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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第十話 真実は沈まない

灰銀峡谷の夜明けは、白と黒の境目から始まる。


 王国側の崖には、朝日の色が差し始めていた。


 魔侯領側の岩山には、まだ青い月の光が残っている。


 その間を深く裂く峡谷の底には、百年前の戦争で溶けた銀灰色の岩と、今朝の爆発で崩れた黒い土が折り重なっていた。


 ここで軍事行動を禁じる休戦協定は、百年前から守られてきた。


 だからこそ、誰かが協定を破らせようとしている。


「共同監視団、最終確認を行います」


 フィルブランテ・アソート・イデルバルディは、峡谷北側の仮設監視所で、手帳を開いた。


 目の前には、王国と魔侯領の者たちがいる。


 王国側から、レオンハルト、シリル、ノエル、リゼット。


 魔侯領側から、アマンテルス、カイラス、ガレウス、北側監視所副隊長のナディア。


 さらに、南側監視所から派遣された人族の副隊長アーデン・メルロスが立っている。


 青い外套の上から胸へ包帯を巻いた若い騎士だった。三日前の爆発で仲間を失い、それでも共同監視団へ参加した。


「第一。地下への侵入は、全員で行います。誰も単独で通路を進まないこと」


 フィルブランテの視線が、アマンテルスへ向く。


 魔族令嬢は腕を組み、何も言わない。


 だが、少しだけ視線を逸らした。


「第二。異常な術式、記録、遺物を見つけた場合、所有者へ触れる許可を確認してから調査します」


 ノエルが、真面目な顔で頷く。


「第三。危険と判断した者は、身分と階級を問わず中止を提案できます。その場合、全員が理由を聞きます」


 レオンハルトが続けた。


「異議があれば、今言ってほしい」


「異議」


 アマンテルスが手を挙げる。


「フィルが、一番最初に危険と判断する確率が高い。判断の基準を数値化しないと、すぐ止められる」


「数値化しません」


 フィルブランテは即答した。


「危険は、数値だけで決まらない」


「でも、お前は昨日、僕の影が十段階で六なのに出発を許可した」


「兄貴が十段階で二と嘘をついたからだろ!」


「六と言ったら、来させてもらえなかった」


「正解です」


「一番危険な判断をしているのが、監視役二人だな」


 シリルが、静かに言った。


 カイラスも頷く。


「アマンテルス。今日は私の指示を聞け」


「兄貴にも言われた」


「私は兄ではない」


「監視役も似たようなものだろ」


「どこが」


「うるさいところ」


 カイラスは一度、口を開きかけ、閉じた。


 反論しようとして、思い当たる節があったらしい。


 リゼットが、少し笑った。


 この場で笑えることが、ほんの少し救いだった。


 敵意を持つ者もいる。


 死者を出したばかりで、協定を信じられない者もいる。


 それでも、王国の公爵令嬢と魔侯家の令嬢が、兄弟のような口論をしている光景は、剣を抜くよりはましだった。


「では、出発します」


 フィルブランテは手帳を閉じた。


「生存を最優先とし、すべての記録を共同で残します」


 その最後の言葉に、オーギュストが遠くの公爵領で言った声を思い出す。


 帳簿を閉じない。


 母が遺した言葉。


 記録は、一人で抱えるためにあるのではない。


 誰かへ渡し、一緒に考えるためにある。


 今日は、それを試される日になる気がした。


     ◇


 地下への入口は、二度目の爆発で崩れた岩壁の裏にあった。


 石をどけると、風のないはずの場所から、冷たい空気が流れ出す。


 土と硫黄。


 古い紙。


 そして、海水のような匂い。


「峡谷の地下に、海の匂い?」


 アーデンが眉を寄せた。


「黄昏島とつながっているからかもしれません」


 フィルブランテは答えた。


 星読塔の結晶板に示された線は、島と峡谷の地下結界を結んでいた。


 海から遠いこの場所に、海水の魔力が残っていても不思議ではない。


 ただし、入口の石壁に刻まれた文字を見た瞬間、ノエルの表情が変わる。


「待って」


 全員が止まる。


 壁には、人族の古い王国語と、魔族の月影文字が並んでいる。


 同じ文章を、二つの言葉で刻んだものだ。


