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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第十一話 帳簿を渡す手

灰銀峡谷の地下から地上へ戻った翌朝、共同監視団は二つに分かれた。


 ガレウス将軍とナディア副隊長、アーデン副隊長は峡谷へ残る。


 北側と南側の監視所へ共同の見張りを置き、偽装襲撃の証拠を、それぞれの国へ持ち帰るためだ。


 レオンハルト、フィルブランテ、アマンテルス、リゼット、シリル、ノエル、カイラスは、黄昏島への航路を求めて中立都市アウローラへ向かう。


 峡谷からアウローラまでは、早馬と河川船を使って四日。


 出航可能な双月の潮位まで、残り十三日。


 急ぐ必要がある。


 だが、急ぐために誰かを置いていくことはしない。


「本当に、全員で移動するのですか」


 出発前、ノエルが地図を見ながら言った。


「私とカイラスで先行すれば、アウローラの星図と港湾図を先に集められる」


「だめ」


 アマンテルスとフィルブランテの声が重なった。


 ノエルが顔を上げる。


「理由」


「単独行動をしない約束」


 フィルブランテが答える。


「二人なら単独ではない」


「二人だけで、敵地の港を調べるのも同じです」


「アウローラは敵地ではない」


「中立都市は、全員の味方ではありません」


 アマンテルスが腕を組んだ。


「商人は金の味方だ。今は教団が金を出してるかもしれない」


「偏見では」


 ノエルが言う。


「経験則だ」


「それを偏見という場合もある」


「お前、最近言い返すな」


「記録したことを、正確に言っている」


 カイラスが、少し呆れたように会話へ入った。


「先行はやめよう。七氏族会議の結論を知らせる使者が、既にアウローラへ走っている。私たちが先に動けば、主戦派も王国の保守派も、余計な意味を読む」


「政治の話になると、急に兄貴より面倒です」


 フィルブランテが言う。


「比較対象が悪い」


 カイラスはため息をついた。


「アマンテルスなら、昨日のうちに窓から出ている」


「出てない」


「出ようとしただろ」


「何で皆、俺をそういう扱いするんだ」


「実績です」


 リゼットが穏やかに言った。


 アマンテルスは反論しようとして、やめた。


 反論できるほど、身に覚えがなかった。


     ◇


 旅の三日目。


 街道は、王国と魔侯領の境界を離れ、細い川沿いの交易路へ入った。


 人族の荷馬車と、魔族の角馬が同じ道を進む。


 荷台には塩、布、薬草、魔力結晶。


 道端の小屋には、二つの言葉で書かれた看板が並ぶ。


 王国語。


 月影文字。


 最初にそれを読めたとき、リゼットは少し嬉しそうだった。


「『月灯亭』、でしょうか」


「半分正しい」


 カイラスが答える。


「月影文字の方は、『夜を分ける者に温かい寝床を』と書いてある」


「長いですね」


「魔族の宿は、客を分類するために文字を削らない」


「王国では、看板にそこまで書きません」


「王国の宿は、料金表だけが大きい」


「それは、悪口ですか」


「事実だ」


 アマンテルスが、馬車の窓から顔を出した。


「どっちも腹減ったら同じだろ」


「アマンテルス様、窓から身を乗り出さないでください」


 ルーシェが即座に、外套の裾を掴む。


「落ちない」


「前も同じことを仰いました」


「落ちたのか」


「落ちかけました」


「落ちてない」


「落ちかけた事実は、落ちない根拠になりません」


 アマンテルスは口を閉じた。


 フィルブランテは向かいの座席で、出航準備の一覧を手帳へまとめている。


 船の手配。


 食料と水。


 黄昏島の周辺を航行した記録を持つ水先案内人。


 王国と魔侯領、双方の許可状。


 そして、黄昏島で古代結界を調べるための記録媒体。


 必要なものは多い。


 時間は少ない。


 けれど、手帳の余白には、別の文字があった。


 **全員が、帰路の手段を持つこと。**


 必要物資の一覧に、なぜ帰路があるのか。


 以前のフィルブランテなら、そんな曖昧な項目は書かなかった。


