第32話 神保町〜神楽坂散策①
◎神保町を散策
前回、王都の料理人たちによる肉料理の饗宴を堪能したディアーヌ。
「……美味しかったけれど、さすがに食べすぎたわね」
肉、肉、肉。
最後には魔獣の肉まで食べた。
満腹というより、胃の中に小さな岩が入っているような感覚である。
「これは少し歩かなければ」
と、降り立ったのは千代田区神田神保町。
神保町を歩くのは、初めてだった。
目的はない。先ほどたらふく食べた肉料理のせいで、お腹も空いていない。
(だけど、一人ってやっぱり気楽ね)
誰かに気を遣う必要もない。
行き先を相談する必要もない。
神保町といえば本の街。古書店を覗いていく。
(せっかくだから何か一冊くらい、日本文化の勉強になる本を買えたらいいな)
『江戸の食文化』
「これは面白そう!この国の歴史を、まだまだ何も知らないものね」
『日本酒の歴史』
「こちらも」
『和菓子の世界』
『B級グルメ紀行』
「こういうのも必要よね」
気づけば、食べ物と酒の本ばかりになっている。
「……まあ、日本文化には違いないものね」
誰に言うでもなく、そう結論づけて、さらに歩いていると、古書店の間に、昔ながらの喫茶店を見つけた。
「少し休みましょう」
【喫茶ひまわり】
店の中へ入ると、外の喧騒が嘘のように遠のいた。
少し暗めの照明に、深い色合いの木のテーブル。壁際には古びた本棚が並び、ところどころに小さな絵や置物が飾られている。
その雑多さは、不思議と居心地がいい。
磨かれたテーブルには、長い年月を使い込まれたような艶があり、店内にはコーヒーの香ばしい匂いが静かに漂っている。
カウンターの向こうでは、店員が慣れた手つきでコーヒーを淹れていた。
メニューを見てディアーヌが注文したのは、コーヒーフロート。
アイスコーヒーの上にまん丸のバニラアイス、それにチェリー。
きゅん。
ディアーヌの胸の内で眠っていた乙女心がときめく。アイスコーヒーをひと口。それから、アイスクリームをすくう。
(冷たいコーヒー、飲みやすくて良いわね。コーヒーのほろ苦さとアイスのまろやかな甘みの相性も抜群!)
ディアーヌの国では、コーヒーを冷やして飲むことはない。不思議な感覚ではあるが、その意外な美味しさに思わず顔がほころぶ。
隣の席の若い女の子二人組のテーブルに運ばれたプリンアラモードに目をやる。
(なんて賑やかで華やかなプレート!フルーツにクリームにプディング……お腹が空いてさえいれば、絶対に注文するのに。次回のお楽しみね)
そして、ふとルシアンの顔が浮かぶ。
――甘いものが好きなあの人なら、あれを見たらどんな顔をするだろう。
「……ふふ」
想像すると、少しおかしい。
普段はあれほど澄ました顔をしているのに、このコーヒーフロートやあの色とりどりのプリンアラモードを前にしたら、ほんの少しだけ目を輝かせたりするのだろうか。
そんなことを考えながら店内で小休憩して、店を出て、また歩く。
今度は中華料理店の前で足が止まった。店先から漂ってきたのは、強烈な香辛料の香り。
「……四川料理」
今度はユーリの顔が浮かんだ。
「これは、絶対に喜びますわね」
あの辛いもの好きなら、汗だくになりながら満面の笑みを浮かべそうだ。
さらに歩いていると、今度は焼肉店。
煙と肉の焼ける香りが通りまで流れてくる。
ディアーヌの頭に思い出されたのは、今度はリリーだった。
「……連れてきたら、きっと大変なことになりますわね」
普段は可愛らしいものが好きだと言っているリリー。しかし、その本性をディアーヌは知っている。
目の前に焼肉を並べたら、あの可愛らしい顔でどれほどの肉を平らげるのか。
「……一度、見てみたいですわ」
思わず笑ってしまった。そのまま歩き続ける。
喫茶店の甘味。四川料理。焼肉。
どれも、一人でも十分楽しめる。
実際、今だって楽しい。そのはずなのに……
ディアーヌは、ふと足を止めた。
さっきからずっと、誰かの顔を思い浮かべている。
一人でいるのが好き。
自分の好きな場所へ行き、自分の好きなものを食べ、自分の好きな酒を飲む。
それが自分らしいと思っていた。
それなのに――。
こんなものを見たら、あの人にも食べさせてみたい。こんな店を見つけたら、あの人はどんな顔をするだろう。
そんなことばかり考えている。
「……どうしちゃったのかしら」
一人が好きなはずなのに、いつの間にか、楽しかったものを誰かと共有したいと思っている。
そのことに、ディアーヌ自身が少し戸惑っていた。
けれど、不思議と嫌な気分ではない。
「……まあ、たまには、ね」
そう呟いて、再び歩き出す。
神保町は、思っていたよりずっと面白い街だ。
本も、喫茶店も、食事も、酒もある。
今日は一人で十分楽しんだ。
だからこそ――。
「また来ましょう」
今度は、別の日に。
一人で来てもいい。
誰かと来てもいい。
そんなことを考えながら、ディアーヌは神楽坂へと足を向けた。




