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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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12/45

第十二話 月を読む船長は、旗を持たない

夜のアウローラ港は、昼よりも多くの旗を隠していた。


 王国の商船は、日が落ちると青い旗を畳む。


 魔侯領の月帆船も、黒い旗を下ろす。


 港の酒場には、人族と魔族が同じ卓を囲む者もいれば、同じ店に入りながら、決して隣へ座らない者もいる。


 昼には商売のために笑っていた人々が、夜には自分の国の言葉で、灰銀峡谷の噂を話す。


 魔族が先に襲った。


 王国が休戦を破る準備をしている。


 共同監視団など、貴族の芝居だ。


 逆に、戦争を始めたい者が嘘を流しているだけだ。


 どの言葉にも、少しだけ恐怖が混じっている。


 だから、噂はよく燃える。


「夜の港は、嫌いではない」


 アマンテルスが、石畳を歩きながら言った。


 黒い外套の裾が、潮風に揺れる。


「昼より、皆が静かだから?」


 リゼットが尋ねる。


「昼より、顔を隠せるから」


「それは、好きな理由としてどうなのでしょう」


 フィルブランテが言う。


「夜の方が、影が使いやすい」


「そちらなら、少し理解できます」


「理解するな」


 アマンテルスが即座に突っ込む。


 フィルブランテは、灯台へ続く坂道を見上げた。


 港の最も奥。


 波を受けて黒くなった古い石塔。


 塔の頂には、昼からずっと青い火が灯っていた。


 青い火は、波に揺られない。


 風にも消えない。


 海図のない場所を進む船だけが目印にする、月読灯だとネレアは言っていた。


「海の魔女は、夜にならなければ会わない」


 ネレアの言葉を、レオンハルトが繰り返す。


「それなら、もう会えるはずだ」


「会ってくださるとは限りません」


 フィルブランテは、手帳を確認した。


 出航まで九日。


 黄昏島へ到達するための航路は、黒水の井戸が一度だけ示した。


 あの航路を、実際の海で読める者が必要だ。


 港湾組合の帳簿には、教団の船〈月影の羅針盤〉と同じ欄へ、こう記されていた。


 月を読める者。


 名前ではない。


 港の者が、半ば畏れ、半ば敬意を込めて呼ぶ名。


 海の魔女。


「お嬢さんたち」


 灯台の入口へ近づいたとき、上から声が落ちてきた。


 低く、少しかすれた女性の声。


「入るなら、靴の泥を落としてからにしな」


 全員が見上げる。


 灯台の二階、窓枠に一人の女性が腰をかけていた。


 濃紺の髪を長く編み、片方の瞳は琥珀色、もう片方は曇った海硝子のような薄灰色をしている。


 年は三十を過ぎているだろう。


 黒い船長外套の上から、古い羅針盤を首に下げていた。


 彼女の足元には、細い水の帯が浮かび、空中で月の形を作っている。


「マレア・ヴェール船長ですか」


 レオンハルトが問いかけた。


「そう呼ばれる日もある」


 女は答えた。


「今日は、灯台守だ」


「わたしたちは」


「王国の王太子。イデルバルディ公爵令嬢。魔侯家の令嬢。聖花紋の娘。騎士。魔術師。魔侯領の外交官」


 マレアは、一人ずつ指を差した。


「そして、やたら目立つ護衛と侍女。合ってるかい」


 アマンテルスが、少し目を細める。


「知ってたのか」


「港に貴族の一団が入れば、三刻で全員が知る。あんたたちが、港湾組合の記録庫をひっくり返したこともね」


「ひっくり返してはいません」


 フィルブランテが言う。


「監査を求めただけです」


「監査の結果、主任が連行された」


「違法な記録改ざんがあったからです」


「私には、どっちでもいい」


 マレアは窓から身を引いた。


 扉の錠が、ひとりでに外れる。


「中へ入りな。泥は落とせ。灯台は、海より古い記録を守ってる」


     ◇


 灯台の中は、外から見えるより広かった。


 螺旋階段を囲む壁には、海図が何層にも貼られている。


 王国の海図。


 魔侯領の海図。


 中立都市の航路図。


 漁師が炭で描いた小さな島影。


 子どもの落書きのような、月と魚の絵。


 そして、どの海図にも載っていない空白。


