第九話 怪物の席は空けておけ
ルヴィンイヴル魔侯領の夜は、王国の夜より色が多い。
白い月。
淡い藍の月。
岩山の裂け目を流れる紫の川。
黒い石造りの塔に灯る、琥珀色と青緑色の火。
アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルは、転移塔から魔侯城へ続く坂道を歩きながら、そのすべてを見ていた。
懐かしい。
そう思った。
同時に、胸の奥が痛んだ。
懐かしいと感じるのは、唐傘透の記憶ではない。
アマンテルスの記憶だ。
幼い頃、母の歌に合わせて二つの月を数えた夜。
父の隣で、七氏族の使節を迎えた夜。
カイラスと岩山を駆け上がり、転んで膝を擦りむいた夜。
どれも、アマンテルス自身は生きていない。
それでも、自分のものだと思ってしまう。
「足、止まってるぞ」
隣を歩くフィルブランテが、小声で言った。
薄い金髪は夜風に揺れ、白い旅装の上にはイデルバルディ家の青い外套が重ねられている。魔侯領の石畳では目立つ色だ。
それでも、彼女は歩調を乱さない。
フィルブランテが、こういうときに冷静でいてくれることを、アマンテルスは知っている。
「見てただけだ」
「何を」
「故郷」
フィルブランテは少し黙った。
「アマンテルスの?」
「俺たちの、でいいんじゃないか」
「その言い方は、ずるい」
「何でだよ」
「僕はこの場所に住んだことがない」
「これから住むかもしれない」
「気が早い」
アマンテルスは笑った。
フィルブランテも、ほんの少しだけ笑う。
その後ろを、リゼット、レオンハルト、シリル、ノエル、外務官たちが続いている。
王国の使節団は、魔侯城の正門を通る際、全員が魔族式の挨拶をした。
自分の影を、相手の影へそっと重ねる。
敵意はない。
同じ場所へ戻るために、共に進む。
レオンハルトは、事前に覚えた通り、右手を胸から離して影を差し出した。シリルも迷いなく続く。ノエルは術式構造の観察へ意識が向きすぎて、最初、相手の足を踏みかけた。
「影は、足元へ出すだけでよいのです」
アマンテルスが言うと、ノエルは真顔で頷いた。
「了解。身体接触を伴わない挨拶」
「言い方が研究者すぎる」
リゼットが小さく笑った。
笑い声があるだけで、場の空気は少し柔らかくなる。
しかし城門を抜けた先には、武装した魔族の兵が並んでいた。
夜魔族の影槍。
石角族の大斧。
獣魔族の弓。
見慣れない王国の使節を警戒する視線。
遠くの灰銀峡谷からは、かすかに煙が上がっている。
休戦協定は、まだ破られていない。
だが今夜の会議で、破られるかもしれない。
「アマンテルス」
前を歩いていたカイラスが振り返った。
「会議の前に、会わせたい人がいる」
アマンテルスの足が止まる。
カイラスは、城の主棟ではなく、月明かりの落ちる小さな中庭へ案内した。
黒い石で囲まれた庭には、白い花ではなく、銀灰色の小さな花が咲いている。
魔族領では、死者へ手向ける花。
その花のそばに、一人の女性が立っていた。
夜色の長い髪。
アマンテルスとよく似た赤紫の瞳。
淡い藍の衣装をまとい、手には銀の竪琴を抱えている。
「アマン」
エルネシア・ルヴィンイヴルが、娘を呼んだ。
アマンテルスの喉が詰まる。
歓迎晩餐会で救った人。
原作では、死んでいた人。
あの夜、危険を知っていたから助けた。
助けるべき人物として。
けれど今、目の前で名前を呼ぶ女性は、ゲームのイベント目標ではない。
アマンテルスの母だ。
「母上」
声が出た。
エルネシアは一度、驚いたように目を見開く。
それから、竪琴を脇へ置き、アマンテルスへ近づいた。
魔族の親子の挨拶は、影を重ねることではない。
母は、娘の額へ自分の額をそっと触れた。
角の根元へ、許可を得た家族だけが触れる仕草。
アマンテルスの記憶が、温かく弾ける。
「お帰りなさい」
エルネシアは囁いた。
「ただいま」
アマンテルスは、返した。
その言葉だけで、胸の奥にあったものが少し崩れる。
助けられてよかった。
心から、そう思った。
「傷を見せて」
母の声が急に厳しくなる。
「大丈夫だ」
「大丈夫ではない顔をしているわ」
「十段階で二」
「測ったの?」
「ノエルが」
エルネシアは、アマンテルスの右腕に残る黒い文字を見つけた。
赤紫の瞳が、悲しげに揺れる。
「人族の学院で、こんなものを受けたの」
「人族がやったと決めるな」
アマンテルスは、少し強く言った。
母の手が止まる。
「ごめんなさい」
エルネシアはすぐに謝った。
「あなたが王国で傷ついたと聞いて、怖くなってしまった」
