↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/45

第九話 怪物の席は空けておけ

ルヴィンイヴル魔侯領の夜は、王国の夜より色が多い。


 白い月。


 淡い藍の月。


 岩山の裂け目を流れる紫の川。


 黒い石造りの塔に灯る、琥珀色と青緑色の火。


 アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルは、転移塔から魔侯城へ続く坂道を歩きながら、そのすべてを見ていた。


 懐かしい。


 そう思った。


 同時に、胸の奥が痛んだ。


 懐かしいと感じるのは、唐傘透の記憶ではない。


 アマンテルスの記憶だ。


 幼い頃、母の歌に合わせて二つの月を数えた夜。


 父の隣で、七氏族の使節を迎えた夜。


 カイラスと岩山を駆け上がり、転んで膝を擦りむいた夜。


 どれも、アマンテルス自身は生きていない。


 それでも、自分のものだと思ってしまう。


「足、止まってるぞ」


 隣を歩くフィルブランテが、小声で言った。


 薄い金髪は夜風に揺れ、白い旅装の上にはイデルバルディ家の青い外套が重ねられている。魔侯領の石畳では目立つ色だ。


 それでも、彼女は歩調を乱さない。


 フィルブランテが、こういうときに冷静でいてくれることを、アマンテルスは知っている。


「見てただけだ」


「何を」


「故郷」


 フィルブランテは少し黙った。


「アマンテルスの?」


「俺たちの、でいいんじゃないか」


「その言い方は、ずるい」


「何でだよ」


「僕はこの場所に住んだことがない」


「これから住むかもしれない」


「気が早い」


 アマンテルスは笑った。


 フィルブランテも、ほんの少しだけ笑う。


 その後ろを、リゼット、レオンハルト、シリル、ノエル、外務官たちが続いている。


 王国の使節団は、魔侯城の正門を通る際、全員が魔族式の挨拶をした。


 自分の影を、相手の影へそっと重ねる。


 敵意はない。


 同じ場所へ戻るために、共に進む。


 レオンハルトは、事前に覚えた通り、右手を胸から離して影を差し出した。シリルも迷いなく続く。ノエルは術式構造の観察へ意識が向きすぎて、最初、相手の足を踏みかけた。


「影は、足元へ出すだけでよいのです」


 アマンテルスが言うと、ノエルは真顔で頷いた。


「了解。身体接触を伴わない挨拶」


「言い方が研究者すぎる」


 リゼットが小さく笑った。


 笑い声があるだけで、場の空気は少し柔らかくなる。


 しかし城門を抜けた先には、武装した魔族の兵が並んでいた。


 夜魔族の影槍。


 石角族の大斧。


 獣魔族の弓。


 見慣れない王国の使節を警戒する視線。


 遠くの灰銀峡谷からは、かすかに煙が上がっている。


 休戦協定は、まだ破られていない。


 だが今夜の会議で、破られるかもしれない。


「アマンテルス」


 前を歩いていたカイラスが振り返った。


「会議の前に、会わせたい人がいる」


 アマンテルスの足が止まる。


 カイラスは、城の主棟ではなく、月明かりの落ちる小さな中庭へ案内した。


 黒い石で囲まれた庭には、白い花ではなく、銀灰色の小さな花が咲いている。


 魔族領では、死者へ手向ける花。


 その花のそばに、一人の女性が立っていた。


 夜色の長い髪。


 アマンテルスとよく似た赤紫の瞳。


 淡い藍の衣装をまとい、手には銀の竪琴を抱えている。


「アマン」


 エルネシア・ルヴィンイヴルが、娘を呼んだ。


 アマンテルスの喉が詰まる。


 歓迎晩餐会で救った人。


 原作では、死んでいた人。


 あの夜、危険を知っていたから助けた。


 助けるべき人物として。


 けれど今、目の前で名前を呼ぶ女性は、ゲームのイベント目標ではない。


 アマンテルスの母だ。


「母上」


 声が出た。


 エルネシアは一度、驚いたように目を見開く。


 それから、竪琴を脇へ置き、アマンテルスへ近づいた。


 魔族の親子の挨拶は、影を重ねることではない。


 母は、娘の額へ自分の額をそっと触れた。


 角の根元へ、許可を得た家族だけが触れる仕草。


 アマンテルスの記憶が、温かく弾ける。


「お帰りなさい」


 エルネシアは囁いた。


「ただいま」


 アマンテルスは、返した。


 その言葉だけで、胸の奥にあったものが少し崩れる。


 助けられてよかった。


 心から、そう思った。


「傷を見せて」


 母の声が急に厳しくなる。


「大丈夫だ」


「大丈夫ではない顔をしているわ」


「十段階で二」


「測ったの?」


「ノエルが」


 エルネシアは、アマンテルスの右腕に残る黒い文字を見つけた。


 赤紫の瞳が、悲しげに揺れる。