 西の海の一点だけが、紙の種類も、国も、年代も関係なく、曖昧に塗りつぶされていた。


 黄昏島のある場所。


「上へ来な」


 マレアは階段を先に上がる。


 誰も彼女の足音を聞かなかった。


 代わりに、潮が満ちるような小さな水音だけがする。


 最上階の部屋には、丸い机があった。


 机の上には、銀の水盤。


 水面には、夜空と二つの月が映っている。


 けれど水盤の中の月は、現実の空より少し早く動いていた。


「月読盤」


 ノエルが、目を輝かせて言った。


「本物を持っていたのか」


「触るな」


 マレアの声が飛ぶ。


 ノエルの手が、紙一枚分の距離で止まった。


「許可を取れ」


「失礼。触れてもいいですか」


「だめだ」


「了解」


 ノエルは、一切不満そうな顔をせず手を引いた。


 マレアが、一度だけ彼を見た。


 意外だったのかもしれない。


「月読盤は、海の流れと空の月を重ねて、存在を隠した航路を読む」


 船長は水盤へ指先を浸す。


 水面に、アウローラ港から西へ伸びる細い銀線が現れた。


 途中で、線は何度も消える。


 しかし二つの月が特定の角度で重なるときだけ、また現れる。


「黄昏島への道だ」


 アマンテルスが言った。


「そう呼ばれる場所への道だよ」


 マレアは訂正する。


「島の名は、行った者にしか決められない。海図に書かれた名前は、帰った者が持ち帰った嘘と本当の混ざり物だからね」


「行ったことがあるのですか」


 リゼットが尋ねる。


 船長は、水盤を見たまま答えなかった。


 代わりに、壁の一枚の海図を指した。


 古い羊皮紙。


 海図の端には、三人の名が書かれている。


 マレア・ヴェール。


 ユリウス・ヴェール。


 サディア・ヴェール。


 そのうち、二つの名には黒い線が引かれていた。


「十八年前、私と弟と、両親で、あの海域を目指した」


 マレアの曇った瞳が、わずかに揺れる。


「父は王国の船乗りだった。母は水鱗族の潮術師。アウローラで船を持ち、どちらの国の荷も運んだ」


 中立都市では珍しくない組み合わせだ。


 それでも戦争が始まれば、混じり合った家族ほど、両側から疑われる。


「私たちは、戦争が始まる前に、島へ逃げるつもりだった。どちらの旗も届かない場所へ」


 水盤の銀線が、途中で黒く染まる。


「峡谷近くで、王国の軍船に止められた。魔侯領の間者だと言われた。説明している間に、魔侯領の哨戒船が来た。王国へ情報を流している裏切り者だと言われた」


 アマンテルスが、無意識に拳を握る。


「どっちも、撃ったのか」


「どっちも撃った」


 マレアは淡々と言った。


「父は王国の矢で死んだ。母は魔族の火で死んだ。弟は、船が沈む前に海へ落ちた」


 その言葉だけで、部屋の温度が下がった気がした。


「私は、月読盤の水へ潜った。気づけば、アウローラの浜に流れ着いていた。島には着かなかった」


 船長は、首の羅針盤を握る。


「それから私は、国の旗を掲げる船へは乗せない。王国の兵も、魔侯領の兵も。王族も、魔侯家も」


「では、わたしたちを乗せるつもりはないのですね」


 フィルブランテが言った。


 マレアは、初めてフィルブランテを正面から見た。


「その通りだ。あんたたちは、戦争を始める側の家にいる」


「わたくしは、戦争を始めるために来たのではありません」


「皆そう言う」


 船長の声には、怒りより疲れがある。


「父もそう言った。母もそう言った。海に沈む瞬間まで、誰も戦争を始めるつもりではなかった。ただ、相手が先に始めると思っただけだ」


 返せる言葉がない。


 灰銀峡谷で死んだ兵たちも、同じだった。


 自分の国を守るつもりで、先に剣を持とうとした。


 その剣が次の国の恐怖を育てることを、分かっていても。


「それでも、話を聞いてくださった」


 リゼットが言った。


 マレアは、少し眉を寄せる。


「何」


「灯台へ入れて、月読盤を見せてくださいました。乗せないと決めているなら、会う必要もなかったのではないですか」


「礼儀だ」


「礼儀だけで、過去のことまで話しますか」


 リゼットは、まっすぐ問いかけた。


 船長の曇った瞳が、一瞬、鋭くなる。


 だがリゼットは、目を逸らさなかった。


「わたしは、マレアさんのご家族を救えません。今から戦争をなかったことにもできません。でも、今から黄昏島へ向かう人が、誰かを犠牲にするために船へ乗るなら、それを止めたいと思っています」