 光は、傷を見つける。


 闇は、傷を抱く。


 晶は、傷の由来を記す。


「双月の契約と同じですわ」


 リゼットが小さく呟く。


「その下を読んで」


 ノエルが指した。


 文字は半分、黒い根で覆われている。


 アマンテルスが影を伸ばし、根へ触れず、その輪郭だけを持ち上げた。


 フィルブランテが氷晶で、削られた部分を記録する。


 リゼットの白い花弁が、土を少しずつ払う。


 三人が無言で連携する。


 現れた文章は、短かった。


 ――傷を抱く者を、一人にするな。


 アマンテルスの影が、わずかに止まった。


「古代人も、うるさいな」


「兄貴が何度も同じことをするから、世界中から言われるんだ」


「俺だけじゃないだろ」


 フィルブランテは反論しなかった。


 自分もまた、記録を一人で抱え込みそうになる。


 だから二人で、同じ言葉を聞く必要があるのかもしれない。


「入口を開けます」


 ノエルが言った。


 石壁の中央に、二つの月と一枚の結晶が刻まれている。


 リゼットの光。


 アマンテルスの影。


 フィルブランテの氷。


 前回のように、三人で鍵を開ける構造だ。


「待って」


 カイラスが止めた。


「今日の目的は、アマンテルスたちだけの結界を開くことではない。共同監視団として入るなら、私たちも手順に加わるべきだ」


「古代の鍵は三人用です」


 ノエルが言う。


「それ以外の魔力を入れれば、暴走する可能性がある」


「三人だけに任せれば、また三人だけが傷を負う」


 カイラスは、アマンテルスを見る。


「仕組みを変えられないなら、外側で守る役を決める」


 ガレウスが鼻を鳴らす。


「当たり前のことを、もっともらしく言うな」


「叔父上が言うと、褒め言葉に聞こえません」


 アマンテルスが返す。


「褒めていない」


 ガレウスは、石壁の左右へ石角族の力で支柱を作った。


 シリルとナディアは風の膜を張り、通路から何かが噴き出しても外へ漏れないようにする。


 レオンハルトとアーデンは、光の防護を出口へ向けて展開した。


 カイラスの雷が、石壁の上を細く走る。


 ノエルは術式全体を観測し、異常が出れば合図を送る。


 三人が鍵を開く。


 六人が、三人を守る。


「始めます」


 フィルブランテが言った。


 リゼットの光が、白い月へ入る。


 アマンテルスの影が、藍の月へ触れる。


 フィルブランテの氷晶が、二つの月の重なる部分を記録する。


 石壁が、静かに割れた。


 黒い通路が、口を開く。


 今度は誰も、三人だけを先へ行かせなかった。


     ◇


 地下通路の壁には、結晶が埋め込まれていた。


 白い結晶。


 黒い結晶。


 その間に、青い結晶。


 だが道の奥へ進むほど、青い結晶だけが黒く濁っていく。


「記録者が、先に沈められている」


 フィルブランテは呟く。


「どういう意味だ」


 レオンハルトが尋ねた。


「光と闇の結界は、互いに状態を確かめられます。ですが、記録が失われれば、どちらが先に約束を破ったか、誰が傷つけたかを証明できない」


 魔族は、人族が先に裏切ったと信じる。


 人族は、魔族が先に襲ったと信じる。


 その間をつなぐ記録がなければ、誰も相手の話を聞かない。


「だから、教団は証拠を偽造し、帳簿を消し、令嬢たちへ罪を着せてきた」


 ノエルが言う。


「人を孤立させるのと同じ。記録も、一つだけにすれば消せる」


「なら、記録を増やせばいい」


 アーデンが言った。


 南側監視所の副隊長は、壁の黒い結晶を見つめている。


「報告書は一枚ではない。監視兵の証言、武器庫の出納、見張りの交代記録。複数あれば、誰かが一つを燃やしても、残る」


 簡単な言葉だった。


 だが、フィルブランテには新しい視点だった。


 自分の〈晶析眼〉で、完璧な証拠を一つ作ろうとしていた。


 しかし完全な証拠を一人が持てば、消されたときに終わる。


 母も、鉢へ記録を分けていた。


 母の手法を、もっと早く理解すべきだったのかもしれない。


「記録は、複製する」


 フィルブランテは手帳を取り出した。


「今日から、わたくしの氷晶だけに残しません。各自が見たこと、判断したことを言葉と魔力で残しましょう」


「魔力の記録は苦手だ」


 ガレウスが言う。