「人族の学院で、こんなものを受けたの」


「人族がやったと決めるな」


 アマンテルスは、少し強く言った。


 母の手が止まる。


「ごめんなさい」


 エルネシアはすぐに謝った。


「あなたが王国で傷ついたと聞いて、怖くなってしまった」


「分かってる。俺も、最初はそう思いそうになった」


 歓迎晩餐会。


 王城の中で、魔族の母が殺されかけた。


 人族の貴族たちが集まる場所で。


 それでも、レオンハルトは戦い、リゼットは治療し、フィルブランテは証拠を残した。


 あの場にいた誰かが敵だったからといって、すべての人族が敵になるわけではない。


「今回は、俺の仲間も一緒にいる」


 アマンテルスは後ろへ立つ使節団を見る。


 リゼットが、少し緊張した顔で礼を取った。


「はじめまして。リゼット・アーヴェインと申します」


 白い花を持ってきてはいけないと覚えていた彼女は、両手を胸の前で重ね、何も贈らなかった。


 エルネシアはそのことに気づいたらしい。


「アマンから聞きました。聖花紋を持つ方だと」


「はい。でも、まだ上手には使えません」


「上手に使えないことを、恥じなくていいのよ」


 エルネシアの声は、歌うように柔らかい。


「無理に咲かせた花は、早く萎れるものだから」


 リゼットの胸元の聖花紋が、わずかに光った。


 セラフィナが残した言葉。


 聖花は、一人では――。


 その続きへ、母の歌のような声が触れた気がした。


「会議の時間です」


 カイラスが言う。


 彼の表情は硬い。


 娘と母の再会へ口を挟まないよう待っていたのだろう。


 だが、時間がない。


 エルネシアは、アマンテルスの頬へ一度だけ触れた。


「戦う前に、戻る場所を思い出して」


「分かった」


「一人で戻ろうとしないで」


 アマンテルスは、わずかに目を見開く。


 それは、ここ数日、何度も言われてきた言葉だった。


 フィルブランテ。


 リゼット。


 学院長。


 母まで同じことを言う。


「分かった」


 今度は、少し笑って答えた。


     ◇


 七氏族会議の議場は、魔侯城の地下深くにあった。


 円形の石室。


 天井には、白と藍の月を模した二つの結晶が浮かんでいる。


 中央に空いた床絵は、七つの影が重なるように作られていた。


 夜魔族。


 石角族。


 獣魔族。


 夢魔族。


 翼魔族。


 水鱗族。


 灰樹族。


 七つの氏族の席は、円を囲むように並んでいる。


 中央だけは空席だった。


 魔侯家が調停役として立つ場所。


 椅子はない。


 王座ではない。


 誰か一人が上に立つための場所ではなく、氏族の意見をつなぐための空白だった。


 アマンテルスは、その空席を見た瞬間、旧文書庫の中心のない円を思い出した。


 空席を忘れるな。


 欠けたものを、誰かの役で埋めてはならない。


 会議には既に、各氏族の代表が揃っていた。


 夜魔族の魔侯、ヴァルガス・デビ・ルヴィンイヴル。


 アマンテルスの父。


 大きな角と、黒い外套を持つ男は、娘の姿を見ても表情を動かさなかった。


 けれど、その足元の影だけが、わずかに揺れた。


 アマンテルスの記憶には、父が娘の荷物へ守護符を忍ばせた夜がある。


 心配を言葉にできない人なのだろう。


 石角族の席には、ガレウス・ドラクがいた。


 灰色の肌。


 太い角。


 左目から顎へ走る古い傷。


 アマンテルスの叔父であり、魔族主戦派の将軍。


 彼は使節団を見るなり、露骨に鼻を鳴らした。


「王国の王太子まで連れて戻ったか、姪よ」


 声は低く、石が擦れるようだった。


「人族の学び舎へ行かせた結果が、これだ」


「叔父上」


 アマンテルスは礼を取った。


「王国使節団は、休戦協定を守るために来ています」


「休戦協定を守る?」


 ガレウスの笑いには、温度がない。


「峡谷で我らの兵が殺され、王家の紋章を刻んだ矢が見つかった。その王家の後継が、協定を守ると口にするのか」


 レオンハルトが一歩前へ出る。


「口だけで信じてほしいとは言いません。矢と襲撃現場の魔力痕を、王国と魔侯領の双方で調べるために来ました」


「調べる間に、三人目、四人目の兵が死ぬかもしれない」


「だからこそ、報復でさらに兵を死なせる前に、事実を確かめるべきです」


「人族らしい綺麗な言葉だ」


 ガレウスの視線が、リゼットへ動く。


「聖女候補も連れてきた。今度は光で我らを祝福し、安心させるつもりか」


 リゼットの肩がわずかに揺れた。


 アマンテルスの影が、反射的に彼女の足元へ伸びる。


 だがリゼットは、一歩前へ出た。


「わたしは、誰かを安心させるためだけに来たのではありません」


 若草色の瞳が、石角族の将軍をまっすぐ見る。