「分かってる。俺も、最初はそう思いそうになった」
歓迎晩餐会。
王城の中で、魔族の母が殺されかけた。
人族の貴族たちが集まる場所で。
それでも、レオンハルトは戦い、リゼットは治療し、フィルブランテは証拠を残した。
あの場にいた誰かが敵だったからといって、すべての人族が敵になるわけではない。
「今回は、俺の仲間も一緒にいる」
アマンテルスは後ろへ立つ使節団を見る。
リゼットが、少し緊張した顔で礼を取った。
「はじめまして。リゼット・アーヴェインと申します」
白い花を持ってきてはいけないと覚えていた彼女は、両手を胸の前で重ね、何も贈らなかった。
エルネシアはそのことに気づいたらしい。
「アマンから聞きました。聖花紋を持つ方だと」
「はい。でも、まだ上手には使えません」
「上手に使えないことを、恥じなくていいのよ」
エルネシアの声は、歌うように柔らかい。
「無理に咲かせた花は、早く萎れるものだから」
リゼットの胸元の聖花紋が、わずかに光った。
セラフィナが残した言葉。
聖花は、一人では――。
その続きへ、母の歌のような声が触れた気がした。
「会議の時間です」
カイラスが言う。
彼の表情は硬い。
娘と母の再会へ口を挟まないよう待っていたのだろう。
だが、時間がない。
エルネシアは、アマンテルスの頬へ一度だけ触れた。
「戦う前に、戻る場所を思い出して」
「分かった」
「一人で戻ろうとしないで」
アマンテルスは、わずかに目を見開く。
それは、ここ数日、何度も言われてきた言葉だった。
フィルブランテ。
リゼット。
学院長。
母まで同じことを言う。
「分かった」
今度は、少し笑って答えた。
◇
七氏族会議の議場は、魔侯城の地下深くにあった。
円形の石室。
天井には、白と藍の月を模した二つの結晶が浮かんでいる。
中央に空いた床絵は、七つの影が重なるように作られていた。
夜魔族。
石角族。
獣魔族。
夢魔族。
翼魔族。
水鱗族。
灰樹族。
七つの氏族の席は、円を囲むように並んでいる。
中央だけは空席だった。
魔侯家が調停役として立つ場所。
椅子はない。
王座ではない。
誰か一人が上に立つための場所ではなく、氏族の意見をつなぐための空白だった。
アマンテルスは、その空席を見た瞬間、旧文書庫の中心のない円を思い出した。
空席を忘れるな。
欠けたものを、誰かの役で埋めてはならない。
会議には既に、各氏族の代表が揃っていた。
夜魔族の魔侯、ヴァルガス・デビ・ルヴィンイヴル。
アマンテルスの父。
大きな角と、黒い外套を持つ男は、娘の姿を見ても表情を動かさなかった。
けれど、その足元の影だけが、わずかに揺れた。
アマンテルスの記憶には、父が娘の荷物へ守護符を忍ばせた夜がある。
心配を言葉にできない人なのだろう。
石角族の席には、ガレウス・ドラクがいた。
灰色の肌。
太い角。
左目から顎へ走る古い傷。
アマンテルスの叔父であり、魔族主戦派の将軍。
彼は使節団を見るなり、露骨に鼻を鳴らした。
「王国の王太子まで連れて戻ったか、姪よ」
声は低く、石が擦れるようだった。
「人族の学び舎へ行かせた結果が、これだ」
「叔父上」
アマンテルスは礼を取った。
「王国使節団は、休戦協定を守るために来ています」
「休戦協定を守る?」
ガレウスの笑いには、温度がない。
「峡谷で我らの兵が殺され、王家の紋章を刻んだ矢が見つかった。その王家の後継が、協定を守ると口にするのか」
レオンハルトが一歩前へ出る。
「口だけで信じてほしいとは言いません。矢と襲撃現場の魔力痕を、王国と魔侯領の双方で調べるために来ました」
「調べる間に、三人目、四人目の兵が死ぬかもしれない」
「だからこそ、報復でさらに兵を死なせる前に、事実を確かめるべきです」
「人族らしい綺麗な言葉だ」
ガレウスの視線が、リゼットへ動く。
「聖女候補も連れてきた。今度は光で我らを祝福し、安心させるつもりか」
リゼットの肩がわずかに揺れた。
アマンテルスの影が、反射的に彼女の足元へ伸びる。
だがリゼットは、一歩前へ出た。
「わたしは、誰かを安心させるためだけに来たのではありません」
若草色の瞳が、石角族の将軍をまっすぐ見る。
「魔侯領の方が傷ついたことを知り、助けられることがあれば助けたいと思って来ました。でも、皆さんへ無理に信じてほしいとは思いません」
「では何をしに来た」
「傷ついた人の話を聞きに来ました」
静かな声だった。
けれど、逃げてはいない。
ガレウスは一瞬、言葉を止めた。
「会議を始める」
ヴァルガスが言った。
その一言だけで、石室の空気が変わる。