 だが今は、それが一番大切な条件のように思える。


「フィルブランテ」


 隣の座席にいたレオンハルトが、手帳を覗き込んだ。


「補給船を二隻に分けるのか」


「一隻を失った場合のためです」


「予算は」


「公爵家の調査費から一部。残りは、王家と魔侯領で等分にする案を考えています」


「等分?」


「黄昏島はどちらか一方のための遺跡ではありません。費用だけを片方へ寄せれば、後で所有権まで寄せられます」


「なるほど」


 レオンハルトは、手帳を見たまま静かに頷いた。


「君は、いつも先の争いまで考える」


「争いにならないように考えております」


「それでも、疲れるだろう」


 フィルブランテの手が止まる。


「何がですか」


「皆が見落とすことを、君だけが先に見つけること」


 王太子の声は、責めるものではない。


 心配している声だった。


 フィルブランテは、すぐに答えられない。


 フィルブランテは、完璧であることを求められてきた。


 王太子妃教育。


 公爵令嬢としての責任。


 母が残した帳簿。


 兄の無茶を止める役目。


 見落とせば、誰かが傷つく。


 だから見続ける。


「疲れないわけではありません」


 ようやく、フィルブランテは言った。


「ですが、今は一人で見ているわけではありませんから」


 手帳の反対側へ、レオンハルトが指を置く。


「なら、私にも見せてくれ」


「もう見せています」


「一覧ではなく、君が不安に思っていることを」


 フィルブランテは、少しだけ驚いた。


 レオンハルトは目を逸らさない。


 以前なら、王太子として正しい答えを探しただろう。


 今は、フィルブランテの答えを待っている。


「……黄昏島で、何かを見つけた後です」


 フィルブランテは小さく言った。


「古代結界の真実を知れば、王国と魔侯領は、今までの協定を続けられないかもしれません。教会も、王家も、公爵家も。皆が何かを失うかもしれない」


「そのとき、君は何を失うと思う」


「分かりません」


 分からない。


 だから怖い。


 手帳に書けない不安を、言葉にしたのは初めてだった。


 レオンハルトは、しばらく黙っていた。


「私も、分からない」


 王太子は正直に言った。


「だが、分からないからといって、君だけに考えさせるべきではない。答えが出るまで、私も一緒に考える」


 大げさな誓いではない。


 ただ、当たり前のことのように言われた。


 それが、少しだけ胸に残った。


「ありがとうございます」


 フィルブランテは手帳を閉じる。


「では、補給船の費用をご確認ください」


「そこへ戻るのか」


「今は、そちらが先です」


 レオンハルトは笑った。


「分かった」


     ◇


 中立都市アウローラへ着いたのは、峡谷を出て四日目の昼だった。


 街は、川と海が交わる場所に築かれている。


 石造りの倉庫。


 水路の上に架かる細い橋。


 屋根の間を飛ぶ小型の使い魔。


 人族、魔族、獣人、翼を持つ者、角を持つ者が、同じ市場で値段を交渉していた。


 王国の青い旗も、魔侯領の黒い旗もない。


 代わりに、金色の天秤と二つの波を描いた、アウローラの旗が風に揺れている。


「賑やかですね」


 リゼットが、馬車の窓から言った。


「中立都市は、戦争より商売が好きです」


 外務官の一人が答えた。


「だからこそ、争う二国の品も、人も、情報も集まる」


「密輸も」


 ノエルが付け加える。


「言い方」


 シリルが止める。


「事実でしょう」


「事実でも、到着して最初に口にすることではない」


 アマンテルスは、街の上を見上げた。


 港の奥には、大小さまざまな船が並んでいる。


 王国式の帆船。


 魔侯領の黒い月帆船。


 水鱗族が扱う、水面すれすれを滑るように走る細長い船。


 黄昏島へ向かうには、この中から、星の空白を恐れない船を選ばなければならない。


 簡単ではない。


「まず、港湾組合へ行きます」


 フィルブランテが言った。


「水先案内人と、双月前の潮位を知る船主を探します。ノエルとカイラスは、アウローラの星図と魔族側の海図を。レオンハルト殿下と外務官の皆様は、出航許可と中立都市の協力を」


