すたび、石柱が軋み、地面に新たなひび割れが生まれる。
ルリシアは不安定な魔力を抑えながら、四大魔法を展開しようとするが、魔力が乱れ、視界が滲む。
そのときーー
「居たぞ! イリヤ・クロウリーだ!」
回廊の複数方向から、他のペアが一斉に姿を現した。
四組。いずれも騎士科と魔法科の男子同士の組み合わせで、連携を取っている様子だった。
彼らはイリヤとルリシアの姿を認めると、互いに顔を見合わせ、ひそひそと耳打ちを始めた。
「鍵、持ってる! あいつが他ペアから鍵を奪ってるって噂、本当だった!」
一人の騎士が大きな声で叫んだ。
彼らの視線は、イリヤが腰に下げた偽物の地の鍵に向けられていた。イリヤはわざとそれを見せていたーー反応を見るためだ。
そしてその反応で、確信した。
(……やはり、仕組まれている)
全員の意識がゴーレムではなく、イリヤたちに向けられている。
「ルリシア、下がってろ」
「……でも、イリヤくん」
「心配いらない、まずは奴らを追い返す。ゴーレムは俺一人では対処できない。それまで体力を温存するんだ。少しだけ、魔力は借りるぞ」
そう告げると、イリヤはイヤリングに意識を集中した。
ゆらりと赤い宝石が揺れ、熱を帯び、二人の鼓動が呼応する。
地の魔力に風、水、炎の属性を重ね、剣身に複雑な輝きを宿らせた。
ゴーレムが巨腕を振り上げ、イリヤに向かって叩きつけてくる。
同時に、四組のペアから魔法と剣が四方から殺到した。
ーー全ての攻撃がイリヤに集中する。
イリヤは冷静に一つ、一つを見極め、動く。
剣を回転させ、属性を切り替えながら迎え撃つ。風の加速で動きを増し、水の流動で攻撃を滑らせ、炎の爆発で反撃を叩き込む。
しかし守りながら戦うのは、ただ戦うのとは明らかに違う。ルリシアの位置を常に意識せざるを得なかった。
ルリシアはイリヤの背中を見つめながら、胸の奥で強い不安が渦巻くのを感じていた。
(私がいるせいで……イリヤくんの動きが鈍ってる……。こんなんじゃ、足手まといにしかなってない……)
せめて自分を守るためにとーールリシアは震える指で術式魔法陣の紙を取り出し、防御結界の魔法陣に魔力を込める。
淡い光が周囲に滲み始めた、次の瞬間。
背後から騎士科の男子が素早く近づき、彼女の両腕を後ろ手に強く拘束した。
「やめてッ……離して!!」
ルリシアが抵抗しようと身をよじるが、身体はすでに限界に近かった。
男は苛立った声で吐き捨てる。
「平民のお姫様は、大人しくしてろよ……!!」
ルリシアがさらに力を込めて抵抗したため、男は乱暴に彼女の身体を地面へ押し倒した。
叩きつけられるような音の後、小さな悲鳴が上がる。男は膝でルリシアの背中を強く押さえつけ、顔を石の床に押し付けた。
その光景がイリヤの視界に映る。
まるで時間が止まるような、静寂がイリヤの心に落ちていく。
ーー先ほどのメイサのペアといい、明らかにルリシアを狙っているーー
静かな、しかし底冷えのする怒りが胸の奥で燃え上がった。
彼はゴーレムへの攻撃を一時放棄し、その騎士の元へ飛ぶ。
剣の柄で男の肩を強打し、腕を捻り上げ、ルリシアから引き剥がすと、男が悲鳴を上げて吹き飛ばされ、石柱に激突した。
イリヤは即座にルリシアを抱き起こし、自分の胸に強く引き寄せたまま、他の生徒を冷たく睨みつけた。
「触るな」
抑揚のない、底冷えするような声が広間に響いた。その声に他の生徒たちが僅かに後ずさる。
イリヤはルリシアを左腕でしっかりと抱きかかえたまま、右手に握った剣を一閃させた。
赤いイヤリングが強く輝き、ルリシアの魔力が剣に流れ込む。
風の加速、炎の熱、地の重み、水の鋭さが一つの刃に凝縮された。
彼はルリシアを抱えたまま、無駄がないように最小限に動く。
最初に狙ったのは、ルリシアを押さえ付けた騎士を助けようと、飛び出してきたもう一人の騎士だった。
イリヤは剣を横薙ぎに払う。風を纏った刃が空気を切り裂き、相手の剣を易々と弾き飛ばした。続く一撃は剣の腹で腹部を強打した。
男は呻き声を上げて吹き飛び、地面を転がった。
「はっ……!」
「くそっ、動きが速い!」
他の者たちが動揺しながら魔法と剣を同時に繰り出してくる。
風が炎を呑み、炎が地を焼き、砂埃が渦を巻いた。三つの力が絡み合い、巨大な奔流となってイリヤへ向かう。
だがイリヤは動じない。
剣をゆっくりと持ち上げーールリシアの魔力が刀身を伝う感触を確かめるようにーーそして振り下ろした。魔法の奔流が、音もなく割れた。
どの攻撃もイリヤの足止めにもならない。
ルリシアを左腕に抱え込み、右の剣だけを振るう。一閃ごとに風が加速し、炎が刃を焼き、地の重みが一撃に乗る。
水の魔力が軌道を歪め、予測不能な角度で敵を捉えた。
ルリシアを抱えたまま、一切の隙を見せずに複数の相手を圧倒するイリヤの姿は、常軌を逸していた。
イリヤの瞳は冷たく、感情の色をほとんど失っている。
ただ、ルリシアを傷つけようとした者だけを、容赦なく執拗に狙う。
全員が、イリヤに気を取られているときーー
