第33話 神保町〜神楽坂散策②
◎神楽坂のバーでしっぽり
腹ごなしに東京の街を歩いているうち、ディアーヌは神楽坂へ。
(今宵こそはーー)
腕まくりでもしそうな意気込みのディアーヌが訪れたのは、余裕ある「オトナ」の街、神楽坂。
以前、真衣から聞いたことがある。
「神楽坂にはね、素敵なオーセンティックバーがいくつかあるんだよ」
それを聞いてから、ずっと憧れていたのだ。
一人飲みなら慣れている。
居酒屋なら一人で入ることなど何でもない。
しかし今日は、少し違う。
神楽坂の、オーセンティックバー。
聞くだけで背筋が伸びる。
「……私も大人の女性だもの。一人でバーくらい、行けるわよ」
自分にそう言い聞かせながら、良さげなバーを探して歩く。
しかし、「良いバー」というものは入りやすい路面に面した入り口がないというのが定石なのだろうか。
barという単語のついた店の看板はいくつか発見したが、ことごとく細い路地の、しかも地下や上の方の階にあるようだ。
(それにしても、神楽坂の小道というのは石畳で小料理屋さんなんかが立ち並んでいて、また他の街にない趣があって素敵ね)
外から店内が見えないとあっては、どう店を選べば良いと言うのだろう……
ディアーヌは失敗する覚悟で、とにかく気に入った看板の店に突撃することにした。
【bar テーブルランプ】
その店は、石畳のエリアからもまた少し離れたビルの四階にあった。
テーブルランプ。それは、ディアーヌにとっては意味のあるアイテムだ。
というのも、ディアーヌは自室のテーブルランプの下に、異世界と日本を繋ぐ扉の鍵を隠しているのだ。
そんな縁を感じ、腹をくくり、いざ重い木の扉を引く。
ところが――
静かだった。
照明は落ち着いていて、カウンターの奥には様々な蒸留酒のボトルが並んでいる。
時間が早いせいか、客はいない。
「こんばんは。どうぞ、お好きな席へ」
穏やかな声。
白髪をピシッと固めたマスターは凄腕執事のような風格があり、まるで、何か見定められているかのような眼差しだ。
(帰りたい……)
入る前の威勢は、ものの数秒で消えていた。
しかし、ここで引き返すわけにも行かない。
ディアーヌはカウンターの奥の方の席に腰をおろした。
「日本語でお話ししてもよろしいでしょうか?」
「ええ、それは問題ありませんわ」
「こちら、メニューになります。スタンダードカクテルはひと通り。お決まりでなければ、お好みを伺ってご提案することもできます」
うわぁ。
ついに来た。この時が……
実はディアーヌはカクテルについて、事前にしっかり勉強してきていた。
マティーニ。
マンハッタン。
サイドカー。
ネグローニ。
オールド・ファッションド。
知識はある。
しかし、いざ聞かれると――
「ええと……」
言葉が出ない。
「……」
マスターが待っている。
「その……」
頭の中にはカクテルの名前が何十種類も浮かんでいる。
なのに口から出てくるのは、「えっと」という何も始まらないつなぎ言葉だけだ。
(違うでしょう、私!何のために予習してきたのっ)
頭の中は真っ白だ。
「お、美味しいお酒をお願いします!実は、こういったバーははじめてで、もし無作法あればどうぞご教示ください」
「はは、そうでしたか。どうか、リラックスしてお楽しみください」
「ありがとうございます。せっかくなので、何かカクテルを飲んでみたいのですが…」
「ええ。ロングか、ショートか」
マスターの微笑みは柔らかく、品がある。
(勝手に一人で焦っていただけのようね)
ディアーヌは心の中で大きく深呼吸をした。すると、だんだんと、落ち着いてくる。
そして、ようやく思い出す。
「そうだわ、真衣さんが好きだと言っていたカクテルがありました」
「何というカクテルでしょう?」
「アラスカ……です」
「アラスカですね。かしこまりました」
ディアーヌは内心ほっとした。
(言えた……!)