各氏族の代表が席へ着き、王国使節団は壁際の来賓席へ移った。
アマンテルスは、魔侯家の空席の前に立つ。
父の向かい。
叔父の隣。
両側から、影が伸びてくる。
「報告せよ」
ヴァルガスの命令で、北側監視所の副隊長が前へ出た。
獣魔族の女性だった。
肩には包帯が巻かれ、片方の耳は血で汚れている。
「三日前、北側監視所が襲撃を受けました」
彼女は淡々と話す。
「襲撃者は十二から十五名。夜魔族の外套と、石角族の短槍を使っていました。監視兵四名が死亡、二名が負傷。敵は峡谷の南側へ退いた」
「魔族の装備を使った者が、南側へ退いた」
翼魔族の代表が言う。
「なら王国の仕業ではないか」
「傷には、光属性の焼灼痕がある」
ガレウスが低く続けた。
「王国の光術師が、我らの装備を奪って襲った」
「逆も考えられます」
レオンハルトが言った。
「魔族側が王家の矢を使い、王国へ罪を着せた可能性も」
「我らが自らの兵を殺したと?」
「そうは言っていません」
「だが、そう聞こえる」
石室の空気が張りつめる。
誰もが、相手の言葉へ、自分が恐れているものを聞いている。
王国は魔族を疑う。
魔族は王国を疑う。
運命式は、そこへ少しだけ力を加えればよい。
アマンテルスの右腕が疼いた。
黒い文字が、包帯の下から浮かび上がる。
――怪物は、怒りを抱け。
――死者のために、敵を憎め。
声が耳の奥で囁く。
原作のアマンテルスは、母を失い、誰も信じられず、復讐を選んだ。
アマンテルスは母を失っていない。
それでも目の前で、四人の兵が死んでいる。
泣く家族がいる。
怒りを抱く理由は、十分すぎるほどある。
「証拠を見せてください」
フィルブランテの声がした。
フィルブランテが、来賓席から前へ出る。
「襲撃現場から回収された矢と装備を、確認させていただけますか」
ガレウスの目が細くなる。
「人族の公爵令嬢へ、我らの死者の遺品を渡せと?」
「渡す必要はありません。皆様の目の前で、わたくしが魔力履歴を読みます」
「それが何になる」
「誰が、いつ、どのようにそれへ触れたかを残せます」
フィルブランテは静かに続けた。
「信じていただくためではありません。皆様がご自身で確かめるためです」
旧文書庫で、レオンハルトへ言ったのと同じ言葉だ。
信じろとは言わない。
検証する機会を求める。
ガレウスはしばらくフィルブランテを睨んでいた。
やがて、短槍の柄を床へ打ちつける。
「好きにしろ。ただし、我らの兵を侮辱する記録を残せば、その扇ごと砕く」
「承知しました」
フィルブランテは一礼した。
副隊長が、黒い布に包まれた矢を運んでくる。
矢羽は白。
矢柄には、セレディア王家の太陽と剣の紋章。
誰が見ても、王国の矢だ。
フィルブランテは手袋を外し、指先を近づけた。
触れない。
先に、矢の所有者へ尋ねる。
「触れてもよろしいですか」
副隊長が、少し驚いた顔をした。
それから短く頷く。
「頼む」
フィルブランテの〈晶析眼〉が開いた。
青い光が、矢を包む。
魔力の履歴が、幾重もの層となって浮かび上がる。
王国の工房。
矢柄を削る職人。
紋章を刻む工匠。
王家の武器庫。
そこまでは、本物だ。
だが次の層に、妙な空白がある。
矢が武器庫から消えた後の記録が、切り取られている。
代わりに、冷たい水の気配。
塩。
夜。
そして、影に似た黒い術式。
「これは」
フィルブランテの眉が寄る。
「矢そのものは、本物です。しかし、三日前に峡谷で使われた矢ではありません」
ざわめきが起きる。
「何を言う」
ガレウスが立ち上がる。
「矢は、監視兵の胸へ刺さっていた」
「刺さっていたことは否定しません」
フィルブランテは矢から目を離さない。
「ですが、この矢が最後に放たれたのは、七年前です。王国西部の盗賊討伐。その後、武器庫へ返納されている」
「そんなことが分かるのか」
レオンハルトが低く問う。
「矢木に残る風属性の加速痕が、七年前の戦闘記録と一致します。三日前の新しい発射痕は、ありません」
ノエルがすぐに結晶板を取り出した。
「記録を複製。風の圧力層と、矢羽の裂け方を照合する」
「では、矢はどうやって死者の身体へ」
副隊長が、唇を噛む。
「後から刺したのです」
アマンテルスが答えた。
「襲撃を人族の仕業に見せるために」
「そんなもの、ただの推測だ!」
石角族の代表が声を上げる。
「人族の令嬢の魔法を信じ、死者の証拠を捨てろと言うのか!」
「捨てろとは言っていません」
フィルブランテの声が、少し強くなる。