「魔侯領の方が傷ついたことを知り、助けられることがあれば助けたいと思って来ました。でも、皆さんへ無理に信じてほしいとは思いません」


「では何をしに来た」


「傷ついた人の話を聞きに来ました」


 静かな声だった。


 けれど、逃げてはいない。


 ガレウスは一瞬、言葉を止めた。


「会議を始める」


 ヴァルガスが言った。


 その一言だけで、石室の空気が変わる。


 各氏族の代表が席へ着き、王国使節団は壁際の来賓席へ移った。


 アマンテルスは、魔侯家の空席の前に立つ。


 父の向かい。


 叔父の隣。


 両側から、影が伸びてくる。


「報告せよ」


 ヴァルガスの命令で、北側監視所の副隊長が前へ出た。


 獣魔族の女性だった。


 肩には包帯が巻かれ、片方の耳は血で汚れている。


「三日前、北側監視所が襲撃を受けました」


 彼女は淡々と話す。


「襲撃者は十二から十五名。夜魔族の外套と、石角族の短槍を使っていました。監視兵四名が死亡、二名が負傷。敵は峡谷の南側へ退いた」


「魔族の装備を使った者が、南側へ退いた」


 翼魔族の代表が言う。


「なら王国の仕業ではないか」


「傷には、光属性の焼灼痕がある」


 ガレウスが低く続けた。


「王国の光術師が、我らの装備を奪って襲った」


「逆も考えられます」


 レオンハルトが言った。


「魔族側が王家の矢を使い、王国へ罪を着せた可能性も」


「我らが自らの兵を殺したと?」


「そうは言っていません」


「だが、そう聞こえる」


 石室の空気が張りつめる。


 誰もが、相手の言葉へ、自分が恐れているものを聞いている。


 王国は魔族を疑う。


 魔族は王国を疑う。


 運命式は、そこへ少しだけ力を加えればよい。


 アマンテルスの右腕が疼いた。


 黒い文字が、包帯の下から浮かび上がる。


 ――怪物は、怒りを抱け。


 ――死者のために、敵を憎め。


 声が耳の奥で囁く。


 原作のアマンテルスは、母を失い、誰も信じられず、復讐を選んだ。


 アマンテルスは母を失っていない。


 それでも目の前で、四人の兵が死んでいる。


 泣く家族がいる。


 怒りを抱く理由は、十分すぎるほどある。


「証拠を見せてください」


 フィルブランテの声がした。


 フィルブランテが、来賓席から前へ出る。


「襲撃現場から回収された矢と装備を、確認させていただけますか」


 ガレウスの目が細くなる。


「人族の公爵令嬢へ、我らの死者の遺品を渡せと?」


「渡す必要はありません。皆様の目の前で、わたくしが魔力履歴を読みます」


「それが何になる」


「誰が、いつ、どのようにそれへ触れたかを残せます」


 フィルブランテは静かに続けた。


「信じていただくためではありません。皆様がご自身で確かめるためです」


 旧文書庫で、レオンハルトへ言ったのと同じ言葉だ。


 信じろとは言わない。


 検証する機会を求める。


 ガレウスはしばらくフィルブランテを睨んでいた。


 やがて、短槍の柄を床へ打ちつける。


「好きにしろ。ただし、我らの兵を侮辱する記録を残せば、その扇ごと砕く」


「承知しました」


 フィルブランテは一礼した。


 副隊長が、黒い布に包まれた矢を運んでくる。


 矢羽は白。


 矢柄には、セレディア王家の太陽と剣の紋章。


 誰が見ても、王国の矢だ。


 フィルブランテは手袋を外し、指先を近づけた。


 触れない。


 先に、矢の所有者へ尋ねる。


「触れてもよろしいですか」


 副隊長が、少し驚いた顔をした。


 それから短く頷く。


「頼む」


 フィルブランテの〈晶析眼〉が開いた。


 青い光が、矢を包む。


 魔力の履歴が、幾重もの層となって浮かび上がる。


 王国の工房。


 矢柄を削る職人。


 紋章を刻む工匠。


 王家の武器庫。


 そこまでは、本物だ。


 だが次の層に、妙な空白がある。


 矢が武器庫から消えた後の記録が、切り取られている。


 代わりに、冷たい水の気配。


 塩。


 夜。


 そして、影に似た黒い術式。


「これは」


 フィルブランテの眉が寄る。


「矢そのものは、本物です。しかし、三日前に峡谷で使われた矢ではありません」


 ざわめきが起きる。


「何を言う」


 ガレウスが立ち上がる。


「矢は、監視兵の胸へ刺さっていた」


「刺さっていたことは否定しません」


 フィルブランテは矢から目を離さない。


「ですが、この矢が最後に放たれたのは、七年前です。王国西部の盗賊討伐。その後、武器庫へ返納されている」


「そんなことが分かるのか」


 レオンハルトが低く問う。


「矢木に残る風属性の加速痕が、七年前の戦闘記録と一致します。三日前の新しい発射痕は、ありません」


 ノエルがすぐに結晶板を取り出した。