「聖女候補らしいことを言う」


「聖女ではありません」


「では何だ」


 リゼットは少し考えた。


「……仲間です」


 アマンテルスが、少し笑う。


 ノエルが、結晶板へ何かを書きかけて、やめた。


 マレアは、長く息を吐く。


「仲間ね」


 水盤の月が、ゆっくり揺れる。


「なら聞こう。あんたたちは、黄昏島で何をする」


「古代結界の真実を調べます」


 ノエルが答える。


「教団が結界を壊し、戦争と呪いを起こそうとしている。その止め方を知りたい」


「知った後、どうする」


「記録する」


 フィルブランテが言った。


「王国だけ、魔侯領だけ、教会だけが持つのではなく、複数の場所に残す」


「真実を出せば、今の協定が崩れるかもしれない」


「崩れる可能性はあります」


「そのとき、あんたの家は」


「何かを失うでしょう」


 フィルブランテは、素直に答えた。


 王家と公爵家の権力均衡。


 婚約。


 財務卿の地位。


 母の死の理由。


 知りたくない真実も、きっとある。


「それでも、知らないまま誰かを犠牲にするよりは、ましです」


 マレアは、フィルブランテを見つめた。


 信じてはいない。


 けれど、嘘だと決めつけてもいない。


「私は、あんたたちへ船を貸さない」


 船長は言った。


 アマンテルスが、少し眉を寄せる。


「だが」


 マレアは続けた。


「一つだけ、契約を結ぶことはできる」


 机の引き出しから、黒い木箱を出す。


 中には、銀の針が七本と、空白の羊皮紙が一枚入っていた。


「私の船〈暁なき潮騒〉は、旗を持たない。あんたたちの国の船ではなく、アウローラの救難船として黄昏島へ行く」


「救難船?」


 レオンハルトが聞く。


「島へ向かう教団の船〈月影の羅針盤〉には、航路を知る者が乗せられている。自分の意思で乗るとは、私は思わない」


 マレアは、金属札を指で弾く。


「この船が港を出れば、必ず何かが沈む。教団は、航路だけでなく、誰かを海へ沈めるために動いている」


 黒水の井戸。


 記録者を沈める術式。


 真実を沈めるための罠。


 海の上でも、同じことをするつもりなのか。


「救難船として行くなら、条件がある」


 マレアは、一本目の銀針を机へ置いた。


「第一。船上で、王国と魔侯領の旗を掲げない。あんたたちは、国の代表ではなく、救難要請に応じた乗員として乗る」


 レオンハルトとカイラスが、互いを見る。


 外交上、簡単な条件ではない。


 だがレオンハルトは、先に頷いた。


「受け入れる」


「私も」


 カイラスが続ける。


「七氏族会議の共同監視団としてなら、魔侯領も承認できる」


「第二。船上で、誰かを救うために別の誰かを切り捨てる決定を、一人で下さない」


 アマンテルスとフィルブランテが、同時に目を逸らす。


 マレアは見逃さなかった。


「心当たりがあるようだね」


「ない」


 二人の声が重なる。


「ある」


 リゼット、ノエル、シリル、レオンハルト、カイラス、ルーシェの声が重なった。


 アマンテルスは、裏切り者を見るような目で仲間たちを見た。


「第三」


 マレアは、最後の銀針を置く。


「島で見つけた真実を、海へ捨てない。都合が悪くても、怖くても。あんたたちが持ち帰ると、ここにいる全員へ約束すること」


 静かな条件だった。


 けれど、一番難しい条件だ。


 真実は、誰かを傷つけるかもしれない。


 王国の正統性を揺らすかもしれない。


 魔侯領の和平派を危険にさらすかもしれない。


 フィルブランテの母が、守ろうとしたものを壊すかもしれない。


 それでも、沈めない。


「契約します」


 フィルブランテが言った。


 自分の声が、少し震えているのが分かる。


 黒水の井戸で、真実を沈めろと言われた。


 あのときは、仲間が第三の道を見つけた。


 今度は、自分が約束する番だ。


「わたくしは、フィルブランテ・アソート・イデルバルディとして。都合の悪い真実も、誰か一人の判断で沈めないと誓います」


 フィルブランテは一本の銀針を取り、羊皮紙へ青い結晶の印を刻んだ。


 続いて、アマンテルスが黒い影の印を。


 リゼットが白い花弁を。


 レオンハルトが光の紋章を。