「むしろ、残すのです。本物の矢であることも、七年前に使われたことも、三日前には放たれていないことも。都合のよい部分だけではなく、すべてを」
青い氷晶が、矢の上に生まれる。
王家の紋章。
七年前の戦闘履歴。
武器庫の空白。
黒い術式。
すべてが、透明な結晶へ保存される。
石室の中央へ、誰も否定できない形で浮かんだ。
「次に、魔族の短槍を」
フィルブランテは言った。
ガレウスは不満そうだった。
しかし副隊長が、自ら槍を差し出す。
「私の部下のものだ。調べろ」
短槍には、石角族の家紋がある。
槍を握っていた兵は、襲撃で死んだ。
その血が、今も刃の根元に残っている。
フィルブランテが触れると、今度は履歴が鮮明に浮かんだ。
監視兵。
交代時刻。
峡谷の北側。
不自然な霧。
そして霧の中で、監視兵が味方の影を見失う。
短槍は、敵へ向けて振るわれている。
だが刃が触れた先には、魔族の身体ではない。
白い外套。
人族の兵にも、魔族の兵にも見える、顔のない者たち。
その背後から、光の矢が飛ぶ。
しかし矢の光は、王国の光術式ではない。
白い光の中心に、黒い空洞がある。
中心のない円。
「虚無教団」
アマンテルスが呟く。
室内の何人かが、嫌悪の表情を浮かべた。
教団の名は魔侯領にも知られている。
人族の宗教組織が、魔族の地で嫌われているのは当然だ。
「白い外套を着た者が、人族ではないと?」
ガレウスが問う。
「分かりません」
フィルブランテは正直に言った。
「ただ、王国の正規軍の術式ではありません。光と闇を無理に重ね、傷だけを残す術です。人族でも魔族でもない、あるいは両方の技術を知る者が使った」
「教団が、両国を争わせている」
レオンハルトが言う。
「可能性は高い」
「可能性では、死者の家族は納得しない」
ガレウスの声は、怒鳴り声ではなかった。
深い痛みを押し込めた声だった。
「私は、北側監視所の兵を育てた。あの中には、石角族の若者もいた。戦争を経験していない者たちだ。休戦が続けば、二度と峡谷で血を流さずに済むと、そう信じていた」
将軍の大きな手が、短槍の柄を握る。
「それを殺された。証拠が偽装だとしても、死んだ者は戻らない。私は何をすればよい」
誰もすぐには答えられない。
戦争を止める。
報復をしない。
正しい言葉だ。
だが、大切な人を殺された者へ、簡単に言える言葉ではない。
アマンテルスの右腕に、黒い文字が広がる。
――怒れ。
――失った者のために、怪物となれ。
目の前の叔父の痛みへ、運命式が手を伸ばしている。
母を失えば、アマンテルスはこうなるはずだった。
今なら分かる。
復讐を選ぶことが、単純な悪ではない。
誰かの死を、なかったことにされたくないという叫びだ。
「叔父上」
アマンテルスは言った。
ガレウスが顔を上げる。
「俺も、何をすればいいか分からない」
魔侯家の令嬢らしくない言葉だった。
議場が少しざわめく。
「母上が殺されかけたとき、俺は王国の奴らを全部敵だと思いたくなった。今も、峡谷のことを聞いて、先に剣を持ちたくなる」
黒い影が、足元で揺れる。
「でも、敵を決めれば、死んだ人が戻るわけじゃない。間違った相手を殺せば、次の家族が同じことを言うだけだ」
「なら、何もしないのか」
「何もしないとは言ってない」
アマンテルスは、王太子とフィルブランテを見る。
次に、カイラスを見る。
「峡谷へ行く。襲撃現場を、俺たちで調べる。人族と魔族、両方の証人で。犯人を見つける」
「その間、次の襲撃が起きれば」
「防ぐ」
「誰が」
「俺たちが」
アマンテルスの声に、迷いはなかった。
ただし、一人称はもう「俺」だけではない。
俺たち。
ガレウスは姪を見る。
目の前にいるのは、以前のアマンテルスとは違う。
人族と一緒に帰った魔侯令嬢。
傷を負い、呪いを抱え、それでも復讐を拒む者。
将軍の顔に、怒りとは別の感情が浮かぶ。
理解できないものへの苛立ち。
そして、理解してしまいそうな自分への恐れ。
「会議の外で、偽装の証拠を調べることには異議がない」
水鱗族の代表が言った。
「だが、峡谷への軍派遣を保留する理由にはならぬ」
「賛成」
石角族の代表が続く。
「北側監視所の防備を増やす。少なくとも、守りの兵は必要だ」
「守りの兵と、攻める軍は違います」
レオンハルトが言う。
「王国側も、南側監視所へ守備兵を置く。ただし、峡谷内へ入る人数と武器を、双方で同数に制限したい」
「王国の王太子が、それを約束できるのか」
「この場では、私個人の誓約しかできません」
レオンハルトは正直に答えた。