「アマンテルス様とわたしは?」


 リゼットが尋ねる。


「シリル様、ルーシェと共に、船へ載せる治療品と食料を確認していただきます」


「分かりました」


 アマンテルスは、すぐに頷いた。


「単独じゃない。ちゃんと四人だ」


「五人です」


 ルーシェが、使い魔の影梟を肩へ乗せながら言った。


「わたくしを数え忘れないでくださいませ」


「悪い」


「謝罪を受け入れます」


 フィルブランテは、組分けの手帳を示す。


 誰と誰が行動するか。


 帰還予定時刻。


 緊急時の集合場所。


 各組が使う連絡用の氷晶札。


 以前なら、兄が勝手に抜け出さないように作った一覧だった。


 今は、皆が自分から確認する。


「フィルブランテ様」


 港湾組合へ向かおうとしたとき、背後から少女の声がした。


 振り返ると、灰青色の髪を短く切った少女が、橋のたもとに立っている。


 年は、リゼットとそう変わらない。


 耳の後ろから、水鱗族特有の薄い鰭がのぞいていた。


 人族と水鱗族の混血なのだろう。


 粗末な灰色の外套をまとい、両手で革の帳面を抱えている。


「わたくしに、何か」


 フィルブランテは足を止めた。


 少女は、周囲を何度も見回してから近づく。


「ネレア・カリオスと申します。港湾組合の記録庫で、帳簿の写しを取っております」


「記録庫の書記見習い?」


 フィルブランテが聞くと、ネレアは驚いたように目を開く。


「はい。どうして」


「指に墨が残っています。紙の端で切った傷も。帳面を守る持ち方をしていますから」


 ネレアは、自分の手を見る。


 それから、少しだけ困ったように笑った。


「お父さんにも、同じことを言われます」


「ご用件は」


 フィルブランテは優しく促した。


 ネレアの表情が、すぐに硬くなる。


「二日前、港の古い帳簿を整理していて、おかしな積荷の記録を見つけました。救護院向けの薬草と書いてあるのに、荷札の重さも、出航先も合いません」


 彼女は抱えていた帳面を少し開く。


 そこには、細かい数字が並んでいた。


 荷主。


 船名。


 出港日時。


 中継地。


 王国西部の救護院。


 魔侯領北東部の薬草庫。


 そして、四十八家の名。


「この印を見てください」


 ネレアが指したのは、荷札の横に押された小さな円印だった。


 中心のない円。


 黒水の井戸で見た、虚無教団の印。


 フィルブランテの喉が、少し乾く。


「いつ、この帳簿を見つけたのですか」


「二日前です。最初は、上の人へ報告しようとしました。でも、記録庫の主任が、帳簿を置いて帰れと言いました」


「置いてきたのですか」


「いいえ」


 ネレアは首を振る。


「写しだけ作りました。原本は、主任に渡しました」


 賢い。


 証拠を一つにしない。


 分散記録術を知らなくても、彼女は同じことをしている。


「その後、誰かに見られましたか」


「分かりません。でも、昨夜、家の扉にこれが挟まっていました」


 ネレアが取り出したのは、濡れた白い花弁だった。


 魔族にとっては、死者への手向け。


 人族の港町で、水鱗族の少女へ渡すには、あまりにも分かりやすい脅しだ。


 リゼットの顔が曇る。


「一人で、来たのですか」


「父には言えません。父は港の荷役人で、組合に逆らったら仕事を失います」


「それでも、帳簿を持ってきた」


 フィルブランテが言う。


「なぜ、わたくしのところへ」


 ネレアは、迷ってから答えた。


「灰銀峡谷で、人族の令嬢が魔族の武器を調べて、都合のいいところだけ隠さずに記録したと聞きました」


 噂は、もう港まで届いている。


 王国と魔侯領の使節団が、峡谷で共同調査をしたこと。