「記録を複製。風の圧力層と、矢羽の裂け方を照合する」


「では、矢はどうやって死者の身体へ」


 副隊長が、唇を噛む。


「後から刺したのです」


 アマンテルスが答えた。


「襲撃を人族の仕業に見せるために」


「そんなもの、ただの推測だ!」


 石角族の代表が声を上げる。


「人族の令嬢の魔法を信じ、死者の証拠を捨てろと言うのか!」


「捨てろとは言っていません」


 フィルブランテの声が、少し強くなる。


「むしろ、残すのです。本物の矢であることも、七年前に使われたことも、三日前には放たれていないことも。都合のよい部分だけではなく、すべてを」


 青い氷晶が、矢の上に生まれる。


 王家の紋章。


 七年前の戦闘履歴。


 武器庫の空白。


 黒い術式。


 すべてが、透明な結晶へ保存される。


 石室の中央へ、誰も否定できない形で浮かんだ。


「次に、魔族の短槍を」


 フィルブランテは言った。


 ガレウスは不満そうだった。


 しかし副隊長が、自ら槍を差し出す。


「私の部下のものだ。調べろ」


 短槍には、石角族の家紋がある。


 槍を握っていた兵は、襲撃で死んだ。


 その血が、今も刃の根元に残っている。


 フィルブランテが触れると、今度は履歴が鮮明に浮かんだ。


 監視兵。


 交代時刻。


 峡谷の北側。


 不自然な霧。


 そして霧の中で、監視兵が味方の影を見失う。


 短槍は、敵へ向けて振るわれている。


 だが刃が触れた先には、魔族の身体ではない。


 白い外套。


 人族の兵にも、魔族の兵にも見える、顔のない者たち。


 その背後から、光の矢が飛ぶ。


 しかし矢の光は、王国の光術式ではない。


 白い光の中心に、黒い空洞がある。


 中心のない円。


「虚無教団」


 アマンテルスが呟く。


 室内の何人かが、嫌悪の表情を浮かべた。


 教団の名は魔侯領にも知られている。


 人族の宗教組織が、魔族の地で嫌われているのは当然だ。


「白い外套を着た者が、人族ではないと?」


 ガレウスが問う。


「分かりません」


 フィルブランテは正直に言った。


「ただ、王国の正規軍の術式ではありません。光と闇を無理に重ね、傷だけを残す術です。人族でも魔族でもない、あるいは両方の技術を知る者が使った」


「教団が、両国を争わせている」


 レオンハルトが言う。


「可能性は高い」


「可能性では、死者の家族は納得しない」


 ガレウスの声は、怒鳴り声ではなかった。


 深い痛みを押し込めた声だった。


「私は、北側監視所の兵を育てた。あの中には、石角族の若者もいた。戦争を経験していない者たちだ。休戦が続けば、二度と峡谷で血を流さずに済むと、そう信じていた」


 将軍の大きな手が、短槍の柄を握る。


「それを殺された。証拠が偽装だとしても、死んだ者は戻らない。私は何をすればよい」


 誰もすぐには答えられない。


 戦争を止める。


 報復をしない。


 正しい言葉だ。


 だが、大切な人を殺された者へ、簡単に言える言葉ではない。


 アマンテルスの右腕に、黒い文字が広がる。


 ――怒れ。


 ――失った者のために、怪物となれ。


 目の前の叔父の痛みへ、運命式が手を伸ばしている。


 母を失えば、アマンテルスはこうなるはずだった。


 今なら分かる。


 復讐を選ぶことが、単純な悪ではない。


 誰かの死を、なかったことにされたくないという叫びだ。


「叔父上」


 アマンテルスは言った。


 ガレウスが顔を上げる。


「俺も、何をすればいいか分からない」


 魔侯家の令嬢らしくない言葉だった。


 議場が少しざわめく。


「母上が殺されかけたとき、俺は王国の奴らを全部敵だと思いたくなった。今も、峡谷のことを聞いて、先に剣を持ちたくなる」


 黒い影が、足元で揺れる。


「でも、敵を決めれば、死んだ人が戻るわけじゃない。間違った相手を殺せば、次の家族が同じことを言うだけだ」


「なら、何もしないのか」


「何もしないとは言ってない」


 アマンテルスは、王太子とフィルブランテを見る。


 次に、カイラスを見る。


「峡谷へ行く。襲撃現場を、俺たちで調べる。人族と魔族、両方の証人で。犯人を見つける」


「その間、次の襲撃が起きれば」


「防ぐ」


「誰が」


「俺たちが」


 アマンテルスの声に、迷いはなかった。


 ただし、一人称はもう「俺」だけではない。


 俺たち。


 ガレウスは姪を見る。


 目の前にいるのは、以前のアマンテルスとは違う。


 人族と一緒に帰った魔侯令嬢。


 傷を負い、呪いを抱え、それでも復讐を拒む者。


 将軍の顔に、怒りとは別の感情が浮かぶ。


 理解できないものへの苛立ち。


 そして、理解してしまいそうな自分への恐れ。