「だが王国へ帰り次第、父王と外務局へ正式に求めます。魔侯領が同じ条件を受け入れるなら」
ヴァルガスが、初めて口を開く。
「魔侯領も受け入れる。ただし、峡谷内の監視は、王国と魔侯領だけで行わない」
父の視線が、フィルブランテとリゼットへ向いた。
「記録者と治癒者を、共同監視団へ入れる。剣を持つ者だけが、事実を決めてはならぬ」
フィルブランテは少し驚いた。
ヴァルガスは、主戦派を装いながら和平成立まで敵を欺く男だと、設定資料にはあった。
だがアマンテルスにとっては、父だ。
娘の前で、すべてを明かせない。
それでも、戦争へ進ませないための道を作っている。
「異議があります」
ガレウスが言った。
会議の空気が、再び張る。
「人族の聖花使いを峡谷へ入れれば、我らは光術式へ弱みを晒すことになる」
「わたしは、勝手に誰かの身体や魔力へ触れません」
リゼットが言う。
「必要なら、先に許可を取ります」
ガレウスは、少女を見る。
「許可を取れば、傷が治るのか」
「治らない傷もあります」
リゼットは目を逸らさない。
「でも、許可なく触れて、もっと傷つけることはしたくありません」
石角族の将軍は、返答できなかった。
そのとき。
議場の天井に浮かぶ二つの月結晶が、同時に暗くなった。
室内の影が、一斉に長く伸びる。
アマンテルスの右腕が焼けるように痛んだ。
「下がれ!」
アマンテルスが叫ぶ。
中央の空席から、黒い根が噴き出した。
中心のない円を描きながら、七つの氏族席へ伸びていく。
根は各代表の足元に触れ、怒り、悲しみ、恐怖を吸い上げていく。
石角族の席からは、死んだ監視兵たちの記憶が引きずり出された。
獣魔族の席からは、峡谷で失った家族の泣き声が。
翼魔族の席からは、百年前の戦争で焼かれた村の光景が。
古い傷を、運命式がひとまとめにしようとしている。
そしてすべての影が、アマンテルスへ向かう。
――怪物の席へ座れ。
空席の床絵が、黒い王座の形へ変わる。
原作でアマンテルスが座るはずだった席。
怒りを抱え、魔侯領の復讐を引き受け、最後には討たれる怪物の席。
「アマンテルス様!」
ルーシェが叫ぶ。
アマンテルスの足が、自分の意思に反して空席へ向かう。
影が足首へ絡みつき、黒い根が角へ伸びる。
右腕の呪いが、肩を越えて首筋まで広がった。
魔侯領の七氏族全員が、怒っている。
その怒りを一人が背負えば、楽になる。
誰か一人が怪物になれば、ほかの者は復讐を正しいと言える。
耳元で、甘い声が囁く。
――座れ。
――死者のために、すべてを憎め。
アマンテルスは、空席の前で立ち止まった。
心臓が痛い。
怖い。
このまま座れば、全部の怒りを抱えられる気がする。
母を殺されかけた自分の怒り。
死んだ監視兵の家族の怒り。
叔父の怒り。
人族を信じて、また裏切られたかもしれないという恐怖。
全部を引き受け、剣を振るえば、誰も迷わなくて済む。
「アマンテルス!」
カイラスの声が響いた。
淡紫の雷が、アマンテルスの前へ走る。
影の根を焼き切ろうとして、途中で止まる。
雷を強くすれば、アマンテルスごと傷つける。
原作のカイラスなら、ためらった後で切る。
リゼットを守るため。
和平を守るため。
一人のアマンテルスを、怪物として処分するために。
アマンテルスは、金色の瞳を見る。
「カイラス」
幼なじみの顔は、苦しそうに歪んでいた。
「離れろ」
「できない」
「俺が怪物になれば、切れ」
言った瞬間、フィルブランテの顔が浮かんだ。
お前まで失うくらいなら、嫌われた方がましだ。
かつて、アマンテルス自身が口にした言葉。
守るために、選択を奪う言葉。
カイラスへ、同じことを言わせようとしている。
「違う」
アマンテルスは首を振った。
「今のなしだ」
「何を」
「俺を切るかどうかを、お前が一人で決めるな」
カイラスの目が揺れる。
「だが、お前が暴走すれば」
「暴走しないよう、皆で止める。俺が死ねば済むみたいに、勝手に答えを決めるな」
影がさらに足へ絡みつく。
苦しい。
それでも、アマンテルスは立ったまま言う。
「お前は、何を選ぶ」
カイラスの雷が震える。
和平のため。
魔侯領のため。
多くを守るため。
その大義は、いつも一人を切り捨てる理由になった。
アマンテルスは、政治の駒ではない。
幼なじみだ。
守りたい一人だ。
「俺は」
カイラスが、雷の刃を下ろす。
「お前を処分しない」
議場がざわめく。
石角族の席から、反対の声が上がる。
「監視役が、何を言う!」
「それで和平が壊れるなら」
カイラスは、空席の前に立つアマンテルスを見た。