 人族の公爵令嬢が、魔族の死者を侮辱せず、矢と槍の履歴を残したこと。


「わたしは、誰が悪いかを決めてほしいわけではありません」


 ネレアは帳面を強く抱いた。


「消される前に、見たことを残したいだけです」


 フィルブランテは、一度も迷わなかった。


「承知しました」


 帳面を受け取る前に、ネレアへ聞く。


「触れてもよろしいですか」


 少女は、目を瞬いた。


「はい」


 フィルブランテの指先が紙の端へ触れる。


 〈晶析眼〉が、港の帳簿に残る魔力の履歴を読み取った。


 記録庫。


 灯り。


 ネレアの指。


 主任の重い靴音。


 そして、その後。


 誰かが原本を開く。


 白い法衣。


 手袋をした指。


 中心のない円の印。


 帳簿の一部だけを切り取り、別の数字を継ぎ足す。


 さらに、ネレアの名が書かれた記録札を重ねる。


「これは」


 青い結晶が、帳簿の上に浮かぶ。


 そこには、ネレアが荷札を書き換えたように見える履歴があった。


 偽造だ。


 だが、巧妙だ。


 彼女が写しを作ったあと、教団側が原本へ偽の履歴を重ねている。


 明日になれば、記録庫の帳簿は「水鱗族の書記見習いが、救護院の荷を盗んだ」という形で公表されるだろう。


「ネレアさん」


 フィルブランテは、静かに言った。


「あなたは、すでに濡れ衣を着せられています」


 少女の顔から、血の気が引く。


「そんな。わたしは、何も」


「知っています」


 フィルブランテはすぐに続けた。


「だから、今からあなた一人で帳簿を抱えないでください」


 ネレアの目に、涙が溜まる。


「でも、父が」


「お父様にも、話しましょう」


「仕事を失います」


「仕事を失わせると脅して、あなたに罪を被せようとする者がいるなら、その脅しも記録に残します」


 いつの間にか、アマンテルスが近くまで来ていた。


 船の確認へ向かったはずの兄は、橋の反対側から黒い外套を揺らして歩いてくる。


 後ろにはリゼットとシリル、ルーシェ。


「兄貴、船の確認は」


「怪しい船が多すぎた。白い花を積んだ船もあった」


「それは普通の花屋かもしれないでしょう」


「港で白い花は、ちょっと怪しい」


「魔族基準を押しつけないでください」


 アマンテルスは肩をすくめた。


 だがネレアの顔を見ると、冗談をやめる。


「何があった」


「偽造帳簿です」


 フィルブランテは、青い氷晶を兄へ見せた。


 アマンテルスの顔が険しくなる。


「また、記録者を一人にする罠か」


「はい」


「じゃあ、今度は港の皆にも見せる」


「その前に、手順を決めます」


 フィルブランテは兄を見た。


「怒鳴り込む前に」


「まだ怒鳴ってない」


「怒鳴り込む顔です」


「フィルブランテ様」


 ネレアが、おそるおそる言った。


「この帳簿を、港湾組合へ持っていけば」


「持っていきます」


「でも、主任が先に原本を」


「原本が書き換えられていることも、記録します」


 フィルブランテは、帳面の写しを一度だけ閉じた。


「ただし、公の場へ出す前に、同じ写しを複数作りましょう。王国使節団、魔侯領使節、港湾組合の別の書記、そしてネレアさんとお父様。全員が同じものを持つ」


「僕も保管する」


 ノエルが、背後から言った。


 彼とカイラスも、星図の店から戻ってきたらしい。


「魔力履歴を複製して、紙では改ざんできない形式にする」


「私も、父へ連絡を取ります」


 レオンハルトが続ける。


「アウローラの港湾組合長は、王国と魔侯領のどちらにも属さない。しかし中立都市の規約では、公式の記録改ざんは重大な違反だ。王太子として圧力をかけるのではなく、共同使節団の証人として監査を求める」