「石角族は、石へ言葉を刻みます」


「でしたら石で」


 フィルブランテは即答した。


「形式は問いません。大切なのは、一つの記録だけを正解にしないことです」


 将軍は少し驚いた顔をした。


 それから、無言で壁の石片を拾い、爪で短い文字を刻む。


 ガレウス・ドラク。北側監視所の通路へ入った。人族とともに。


 アマンテルスはその横顔を見た。


 叔父が、記録を残す。


 ただそれだけのことが、何かを変えるように思えた。


 通路の先に、開けた空間が見えた。


 誰も口にしなかったが、全員が警戒を強める。


 黒い根が、足元から天井まで絡みついている。


 その根の向こうには、直径数十歩の円形の広間があった。


 中央にあるのは、黒い水の井戸。


 水面は鏡のように静かだ。


 しかしその底から、白と藍の結界線が何本も伸び、井戸の縁へ巻きついている。


 黒水の井戸。


 結界の片方を沈めるために、誰かの魔力と記録を飲み込む装置。


「近づかないで」


 ノエルが即座に言った。


「井戸の周囲に、強い因果固定術式がある」


 アマンテルスの右腕に、黒い文字が浮かび始めた。


 ――闇は、すべてを抱け。


 ――光を沈め、傷を守れ。


「兄貴、動くな」


 フィルブランテが言う。


「動いてない」


「影が動いています」


 アマンテルスの足元から伸びた影が、本人の意思に反して井戸へ這っていく。


 影は黒水へ触れ、すぐに深く沈んだ。


「引き戻せ」


 カイラスの雷が、影の周囲へ走る。


 だが雷光が水面へ近づくと、黒水は鏡のように雷を映し、逆にカイラスの影へ絡みついた。


「触るな!」


 ノエルが叫ぶ。


「術式が、外からの救助者まで役へ縛る」


「じゃあ、どうしろ!」


 アマンテルスが叫び返す。


 黒水に沈んだ影が、腕へ重く絡む。


 胸の奥へ、冷たい声が流れ込む。


 影を抱け。


 死者の怒りを受け入れろ。


 光を沈めれば、闇は守られる。


 アマンテルスは歯を食いしばる。


「俺の影だけなら、入れていい」


「駄目だ」


 フィルブランテは即答した。


「結界の負荷を全部受けることになる」


「俺なら耐えられる」


「耐えられない!」


 フィルブランテの声が、広間に響いた。


 全員がこちらを見る。


 フィルブランテが声を荒げることは、ほとんどない。


 アマンテルスも少し驚いた顔をした。


「兄貴は、いつもそう言う。俺なら、僕なら、耐えられると」


 フィルブランテの右腕に、黒い霜が広がる。


「でも、耐えた結果どうなるかを、僕は知っている」


 原作で、アマンテルスは呪いを全部吸収した。


 怪物になった。


 そして、攻略対象たちに討たれた。


 画面の向こうで何度も見た結末。


 ゲームの情報ではない。


 目の前の兄を失う未来だ。


「じゃあ、どうする」


 アマンテルスの声は苦しそうだった。


「影が勝手に引かれてる。俺が入らなければ、誰かほかの闇属性が引っ張られる」


 カイラス。


 夜魔族の兵。


 誰かが、代わりに沈められる。


 止めれば別の犠牲が出る。


 運命式のいつものやり方だ。


「まず、術式を読む」


 ノエルが井戸の外周へ結晶板を浮かべた。


「アマンテルスの影が錨に選ばれた理由は、闇属性だけではない。彼女の魔力には、〈宵闇の王権〉という保存能力がある。結界の負荷と、ここに残る記録を同時に収容できる」


「だから、兄貴を選んだ」


 フィルブランテが言う。


「正確には、闇の契約者であり、保存者であり、孤立した一人を選んだ」


「孤立していない」


 リゼットが言った。


 声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


「ここには、皆さんがいます」


「術式は、人数を数えていない」


 ノエルの言葉は冷たい。


「契約者一人の魔力と、記録者一人の署名を求めている」


 井戸の水面が揺れた。


 黒い根がフィルブランテの足元へ伸び、右腕の氷晶へ巻きつく。


 ――記録者よ。


 ――闇の契約者を救いたければ、真実を沈めよ。


 水面に文字が浮かぶ。


 青い結晶。


 母の帳簿。


 毒花事件の証拠。


 偽装襲撃の履歴。


 四十八家の地図。