「その和平は、最初から誰かを犠牲にするだけのものだ」
雷を、アマンテルスではなく床へ落とす。
黒い根を断ち切るために。
「俺は、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルを、魔侯家の令嬢として、幼なじみとして守る」
カイラスの足元に、金色の雷が円を描く。
雷が黒い根を焼く。
だが根は消えない。
七氏族の怒りを吸った術式は、雷だけでは壊せない。
「光と闇と記録」
ノエルが叫ぶ。
「古代契約と同じ構造です。ただし、今回は七氏族の感情が核になっている」
「どうすればいい!」
レオンハルトが問う。
「怒りを消す必要はない。誰か一人へ押しつける部分だけを分離する」
アマンテルスの足元へ、白い花弁が降る。
リゼットが、黒い根の前に立っていた。
「リゼット、下がれ!」
「下がりません」
彼女の声は震えている。
怖くないわけではない。
それでも、自分で選んでいる。
「皆さんが怒っていることは、悪いことではありません。大切な人を失ったら、怒るのは当たり前です」
白い花弁が、各氏族の席へ伸びる。
悲しみと怒りを、根から一枚ずつ剥がしていく。
「でも、怒っているから怪物になれと言われるのは違います」
アマンテルスの腕の黒い文字が、花弁へ触れる。
痛みが、少しだけ軽くなる。
「兄貴!」
フィルブランテが叫んだ。
フィルブランテの氷晶が、議場の床へ広がっている。
七氏族の影。
監視兵の記憶。
矢の履歴。
偽装された光と闇の術式。
そして、今ここで誰が何を選んだか。
すべてを、青い結晶が記録していく。
「怒りは、消しません!」
フィルブランテの声が石室へ響く。
「死んだ方々がいたことも、皆様が傷ついたことも、なかったことにはできません。ですが、その怒りをアマンテルス様一人の役にして、戦争を選ばせる記録は残しません!」
透明な氷晶が、黒い王座の足元を凍らせる。
運命式が、記録を上書きしようとする。
――怪物。
――復讐。
――戦争。
黒い文字が、氷の中で増える。
「名前を呼んで!」
リゼットが言う。
旧文書庫の罠と同じ。
役ではなく、本人を思い出させる。
けれど今回は、アマンテルス一人の名前だけでは足りない。
七氏族の怒りが、怪物を求めている。
なら、七氏族が自分の名前と、自分の意思を取り戻さなければならない。
「ナディア・スラ・フェルガ!」
北側監視所の副隊長が、最初に叫んだ。
自分の名。
獣魔族の女性は、涙を流しながら、根へ手を伸ばす。
「私は監視兵を失った。怒っている。悲しい。だが、誰かに代わりに憎ませはしない!」
彼女の足元の根が、一つ砕けた。
「グラナド・ドラク」
石角族の代表が続く。
「私は、死者の家族へ答えを出したい。だからこそ、偽りの敵を選ばない」
二つ目の根が砕ける。
水鱗族。
翼魔族。
夢魔族。
灰樹族。
一人ずつ、自分の名を告げる。
怒りを否定しない。
それでも、自分の怒りを誰かの剣へ預けないと選ぶ。
残る根は一つ。
石角族の将軍、ガレウス・ドラクの席へ伸びている。
ガレウスは動かない。
根は、彼の足元からアマンテルスの足首へ最も強く絡みついていた。
「叔父上」
アマンテルスが呼ぶ。
ガレウスは、死んだ兵の短槍を握っている。
「俺に、憎むなとは言わない」
「言わない」
「戦うなとも言うな」
「言わない」
アマンテルスは答えた。
「でも、俺に全部を背負わせるな」
叔父の目が、わずかに開く。
「俺は怪物にならない。母上も、父上も、カイラスも、フィルブランテも、ここにいる皆も守りたい。叔父上の兵が死んだことも、忘れない。でも、俺一人が復讐を背負えば、叔父上まで何も選ばなくてよくなる」
アマンテルスの声は震えていた。
それでも、言葉を止めない。
「それは、叔父上を守ることにもならない」
長い沈黙があった。
ガレウスは、短槍を見下ろす。
死んだ若者の名を、心の中で呼んでいるのかもしれない。
やがて将軍は、ゆっくりと槍を床へ置いた。
「ガレウス・ドラク」
石が割れるような声だった。
「私は、戦争で弟を失った。戦争で部下を失った。だから、次は先に剣を持てば守れると、そう思っていた」
彼はアマンテルスを見る。
「だが、また姪を失うために剣を持つのなら。それは守ることではない」
最後の根が砕けた。
黒い王座が、音を立てて崩れる。
アマンテルスの足首を縛っていた影が消えた。
右腕の文字は完全には消えない。
だが、首筋まで広がっていた黒は、肩まで後退している。
アマンテルスは一歩、空席から離れた。
息が苦しい。
膝が折れそうになる。
