触らせてくれない
そして先ほどまで対角線に座っていた彼女は、いつの間にか僕の隣に座っていた。
女性独特の、男性には無い甘い香りがふんわりと僕の鼻口を通っていく。
彼女はさも得意げに大学ノートを破いた紙切れをひらひらを見せながら、揺れる電車と一緒に体を揺らしながら、こちらを見ていた。
僕の隣に座った彼女をまじまじと改めて見ることにはなったが、これはどこかのアイドルかモデルかそういった類の顔をした少女だということを再認識した。
人間とは思えないような毛穴がない陶器のような白い肌と太陽の光に当たるたびに宝石のように反射する光沢のある肌は、やはり彼女の素の美しさをさらに惹き立たせている。
「あ・・・ジェミニのやりたいことが、その紙に100個書かれているってこと?」
僕は彼女の名前を必死に思い出しながら、会話を続けた。
「そう、ね。ここに私のやりたいことを100個書いています。でも、すでに何個かはやったから、あとは残り98個です」
「まだ始まったばかりということか」
「そうよ。昨日から始めたの。だから、あなたは私とあと98個のやりたいことを叶えるまで家に帰れません。というか返しません」
どうだ、と少し興奮気味に鼻の穴を膨らませて彼女は僕の顔にずいっと近づいた。
「それは光栄だ」
あまり女性にこうして物理的に近寄られるのは慣れていたかったので、磁石のS極とS極が近づくと自然に距離をとって離れるように一定の距離を取った。
世の中には、こうして若い女性とお金を払ってでも時間を共にしたいと考える人が一定数いるらしい。
それを考えると、僕は無料で美女と時間を過ごせるのだ。
こんなにも得なことはない、とは思うが僕は女性の扱いも分からなければ、女性というものをそもそも理解していない。
彼女の良さを分からないまま過ごすのは、なんだか勿体無い気もする。
電車は時に激しく揺れて、その度に彼女の肩が僕の肩に触れ合ったが、僕の体は自然と彼女から距離を置いていた。
女性は、得意ではない。
僕は女性とのそうした関係の経験は浅い。
良いなと思ったり、好きかもしれないという女性は生きている中で数人いたけれども、だからと言って交際をしたいとか自分のものしたいとか彼女になって欲しいとか思いを告白したいなんて、これっぽっちも思ったことがない。
ただ、自分の気持ちがそうであることを認識しただけで、天気が雨から晴れに変わるように、乾いた大地が雨で潤うように、自分の中で完結した幸せを見つけられるだけで幸福だったし、恋愛は僕にとっては生きていく上で大それて重要なことではなかった。
年齢にしては冷めているのかもしれないとも思うが、熱量がないのに、火をいくらくべても着火はしないのだ。
だからこそ、こうしてぐいぐいと力強く生きるこのジェミニと名乗る少女は、ある意味では動物園の動物のような、テレビ世界の中の人のような、ある程度の一線を置いた向こう側の存在になっていたので、礼愛的な気持ちも沸かなかった。
物理的に隣にいても、ずっと遠くにいる存在だ。
ただ、物珍しさと僕の社会復帰へのリハビリの一種だと、今は感じていた。
僕は今までも、これからも深い人間関係を築かずに一生を終えるのだ。
そう思っている。
そう、少なくとも、このときは。
「なんだか大変そうだな。100個も願いがあるのもすごいと思うし、それを叶えようと決意するのも尊敬だ」
「うーん、大変なのはそうかもしれないですね。でも、きっと100個達成できたら、きっと見える物があると思うんですよ。私はその景色を見たい」
そういう彼女は僕から視線を外して、どこか焦点が合わないところを見ていた。
目の方向は窓の外の田園風景だが、実はもっと遠くのものを見ているように見えた。
目には見えないような、何か空気を掴むような、そんな虚無を。
反対側の色あせた布地のボックス席の座席でもなければ、どこでもない。
彼女は、一体何を見ているのだろうか。
「あ、そうです」
思い出したかのように彼女は言った。
今後は先ほどの勢いはなく、落ち着いた雰囲気の物言いだった。
春の天気のように、夏の花火のようにくるくるとテンションを変えてくる。
「敬語、やめても良いですか」
そんなことか、と思った。
「ああ、別に良いよ。僕もずっと敬語じゃなかったし。僕自身はあまりそうしたものは気にしない。相手が気にするなら別だけど」
この少女は妙に礼儀正しいところがあるなと感じた。
「はーい、ありがとうございます。絶対に年上ですけれども、これからもよろしくお願いします」
「うん、よろしく」
彼女は手にしていた大学ノートの切れ端を大事そうに座席に置いて、その右手を僕に差し出した。
彼女のそのノートの置き方は、まるで人間を隣に置くような丁寧な所作だった。
僕は差し出された彼女の手をそのまま握り、そして握手をした。
彼女の手は、太陽のように暖かく、三日月のようにか細く、思っていたよりもずっと小さかった。
***
「じゃあ、あの墓地で言っていた63っていうのが、達成した目標ってわけだね」
「うん、そう。でもまだ2つだけ。昨日から初めてまだ2つでしょう。先が思いやられるなあ」
彼女はやれやれと言った風に伸びをして、自分で決めたことなのにどこか少し面倒臭そうに、少しだけ他人事のように言った。
「ちなみに、63はなんだったの?」
「え?それもう聞いちゃう?」
「だめ、かな」
「別にいいよ。63はね、じゃじゃーん。”旅をする”!でした」
彼女は満面の笑みで答えた。
「旅か。もう今旅をしているし、叶ったね。ちなみに海は何番目?」
「海は14番目」
「もう一つ、叶っていたよね?」
「うん。それはね、えーと、35番」
そこまで言うと彼女は恥ずかしそうに、大学ノートの切れ端に顔を埋めた。
「35番は何の夢?」
「え〜、言わないとダメ?」
「だって、残りの97個を一緒に叶えないといけないのに、35番だけ知らないのは落ちつかないよ」
そうだね、確かにと彼女は納得して
「ポテチを好きだだけ食べる」
と小さい声で行った。
まるで幼女のようなその姿は、どこにでもいる普通の少女だと感じた。
ただ少しだけ気が強くて、偏見を持ちやすいけれども、情が深い女性なのかなと彼女の分析をしてみた。
少しだけ彼女を仲良くなれた気がしたので、僕も調子に乗って、
「ちょっとそのリスト見てもいい?」と、彼女が大事に握るそのリストに手を差し伸べると・・・
「ダメ!!!」
勢いよく突き飛ばされ、ボックスシートの背もたれに強く背中を強打した。
「あ、ごめん・・そんなつもりじゃ・・・」
彼女は明らかに焦っていたし、不安げな顔をしていた。
ただ、そのリストは胸元でしっかりと握り締められ、誰にも渡すまいという意志を感じとった。
「いいよ。別に、大丈夫。僕こそごめん、調子に乗った」
「・・・ううん。ごめんなさい・・・」
彼女は僕の顔のどこかを見ながら不安定な発音でそう言うと、始めに座っていた斜め向かいの窓際の席に腰を戻した。
彼女の大事なリスト。
僕には見せてくれないリスト。
触ることのない、僕らの目標。
ボロボロの大学ノートの切れ端が2枚。
この旅は、最後はどのような結末を迎えるのか。
それから彼女は黙ってしまい、僕の方を見向きもせず、ずっと窓の奥の流れる景色を見つけめていた。
僕は手持ち無沙汰になったので、携帯電話で短期のアルバイトをまた探し始めた。
心の距離はお互いにすごく、すごく遠かった。
そして、目的地の海もずっとずっと遠かった。