「会議の外で、偽装の証拠を調べることには異議がない」


 水鱗族の代表が言った。


「だが、峡谷への軍派遣を保留する理由にはならぬ」


「賛成」


 石角族の代表が続く。


「北側監視所の防備を増やす。少なくとも、守りの兵は必要だ」


「守りの兵と、攻める軍は違います」


 レオンハルトが言う。


「王国側も、南側監視所へ守備兵を置く。ただし、峡谷内へ入る人数と武器を、双方で同数に制限したい」


「王国の王太子が、それを約束できるのか」


「この場では、私個人の誓約しかできません」


 レオンハルトは正直に答えた。


「だが王国へ帰り次第、父王と外務局へ正式に求めます。魔侯領が同じ条件を受け入れるなら」


 ヴァルガスが、初めて口を開く。


「魔侯領も受け入れる。ただし、峡谷内の監視は、王国と魔侯領だけで行わない」


 父の視線が、フィルブランテとリゼットへ向いた。


「記録者と治癒者を、共同監視団へ入れる。剣を持つ者だけが、事実を決めてはならぬ」


 フィルブランテは少し驚いた。


 ヴァルガスは、主戦派を装いながら和平成立まで敵を欺く男だと、設定資料にはあった。


 だがアマンテルスにとっては、父だ。


 娘の前で、すべてを明かせない。


 それでも、戦争へ進ませないための道を作っている。


「異議があります」


 ガレウスが言った。


 会議の空気が、再び張る。


「人族の聖花使いを峡谷へ入れれば、我らは光術式へ弱みを晒すことになる」


「わたしは、勝手に誰かの身体や魔力へ触れません」


 リゼットが言う。


「必要なら、先に許可を取ります」


 ガレウスは、少女を見る。


「許可を取れば、傷が治るのか」


「治らない傷もあります」


 リゼットは目を逸らさない。


「でも、許可なく触れて、もっと傷つけることはしたくありません」


 石角族の将軍は、返答できなかった。


 そのとき。


 議場の天井に浮かぶ二つの月結晶が、同時に暗くなった。


 室内の影が、一斉に長く伸びる。


 アマンテルスの右腕が焼けるように痛んだ。


「下がれ!」


 アマンテルスが叫ぶ。


 中央の空席から、黒い根が噴き出した。


 中心のない円を描きながら、七つの氏族席へ伸びていく。


 根は各代表の足元に触れ、怒り、悲しみ、恐怖を吸い上げていく。


 石角族の席からは、死んだ監視兵たちの記憶が引きずり出された。


 獣魔族の席からは、峡谷で失った家族の泣き声が。


 翼魔族の席からは、百年前の戦争で焼かれた村の光景が。


 古い傷を、運命式がひとまとめにしようとしている。


 そしてすべての影が、アマンテルスへ向かう。


 ――怪物の席へ座れ。


 空席の床絵が、黒い王座の形へ変わる。


 原作でアマンテルスが座るはずだった席。


 怒りを抱え、魔侯領の復讐を引き受け、最後には討たれる怪物の席。


「アマンテルス様!」


 ルーシェが叫ぶ。


 アマンテルスの足が、自分の意思に反して空席へ向かう。


 影が足首へ絡みつき、黒い根が角へ伸びる。


 右腕の呪いが、肩を越えて首筋まで広がった。


 魔侯領の七氏族全員が、怒っている。


 その怒りを一人が背負えば、楽になる。


 誰か一人が怪物になれば、ほかの者は復讐を正しいと言える。


 耳元で、甘い声が囁く。


 ――座れ。


 ――死者のために、すべてを憎め。


 アマンテルスは、空席の前で立ち止まった。


 心臓が痛い。


 怖い。


 このまま座れば、全部の怒りを抱えられる気がする。


 母を殺されかけた自分の怒り。


 死んだ監視兵の家族の怒り。


 叔父の怒り。


 人族を信じて、また裏切られたかもしれないという恐怖。


 全部を引き受け、剣を振るえば、誰も迷わなくて済む。


「アマンテルス!」


 カイラスの声が響いた。


 淡紫の雷が、アマンテルスの前へ走る。


 影の根を焼き切ろうとして、途中で止まる。


 雷を強くすれば、アマンテルスごと傷つける。


 原作のカイラスなら、ためらった後で切る。


 リゼットを守るため。


 和平を守るため。


 一人のアマンテルスを、怪物として処分するために。


 アマンテルスは、金色の瞳を見る。


「カイラス」


 幼なじみの顔は、苦しそうに歪んでいた。


「離れろ」


「できない」


「俺が怪物になれば、切れ」


 言った瞬間、フィルブランテの顔が浮かんだ。


 お前まで失うくらいなら、嫌われた方がましだ。


 かつて、アマンテルス自身が口にした言葉。


 守るために、選択を奪う言葉。


 カイラスへ、同じことを言わせようとしている。


「違う」


 アマンテルスは首を振った。


「今のなしだ」


「何を」


「俺を切るかどうかを、お前が一人で決めるな」


 カイラスの目が揺れる。