 フィルブランテが集めてきた記録すべてが、黒水の上へ映し出される。


 ――これらを沈め、記録なき結界を受け入れよ。


 ――そうすれば、闇の契約者を放つ。


「フィルブランテ、見るな」


 アマンテルスが言う。


「兄貴」


「俺は入らない。記録を沈めるな」


「でも、このままでは」


「証拠を消せば、四十八家も、母上の記録も、全部また闇へ戻る」


 アマンテルスは黒水に引かれながら、フィルブランテを見る。


「俺一人のために、皆が助かる道を消すな」


 その言葉は正しい。


 正しいからこそ、痛い。


 だが、それもまた、運命式が望む答えではないか。


 兄を見捨てて真実を守る。


 兄を救うために真実を沈める。


 二つの選択肢しかないように見せる。


 どちらを選んでも、誰か一人が孤立する。


 黒水の根が、フィルブランテの右腕へ深く食い込んだ。


 視界が青く染まる。


 周囲の声が遠のく。


 井戸の向こうに、一人の女性が見えた。


 淡い金髪。


 青紫の瞳。


 母、セラフィナの姿。


『フィル』


 十年前の記録と同じ声。


 けれど、これは記録ではない。


 黒水が、フィルブランテの記憶から形を作っている。


『お兄様を助けなさい』


 母の姿が微笑む。


『記録は、また集めればいいわ』


 その言葉に、フィルブランテの手が動きかけた。


 兄を助けるためなら、証拠を失っても。


 四十八家を救うための記録が消えても。


 母が命を懸けて残した真実が沈んでも。


 今ここにいるアマンテルスが生きるなら。


『あなたは、いい子でしょう?』


 完璧でなければ愛されない。


 誰かを助けられなければ、価値がない。


 フィルブランテの記憶の奥にあった痛みへ、黒水が触れる。


 兄を救えなかった弟になる。


 母の真実を沈めた娘になる。


 どちらかを選べと、黒水は囁く。


「違う」


 フィルブランテは、かすれた声で言った。


 母の姿が、首を傾げる。


『何が違うの?』


「母上は、そんなことを言わない」


 セラフィナは、記録を一人で抱えるなと言った。


 誰かへ渡し、一緒に考えろと言った。


 これは母の言葉ではない。


 フィルブランテが、愛されるために聞きたかった言葉を、罠が使っているだけだ。


「僕は、どちらも一人で決めない」


 黒水が揺れた。


 根が腕へ深く食い込む。


 だがフィルブランテは、声を絞り出す。


「聞いてくれ!」


 周囲の仲間は、すぐそこにいる。


 けれど黒水の結界が、言葉を飲み込んでいる。


 届かない。


 なら、別の形で渡す。


 フィルブランテは左手で、儀礼扇〈アルブム〉を開いた。


 残る力を、氷晶へ流す。


 文字を刻む。


 ――選択肢が二つしかないとき、第三の道を探せ。


 青い結晶の欠片が、黒水の外へ飛んだ。


 レオンハルトの足元へ落ちる。


 王太子が拾い、読んだ。


 顔が変わる。


「ノエル」


「分かった」


 天才魔術師は、井戸の術式図を見ていた。


 彼の結晶板には、二つの署名欄が浮かんでいる。


 闇の契約者。


 記録者。


 それだけだ。


 だが、その下に小さな空白がある。


 古代術式の消された一行。


「第三の欄がある」


 ノエルが言った。


「本来は、証人の署名欄だ」


「証人?」


 リゼットが問う。


「光と闇の契約が、どちらかの犠牲で結ばれないよう、互いの自由意思を確認する者。双月の契約には、記録者一人ではなく、複数の証人が必要だった」


「消されていたのか」


 レオンハルトの声が低くなる。


「運命式は、記録を一人へ集め、消すことで結果を固定する。なら逆に、全員が証人になれば、術式は一人の署名を奪えない」


「どうすればいい」


 カイラスが尋ねる。


「自分が見たものを、自分の言葉で記録する。誰かに決められた役ではなく、自分の名前で」


 旧文書庫で、六人が名前を呼んだ。


 七氏族会議で、七人が怒りを自分の名前で引き受けた。


 今度は、真実を全員で持つ。


「私から始める」


 レオンハルトが、黒水の前へ進んだ。


「レオンハルト・ヴァン・セレディア。私は、灰銀峡谷で起きた襲撃の証拠を見た。王国の矢は本物だが、三日前に放たれたものではなかった。私は、王家の名で偽りを戦争の理由にしない」


