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第12話 愛の日の約束

 「愛の日」の当日。


 私は、まるで心が粉々に砕かれたみたいな顔で、女子寮の食堂に降りてきた。

 鏡なんて見る勇気もないけど、きっとひどい顔をしている。青い瞳は腫れて真っ赤で、息をするのも苦しいくらい。


 レイラがすぐに気づいて、隣に座ってくれた。


「どうしたの、ルリ? 顔色悪いわよ……本当に大丈夫?」


「……何でもない」


 首を小さく振ったけど、声が掠れて、喉が詰まって、笑顔なんて絶対に作れない。

 涙がまた溢れそうになって、必死に堪えた。


 今日はチョコレート調理の本番。午前の調理室で、最後のチョコレートを作る。イリヤくんに渡すための、特別なチョコレートを。

 

 だけど、心はもうここになくて。

 昨夜のイリヤくんの冷たい声が、頭の中でぐるぐる回り続ける。


『少し、考えさせてくれ』


(どうしよう……私のチョコ、受け取ってもらえないかもしれない……)


 チョコを溶かす手が止まって、温度計を見ていても数字がぼやける。


 周りの笑い声が、遠くに聞こえる。


 涙でぼやけた視界のまま、無意識に手が動いていた。


 周りの女子たちは、キラキラ笑ってる。

 その笑顔が眩しすぎて、胸がぎゅっと締めつけられる。


 ーー放課後。


 ようやくでき上がったチョコレートを、震える指でラッピングする。

 小さなリボンを結ぼうとしても、指が言うことを聞かなくて、何度もほどけてしまう。


 みんなが次々と調理室を出ていく。

 恋人や好きな人に会いに行くんだ。

 幸せそうな後ろ姿を見ているだけで、胸が痛くて、息が苦しくなる。


 私だけが一人残って、箱をぎゅっと抱きしめて俯いた。


「……ルリシアさん!」


 突然の声に、体がびくりと跳ねた。


 顔を上げると、クロードくんが調理室の入り口に立っていた。

 いつも優しい笑顔のはずなのに、今は違う。瞳が、獲物を狙うみたいに鋭くて、ぞっとした。


「……クロードくん……」


 声が震えて、喉がカラカラになる。

 勇気を振り絞って、言葉を絞り出した。


「ごめん……私のチョコは……クロードくんに、渡せないの。だから……」


 クロードくんは一歩近づいて、私の言葉を遮った。


「渡したい人って、イリヤ・クロウリー?」


 戸惑いながら、こくんと頷く。


「……うん」


 クロードくんは笑顔を浮かべるけど、目が全然笑ってない。


「でも彼、たくさんの女子たちに囲まれて、嬉しそうにチョコ受け取ってたよ」


「え……?」


 心臓が、どくんと落ちたみたいに痛んだ。


「イリヤくんが、そんな……信じられない……」


 クロードくんはさらに近づいてきて、甘くねっとりした声で囁く。


「ルリシアさんのチョコなんて、クロウリーからしたらその他大勢の一つでしょ?

