心休まらない僕の人生
僕らはその後も、暑さ降り注ぐ海でしばらく遊んでいた。
文字通り、時間を忘れるまで。
空が夕焼けに染まり始めた頃、僕らは軽く明日の待ち合わせ時間と場所を意識会わせてして、それからそれぞれの宿に向かった。
それぞれの宿と言っても、彼女は事前に予約した民宿で、僕は空きがあるか分からない漫画喫茶に向かってそれぞれ歩き出した。
駅に降りたときに、何となく駅前広場に漫画喫茶があるような記憶があり、海からもそこまで遠くないので、僕はぶらぶらと記憶だけを頼りに歩き始めた。
海で彼女と水をかけてあって遊んでいるときに、彼女がいくつか耳寄りな情報を教えてくれた。
ここの土地にはご当地の美味しいプリンがあるらしい。(とは言っても僕は甘党ではない)
また、炭酸が強めの大人向けのソーダがあることも教えてくれた。
あとは、この辺りは温泉街らしいので、漫画喫茶のお風呂ではなく、せっかくなら近くの銭湯で汗を流せば良いと勧められた。
なぜ彼女がこうしたこの地にまつわる情報を知っているのかまでは理由こそ言わなかったが、この土地の人間ではなさそうなもものの、妙に詳しかったのは事実だ。
そうした情報は、どこかテレビや情報雑誌で事前に得た知識かもしれないが、それでも一般の観光客よりも情報通であることは確かだった。
僕が今晩漫画喫茶に泊まるといったときも、駅前と海沿いを少し歩いたところに安くて比較的綺麗な漫画喫茶があると、まるで一回行ったことがあるような口ぶりで話していた。
そういえば、改めてだが、僕は彼女のことをなにも知らない。
名前すら教えてくれず、“ジェミニ”という謎のハンドルネームを知ったくらいでは、彼女のことを知ったとも言えるレベルではない。
ジェミニが英語で双子座を示すことくらいは分かっていたが、それで彼女が双子座と断定することは出来ないし、さらには彼女がもしかしたら双子の生まれであって、共に産声をあげた家族がいるかもしれない。
でもそれは、あくまでも僕の妄想であって、何にもならない空想だ。
そんなことを考えながら、僕はいつの間にか彼女が勧めてくれた漫画喫茶に到着していた。
彼女のいう通り、やはり安いは安いという金額で、さらに言えばここ数年でできたくらいの清潔感がある綺麗な内装だった。
漫画喫茶独特のあのこもったような湿気の匂いは全くしなかった。
今はちょうど暦でいうところのお盆の季節でもあり、そこまでごった返すほど観光客もいなかったことから、漫画喫茶の予約はスムーズすぎるほどに楽々と取れた。
僕はとにかく汗と海で濡れた体を流すべく、指定された個室のリクライニングチェアとパソコンだけの狭い部屋で一息ついたあと、すぐに銭湯を探してまた街に繰り出した。
***
夕方のこの街は、昼の顔とは違った活気を見せていた。
昼は家族連れやサーファーたちが活発に活動する明るく楽しい雰囲気だが、夜は息を潜めていた居酒屋などが爛々と灯りを灯し、暗闇にぼんやりとその姿を浮かびあがらせ、夜の街の雰囲気を醸し出していた。
時刻はまだ5時だというのに、開店と同時に入店をした第一陣の客たちはすでに顔を赤らめて目の前の酒を楽しんでいた。
山と違い海側は気温が少しばかり低いのか、どのお店も店の扉をオープン開放して、店内の様子がすぐに伺えるようになっている。
馴染みの店主や常連と思しき客たちは、カウンター向かいの客と店主との会話を楽しんでいるのが暖簾越しにも伝わる。
夜の活気が僕にも良い刺激を与える。
歩く度に焼き鳥や煮物などよだれが出そうな匂いが鼻をくすぐった。
そういえば、外でお酒なんていつから飲んでいないのだろうか。
もともとそこまでお酒を嗜む方ではなかったが、それでも嫌々ながらも付き合いで飲むこともあったし、お酒は嫌いな方ではなかった。
でも、今では前ほど飲めなくなったし、飲む必要もないし、飲む理由も自分にはここ何年か見つけられなかった。
そんなことを考えていると、急に頭の中にキンキンに冷えたビールが極限まで冷やしたジョッキグラスに注がれるイメージが飛び込んできた。
そして急に喉の奥が熱くなり、無性に喉が乾いてきた。
からだ全身が水分を欲していた。
「今日くらいは、許されるかな」
ジェミニとの交流で僕は気分が少しよくなっていたので、どこか入りやすそうなチェーンの立ち飲み居酒屋を探すことにした。
目当ての居酒屋はイメージ通りの店が見つかった。
幸いに何人かが既に乾杯を始めているところが外から見て取れたので、僕もその波に便乗することにした。
店内に入ると「へい、らっしゃい!」とあまりにも威勢が良い掛け声がして、思わずびっくりして後ずさりをしてしまった。
座る場所は好きな場所で良いと言われたので、僕は店内で空いている壁際の二人掛けの席の片方を自分の居場所にして、とりあえずビールを注文して、喉の乾きを癒すことにした。
店内は全員でも20人ほどは入れる広さで、壁いっぱいに筆で力強くメニューがお札のように貼られていた。
いつかはこうした大衆居酒屋に来てみたかった。