 彼の光が、井戸の水面へ届く。


 黒水は光を飲み込もうとする。


 しかし光は、井戸の外周に新しい文字を刻んだ。


 証人、レオンハルト。


「シリル・グランツ」


 騎士が続く。


「私は、共同監視団の一員としてここへ入った。アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルが、自ら怪物になることを望んでいないと見た。私は、命令ではなく、自分の意思で彼女の撤退を支える」


 風が、井戸の周囲に白い線を描く。


 証人、シリル。


「ナディア・スラ・フェルガ」


 獣魔族の副隊長が、包帯の巻かれた腕を胸へ置く。


「私は北側監視所で仲間を失った。悲しい。怒っている。それでも、アマンテルス様へ私の怒りを預けない。私は、自分の怒りを自分で引き受け、犯人を探す」


 彼女の影が、水面に触れる。


 証人、ナディア。


「アーデン・メルロス」


 人族の副隊長が続く。


「私は南側監視所の兵だ。峡谷の南で魔族の装備を見た。だが、見る前から魔族が敵だと決めた自分もいた。私は今、魔族の兵と同じ通路へ立っている。見たことだけを記録し、見ていないことを罪にしない」


 青い外套の影が、黒水の縁へ触れる。


 証人、アーデン。


「ガレウス・ドラク」


 石角族の将軍は、低い声で言った。


「私は、戦争で弟を失った。峡谷で部下を失った。だから人族を憎む理由を持つ。だが今、ここにいる人族が、私の兵を侮辱せず、死者の履歴を残そうとしているのも見た。私は、見た事実を捨ててまで、復讐を選ばない」


 将軍は石の短槍を床へ突き立てた。


 石から文字が走り、井戸の縁へ刻まれる。


 証人、ガレウス。


 黒水が大きく揺れる。


 七つ目の根が、アマンテルスの足元から外れた。


 しかし、フィルブランテの腕へ絡む根はまだ消えない。


 闇の契約者と記録者。


 二人だけが、選択を迫られている。


「リゼット・アーヴェイン」


 リゼットが、井戸の前へ立った。


 白い花弁が、彼女の周囲に浮かぶ。


「わたしは、アマンテルス様が呪いを抱えていることを見ました。フィルブランテ様が、記録を守ろうとしていることも見ました」


 声は震えていた。


「わたしは、どちらか一人を失うために、ここへ来たのではありません。わたしは、傷を治す力を持っています。でも、誰かを傷つけてまで治す力はいりません。二人とも、生きてください」


 白い花弁が、黒水へ落ちる。


 水面が、初めて白く光った。


 証人、リゼット。


「カイラス・ヴェイル・ノクサル」


 淡紫の雷が、井戸の縁を走る。


 カイラスは、アマンテルスを見た。


「私は、和平のためなら、身近な者を犠牲にしてもよいと考えていた。アマンテルスを監視し、危険になれば止めることが、責任だと思っていた」


 金色の瞳に、迷いはある。


 だが、もう目を逸らさない。


「けれど、彼女が何を選ぶかを聞かずに、処分を決めることは守ることではない。私は、アマンテルスを政治の道具としてではなく、一人の者として生かす。彼女が助けを求めるなら、必ず手を取る」


 雷が黒い根を焼く。


 アマンテルスの右腕の文字が、少しだけ薄くなった。


 証人、カイラス。


「ノエル・エルミナージュ」


 最後に、ノエルが言った。


 彼は杖を下ろし、結晶板を閉じる。


 記録するためではない。


 自分の言葉を言うために。


「僕は、真実を知りたい。未知の術式を解きたい。以前は、それができれば人がどう思うかは二番目でいいと思っていた」


 琥珀色の瞳が、黒水を見る。


「でも、記録は対象を閉じ込めるためのものではない。対象が自分で選んだことを残すためのものだ。フィルブランテとアマンテルスが、誰かに選ばされた犠牲になるなら、その記録に価値はない」