 シリルが風の線を。


 ノエルが無属性の式を。


 カイラスが淡紫の雷文を。


 ルーシェが夢魔族の小さな翼の印を。


 全員が、自分の名前で署名した。


 最後にマレアが、銀針で自分の指先を浅く傷つける。


 赤い血が一滴、水盤へ落ちた。


 水面に映っていた二つの月が、大きく揺れる。


 羊皮紙の上に、青い文字が浮かんだ。


 **旗なき救難航海契約。**


 その瞬間、灯台全体が小さく震えた。


 水盤の銀線が、激しく乱れる。


「何だ」


 アマンテルスが、黒い日傘へ手を伸ばす。


 マレアの表情が変わった。


「月読盤が、港の火を読んでいる」


 水盤の中で、アウローラ港の一角が赤く染まる。


 黒い船影。


 〈月影の羅針盤〉が停泊する第三埠頭。


「火事?」


 リゼットが息を呑む。


「ただの火事じゃない」


 マレアは窓へ駆け寄る。


 港の方角に、赤い炎が上がっている。


 そして、風に乗って鐘の音が聞こえた。


「第三埠頭には、王国商人の倉庫と、魔侯領の薬草荷が並んでいる」


 カイラスの声が低くなる。


「片方が火をつけたと見せれば」


「港で暴動が起きる」


 レオンハルトが言った。


 教団は、また同じ手を使う。


 証拠をねじ曲げ、恐怖を燃やし、誰かが先に剣を持つよう仕向ける。


「契約の最初の仕事だ」


 マレアは外套を翻した。


「救難船の乗員なら、火の中にいる者を助ける。旗が何色かは問わない」


「行きます」


 フィルブランテは言った。


「今度は、全員で」


     ◇


 第三埠頭は、既に混乱していた。


 倉庫の一つから炎が噴き出し、火の粉が隣の船へ飛んでいる。


 燃えているのは、王国の商人組合が借りた薬草倉庫。


 だが倉庫の前には、魔侯領の月帆船から運び出された黒い箱が散らばっていた。


「魔族が火をつけた!」


「王国の商人が、魔侯領の荷を燃やした!」


 両方の怒鳴り声が飛ぶ。


 人々は、燃えている倉庫より先に、誰が火をつけたかを決めようとしていた。


 その中で、小さな子どもの泣き声がする。


「中に、子どもがいます!」


 ネレアの声だった。


 書記見習いの少女は、父カリオスとともに埠頭へ来ていたらしい。


「薬草を運んでいた子たちが、まだ出ていないんです!」


「何人」


 シリルが尋ねる。


「四人。人族の子が二人、水鱗族の子が一人、獣魔族の子が一人」


 アマンテルスの影が、即座に倉庫の中へ伸びる。


「二階に三人、一階の奥に一人。倒れた棚の下敷きだ」


「正面は炎が強すぎます」


 リゼットが言う。


「裏口から回れば」


「シリル、俺と中へ入る」


「待ってください」


 フィルブランテが言う。


「影で中を見たなら、構造を共有します。無計画に入れば、救助者まで」


「時間がない」


「だから、三十秒だけください」


 アマンテルスが、焦れたように息を吐く。


 けれど、立ち止まった。


 フィルブランテはすぐに氷晶を地面へ広げる。


 アマンテルスの影が見た倉庫の構造を、青い結晶へ写す。


 二階の子どもたち。


 倒れた棚。


 火の広がり。


 黒い箱の位置。


 ノエルが一目で術式を組み立てた。


「火元は普通の油ではない。黒水の種を混ぜた薬草油。水をかけると、根が広がる」


「海水は使えないね」


 マレアが言う。


「なら、火を消すのではなく、燃料を分ける」


「わたしが、子どもたちと火の根を分けます」


 リゼットが言う。


「アマンテルス様が、黒水の根を器に入れて。フィルブランテ様が、火元の術式を記録して」


「シリルと僕が子どもを運ぶ」


 カイラスが続ける。


「僕は二階へ跳ぶ。シリルは一階から」


「レオンハルト殿下とカリオスさんは、避難路を」


 フィルブランテが言った。


「ネレアさんは、港の人へ場所を知らせてください。あなたの声を聞く人がいます」


「わたしが?」


「はい。今、ここで見たことを伝えられるのは、あなたです」


 ネレアは、震える手で氷晶札を握った。


 怖いだろう。


 でも、彼女は頷く。


「分かりました」


「行くぞ」


 アマンテルスが言う。


 今度は、誰も一人で走らない。