俺は違うよ。俺は、ルリシアさんのチョコだけが欲しい」


 その言葉に、手が震えて、箱を抱きしめる指が白くなった。沈黙が、重くのしかかる。


 瞳から、涙が一筋、ぽろりと落ちた。


「……それでもいい……イリヤくんが、受け取ってくれるなら……それでもいいの……。

だから、ごめんね……クロードくんには、あげられない……」


 クロードくんの瞳が、わずかに細くなった。


「ルリシアさん」


 低く抑えた声で私の名を呼ぶ。私はびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた瞬間、目が合う。


「もう少し、現実を見なよ」


 クロードくんは一歩近づき、静かな声で続けた。


「君とクロウリーは立場が違う。クロウリーは伯爵家の唯一の跡取りだ。彼は君を選べないよ?」


 その言葉に、胸がずきりと痛んだ。


「魔導士としてそばにいたいなら、問題ないけどさ……恋人なら話は別だ」


 クロードくんはさらに一歩近づき、視線をまっすぐに私に向けた。


「俺は君を選んであげられる。俺には兄がいるし、理解のある家だから、ルリシアさんのこと無下にはしないよ?」


 優しい笑顔のまま、でもその目は本気だった。


「もう子どもじゃないでしょ? 夢物語みたいな恋をするのはやめなよ。クロウリーに振り回されて傷つくのは、ルリシアさんのほうだ」


 その言葉が胸に突き刺さり、私は唇を強く噛んだ。


「……私は、クロウリー家のイリヤくんが好きなわけじゃない」


 声が震えながらも、はっきりと言葉を紡いだ。


「わかってる。身の程知らずだって……。

でも、選ぶか選ばないか決めるのはイリヤくんだよ。クロードくんに、そんなこと言われる筋合いない」


 心の中で、強く思い浮かべる。


 図書室でほとんどの本は読むのに、恋愛小説だけは読まない彼。

 豆が嫌いで、真剣な顔で丁寧に弾き出す姿。

 いつも完璧でトップに君臨しているのに、私の頑張りをちゃんと認めて、尊重してくれる優しさ。

 強くて他を寄せ付けないのに、自分にできないことは素直に頼ってくれる。


 それはクロウリー家のイリヤくんだからじゃない。


 ただのイリヤくんだから……私はこんなに、好きになった。

 この気持ちを、他の誰にも渡したくない。


 私は箱を胸に強く抱きしめ、涙を堪えながらきっぱりと言った。


「このチョコはイリヤくんにあげるの。他の誰にもあげるつもりはないから」


 その言葉に、クロードくんの瞳に、黒い嫉妬が渦巻いた。

 次の瞬間、私の手を強く掴んで箱を無理やり奪い取った。


「返して!」


 叫んだ声が、調理室に響いた。クロードくんの声が怖いくらいに響く。


「こんなに好きなのに……俺を見てくれない君が悪い」


 その瞳に、恐怖が全身を駆け巡って体が凍りついた。動けない。息ができない。


「ルリシア」


 落ち着いた声が届く。調理室の扉の前にイリヤくんが立っていた。

 赤い瞳が、私をーーそしてクロードくんを鋭く捉える。


「何してる?」


 その声の圧だけで、クロードくんの肩がびくりと震えた。

 イリヤくんの視線は冷たくて、鋭くて、クロードくんを射抜く。


 クロードくんは一瞬怯んだみたいに、私に箱を乱暴に押し返した。


 イリヤくんはクロードくんへ静かに一歩近づいて、淡々と告げた。


「嘘で手に入れたとしてーーそれで、お前は満足できるのか」


 クロードくんの顔から、笑みが消えた。

 言葉が出てこない。


「……ちっ」


 小さく舌打ちして、足早に調理室を出て行った。


 私は箱を胸に抱きしめて、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。


「……イリヤ、くん……」


 涙が止まらない。

 嗚咽が漏れて肩が震えて、箱をぎゅっと抱きしめる。


 イリヤくんはゆっくり近づいてきて、私の前に膝をついた。


「……泣くな」


 その言葉に、昨日のような鋭さはなかった。

 顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃになった顔でイリヤくんを見る。


「……ごめん……なさい。私、クロードくんに……渡せないって言って……でも、イリヤくんが……他の子たちの……受け取ってたって聞いて……」


 イリヤくんの瞳が、わずかに揺れた。


「俺は、誰のも受け取っていない」


 私は息を呑む。


「え……?」


 イリヤくんは視線を逸らさずに、ゆっくりと、でもはっきりと続ける。