巨大なゴーレムが咆哮を上げながら巨腕を振り下ろした。
その一撃が戦場を直撃し、ペアたちの連携を一瞬で崩した。騎士が剣を構える間もなく、魔法科の魔導士が悲鳴を上げて吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
ゴーレムの足が踏み鳴らされるたび、石の床が震え、足元が乱れた。
一撃ごとに彼らの武器が弾かれ、魔法が散り、身体が吹き飛ばされる。
一人の魔導士が、イリヤの前に飛ばされ、彼は慌てて身体を起こし、震える手で短剣を構えた。
「ひ……ひっ……!」
イリヤはその男に視線を向ける。ルリシアを傷つけようとした者への怒りが、彼を駆り立てた。剣を静かに振り翳し、握る手に力が入る。
「イリヤくん……!!」
ルリシアの弱々しい、しかし必死の呼びかけが響いた。
その声で、イリヤの動きがピタリと止まる。
冷たい瞳にわずかに光が戻り、彼はゆっくりとルリシアへ視線を向けた。
彼女の青い瞳が不安そうに揺れている。
「……ルリシア」
「私は大丈夫だから……落ち着いて」
イリヤは剣を下ろし、ルリシアを抱きしめる腕に優しく力を込め直した。
まだ戦いの熱が残る体で、彼女を静かに守るように胸に引き寄せた。
それを見たペアたちは、互いに顔を見合わせ、慌てて後ずさった。
「ダメだ! 一時撤退するぞ!」
一人の騎士科の男の指示が大広間に響く。
彼らは、倒れた仲間を支え合いながら回廊の奥へと逃げていくと足音が遠ざかっていった。
**
遠くの石柱の陰から、シーラが双眼鏡を覗いていた。口元が緩やかに持ち上がる。
「……やっぱりね」
彼女は双眼鏡を下ろし、静かに目を細めた。
「ルリシアを狙えば、あの人は必ず感情が先に出る」
隣に立つガレン・ヴォルドが低く言った。
「だから、あの女を狙えって情報を流したのか?」
「ええ。随分と弱ってるみたいだから」
シーラは振り返らず、先を見据えたまま答えた。
「イリヤくんが強いのは知ってる。でも、守りながら戦うのと、ただ戦うのは違う。守るものがある人間は、必ずどこかで判断が遅れる。ルリシアはイリヤくんを突き動かす存在であると同時に弱点でもあるということ」
静かな、しかし確信に満ちた言葉だった。
**
他ペアが逃げ去ったことで、ゴーレムの意識が一気にイリヤたちへと集中した。
巨体がゆっくりと向きを変え、苔に覆われた腕を重々しく振り上げる。地面が低く震え、石柱の破片が小さく跳ねた。
イリヤは即座にルリシアを背後に下げ、剣を構え直した。しかしその腕を、ルリシアが両手で強く抱きしめて止めた。
「……一人で戦わないで……私も一緒に戦うから」
ルリシアの声は震えていた。
青い瞳に浮かぶ悲痛な表情と、必死に力を込める細い指に、イリヤの赤い瞳がわずかに揺れる。
ルリシアは予め用意していた術式魔法陣の紙を取り出し、地面に転写した。淡い光の魔法陣が展開し、周囲に風と水の属性が薄く渦を巻いて防御の層を形成する。
イリヤはその援護を背に受け、ゴーレムへと跳躍した。剣に地の魔力を集中させ、重い一撃を外殻に叩きつける。
しかし厚い苔が防御膜となり、刃は表面を抉るだけで深く刺さらない。衝撃で緑色の粉塵が視界を曇らせた。
ゴーレムが反撃に転じ、巨大な拳を地面に叩きつけた。大地が割れ、鋭い岩の破片がイリヤに向かって噴き上がる。
イリヤは剣に風属性を纏わせ、加速しながら破片の間をすり抜け、ゴーレムの側面へ回り込んだ。
「ルリシア、援護を!」
ルリシアは水の魔力を集中させ、ゴーレムの足元に冷たい霧を発生させた。
霧は瞬時に凍てつき、ゴーレムの動きをわずかに鈍らせる。
その隙にイリヤは剣を連続で振り、苔の表面を削り取っていくが、外殻の硬さは変わらない。
「ルリシア、炎で苔を焼け!」
「うん! 任せて!」
ルリシアは即座に炎属性の魔力を集中させた。
赤い炎の奔流がゴーレムの全身を包み、苔が激しく焦げて黒い煙を上げ始めた。
その時、ルリシアの瞳が左肩部分に留まった。
他の部位より異常に厚く、深く苔が積もっている。
「イリヤくん! 左肩! そこにコアがある!
魔法じゃ外殻は貫けない……剣で!」
イリヤはルリシアの叫びに応じ、全ての属性魔力を剣に集中させた。
風の加速を纏い、炎を宿した剣を左肩目掛けて深々と突き刺す。
硬い外殻が軋み、苔の奥深くに埋まっていたコアを正確に砕いた瞬間ーー
ゴーレムの巨体が激しく痙攣し、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
土と苔に還る過程で小さな花々が一斉に咲き乱れ、その中心から純粋な大地の魔力を宿した本物の『地の鍵』が姿を現した。
イリヤは素早く鍵を拾い上げ、ルリシアのもとへ駆け寄った。
しかしルリシアはすでに限界を超え、その場に倒れ込みそうになる。
イリヤは彼女をしっかりと抱き止め、細い体を胸に強く抱きしめた。
「……ルリシア」
金色の髪に顔を埋め、イリヤは優しい声で名を呼ぶーー揺れる大地に静寂が訪れた。