 マレアが両手を広げる。


 港の海水が、細い帯となって宙へ上がる。


 炎に触れない。


 燃えていない壁と床を、青い水の膜で包む。


 火を消すのではなく、火が次へ移る道を断つ。


「海は、何でも飲み込むためにあるんじゃない」


 船長の声が響く。


「生きて帰る道を残すためにある」


 シリルが、風で煙を押し上げる。


 カイラスの雷が、二階の窓枠を切り落とす。


 アマンテルスの影が棚を支え、子どもたちへ伸びる黒水の根を絡め取る。


 リゼットの白い花弁が、泣く子どもと黒い根の間へ咲く。


「怖かったね」


 彼女の声が、炎の中でも届く。


「もうすぐ外へ出られるよ」


 フィルブランテは、火元の黒い箱へ扇を向けた。


 青い氷晶が、燃えながら動く術式を固定する。


 黒水の種。


 港湾組合の偽造印。


 そして、箱の内側に刻まれた中心のない円。


 教団の証拠だ。


 だが火は、証拠を先に焼こうとしている。


「フィル!」


 アマンテルスの声がした。


 倉庫の梁が、こちらへ落ちる。


 フィルブランテは動けない。


 氷晶を離せば、術式の履歴が消える。


 けれど、残れば梁の下敷きになる。


 目の前に、いつもの二択が現れる。


 証拠を守るか。


 自分を守るか。


 ――記録者よ、沈め。


 黒水の声が、耳の奥で囁く。


 そのとき、腕を引かれた。


 レオンハルトだった。


「離れろ!」


 王太子の光が、フィルブランテを包む。


 同時に、ノエルの無属性術が氷晶の履歴を別の結晶板へ写し取る。


 梁が落ちる。


 シリルの風が軌道を逸らし、アマンテルスの影が受け止め、カイラスの雷が砕く。


 フィルブランテは、レオンハルトに引かれたまま、一歩後ろへ下がった。


 燃えた木片が、足元へ散る。


「大丈夫か」


「証拠が」


「ノエルが取った」


 レオンハルトは、まだフィルブランテの腕を離していない。


「君まで失う必要はない」


 フィルブランテの胸が、一瞬だけ詰まる。


 兄を救うために、自分が沈められる。


 その脅迫を思い出す。


 けれど今、誰かが先に自分を引いた。


 記録も残っている。


 自分も残っている。


 第三の道は、いつも一人では見つけられない。


「ありがとうございます」


 フィルブランテは、ようやく言った。


 倉庫の中から、子どもたちが次々に運び出される。


 最初に、水鱗族の子がカリオスの腕へ。


 次に、人族の子ども二人がシリルとカイラスの手で。


 最後に、獣魔族の小さな男の子が、アマンテルスの影に包まれて外へ出た。


 全員が助かった。


 リゼットの花弁が、軽い火傷を治していく。


 マレアの水の膜が、最後の火の粉を包み、海へ戻した。


 第三埠頭に残ったのは、焦げた倉庫と、青い結晶に保存された証拠だけだった。


「見てください!」


 ネレアが、港の人々へ氷晶札を掲げた。


 彼女の声は、最初は震えていた。


 それでも、はっきり響く。


「火をつけたのは、王国の商人でも、魔侯領の船員でもありません。箱の中に、黒水の種と偽造印がありました。人族の子も、魔族の子も、皆さんが助けました」


 港の人々が、青い結晶を見る。


 人族の騎士が、魔族の子を抱えている。


 魔侯令嬢の影が、倒れた棚を支えている。


 聖花紋の少女が、誰の火傷かを問わず治療している。


 港の水使いが、旗を問わず避難路を作っている。


 今、ここで起きたことは、一人の言葉ではない。


 複数の目と、複数の記録が残している。


 誰かが、先に決めた物語へ塗り替える前に。


「教団だ」


 港の商人の一人が呟く。


「また、あいつらが」


「まだ決めつけるな」


 マレアが言った。


 港の喧騒が、少し止まる。


「教団の印がある。偽造術式がある。だが、実行者が誰かは、これから確かめる。怒るのはいい。だが、次に隣の船を燃やす前に、記録を見な」


 海の魔女の声は、港の潮騒より低く、強かった。


 誰も、すぐには反論しなかった。


 炎は消えた。


 怒りまで消えたわけではない。


 けれど、その怒りがどこへ向かうかを、一度考える時間は生まれた。


     ◇


 深夜。