まるで難しい呪文を唱え終えた魔法使いの気分だった。
そして、カクテルを作り始めるマスター。
その迷いない洗練された動きを眺めているだけでも、価値があるように思われる。
(これが、夢に見た、バーテンダーがシェイカーを振る姿!)
それから、スッと目の前に美しい琥珀色のカクテルが置かれる。
「アラスカです」
「まあ……なんて美しいグラス」
ディアーヌは細やかな模様の入ったグラスをうっとりと眺める。
それから、その爽やかな香りを楽しみ、ゆっくり口にする。
(…!)
ジンの鋭さ。
薬草のような香り。
そして、すっと消えていく後味。
「お、美味しい」
肉料理で重たくなっていた胃が、驚くほど軽くなる。
美味しい、以外に言葉が出ない。
思わず二口目。
今度はさっきよりしっかり味わう。
「不思議です。あれほど肉を食べたのに、胃の中が少し涼しくなったような……」
「お肉を召し上がられてきたのですね。食後にはよく合うと思います」
「なるほど……」
そういう作用もあるのかと、ディアーヌは感心する。
キリッとしたカクテルは非常に飲み口良く、名残惜しくもあっという間に空になってしまう。
ここで何を頼むか。
せっかくなら、知らないものを試したい。
「なんというか、次はもう少しコクがあって、でもさっぱり飲めて…」
「また、ショートカクテルでよろしいでしょうか」
「ええ!お肉のこともあるし、またハーブ系が良いかもしれません」
マスターが少し考える。
「ハンキーパンキーはいかがでしょう」
「……ハンキーパンキー?」
怪しい名前である。
「どんなお酒ですか?」
「ジンとスイート・ベルモット、フェルネット・ブランカを使うクラシックカクテルです。ハーブ系の要素と、深みとキレがあるので、よろしいかと。少し甘みがありますが、薬草系の苦味もあります」
「甘み……」
そうか。ちょうど、ちょっとした甘みが欲しいと思っていたのだと気がつく。
マスターはもしかすると、自分以上に自分の状態を把握しているのかもしれない……
「では、それを」
今度ははっきりと、ちゃんと言えた。
(うんうん、少しは成長したわね)
そして、またマスターはカクテルを作り始める。
酒のボトル、グラス、氷、シェイカー。無駄のない動きで「カクテル」がこの世に雫となって、生を受ける。
運ばれてきたハンキーパンキーに、さっそく口をつける。
「……あら」
アラスカより柔らかい。
甘みがあり、その奥に苦味と複雑な香りがある。
「甘み、ハーブの複雑な香り、最後は心地よいビターさ。甘いのに、爽やか」
マスターが頷く。
「カクテルの世界へ、ようこそ」
素敵。ディアーヌはグラスを見つめる。
バーの魅力とは、沼のようだ。非日常感。
夢を見に、また来てしまいそうである。
「また、色んなカクテルを飲んでみたいわ」
「ぜひ」
カクテルの恍惚とした美味しさに酔いながらも、ディアーヌは潔く二杯で店を後にした。
(今日の私、去り際もオトナ!)
気分が良く夜の神楽坂を歩く。
肉料理で重たかった身体は、すっかり軽くなっていた。
いい夜になった。
今日、店に入る前はあれほど緊張していたけれど、勇気を出して良かった。
勉強してきた知識など、ほとんど役に立たなかったが、きっとバーとはマスターと客がその場で築き上げるライブのひと時を楽しむものなのだ。
「また、自分の好きなカクテルを探してみましょう」
そう呟いたところで、ディアーヌは急に真顔になる。
今日の会計を思い出す。
「だけど、ちょっと緊張するお値段だったわね……」
だからこそ、大切に、特別な時間を過ごせるのだろう。
色んな意味でオトナの経験になった。
こうしてディアーヌは、無事、オーセンティックバーデビューを果たしたのだった。