「殿下」


 ネレアは、まるで初めて王太子の存在に気づいたように息を呑んだ。


 レオンハルトは、威圧しないよう少しだけ膝を折り、彼女と視線を合わせた。


「ネレア・カリオス。君の記録を、君から取り上げるためではなく、守るために預かりたい。よろしいか」


 ネレアは、すぐには答えなかった。


 大人たち。


 貴族。


 王太子。


 魔侯令嬢。


 自分よりはるかに力のある者たちへ、帳簿を渡してよいのか。


 怖くて当然だ。


「渡した後、わたしにも、写しをもらえますか」


 ネレアは、震える声で尋ねた。


「もちろんです」


 フィルブランテが答える。


「あなたが見つけた記録です。あなたにも、持つ権利があります」


 ネレアは、ゆっくり頷いた。


     ◇


 その日の夕方。


 アウローラ港湾組合の記録庫には、いつもより多くの人が集まっていた。


 港湾組合長。


 組合の監査官二名。


 人族と魔族の商人代表。


 王国と魔侯領の外務官。


 共同使節団。


 そして、ネレアと父のカリオス。


 カリオスは日焼けした大きな手を持つ、寡黙な水鱗族の男だった。


 娘から事情を聞いたとき、最初に言った言葉は「一人で行くな」だった。


 叱る声ではなかった。


 怖かった声だった。


「ごめんなさい、お父さん」


 ネレアが言うと、父は首を振る。


「謝るな。見つけたものを、見なかったことにしなかったんだろう」


「でも、仕事を」


「仕事はまた探す」


 カリオスは、娘の肩へ手を置いた。


「お前が一人で消えるより、ずっとましだ」


 その言葉に、ネレアは声を詰まらせた。


 フィルブランテも、少しだけ目を伏せる。


 父に仕事を失わせるかもしれない。


 家族を巻き込むかもしれない。


 だから言えない。


 ネレアの恐怖は、他人事ではない。


「始めましょう」


 港湾組合長が言った。


 人族の初老の女性で、深緑の服に金の天秤章をつけている。


「この都市では、積荷の記録は商人の財産であり、同時に航路を守る公共の証拠です。改ざんの疑いがあるなら、出自や身分を問わず確認します」


 記録庫の主任、ベロア・シェインが前へ出た。


 細身の男。


 指先には高価な指輪。


 ネレアの前では、穏やかな口調で帳簿を置いて帰れと言った人物だ。


「疑いとは心外ですな」


 主任は笑った。


「確かにこの見習いは、勝手に古い帳簿を持ち出しました。ですが、彼女が不正をしたと決めつける理由は」


「見習いを、彼女と呼ばないでください」


 フィルブランテが言った。


 主任の言葉が止まる。


「ネレア・カリオスです。記録を見つけ、写しを作った当事者には名前があります」


「もちろん、失礼を」


「失礼かどうかを決めるのは、わたくしではありません」


 フィルブランテは、ネレアを見る。


 少女は一瞬驚き、やがて小さく息を吸った。


「……名前で呼んでください」


「承知しました、ネレアさん」


 主任は笑みを崩さない。


 だが、その目だけが冷たくなった。


「では、原本を」


 組合長の指示で、主任は大きな帳簿を机へ置いた。


 荷札番号、出航日時、救護院向けの薬草。


 ネレアの写しと、表面上は同じだ。


 しかし写しにはなかった署名が、原本の末尾にある。


 ネレア・カリオス。


 積荷を別の船へ移した責任者として。


 その下には、足りない薬草の金額。


 救護院の患者が薬を受け取れなかったと書かれた記録。


 ネレアが盗んだ。


 そう見せるための帳簿。


 周囲から、低いざわめきが起きる。


「そんな」


 ネレアの顔が青くなる。


「わたし、書いていません」


「私は、君を責めてはいない」


 主任が、優しい声を作って言う。


「だが、帳簿には君の署名がある。未熟な見習いが、誰かに利用されたのかもしれない」


 言葉は穏やかだ。


 だからこそ、残酷だった。


 悪人だと断じない。


 ただ、弱い少女が間違ったのだと、皆が納得しやすい形を作る。


 運命式と同じだ。


 本人の不正ではなく、周囲がそうであってほしいと解釈する余地を利用する。


「こちらの氷晶をご覧ください」


 フィルブランテは、儀礼扇〈アルブム〉を開く。


 青い結晶が、帳簿の上に浮かんだ。


「ネレアさんが写しを取った後、この原本へ別の魔力履歴が重ねられています。彼女の署名に見せかけるための、水属性と影属性の複合術式です」


「魔力履歴など、貴族の令嬢なら好きに作れるでしょう」


 主任が言った。


 フィルブランテは、少しだけ目を細める。


 反論としては想定済みだった。


 だから、氷晶を一つだけ出したわけではない。


「そのため、わたくしだけの記録にはしておりません」


 机の周囲へ、複数の記録媒体が置かれる。