「だが、お前が暴走すれば」


「暴走しないよう、皆で止める。俺が死ねば済むみたいに、勝手に答えを決めるな」


 影がさらに足へ絡みつく。


 苦しい。


 それでも、アマンテルスは立ったまま言う。


「お前は、何を選ぶ」


 カイラスの雷が震える。


 和平のため。


 魔侯領のため。


 多くを守るため。


 その大義は、いつも一人を切り捨てる理由になった。


 アマンテルスは、政治の駒ではない。


 幼なじみだ。


 守りたい一人だ。


「俺は」


 カイラスが、雷の刃を下ろす。


「お前を処分しない」


 議場がざわめく。


 石角族の席から、反対の声が上がる。


「監視役が、何を言う!」


「それで和平が壊れるなら」


 カイラスは、空席の前に立つアマンテルスを見た。


「その和平は、最初から誰かを犠牲にするだけのものだ」


 雷を、アマンテルスではなく床へ落とす。


 黒い根を断ち切るために。


「俺は、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルを、魔侯家の令嬢として、幼なじみとして守る」


 カイラスの足元に、金色の雷が円を描く。


 雷が黒い根を焼く。


 だが根は消えない。


 七氏族の怒りを吸った術式は、雷だけでは壊せない。


「光と闇と記録」


 ノエルが叫ぶ。


「古代契約と同じ構造です。ただし、今回は七氏族の感情が核になっている」


「どうすればいい!」


 レオンハルトが問う。


「怒りを消す必要はない。誰か一人へ押しつける部分だけを分離する」


 アマンテルスの足元へ、白い花弁が降る。


 リゼットが、黒い根の前に立っていた。


「リゼット、下がれ!」


「下がりません」


 彼女の声は震えている。


 怖くないわけではない。


 それでも、自分で選んでいる。


「皆さんが怒っていることは、悪いことではありません。大切な人を失ったら、怒るのは当たり前です」


 白い花弁が、各氏族の席へ伸びる。


 悲しみと怒りを、根から一枚ずつ剥がしていく。


「でも、怒っているから怪物になれと言われるのは違います」


 アマンテルスの腕の黒い文字が、花弁へ触れる。


 痛みが、少しだけ軽くなる。


「兄貴!」


 フィルブランテが叫んだ。


 フィルブランテの氷晶が、議場の床へ広がっている。


 七氏族の影。


 監視兵の記憶。


 矢の履歴。


 偽装された光と闇の術式。


 そして、今ここで誰が何を選んだか。


 すべてを、青い結晶が記録していく。


「怒りは、消しません!」


 フィルブランテの声が石室へ響く。


「死んだ方々がいたことも、皆様が傷ついたことも、なかったことにはできません。ですが、その怒りをアマンテルス様一人の役にして、戦争を選ばせる記録は残しません!」


 透明な氷晶が、黒い王座の足元を凍らせる。


 運命式が、記録を上書きしようとする。


 ――怪物。


 ――復讐。


 ――戦争。


 黒い文字が、氷の中で増える。


「名前を呼んで!」


 リゼットが言う。


 旧文書庫の罠と同じ。


 役ではなく、本人を思い出させる。


 けれど今回は、アマンテルス一人の名前だけでは足りない。


 七氏族の怒りが、怪物を求めている。


 なら、七氏族が自分の名前と、自分の意思を取り戻さなければならない。


「ナディア・スラ・フェルガ!」


 北側監視所の副隊長が、最初に叫んだ。


 自分の名。


 獣魔族の女性は、涙を流しながら、根へ手を伸ばす。


「私は監視兵を失った。怒っている。悲しい。だが、誰かに代わりに憎ませはしない!」


 彼女の足元の根が、一つ砕けた。


「グラナド・ドラク」


 石角族の代表が続く。


「私は、死者の家族へ答えを出したい。だからこそ、偽りの敵を選ばない」


 二つ目の根が砕ける。


 水鱗族。


 翼魔族。


 夢魔族。


 灰樹族。


 一人ずつ、自分の名を告げる。


 怒りを否定しない。


 それでも、自分の怒りを誰かの剣へ預けないと選ぶ。


 残る根は一つ。


 石角族の将軍、ガレウス・ドラクの席へ伸びている。


 ガレウスは動かない。


 根は、彼の足元からアマンテルスの足首へ最も強く絡みついていた。


「叔父上」


 アマンテルスが呼ぶ。


 ガレウスは、死んだ兵の短槍を握っている。


「俺に、憎むなとは言わない」


「言わない」


「戦うなとも言うな」


「言わない」


 アマンテルスは答えた。


「でも、俺に全部を背負わせるな」


 叔父の目が、わずかに開く。


「俺は怪物にならない。母上も、父上も、カイラスも、フィルブランテも、ここにいる皆も守りたい。叔父上の兵が死んだことも、忘れない。でも、俺一人が復讐を背負えば、叔父上まで何も選ばなくてよくなる」