その前に、カイラスが腕を支えた。
「大丈夫か」
「十段階で」
「聞いてない」
「五」
「信用できない」
「今回は正直だ」
カイラスは、アマンテルスの腕へ雷光を流そうとして、止まる。
「触れていいか」
アマンテルスは少し笑った。
「いいぞ」
雷は、痛みのある場所を探るように静かに流れた。
以前のカイラスなら、アマンテルスの状態を確かめるためなら、断りなく魔力へ触れたかもしれない。
今は、聞いた。
それだけで、アマンテルスは少し楽になる。
◇
運命式が砕けた後、議場の床には一つの黒い結晶が残った。
中心のない円を閉じ込めたような結晶。
ノエルが、周囲へ保護術式を張る。
「触れないで。まだ因果固定の残響がある」
「誰がこれを仕掛けた」
ヴァルガスが問う。
ノエルは結晶を観察する。
「直接の術者は分からない。だけど、術式の起点は灰銀峡谷の地下とつながっている」
フィルブランテが、鞄から星読塔の結晶板を取り出した。
黄昏島を示していた星の空白。
灰銀峡谷の地下へ伸びた線。
運命式の残響へ近づけると、二つの地図が重なった。
島と峡谷。
離れた二つの場所を、地下の光と闇の線がつないでいる。
「黄昏島は、峡谷の地下結界と同じ網につながっています」
フィルブランテが言う。
「島へ行く前に、峡谷の中枢を確認しなければならない」
「双月が揃う前に、片方を沈めよ」
レオンハルトが、結晶板の脅迫を思い出す。
「片方とは、どちらの月だ」
「人族か、魔族か」
リゼットが言う。
「光か、闇か」
「違うかもしれません」
フィルブランテは、中央の空席を見る。
「双月の契約には、光と闇のほかに、記録者が必要です。片方を沈めるというのは、種族や人ではなく、契約の支点の一つを壊すという意味かもしれません」
「灰銀峡谷の地下にある支点を?」
ノエルが頷く。
「結界の片側を落とせば、残る片側へ負荷が集中する。光か闇、どちらかの契約者が、呪いを全部引き受けることになる」
原作のアマンテルスが、学院地下の呪いをすべて吸収したように。
アマンテルスの背筋が冷える。
運命式は、同じ結末へ向かう方法を変える。
王国で母を殺しても失敗した。
学院で怪物にしようとしても失敗した。
なら、両国の戦争と結界の崩壊を利用して、もっと大きな怪物を作る。
「峡谷へ行く」
ガレウスが言った。
先ほどまで、軍の派遣を求めていた将軍。
今も、声は硬い。
「ただし、攻めるためではない。共同監視団として、地下の結界を確認する」
石角族の代表が、驚いた顔をする。
「将軍」
「死者のために、事実を見つける。偽りの敵を討つために、ほかの敵を作るな」
それは、アマンテルスが言った言葉を、そのまま返すようだった。
ヴァルガスは、議場全体を見回す。
「採決する。灰銀峡谷への大規模軍派遣を、七日間保留する者」
夜魔族。
夢魔族。
水鱗族。
灰樹族。
四つの氏族が、影を上げる。
「共同監視団の設置を認める者」
今度は、七氏族すべての影が上がった。
ガレウスも、短く頷いた。
休戦協定は、今夜は守られた。
完全な和平ではない。
怒りも、不信も、死者の痛みも残っている。
それでも、戦争を始めないという選択を、誰か一人ではなく七氏族が選んだ。
「共同監視団には、魔侯領からカイラス・ノクサル、ガレウス・ドラク、北側監視所のナディア・フェルガを入れる」
ヴァルガスが告げる。
「王国使節団からは、レオンハルト・ヴァン・セレディア、フィルブランテ・アソート・イデルバルディ、リゼット・アーヴェイン、ノエル・エルミナージュ、シリル・グランツ」
アマンテルスは、父を見る。
「俺は」
「お前は」
ヴァルガスの声が止まる。
父は、娘の右腕に残る呪いを見る。
父としてなら、危険な場所へ行かせたくない。
魔侯としてなら、娘の魔力が必要だ。
その二つの間で、男は一度、目を閉じた。
「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルは、魔侯領の代表として同行する」
アマンテルスは息を吐いた。
「ただし」
父の視線が、フィルブランテへ向く。
「単独行動を禁ずる。影の状態は、フィルブランテ嬢とノエル・エルミナージュが確認し、危険と判断すれば撤退させる」
「承知しました」
フィルブランテが、迷わず答える。
「父上」
アマンテルスが言う。
「俺の意見も聞け」
「聞いている」
「今、撤退はしない」
「その判断ができない状態になったときに、仲間へ任せろという意味だ」
父の声は、低かった。
だが強制ではない。