 ノエルの結晶板。


 カイラスの雷文石。


 ガレウスから預かった石角族の刻石。


 アーデンが峡谷で使っていた監視札。


 港湾組合の監査官が先ほど作成した、新しい封緘記録。


「王国、魔侯領、共同監視団、港湾組合。それぞれの形式で、同じ履歴を残しました」


 ノエルが、無属性術式で履歴を投影する。


 帳簿の紙が、三日前の夜を映し出した。


 ネレアが写しを作る。


 主任が彼女を帰す。


 その後、記録庫の窓が開く。


 白い法衣の人物が入る。


 顔は影で見えない。


 しかし、袖口には中心のない円の印。


 その人物が、原本のページを切り取り、ネレアの偽署名を継ぎ足す。


 最後に、主任が帳簿を受け取る。


 彼の手が、白い法衣の人物へ金貨の袋を渡した。


 記録庫が静まり返る。


「違う」


 ベロア主任の声が裏返る。


「そんなものは、偽造だ」


「では、あなた自身の記録で確かめましょうか」


 カイラスが言った。


 淡紫の雷が、主任の指輪へ近づく。


「触れてもよろしいですか」


 優しい声ではない。


 だが、許可を問う声だった。


 主任は後ずさる。


「何を」


「拒むなら、拒んでいい。だが、組合の規約に従い、指輪を封印し、監査の下で調べることになる」


 港湾組合長が続ける。


「この都市の記録を改ざんした疑いがある者は、出自を問わず監査を受ける。あなたが主任であっても例外ではありません」


 ベロアの顔から、笑みが消えた。


 彼は出口へ走った。


 だがシリルの風が、扉を閉じる。


 主任は別の窓へ向かう。


 アマンテルスの影が、床から伸び、足首だけを絡め取った。


「逃げるな」


 アマンテルスの声は低い。


「俺たちは、まだお前の話を聞いてない」


 主任は、影を振りほどこうとする。


 その瞬間、彼の指輪が黒く光った。


 中心のない円が、床に浮かぶ。


「伏せて!」


 ノエルが叫んだ。


 床から黒い根が噴き出す。


 狙いは、主任ではない。


 ネレア。


 根は少女の足元へ絡みつき、帳簿を抱えた腕を引いた。


「ネレアさん!」


 フィルブランテが駆ける。


 だが根は、少女を床の下へ沈めようとしている。


 記録庫の石床に、黒い水の入口が開く。


 灰銀峡谷の井戸と同じ。


 記録者を、一人で沈める穴。


「帳簿を捨てろ!」


 主任が叫んだ。


「その子が消えれば、誰が何を見たか分からなくなる!」


 ベロアの声には、恐怖が混じっている。


 教団の術式を使えば、自分まで消されると分かっているのだろう。


 ネレアは帳簿を離さない。


「駄目」


 少女の声が震える。


「これを捨てたら、また誰かが困る」


「ネレアさん、帳簿を渡してください!」


 フィルブランテが叫ぶ。


 少女が顔を上げる。


「でも」


「捨てるのではありません」


 フィルブランテは、扇を開いた。


「渡すのです」


 ネレアの周囲へ、青い氷晶を展開する。


 帳簿の写しを、一枚ずつ複製していく。


 リゼットの花弁が、根とネレアの身体を分ける。


 アマンテルスの影が、黒水の入口を包み、根が外へ伸びるのを止める。


 ノエルが、根の術式を分解する。


 カイラスの雷が、床の円を断つ。


 シリルの風が、複製した帳簿を各人の手元へ運ぶ。


 レオンハルトが、港湾組合長とカリオスの前へ光の壁を張る。


「お父さん!」


 ネレアが叫ぶ。


 カリオスは、娘のところへ飛び込もうとした。


 しかし根が彼まで狙う。


「止まってください!」


 リゼットが言う。


「今は、手を伸ばす場所を選んで!」


 カリオスは、苦しそうに足を止めた。


 代わりに、娘へ手を伸ばす。


「ネレア、帳簿を渡せ!」


「お父さん」


「一人で抱えるな!」


 父の声が、黒水の音を越える。


 ネレアの手から、帳簿が一冊、フィルブランテへ渡る。


 もう一冊が、組合長へ。


 もう一枚の写しが、カイラスの雷文石へ。


 帳簿は、捨てられない。


 だが、ネレア一人の腕からは離れていく。


 複製された記録が、部屋中に青く浮かぶ。


 黒い根が迷う。


 誰を沈めれば、記録が消えるのか。


 一人ではない。


 父も。


 組合長も。


 王国も。


 魔侯領も。


 見習いの少女が見つけた帳簿を、皆が持っている。


「今です!」


 ノエルが叫ぶ。


 アマンテルスが、黒水を影の器へ受け止める。


 だが一人で抱え込ませない。


 リゼットの花弁が、黒い根だけを抜き取る。


 フィルブランテの氷晶が、術式の履歴を固定する。


 〈黄昏晶花陣〉が、記録庫の床へ咲いた。


 白い花弁。


 黒い影。


 青い結晶。


 その中心で、ネレアの足を縛っていた根が、細い灰になって崩れた。