 アマンテルスの声は震えていた。


 それでも、言葉を止めない。


「それは、叔父上を守ることにもならない」


 長い沈黙があった。


 ガレウスは、短槍を見下ろす。


 死んだ若者の名を、心の中で呼んでいるのかもしれない。


 やがて将軍は、ゆっくりと槍を床へ置いた。


「ガレウス・ドラク」


 石が割れるような声だった。


「私は、戦争で弟を失った。戦争で部下を失った。だから、次は先に剣を持てば守れると、そう思っていた」


 彼はアマンテルスを見る。


「だが、また姪を失うために剣を持つのなら。それは守ることではない」


 最後の根が砕けた。


 黒い王座が、音を立てて崩れる。


 アマンテルスの足首を縛っていた影が消えた。


 右腕の文字は完全には消えない。


 だが、首筋まで広がっていた黒は、肩まで後退している。


 アマンテルスは一歩、空席から離れた。


 息が苦しい。


 膝が折れそうになる。


 その前に、カイラスが腕を支えた。


「大丈夫か」


「十段階で」


「聞いてない」


「五」


「信用できない」


「今回は正直だ」


 カイラスは、アマンテルスの腕へ雷光を流そうとして、止まる。


「触れていいか」


 アマンテルスは少し笑った。


「いいぞ」


 雷は、痛みのある場所を探るように静かに流れた。


 以前のカイラスなら、アマンテルスの状態を確かめるためなら、断りなく魔力へ触れたかもしれない。


 今は、聞いた。


 それだけで、アマンテルスは少し楽になる。


     ◇


 運命式が砕けた後、議場の床には一つの黒い結晶が残った。


 中心のない円を閉じ込めたような結晶。


 ノエルが、周囲へ保護術式を張る。


「触れないで。まだ因果固定の残響がある」


「誰がこれを仕掛けた」


 ヴァルガスが問う。


 ノエルは結晶を観察する。


「直接の術者は分からない。だけど、術式の起点は灰銀峡谷の地下とつながっている」


 フィルブランテが、鞄から星読塔の結晶板を取り出した。


 黄昏島を示していた星の空白。


 灰銀峡谷の地下へ伸びた線。


 運命式の残響へ近づけると、二つの地図が重なった。


 島と峡谷。


 離れた二つの場所を、地下の光と闇の線がつないでいる。


「黄昏島は、峡谷の地下結界と同じ網につながっています」


 フィルブランテが言う。


「島へ行く前に、峡谷の中枢を確認しなければならない」


「双月が揃う前に、片方を沈めよ」


 レオンハルトが、結晶板の脅迫を思い出す。


「片方とは、どちらの月だ」


「人族か、魔族か」


 リゼットが言う。


「光か、闇か」


「違うかもしれません」


 フィルブランテは、中央の空席を見る。


「双月の契約には、光と闇のほかに、記録者が必要です。片方を沈めるというのは、種族や人ではなく、契約の支点の一つを壊すという意味かもしれません」


「灰銀峡谷の地下にある支点を?」


 ノエルが頷く。


「結界の片側を落とせば、残る片側へ負荷が集中する。光か闇、どちらかの契約者が、呪いを全部引き受けることになる」


 原作のアマンテルスが、学院地下の呪いをすべて吸収したように。


 アマンテルスの背筋が冷える。


 運命式は、同じ結末へ向かう方法を変える。


 王国で母を殺しても失敗した。


 学院で怪物にしようとしても失敗した。


 なら、両国の戦争と結界の崩壊を利用して、もっと大きな怪物を作る。


「峡谷へ行く」


 ガレウスが言った。


 先ほどまで、軍の派遣を求めていた将軍。


 今も、声は硬い。


「ただし、攻めるためではない。共同監視団として、地下の結界を確認する」


 石角族の代表が、驚いた顔をする。


「将軍」


「死者のために、事実を見つける。偽りの敵を討つために、ほかの敵を作るな」


 それは、アマンテルスが言った言葉を、そのまま返すようだった。


 ヴァルガスは、議場全体を見回す。


「採決する。灰銀峡谷への大規模軍派遣を、七日間保留する者」


 夜魔族。


 夢魔族。


 水鱗族。


 灰樹族。


 四つの氏族が、影を上げる。


「共同監視団の設置を認める者」


 今度は、七氏族すべての影が上がった。


 ガレウスも、短く頷いた。


 休戦協定は、今夜は守られた。


 完全な和平ではない。


 怒りも、不信も、死者の痛みも残っている。


 それでも、戦争を始めないという選択を、誰か一人ではなく七氏族が選んだ。


「共同監視団には、魔侯領からカイラス・ノクサル、ガレウス・ドラク、北側監視所のナディア・フェルガを入れる」


 ヴァルガスが告げる。


「王国使節団からは、レオンハルト・ヴァン・セレディア、フィルブランテ・アソート・イデルバルディ、リゼット・アーヴェイン、ノエル・エルミナージュ、シリル・グランツ」