 無属性の光が、井戸の水面へ術式を描く。


 証人、ノエル。


 井戸の縁に、八つの署名が並んだ。


 黒水はまだ、二人を放さない。


 しかし、水面に浮かぶ選択肢が変わる。


 兄を救うために、真実を沈める。


 真実を守るために、兄を沈める。


 その下に、三つ目の文字が現れた。


 ――真実を分け、互いを支えよ。


 フィルブランテは、息を呑んだ。


 黒水が作った罠の内側で、母の偽物が崩れていく。


 淡い金髪の幻影は、黒い水へ溶けた。


 その代わり、十年前の記録で聞いた本物の母の声が、微かに響いた気がした。


 記録は、一人で抱えるためにあるのではない。


 フィルブランテは右腕へ絡む根を見る。


 この根は、記録を沈めれば兄を放す。


 だが今は、八人の証人がいる。


 自分の氷晶が消えても、皆の言葉と石と光と影が残る。


 完璧な一つの証拠ではない。


 けれど、誰かが消して終わる記録でもない。


「兄貴」


 フィルブランテは黒水の向こうへ呼びかける。


 アマンテルスの身体は、腰まで影に沈みかけていた。


「聞こえるか」


「聞こえてる」


「僕は、記録を沈めない」


 アマンテルスの目が、わずかに揺れる。


「でも、兄貴も沈めない」


 フィルブランテは扇を持ち直した。


「僕一人の記録ではなく、皆の証言として残す。兄貴一人の影ではなく、皆の力で結界を支える」


「できるのか」


「やる」


 理論上、できるかは分からない。


 ノエルも、まだ答えを出していない。


 それでも、二つしかない選択肢へ従うよりはましだ。


「皆さん」


 フィルブランテは叫ぶ。


「証人の記録を、今ここで接続してください。わたくしの氷晶だけへ集めず、それぞれの魔力と記録媒体に同じ履歴を残します」


「分散記録術」


 ノエルが瞬時に理解する。


「全員が一部ずつ持つ。結界の負荷も、証拠も一か所に集中させない」


「危険は」


 レオンハルトが尋ねる。


「全員に分かれる」


「それでいい」


 王太子は答えた。


「私たちが選んだ」


 誰も反対しなかった。


 ガレウスが石片を砕く。


 ナディアが自分の影を広げる。


 アーデンが南側監視所の記録札を取り出す。


 シリルが風の糸を、全員の手元へつなぐ。


 カイラスの雷が、分散した記録に順番を与える。


 レオンハルトの光が、力の流れを外へ漏らさない。


 リゼットの聖花が、呪いと生きた魔力を分ける。


 ノエルが無属性術で、八つの記録を一つの網へ組み替える。


 そしてフィルブランテが、青い氷晶を根へ触れさせた。


「記録せよ」


 扇〈アルブム〉が、淡い青に光る。


「誰も一人で、真実を抱えない」


 黒水が暴れた。


 根が一斉に、全員の足元へ伸びる。


 今度は、誰か一人だけを選べない。


 八つの証人。


 三人の契約者。


 七氏族と王国の意思。


 これまで一人へ押しつけられていた痛みと責任が、細い糸となって分かれていく。


 苦痛はある。


 フィルブランテの右腕は焼けるように痛い。


 アマンテルスの影には、まだ呪いが残る。


 リゼットの聖花紋から、花弁が何枚も落ちる。


 カイラスの雷は指先を焦がし、レオンハルトの光は腕を震わせ、シリルの風は息を奪う。


 それでも、誰か一人が壊れるほどの力は、一人へ集まらない。


「アマンテルス!」


 カイラスが叫ぶ。


「今、影を戻せ!」


「戻すと、黒水があふれる!」


「ナディアとアーデンが外へ流れを作っている!」


 獣魔族の副隊長と人族の副隊長が、峡谷の両側に向けて風と水路の印を展開している。


 魔族と人族の監視兵が、同じ通路で、同じ水の流れを変えている。


「兄貴!」


 フィルブランテが呼ぶ。


「影は一人で抱えるな。僕たちへ渡せ!」


 アマンテルスの顔が歪む。


 黒水は、自分の影へすべてを流そうとしている。


 それを拒めば、仲間へ負担が行く。


 傷つけたくない。


 守りたい。


 だから一人で抱える。


 いつもの癖。


「兄貴が全部抱えたら、僕たちがここにいる意味がない!」


 フィルブランテの声が、アマンテルスの耳へ届く。


 弟は、怒っている。


 怖がっている。


 それでも、手を伸ばしている。


「……分かった」