 少女の身体が傾く。


 フィルブランテとカリオスが、同時に手を伸ばした。


 ネレアは、父の腕の中へ落ちた。


「ごめんなさい」


 ネレアが泣きながら言う。


「帳簿を、一人で持って」


「よくやった」


 カリオスは、娘を強く抱きしめる。


「怖かっただろう」


「怖かった」


「それでも、見つけたことを言った」


「でも、皆を巻き込んだ」


「巻き込まれたんじゃない」


 父は言った。


「皆で、持ったんだ」


 その言葉に、フィルブランテは静かに息を吐く。


 帳簿を渡す。


 記録を渡す。


 責任を丸投げすることではない。


 誰かが一人で沈められないよう、皆で同じ重さを持つことだ。


     ◇


 ベロア・シェインは、港湾組合の監査房へ連行された。


 指輪に残っていた履歴から、彼が教団の密輸を三年にわたって手伝っていたことが判明した。


 救護院向けの薬草へ黒水の種を混ぜること。


 四十八家の支援物資を別の倉庫へ横流しすること。


 そして、港から黄昏島周辺へ向かう、表にない船の手配をすること。


 黒い根が消えた後、床には小さな金属札が残っていた。


 船名が刻まれている。


 **〈月影の羅針盤〉。**


 出航予定は、双月の二日前。


 つまり、彼らがアウローラから黄昏島へ向かうはずの日だ。


「同じ日に、教団の船も島へ向かう」


 ノエルが、金属札を観察しながら言った。


「しかも、この船は普通の海図では進めない。黒水の航路を知っている」


「先回りするつもりか」


 シリルが問う。


「あるいは、島で何かを起こすため」


 アマンテルスが答えた。


 港の向こうに、黒い船影が見える。


 昼間の海にありながら、帆の色だけが夜のようだ。


「出航まで、あと九日」


 フィルブランテは手帳を確認した。


 峡谷の黒水で航路を知り、移動で四日を使った。


 港で船を整える必要がある。


 残りは九日。


「敵の船を止めますか」


 カイラスが問う。


「中立都市の港で、確実な証拠なく船を止めれば、教団は被害者の顔をする」


 レオンハルトが言った。


「なら、出航させて追う?」


 アマンテルスの目が、少し危ない光を帯びる。


「兄貴」


「分かってる。単独では行かない」


「そこではありません。敵の船へ先に乗り込む作戦は、却下です」


「まだ言ってない」


「言おうとしました」


「今は顔で犯罪を決めるな」


 ノエルが、結晶板を見ながら言った。


「でも、潜入の成功率は」


「ノエル様まで」


 フィルブランテは頭を抱えたくなる。


 リゼットが、ネレアのそばへ座った。


 少女はまだ青い顔をしているが、父の手を離していない。


「ネレアさん。帳簿の中に、水先案内人の名前はありますか」


 ネレアは、組合長が持つ写しを見た。


 少し考え、紙の端を指した。


「ここです。『月を読める者』とだけ書かれています。名前ではなく、港の呼び名です」


「誰のことか、分かる?」


「たぶん、海の魔女と呼ばれている船長です」


 ネレアは、少し躊躇してから続ける。


「でも、その人は、教団の船へ乗るはずがありません。昔、両親を戦争で失って、二つの国のどちらにも船を貸さない人だと聞きました」


「なら、教団は脅しているか、別の理由で協力させている」


 カイラスが言う。


「会いに行く価値はある」


「どこにいるのですか」


 レオンハルトが尋ねた。


 ネレアは、港の最も奥を指した。


 古い灯台。


 波を受けて黒くなった石塔の上には、昼でも青い火が灯っている。


「夜にならないと、会えません」


 ネレアは言った。


「月を読む人は、昼には海図を開かないから」


 アマンテルスは灯台を見上げる。


 黄昏島へ向かう手掛かり。


 教団の船。


 そして、戦争によって家族を失ったという水先案内人。


 運命式が次に誰を利用するつもりなのか、まだ分からない。


 ただ、黒い船影は港にいる。


 九日後には、同じ海へ出る。


 フィルブランテは、ネレアへ一枚の氷晶札を渡した。


「これを持っていてください。何かあれば、すぐに連絡できます」


「わたしが持っていていいんですか」


「はい。今日の帳簿の写しも、あなたの分を残します」


 ネレアは、青い札を両手で受け取った。


「また、誰かに消されそうになったら」


 少女は、言葉を探す。


「一人で持たない」


 フィルブランテが答える。


「そして、誰かへ渡してください」


 ネレアは、今度ははっきり頷いた。


 夕方の港を、二つの月がまだ見えない空が覆っていく。


 灯台の青い火だけが、先に夜を待っていた。

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