 アマンテルスは、父を見る。


「俺は」


「お前は」


 ヴァルガスの声が止まる。


 父は、娘の右腕に残る呪いを見る。


 父としてなら、危険な場所へ行かせたくない。


 魔侯としてなら、娘の魔力が必要だ。


 その二つの間で、男は一度、目を閉じた。


「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルは、魔侯領の代表として同行する」


 アマンテルスは息を吐いた。


「ただし」


 父の視線が、フィルブランテへ向く。


「単独行動を禁ずる。影の状態は、フィルブランテ嬢とノエル・エルミナージュが確認し、危険と判断すれば撤退させる」


「承知しました」


 フィルブランテが、迷わず答える。


「父上」


 アマンテルスが言う。


「俺の意見も聞け」


「聞いている」


「今、撤退はしない」


「その判断ができない状態になったときに、仲間へ任せろという意味だ」


 父の声は、低かった。


 だが強制ではない。


 娘が一人で抱えないための条件だった。


 アマンテルスは少し驚き、それから頷いた。


「分かった」


 ガレウスが鼻を鳴らす。


「随分と多くの者へ任せるようになったな、姪よ」


「叔父上もな」


「私は元から、部下へ任せている」


「怒りは俺へ任せようとしただろ」


 将軍は返答に詰まった。


 カイラスが横で吹き出す。


「姪に言い返されている」


「黙れ、和平屋」


「その呼び方、悪口として弱い」


「お前たち」


 ヴァルガスが低く言う。


 アマンテルス、カイラス、ガレウスは同時に黙った。


 リゼットが小さく笑う。


 初めて会ったはずの場所で、少しだけ空気がほどけた。


     ◇


 会議の後。


 アマンテルスとフィルブランテは、魔侯城の屋上へ上がった。


 二つの月が、近い。


 王国では見えないほど大きく、白と藍の光が城の黒い屋根を照らしている。


 共同監視団の出発は、明日の夜明け。


 それまでの数時間だけが、静かだった。


「危なかったな」


 フィルブランテが言う。


「何が」


「怪物の席」


「ああ」


 アマンテルスは屋根の端へ座り、黒い日傘を膝へ置いた。


「ちょっと座りたくなった」


「ちょっとで済むものか」


「冗談だ」


「本当に?」


「半分」


 フィルブランテは、すぐに怒らなかった。


 代わりに、アマンテルスの隣へ座る。


「母上が生きていて、よかったな」


「うん」


 アマンテルスは短く答えた。


 声が少し震えた。


「俺、あの人に会って、やっと分かった。原作でアマンテルスが壊れた理由」


「分かる必要はある。でも、同じにならなくていい」


「分かってる」


「本当に?」


「今度は、フィルブランテもうるさいな」


「兄貴が信用できないからだ」


「カイラスにも言われた」


「父上にも」


「母上にも」


「皆さん、正しいですね」


 アマンテルスは苦笑した。


 風が吹き、二人の影が屋根の上で重なる。


 少し離れた場所で、リゼットが温かい飲み物を持って現れた。


「お邪魔でしょうか」


「いいえ」


 フィルブランテが答える。


「ちょうど兄貴が反省していたところです」


「してない」


「半分はしていたでしょう」


「お前、さっきから半分半分って」


 リゼットは二人へ湯気の立つ杯を渡す。


「魔族領の甘月茶だそうです。エルネシア様が、眠る前に飲むとよいと」


 アマンテルスは杯を受け取った。


 甘い香りがする。


 アマンテルスの記憶では、母が風邪を引いた娘へ淹れてくれた飲み物だ。


「リゼット」


「はい」


「さっき、怖かっただろ」


「はい」


「それでも、下がらなかった」


「皆さんが、下がらないでくれましたから」


 リゼットは、二つの月を見上げる。


「一人なら、きっと怖くて何も言えなかったと思います。でも、わたしが少し言っても、フィルが記録して、アマンテルス様が抱えて、皆さんが選んでくださるなら。わたしも言いたいことを言えます」


 フィル。


 アマンテルス様。


 呼び方の差に、フィルブランテが少しだけ眉を動かす。


 アマンテルスは気づかないふりをして、茶を一口飲んだ。


「じゃあ、次は俺のこともアマンって呼べば」


「兄貴」


「何だよ。お前はフィルって呼ばれてるだろ」


「それは本人が許可した」


「俺も今許可した」


 リゼットは少し考える。


「……アマン、でよろしいですか?」


 アマンテルスは、少し目を見開いた。


 それから笑った。


「いい」


 フィルブランテは何も言わなかった。


 ただ、甘月茶を飲みながら、少しだけ不満そうだった。


 王太子に対して自分が何を思っているのか、まだ気づかないように。


     ◇


 同じ夜。


 灰銀峡谷の地下深くで、中心のない円が脈打っていた。


 崩れた石壁の向こうには、光と闇の結界線が幾重にも走っている。


 その一部が、黒い水に沈み始めていた。


 白い法衣をまとった大司教ザハルは、濡れた石床へ立つ。


 彼の前には、顔を覆った黒衣の人物が膝をついていた。


「七氏族会議は、軍派遣を保留しました」


「知っています」


 ザハルは静かに答える。


「怪物の席を、あの娘は拒みました」


「カイラス・ノクサルも、処分を選ばなかったようです」


「ええ」


 大司教は、沈みかけた黒い結界線へ指を置く。


「人は、思ったより早く、互いを助けることを学ぶ」


「では、計画は」


「進めます」


 ザハルは微笑んだ。


「学んだ者ほど、選ばせることができる。今度は怪物を作るのではありません」


 黒い水の中から、細い白い根が伸びる。


 根の先には、小さな青い結晶が絡め取られていた。


 イデルバルディ家の晶術とよく似た色。


「記録者へ、選ばせましょう」


 ザハルの言葉とともに、黒い水が結晶を沈める。


「兄を救うために、真実を沈めるかどうかを」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。