彼女の横顔がとても美しくて、
僕たちが電車を降りたのは、それから30分ほど経ってからだった。
それまでの間、僕たちは仁子とも言葉を交わさずに、お互い別の方向を見て、ただ電車の揺れに体を委ねているだけだった。
僕はもういっそのこと、電車を引き返してこの始まったばかりの旅を降りようとも何度も思った。
その方が彼女のためでもあり、僕のためでもある気がした。
勢いに任せて承諾したが、僕は彼女のことをよく知らないし、複雑な事情に巻き込まれているような感じはするが、それは一切話されない。
聞いても話してくれないことは確かだったが、それでももっとこう、何か僕をその気にさせる何かがあっても良いのではないのか。
そんなことをぐるぐる考えて、僕は一旦電車を降りた。
このまま、また来た道を戻ればいい。
一時間に一本の電車でも、待っていれば来てくれる。
いくらでも僕には時間がある。
それは、幸せなことでもあり、不幸なことでもあるのだけれども。
「着いたわ、降りましょう」
彼女はそう言うと、僕を急かすようにして座席から立ち上がった。
荷物は少し彼女には大きめのサイドバッグだったか、軽々と持ち上げて、颯爽とドアの前に向かった。
僕も急いでバックパックだけの荷物を抱えて、ボックスシートに挟まれた狭い通路を器用に走った。
電車が止まり、プシューと音がして鉄の扉が開いた。
「あ、あのさ、僕やっぱり」
彼女ご電車の敷居を跨ごうとするとき、僕は声をかけた。
「やっぱり旅にはついていけない」そう言うつもりだった。
でも、電車を降りる瞬間、彼女の顔を見た。
それは、何とも表現しがたいものだった。
僕の持ち合わせの語彙力がないのもそうなのだが、ただ、ただ美しかった。
僕が持つ数少ない比喩をすると、あのモナリザのような、柔らかな微笑みを口許にたたえて、それでいて外から彼女の顔を照らす朝日はまるで聖母マリアのように神々しかった。
彼女の顔立ちがもともと整っているのはそうなのだが、それを差し置いても、美しかった。
宝石のようにキラキラと彼女の回りの空気が輝いていた。
本当に優しい笑顔だった。
あんなにも優しい目元をする人は見たことがない。
僕はその一瞬で、彼女に見とれてしまって、その場から身動きが取れなかった。
ふわりと風に乗った髪は柔らかく宙に浮き、優しさと美しさに溢れ、これから楽しいことしかないようなワクワクした子供のような好奇心を形にしたようなその存在は、僕にとっては初めてのことで、衝撃に近い何かを感じていた。
なんだか、この世界には彼女と僕しかいなくて、それでいて、それだけで幸せなんだと思い始めていた。
今思えば、この瞬間、僕は彼女に恋をしていたのだと思う。
そんなこと、他愛もないと思う方もいるだろう。
しかしながらそれは、あなたがまだそうした人に巡り合って、僕と同じような体験をしていないからである。
ある日、ある時、ある瞬間に、それまで仇とも思えた相手に、恋をしてしてしまうことが世の中にはあるのだ。
それは、彼女の内面から溢れる人間性であったり、魅力であったり、雰囲気が僕を魅了したのだ。
その魅力が等しく他の人も感じているものかもしれないが、僕は確かに彼女に恋をした。
それは理由のない恋であって、僕にも理解し難い何かであった。
しかし、僕が今目の前で見た光景は、まさに、これまで僕が見てきた何よりも美しいものだった。
実際、僕は今目の前で、ジェミニと名乗った女性に恋をした。
ふとした出会いから、最悪な発展にと変わり、どこに彼女を好きになる理由があるのかと思われるかもしれない。
でも、それを覆し、自身の持つ魅力で人を虜にしていくのが彼女であるのだ。
彼女は、最初から最後までそういった人間だった。
出会ってから、最後に彼女を見るまで、僕の瞳は彼女から反らすことができなくなっていた。
「早くしないと、ドアしまっちゃうわよ」
彼女の言葉でハッとした。
僕はしばらくバックパックを両手で抱えて、茫然と立っていたらしい。
ここが東京であれば、すでに電車の扉は閉まっていて、とうに隣の駅についていてもおかしくはない時間、僕はただそこにいて、彼女のことを見つめていたのだ。
幸にして、ここは田舎の駅であり、電車が到着してから発車するまで、一眠りしても少し足りないくらいの時間はある。
「あ、うん」
この時の僕はまだ自分自身彼女に恋心を抱いているなんて思わなかった。
それは僕が自分の初恋を知らないからで、名前をつけることができなかった未熟者だからである。
僕は急いでホームへと足を運んだ。
おそらくまた時刻は10時頃だというのに、ホームはじりじりとした熱気で満ち溢れていて、日陰の中にも関わらず、どこまで気が遠くなるような夏の暑さが体の体温を上げて、体力を問答無用で奪っていった。
「さあ、行くわよ、時間がないから」
彼女は僕がホームに降りたのを確認すると、そそくさと改札に通じる階段に向かって行った。
僕はその後ろ姿ですら愛おしいと感じた。
彼女の100個の夢とやらを叶えたい。
モノクロで味気なかった僕の生活に熱と色が灯った瞬間だった。
彼女に遅れないように、僕も急いで改札に向かった。
唸るような暑さが嘘に感じるくらい、僕たちがついた海は最高に開放的で清々しかった。