 アマンテルスは、初めて自分から影を開いた。


 黒水に沈んでいた闇を、細い糸に変える。


 カイラスの雷へ。


 リゼットの花弁へ。


 フィルブランテの氷晶へ。


 レオンハルトの光へ。


 シリルの風へ。


 ガレウスの石へ。


 ナディアとアーデンの監視札へ。


 ノエルの無属性の網へ。


 影は、全員の間を巡る。


 呪いを抱え込む影ではない。


 皆の力を守るための器へ変わる。


 黒水の井戸が、ひび割れた。


 水面に浮かんでいた二つの月が、初めて同じ高さへ並ぶ。


 白と藍の光が重なり、中央に青い結晶の花が咲いた。


 そして黒い水は、誰かを沈めるための穴ではなく、古代の航路図を映す鏡へ変わった。


 アマンテルスの身体を縛っていた影が消える。


 フィルブランテの右腕へ絡んでいた根が、静かに外れた。


 アマンテルスは黒水の縁へ倒れ込みそうになり、カイラスとシリルが左右から支えた。


 フィルブランテも膝をつく。


 リゼットが駆け寄り、二人へ手を伸ばした。


「触れてもいいですか」


 アマンテルスとフィルブランテは、ほとんど同時に頷いた。


 白い花弁が、二人の傷へ触れる。


 完全には治らない。


 黒い文字も、霜も残っている。


 だが、今すぐ命を奪う痛みではなくなった。


「終わったのか」


 アーデンが、荒い息のまま尋ねる。


 ノエルは結晶板を確認する。


「一時的に。結界の支点は安定した。だけど、黒水そのものは消えていない。黄昏島とつながる航路を映している」


 井戸の水面に、地図が浮かんでいた。


 灰銀峡谷。


 中立都市アウローラ。


 そして海の上に、星図にはなかった道が一本。


 白い月と藍の月が重なる夜だけ、現れる航路。


 その先に、小さな島影がある。


 黄昏島。


「島へ行く道だ」


 アマンテルスが呟く。


「出航地点は、アウローラ港」


 ノエルが地図を読む。


「出発可能な潮位は、双月の二日前。つまり、あと十四日」


「十九日から、五日減った」


 フィルブランテが言う。


「峡谷へ来るまでに、時間を使ったから」


「間に合うか」


 レオンハルトが問う。


「アウローラまで四日。船の準備に三日。余裕は七日」


「余裕ではない」


 ノエルが訂正する。


「七日は、敵が何もしない前提の余白」


「つまり、余裕じゃない」


 シリルが言った。


「そう」


 アマンテルスは、黒水の航路図を見る。


 まだ海へは出ていない。


 島が何を隠しているかも分からない。


 それでも、ようやく目的地が見えた。


 ただし、その前に解かなければならないことがある。


 黒水の井戸の底に、青い結晶が一つ沈んでいた。


 ほかの結晶と違う。


 イデルバルディ家の氷晶に似ている。


 フィルブランテが近づこうとすると、ノエルが止めた。


「待って。まだ残響がある」


「でも、あれは」


 フィルブランテは、結晶の中に文字を見た。


 自分の名前。


 フィルブランテではない。


 唐傘輝でもない。


 そのどちらにも見える、曖昧な線。


 母の記録でも、教団の文字でもない。


 結晶の中で、黒い水が一度だけ揺れた。


 そして、アマンテルスの声に似た囁きが響く。


 ――弟を救いたければ、次はお前が沈め。


 フィルブランテの背筋が冷える。


 アマンテルスは、すぐにフィルブランテの前へ立った。


「触るな」


「でも」


「今は触るな」


 兄の声は、命令ではない。


 怖がっている弟へ、手を伸ばす声だった。


 フィルブランテは、ゆっくり頷く。


 記録を沈めろという罠は、まだ終わっていない。


 次は、兄を救うためではない。


 兄を救うために、自分が沈むよう選ばせる。


 運命式は、形を変えて、二人の間へ入り込もうとしている。


 だが今、フィルブランテの周囲には一人ではない証人がいる。


 アマンテルスがいる。


 リゼットがいる。


 王国と魔侯領の者たちがいる。


 黒水の井戸を背に、共同監視団は地上への道を引き返し始めた。


 十四日後の双月へ向けて。


 そして、次に誰かが一人で沈められそうになったとき、それを止めるために。

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