「君の以外、欲しくないからだ」


 その言葉が、心の奥深くに染み込んで、凍りついていた胸がじんわりと温かくなった。

 涙がまた溢れる……でも今度は、痛い涙じゃない……。

 安堵と嬉しさと、昨夜のすれ違いの痛みが溶け出すような、温かい涙。


「……イリヤくん……」


 イリヤくんは私の頰にそっと手を伸ばして、涙を拭ってくれた。その指先が、優しくて温かくて、また涙が溢れた。


「……馬鹿だな。君が謝る必要はない。

俺が……君を信じきれなかったのが悪い」


 その言葉に、私は震える手で箱を差し出した。


「……これ……イリヤくんに、あげたいの……受け取って……くれる?」


 イリヤくんは小さく頷きながら、無言で箱を受け取って、蓋を開けた。

 中にはチョコレートが、丁寧に並んでいる。


一つを口に運んで、僅かに顔を歪めた。


「……苦くて、しょっぱいな」


「……え?」


 私は目を丸くした。

 涙でぼやけた視界の中で、イリヤくんがもう一つ摘んで、ゆっくり私の口元に近づけてくる。


「砂糖と塩、入れ間違えただろ?」


 呆然としながらも、指先が触れそうな距離に、自然と口を開けた。


「……ん……」


 舌に触れた瞬間、確かにしょっぱい。塩の味が強くて、甘さがほとんどない。

 それなのに、涙が混じって、余計にしょっぱさが胸に刺さる。


「……本当だ……しょっぱい……涙も混じって……より、しょっぱい……」


 顔を真っ赤にして、ぽろぽろとまた涙をこぼした。情けなくて恥ずかしくて、どうしようもなくて、わんわんと声を上げて泣き始めた。


 イリヤくんはそんな私の泣き顔を、じっと見つめていて。


 そしてーーフッと小さく、でもはっきりと笑った。


 その瞬間、涙がぴたりと止まる。


「……え?」


 イリヤくんが笑った。


 いつも無表情に近い赤い瞳が柔らかく細まって、口元がわずかに上がって堪えるように、でも確かに笑っている。

 呆然として、涙で濡れた顔のまま声を震わせた。


「……笑わないでよぉ……!」


 恥ずかしさが爆発して、またわんわん泣き出した。


 イリヤくんは笑みを抑えきれずに、もう一つチョコを口に放り込んで。

 しょっぱいはずなのに、ゆっくり味わうように噛んで、最後の一つまで全部食べ終えた。


 空になった箱を調理台に置いて、そのまま私の手をそっと取る。

 指がゆっくりと包まれ、温かくて離す気配がない。


 そのまま、ゆっくりと引き寄せられた。

 髪に大きな手が触れる。乱れた髪を、静かに耳にかけてくれる。

 耳元に吐息が届くほどの距離で、低い声が落ちてきた。


「……来年も、欲しい」


 心臓が跳ね上がった。顔に熱が集まって、涙が止まる。

 顔を覆った手をゆっくり下ろして、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。

 イリヤくんの赤い瞳が、すぐそこにーー。


「……来年も……?」


 イリヤくんは頷いて、赤い瞳をまっすぐに私に向けたまま、口を開きかけた。


「……君は、どんな顔をしてもーー」


 言葉が、途中で止まってしまう。視線だけが、静かに私を捉え続ける。

 続きを待った。でも、イリヤくんは小さく息を吐いて視線を逸らす。


(……続きは、なに……?)


 胸が、きゅうっと締めつけられる。

 言いかけた言葉の重さが、ずっと胸の中に残ったまま。イリヤくんの視線が再び私に戻る。


「しょっぱくても、甘くても……君が作ったものなら、全部食べる」


 私は涙を溢しながらも、ようやく小さな、本物の微笑みが浮かんだ。


「……うん……来年は、間違えないから……イリヤくんが好きって言ってくれる味に……絶対にするから……」


 イリヤくんのもう片方の指先が、そっと頰に伸びてきて、涙で濡れた頰を、静かに拭ってくれる。その指先が、ほんの少しだけ、頰に留まった。


 そして……もう一度、小さく笑った。


「……楽しみだ」


 重なったままの手が、そっと離れる。

 でも、温もりだけが、まだそこに残っている気がした。


 しょっぱいチョコレートの味と、涙の味と、互いの温もりが、ゆっくり優しく溶け合っていく。


 ーー「愛の日」は、私たちの初めての、甘くてしょっぱくて、すごく大切な記憶になった。

 来年の約束が、私の『初恋』を鮮やかに彩ってくれる……大好きだよ、イリヤくん。

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