ジェミニと名乗った彼女の願いも僕の願いも同時に叶えられて、この旅はもしかするとWin-Winなのかもしれないと、僕は楽しい気分になってきた。
ジェミニと出会っていなければ決して来ることのなかった人が集まる場所だ。
注文後、すぐにビールが届けられ、僕は追加で枝豆と冷奴を店員さんに注文した。
目の前には金色に光輝く液体が、ジョッキいっぱいに汗をかいて立っていた。
白い泡はまるで天使が乗っている雲のようにふわふわと揺れていて、安い照明の光を浴びていても宝石のように光が焼いていていた。
液体は下から上へと炭酸の小さな泡が止まることなく何度も何度も立ち上がっては消え、立ち上がっては消えを繰り返していた。
僕は恐る恐る目の前にあるこの神がかった存在に手を伸ばし、心の中で合掌をして、ジョッキグラスの取っ手に手をかけて、その泡に口を触れさせた。
そして次の瞬間、その金色の液体は目の前から消えて無くなり、僕の胃袋に心地よく収まった。
それから僕は2杯続けて一気飲みをして、4杯目からようやくゆっくりとつまみを食べながらビールを楽しむことができた。
外で一人で飲むのも初めてのことだった。
そのことだけでも興奮に値する。
昨日も宿で缶ビールを開けたが、外で飲むのと宿で飲むのとでは同じビールでも全く感じ方が違うのは、誠に不思議なことだ。
僕は貯めていた小銭がこんなところで役に立つとは思っていなかったので、まさかの楽しい時間に酔いしれていた。
空きっ腹にアルコールを注いだこともあり、気持ちがふわふわと高揚してきた。
目の前の視界がゆっくりと光輝いているように感じ始めた。
ほろ酔い気分でふと店内を見渡した。
入店したときよりも人手が増えてきた。
立ち飲み専門のお店ではあるが、女性の若い姿も見られ、活気づいてきた。
そこでふと、店内の天井に取り付けられたテレビが目に入った。
テレビ画面には、どこかの動物園で何かの赤ちゃんが生まれたとか、どこかのごはんがおいしいだとか、隠れた観光地があるとか、そんなことが映し出されていた。
同じ世界なのに、僕には全く関係がないことが、世の中にはたくさん起きている。
そのほとんどが僕には関係がないことだが、誰かにとってはとても重要なことだったりする。
賑やかな店内でも、僕の耳に入ったのは、これもまたどこか僕の知らない場所での出来事だった。
高速道路で交通事故があり、誰かが意識不明の重体だと女性のアナウンサーは淡々とした声で原稿を読み上げていた。
この女性にとっても、この事故は関係のないことで、彼女はこの原稿を読むだけの人生なのだ。
そこに悲しいや辛いなどと行った感情は全く入っていない。
なんとも世知辛い世の中だな、と感じた。
事故を起こしたのは、18歳の少年で、免許を取り立てのようだと女性アナウンサーは続けた。
大学生か高校生だと、夏休みの期間に運転免許を取ることが多いのだろう。
意識不明の被害者は、同じ車に乗車していた同じ年の女性だった。
二人はレンタカーを借りて、どこかにデートに行く予定だったのだろうか。
テレビ画面の中には、ぺしゃんこに潰れた青い軽自動車が映し出され、あちこちに散らばった破片が衝撃の強さを現していた。
ふとテレビから視線を外すと、テレビの直ぐ下で立ち飲みをする二人組の若い男たちと目があった気がした。
彼らは僕の方を見て何か話しており、手に持っていた携帯電話で何かを調べているように見えた。
その彼らの行動は、僕の妄想かもしれないが、気持ちが良いものには感じられなかった。
やっぱり僕の人生は楽しむことを許されない。
僕も居心地の悪さを感じ始めたので、居酒屋を立ち去ることを決めた。
何か起きる前に、僕から行動を起こさなければならない。
僕は残り数口ほど残ったビールと半分ほど残った枝豆を名残惜しそうに見ながら、そそくさと席を後にした。
僕の人生は、これからずっとこんな感じなのだろう。
人前で堂々と酒を飲むことも許されないし、大手を振って歩くなんて決してできない。
そんなことしたくもないが、常に人目を気にして生きなければいけない人生なのは間違いない。
限られた幸せにすがって、そこにしがみつくように生きていくしかない。
”限られた幸せ”があるのかも怪しいが。
外に出ると、冷たい夏の夜の空気が僕の頬を包んで、折角の酔いを急激に冷ましていった。
僕の頭も急激冷やされ、冷静さが際立って、ジェミニと名乗った少女との旅も馬鹿馬鹿しく感じられた。
見ず知らずの少女と宛もない旅をして何になる?
それでも僕は、これから途方とない時間を過ごしていく。
悲しいくらいに時間はたくさんある。
彼女との旅を断る理由もない。
気分が落ちきった僕の心は、温かく開放的な銭湯には向いていない。
今日は静かに眠ろう。
そして目的を見いだせない明日からの彼女との旅に備えよう。
お酒の勢いで、心の中が自己矛盾を起こしているのが分かるが、自分でもその思考をコントロールすることができなかった。
僕はすっかり覚めきった体と混乱た頭を、漫画喫茶への道に向かわせた。




