第11話 閉じ込める腕
「ルリシアさんのチョコ、俺も欲しいな!」
「俺も、欲しい!」
愛の日が近づくにつれ、なぜか、私の周りは一気に騒がしくなっていった。
調理室の前や休み時間、廊下でさえ、男子たちの声が次から次へと飛んでくる。
私はただ戸惑うばかりで、対応に困ってしまう。
「おいおい、皆。ルリシアさん、困ってるだろ?」
そんな時、クロードくんが明るい声で助け舟を出してくれた。
「ありがとう、クロードくん」
私はホッとして小さく微笑む。
「ううん、ルリシアさん人気者だから大変だね」
クロードくんはいつもの優しい笑顔で言った。
「そんなことないよ……」
「まぁ、俺もルリシアさんのチョコ欲しいんだけどね?」
「え?」
思わず目を丸くすると、クロードくんは少しだけ声を落として、にこりと笑う。
「ルリシアさん、鈍いよね? そのままの意味だよ」
返答に詰まってしまった私に、クロードくんは軽く手を振った。
「またね」
そう言って、さっぱりとした様子で去っていく。
それからというもの、男子たちがさらに私を囲むようになり、毎日が慌ただしく過ぎていった。
イリヤくんとまともに話せない日が続いて、胸の奥がなんだかざわついていた。
ある日の調理の時間、私はレイラにそっと尋ねてみた。
「ねえ、レイラ……イリヤくん、最近何してるのかな?」
レイラは材料を混ぜながら、さらっと答える。
「イリヤ? そういえば最近、先生たちとよく一緒にいるわよ? 何かと頼りにされてるみたいだから」
「そうなんだ……」
私は小さく頷きながら、ため息をこぼした。
レイラがこちらをチラリと見て、軽く眉を寄せる。
「ルリの周り、何やら騒がしいわね? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫だよ」
私は曖昧に笑ってごまかしたけれど、本当は全然大丈夫じゃなかった。
(イリヤくんにしか、あげたくないのに……どうやってみんなに断ればいいんだろう……)
**
夜、女子寮の部屋でセナにぼやいた。
「ルリ、最近モテモテじゃん?」
セナがベッドに寝転がったまま、からかうような声で言う。私は顔を赤くして、困ったように苦笑いするしかなかった。
「……イリヤくんだけでいいのに……」
セナは枕を抱きしめて、にやにやしながら続ける。
「じゃあ、明日ちゃんと断りなよ? クロードくんたちに囲まれてるの、イリヤくんが見たらどう思うかな〜?」
胸がきゅっと締めつけられて、思わず枕に顔を埋めた。
(イリヤくん……最近、全然会えない……)
セナの言葉が、頭の中でぐるぐる回り続けた。
そうだ、わかってる。ちゃんと断らなきゃいけない。でも、どう言えばいいんだろう。
傷つけたくない。でも、曖昧にしたままでいるのも、きっと、もっとよくない。
眠れないまま天井を見つめて、イリヤくんのことを考えた。試作品を食べてくれたあの日以来、ちゃんと話せてない。
(明日は少しでもいいから、会いたいな)
**
そして、「愛の日」の前日。
遅くまで調理室に残って、明日のために最後の確認をした。ガナッシュをスプーンで少し掬って、口に運ぶ。
ーーうん、これでいい。
あの日、チョコを食べたイリヤくんが言った言葉が、ふと蘇る。
『……ああ、好きだ』
思い出した瞬間、顔が熱くなって、頬が赤くなる。慌てて小さく首を振って、気持ちを落ち着かせた。
あのときの視線に込められた重さ……全部、全部、鮮明に覚えている。
(あれって、チョコの話……だよね? チョコが……好きって……)
ーーでも。そういえば今日、少しだけ目が合ったけど、すぐに逸らされてしまった。もしかしたら、誤解されてる?
ここ最近の、微妙なすれ違いが急に胸を締めつけてくる。不安が一気に膨らんで、息苦しくなる。
(明日、ちゃんと渡そう……「イリヤくんに、あげたい」って、ちゃんと言おう……)
それだけを胸に繰り返しながら、調理室を後にする。
**
疲れた体を引きずって寮に戻る途中、階段を降りていたら、下から声がした。
「ルリシアさん!」
クロードくんだった。
階段の下で笑顔を向けて、手を振っている。
「明日、待ってるからね。チョコ、楽しみにしてるよ」
私は足を止めた。ーー今しかない。
「……クロードくん、ごめん……私、実は……」
ちゃんと断ろうと思って、一歩階段を降りた瞬間。
ーー足を踏み外した。
「……っ!」
体がぐらりと傾く。
手すりを掴もうとしたけど、指が空を切った。
落ちる、と思ったときーー。
クロードくんが駆け上がってきて、私を強く抱きとめてくれた。
心臓が跳ね上がる。
腕の中にすっぽり収まる形になって、慌てて離れようとする。
「く、クロードくん……!」
でも、腕の力が緩まない。
むしろ、ぎゅっと引き寄せられてーー息が、詰まった。
離れようとして、肩に力を入れた。でも、腕はびくともしなかった。耳元に、低い声が落ちてくる。
「……やっと」
え、と思う間もなく、腕がさらに強くなった。
「やっと、君をこんなに近くに感じられる」
笑っているのに、笑い声じゃなかった。
甘くて、どこか、手放したくないものを確かめるみたいな声。
(……クロードくん?)