娘が一人で抱えないための条件だった。
アマンテルスは少し驚き、それから頷いた。
「分かった」
ガレウスが鼻を鳴らす。
「随分と多くの者へ任せるようになったな、姪よ」
「叔父上もな」
「私は元から、部下へ任せている」
「怒りは俺へ任せようとしただろ」
将軍は返答に詰まった。
カイラスが横で吹き出す。
「姪に言い返されている」
「黙れ、和平屋」
「その呼び方、悪口として弱い」
「お前たち」
ヴァルガスが低く言う。
アマンテルス、カイラス、ガレウスは同時に黙った。
リゼットが小さく笑う。
初めて会ったはずの場所で、少しだけ空気がほどけた。
◇
会議の後。
アマンテルスとフィルブランテは、魔侯城の屋上へ上がった。
二つの月が、近い。
王国では見えないほど大きく、白と藍の光が城の黒い屋根を照らしている。
共同監視団の出発は、明日の夜明け。
それまでの数時間だけが、静かだった。
「危なかったな」
フィルブランテが言う。
「何が」
「怪物の席」
「ああ」
アマンテルスは屋根の端へ座り、黒い日傘を膝へ置いた。
「ちょっと座りたくなった」
「ちょっとで済むものか」
「冗談だ」
「本当に?」
「半分」
フィルブランテは、すぐに怒らなかった。
代わりに、アマンテルスの隣へ座る。
「母上が生きていて、よかったな」
「うん」
アマンテルスは短く答えた。
声が少し震えた。
「俺、あの人に会って、やっと分かった。原作でアマンテルスが壊れた理由」
「分かる必要はある。でも、同じにならなくていい」
「分かってる」
「本当に?」
「今度は、フィルブランテもうるさいな」
「兄貴が信用できないからだ」
「カイラスにも言われた」
「父上にも」
「母上にも」
「皆さん、正しいですね」
アマンテルスは苦笑した。
風が吹き、二人の影が屋根の上で重なる。
少し離れた場所で、リゼットが温かい飲み物を持って現れた。
「お邪魔でしょうか」
「いいえ」
フィルブランテが答える。
「ちょうど兄貴が反省していたところです」
「してない」
「半分はしていたでしょう」
「お前、さっきから半分半分って」
リゼットは二人へ湯気の立つ杯を渡す。
「魔族領の甘月茶だそうです。エルネシア様が、眠る前に飲むとよいと」
アマンテルスは杯を受け取った。
甘い香りがする。
アマンテルスの記憶では、母が風邪を引いた娘へ淹れてくれた飲み物だ。
「リゼット」
「はい」
「さっき、怖かっただろ」
「はい」
「それでも、下がらなかった」
「皆さんが、下がらないでくれましたから」
リゼットは、二つの月を見上げる。
「一人なら、きっと怖くて何も言えなかったと思います。でも、わたしが少し言っても、フィルが記録して、アマンテルス様が抱えて、皆さんが選んでくださるなら。わたしも言いたいことを言えます」
フィル。
アマンテルス様。
呼び方の差に、フィルブランテが少しだけ眉を動かす。
アマンテルスは気づかないふりをして、茶を一口飲んだ。
「じゃあ、次は俺のこともアマンって呼べば」
「兄貴」
「何だよ。お前はフィルって呼ばれてるだろ」
「それは本人が許可した」
「俺も今許可した」
リゼットは少し考える。
「……アマン、でよろしいですか?」
アマンテルスは、少し目を見開いた。
それから笑った。
「いい」
フィルブランテは何も言わなかった。
ただ、甘月茶を飲みながら、少しだけ不満そうだった。
王太子に対して自分が何を思っているのか、まだ気づかないように。
◇
同じ夜。
灰銀峡谷の地下深くで、中心のない円が脈打っていた。
崩れた石壁の向こうには、光と闇の結界線が幾重にも走っている。
その一部が、黒い水に沈み始めていた。
白い法衣をまとった大司教ザハルは、濡れた石床へ立つ。
彼の前には、顔を覆った黒衣の人物が膝をついていた。
「七氏族会議は、軍派遣を保留しました」
「知っています」
ザハルは静かに答える。
「怪物の席を、あの娘は拒みました」
「カイラス・ノクサルも、処分を選ばなかったようです」
「ええ」
大司教は、沈みかけた黒い結界線へ指を置く。
「人は、思ったより早く、互いを助けることを学ぶ」
「では、計画は」
「進めます」
ザハルは微笑んだ。
「学んだ者ほど、選ばせることができる。今度は怪物を作るのではありません」
黒い水の中から、細い白い根が伸びる。
根の先には、小さな青い結晶が絡め取られていた。
イデルバルディ家の晶術とよく似た色。
「記録者へ、選ばせましょう」
ザハルの言葉とともに、黒い水が結晶を沈める。
「兄を救うために、真実を沈めるかどうかを」