太陽がまだてっぺんにたどりついていないものの、じりじりと日差しは強かったが、何よりも新鮮でそれでいて生臭い海の匂いは、心がしゅんと透き通っていくようだった。
爽やかな海風が体の中を突き抜けていく心地は、僕の心も少しだけ軽くしてくれた。
僕の人生を変えたあの日も、本当はみんなで海に行くはずだった。
明け方には海辺に到着して、朝日を眺めて将来の夢を語らうはずだった。
もしもあのとき、僕たちが海にたどり着けているのであれば、今頃僕たちは違う人生を歩んでいただろう。
それもきっと、今よりはもっと幸せでありきたりで、どこにでも転がっているような日々だ。
「は〜、気持ちがいい」
ジェミニは空に手を届かせようとしているくらい、その小さな体を伸ばして、全身で海を感じている。
「海、いいね」
ぽつりと自分にしか聞こえないくらいの声なのに、ジェミニは僕の声を拾って、
「海、来て良かったね」と返してくれた。
しゃりしゃりと歩くたびにスニーカーの中に暑い砂が入るのだが、なんだか今はちっとも気持ち悪くなく、むしろ心地よいと感じるほどだった。
すでにこの時間でも観光客なのか、地元の人なのかは分からないが、サーフスーツに身を包んだ屈強な若者たちや家族連れが、青く輝く海を楽しんでいた。
「ねえ、もう少し近くに行ってみない?」
ジェミニはそう言って、寄せては返す波を指差した。
「もちろん」
僕もワクワクしながら、太陽をいっぱいに浴びて輝く海に向かっていった。
僕たちは靴を抜いて、ひんやりと冷たい海の中に足を入れて、自然の力を感じていた。
「思っていたよりも冷たいね」
「そうだね。でも、冷たくて気持ちいい」
「うん、ちょうどいい」
僕はハーフパンツの裾が濡れない程度に浜辺で水に足を浸していた。
彼女も膝丈の白のワンピースが濡れないように裾を両手で持ちながら、ふくらはぎを撫でる波の心地を楽しんでいた。
荷物は波に濡れない距離に置いてきたので、手ぶらで海を楽しむことができた。
「あはは、楽しい」
彼女は子供のようにバシャバシャと足をばたつかせながら、跳ねる水しぶきに興奮していた。
僕はそのはしゃぐ姿をただただ、目に納めていた。
「ねえ、あれ、サメじゃない?」
急に彼女は深刻そうな声で海の向こう側を指差した。
僕はサメと聞いて、すぐに人喰いサメを連想し、近くに黒い影がないか探した。
しかし、近くには金色に輝く波ばかりで、人々を危険にさらす凶暴な動物の姿は見つけられない。
「どのあたりで見た?まだ見つけられな・・・」
そこまで言った時、パシャッと顔に何かが当たった。
それは、水だった。
それも、彼女は今しがた海から両手ですくって、僕の顔目掛けてかけた海水だ。
「騙したな」
「騙してないよ、サメに見えたんだもん」
彼女はその無邪気な顔をさらに悪戯っ子にしたような表情を見せて、二度三度僕に向かってまた海水をかけた。
やられたら、やり返すしかない。
「あ、足下、クラゲじゃない?!刺されたら危険だよ」
僕はとっさに嘘をついて、彼女に向かって、同じく水を何度かかけた。
「クラゲなんていませんよ〜!騙されないよ」
当然僕の嘘も見抜かれており、さらに水遊びが加速した。
お互いなぜかは分からないが、髙が外れて、我を忘れて水を掛け合っていた。
それこそ、全身から水を被ったくらいに服も髪も濡れていたし、もう彼女のワンピースの裾や胸元のレースはぴったりとボディランインが分かるくらいに張り付いていた。
水遊びは追いかけっこになり、いつしか僕が鬼になり彼女を追いかけていた。
周りから見ると友達同士はしゃいでいるように見えるが、僕たちはほんの2日前に出会ったばかりの他人だ。
でも、今のこの瞬間だけは、昔からの幼馴染みのように、心のそこからはしゃいでいた。
お互いに、心の奥底にある暗いものを忘れて、楽しんだ。
「あっ」
「あっ」
バシャーンという派手な音がして、激しい水遊びは終わりを迎えた。
彼女はなんと波に足を持っていかれ、海に尻餅をついてしまったのだ。
状況が理解できず固まっている彼女は、目をぱちぱちとさせて状況を飲み込もうとしていた。
当然全身びしょ濡れで、頭からもすっぽり海水を被っていた。
「大丈夫?」
僕は手を差しのべた。
「あ、ありがとう」
彼女は躊躇なく僕の手をとって立ち上がった。
僕の胸元くらいしか背がない彼女は、まだ状況がつかめていないようだった。
海に足を掬われたのは完全に彼女の足がもつれたせいもあるが、なんだか女性一人だけこんな濡れる思いをさせるのは癪だと感じた僕はなんと、自ら海に飛び込んだ。
バッシャーン
さっきよりも大きい音がして、音の大きさに比例して大きな波しぶきが立った。
頭のてっぺんから滴る海水を両手で払って、「坊主はこんなとき役に立つよな」と皮肉を言った。
坊主はタオルで頭を拭くだけで髪が乾くのだ。
「あはははは、なにそれ、面白い」
彼女がお腹を抱えて笑いだした。
笑い泣きをしているのか、さっきの転倒でまだ目に海水がたまっているのかは判断できなかったが、とにかく彼女は大きく笑い続けた。
そしてお互いにとことん濡れた体で、この海で誰よりも水を浴びて、心の底からはしゃいでいた。
気がつくと、時刻はもう昼に差し掛かっていた。