いつもの優しい彼とは、何かが違う。
背中に、じわりと冷たいものが広がっていく。
私は固まった。
逃げなきゃ、と思っているのに、体が動かない。
クロードくんの腕は、まるで最初からここに収めるつもりだったみたいに、ぴったりと私を閉じ込めていた。
「ルリシアさんはいつも、俺の手の届かないところにいるから」
ふっと笑う気配がして、嫌な予感が這い上がった。顔を上げようとしたとき、耳元でそっと囁かれた。
「……ルリシアさんって、すごくいい香りがするね」
穏やかな声なのに全身が、警告を発していた。
早く、離れないとーー。
「……っ、クロードくん……!」
声を震わせながら呼びかけた瞬間、腕がゆっくりと、名残惜しそうに解けた。
いつもの柔らかい笑顔が戻っていたけど、その目の奥は笑っていなかった。
「危なかった……大丈夫?」
耳まで熱くなるのを感じながら、私は必死に視線を逸らしてーーそして、階段の下を見た瞬間、心臓が止まった。
イリヤくんが、そこに立っている。
赤い瞳が、鋭く私を捉えている。
無表情に近い顔なのに、その視線は凍りつくほど冷たい。私は青い瞳を見開いた。
(イリヤくん……!)
一瞬の静けに、時間が止まったように感じた。
イリヤくんは視線を逸らすと、踵を返して歩き去ってしまう。私はハッとして、クロードくんの腕から離れて駆け出す。
「ご、ごめん……!」
階段を駆け下りて、イリヤくんの背中を必死に追いかけた。
「イリヤくん、待って……!」
廊下の角を曲がったところで、彼はようやく足を止めた。でも、振り向いてはくれない。
息を切らして後ろに立つ。胸が激しく上下して、言葉が出てこない。
「……イリヤくん……違うの、あれは……! 私が足を踏み外して、クロードくんが……」
ゆっくり顔を向けた彼の視線は、いつもよりずっと冷たい。まるで自分を抑え込もうとしているような。
「……説明はいい」
短く遮られて、息を飲んだ。目が揺れて、涙がにじむ。
「でも……! なにか誤解してる……私、イリヤくんにしか……」
「誤解?」
声を低く尖らせて、一歩近づいてくる。見下ろされて、胸が縮こまる。
「君の周りに、あいつらが群がっているのを、俺は何度も見ている。今も、階段で抱きしめられているのを……見た」
胸がずきんと痛んで、言葉が喉に詰まった。
「……それは、事故で……クロードくんはただ助けてくれただけで……」
瞳が細くなる。
「……助けてくれた、か」
棘のある響きに、慌てて手を伸ばしたけど、彼は身を引いた。
「君は優しいから、誰にでも笑顔を向ける。それが、君のいいところだと思っていた。だが……」
言葉を切って、視線を壁に固定する。ほとんど聞こえないくらい小さな声で言った。
「……俺だけを見てくれていると思っていたのは、
俺の思い込みだったのかもしれない」
その声は、怒っているんじゃなかった。静かで、どこか傷ついているみたいだった。
私は目を見開き、涙が一粒、頰を伝う。
「違う……! イリヤくんだけだよ……他の誰にも、そんな気持ちなんて……ないよ! だからっ……」
声が途中で震えて、うまく続かなかった。
でもイリヤくんは小さく息を吐いて、背を向けた。背中越しに、低い声が落ちてくる。
「君が俺以外にもあげようと、それは君の自由だ」
震える声で、必死に言葉を紡いだ。
「どうして……? 私、他の誰にもあげるつもりないよ……信じて……」
イリヤくんの肩が、わずかに強張った。でも、振り返ってはくれない。
「……信じたい。だが、今は……」
言葉を飲み込んで、彼は静かに歩き出した。
「少し、考えさせてくれ」
イリヤくんの背中が遠ざかっていく。追いかけようとしても、足が動かなかった。
「……イリヤくん……」
彼を呼ぶ声が虚しく響く。
階段の段に座り込んで、膝を抱えた。
学院の廊下は、もう誰もいない。遠くで時計塔の鐘が鳴って、夜が深くなっていくのがわかった。
冷たい床の感触だけが、妙にはっきりしていた。涙を堪えきれなくなって、ぽろぽろと零れた。
(どうして……どうして、こんなに離れていく
の……? 私の気持ち、届かないの……?)
ーー「愛の日」。
チョコレートを渡すはずの甘い日なのに、今までで一番、重くて緊張した空気に包まれていた。
やっと埋まり始めた距離がまた遠ざかる。
すれ違いがこんなにも痛いなんて、知らなかった。