 火事の監査を港湾組合へ引き渡した後、マレアは灯台の最上階で、もう一度月読盤を開いた。


 水盤の中には、先ほどより鮮明な航路がある。


 アウローラ。


 黒い船。


 黄昏島。


 そして、もう一つの細い線。


 第三埠頭の倉庫から、灯台の地下へ続いている。


「教団は、灯台も狙っていた」


 ノエルが言う。


「火事は、港を混乱させるだけでなく、私を灯台から引き離すためだったのかもしれない」


 マレアは答える。


「月読盤を壊すか、航路を盗むために」


「では、ここに残るべきでは」


 リゼットが言う。


「いいえ」


 船長は、月読盤から視線を上げた。


「私は、今まで灯台に残ることで、誰も同じ海へ出さないようにしてきた。旗を持つ船に航路を渡さなければ、戦争は島へ行かないと思っていた」


 彼女は、古い海図に書かれた父母と弟の名を見る。


「でも、教団は私が渡さなくても、誰かを脅して航路を手に入れる。私が岸に残っていても、船は沈む」


 マレアは、黒い外套の留め具を外した。


 中には、旗ではない印が縫い付けられている。


 二つの月の間に、波が一本。


「〈暁なき潮騒〉を出す。救難船として」


「契約は、成立ですね」


 フィルブランテが言う。


「一つ追加条件がある」


 マレアは、フィルブランテを見た。


「海では、帳簿も氷晶も、波一つで失う。記録者がすべてを抱えれば、真実も人も沈む」


「分かっています」


「分かっていても、一人で抱えそうな顔をしている」


 フィルブランテは、返事に詰まった。


 マレアは、机の上に七つの小さな貝殻を置く。


 銀色の螺旋が入った、同じ形の貝殻。


「潮記の貝。一人一つ持ちな。見たこと、聞いたこと、迷ったことを、海の記録として残せる。海へ落としても、持ち主の声を水盤へ返す」


「全員分ですか」


 リゼットが尋ねる。


「全員分だ。船に乗るなら、誰か一人だけが記録者ではない」


 アマンテルスは貝殻を一つ取り、耳元へ近づけた。


「海の音がする」


「当たり前だ。貝だから」


「でも、ちょっといいな」


 マレアは、少しだけ笑った。


 それは、今日初めての笑顔だった。


「出航は、双月の二日前の夜明け」


 船長は言う。


「あと八日。船の修繕、食料、治療薬、帰還用の水晶。それから、教団の船を追うための観測役がいる」


「僕がやる」


 ノエルが即答する。


「海の上では、勝手に魔道具を爆発させないでください」


 フィルブランテが言った。


「まだ何も言っていない」


「顔に書いてあります」


「また顔で犯罪を」


「今度は事故防止です」


 アマンテルスが笑う。


 ルーシェが、灯台の窓から港を見下ろした。


「アマンテルス様。あちらをご覧ください」


 黒い船〈月影の羅針盤〉が、第三埠頭の先で静かに揺れている。


 火事の混乱の間に、帆を半分上げていた。


 港を出る準備をしている。


「出航予定は九日後のはずです」


 フィルブランテが言う。


「予定を早めるかもしれない」


 カイラスの声が低くなる。


 月読盤の水面で、黒い船影が西へ少しだけ動く。


 まだ港を出てはいない。


 だが、敵も待ってはいない。


「八日」


 アマンテルスが言う。


「船を出すまでに、八日」


「正確には、七日と半分です」


 フィルブランテは手帳を開く。


「潮位は夜明け前に変わります」


「相変わらず、細かいな」


「兄貴が細かくないからです」


「でも、その細かさがあるなら、海でも迷わないだろ」


 アマンテルスの言葉に、フィルブランテは少しだけ顔を上げた。


 記録者を沈める罠。


 真実を守るために兄を沈める罠。


 次は自分が沈められるという囁き。


 怖さは消えていない。


 けれど、兄は隣にいる。


 仲間がいる。


 旗を持たない船長がいる。


 そして今度は、全員が記録者になれる。


「迷いません」


 フィルブランテは言った。


「皆で海図を持つなら」


 灯台の青い火が、夜の海を照らす。


 その先で、二つの月はまだ遠い。


 しかし、黄昏島への航路は、確かに水盤の上に現れていた。

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