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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第十三話 助けを呼ぶ声は、偽物でも

旗なき救難船〈暁なき潮騒〉は、アウローラ港の最も古い船渠に停泊していた。


 白でもない。


 黒でもない。


 船体は夜明け前の海のような、深い青灰色をしている。


 船首には旗竿がある。


 けれど、どの国の旗も上がっていない。


 代わりに、二つの月の間を波が一本横切る印が、小さく描かれていた。


 旗なき救難航海契約の印。


「右舷の補強材、あと二枚」


 マレア・ヴェール船長の声が、船渠へ響く。


「帆柱の付け根は、海月樹の樹脂を二重に塗れ。月読盤の水路に、王国式の釘を使うな。錆びる」


「分かっています、船長」


 船員たちが答える。


 人族の船大工。


 水鱗族の縄職人。


 翼魔族の帆修繕師。


 普段のアウローラなら、それほど珍しい光景ではない。


 それでも今は、互いの動きを少しだけ警戒している者がいた。


 灰銀峡谷の噂は、海まで届いている。


 第三埠頭の火事は、さらに早く届いた。


 教団の印が見つかったことも、人族と魔族の子どもたちを一緒に助けたことも。


 だが、噂は事実と同じ速さで、都合のよい形へ曲がる。


「王国の王太子が港を支配するために、火事を利用した」


「魔侯領の令嬢が、影で港湾組合を脅した」


「聖女候補が、魔族の子だけを優先して治療した」


 聞こえないふりをしても、声は残る。


 だからフィルブランテは、船渠の仮設机に並ぶ帳簿を、いつもより慎重に確かめていた。


 食料。


 治療薬。


 飲料水。


 帰還用水晶。


 予備帆。


 潮記の貝。


 そして、誰がどの作業を引き受け、どの時刻に休憩を取ったか。


「フィルブランテ」


 レオンハルトが、机の向かいから声をかける。


「昼食を取っていないだろう」


「まだ確認が」


「確認は、私もしている」


「殿下は、外務官との面談が」


「終えた」


 王太子は、帳簿の余白を指した。


 そこには、フィルブランテが書いた小さな文字がある。


 **記録者の休息。二刻ごと。**


「これは、君の字だ」


「はい」


「なら、君にも適用される」


 反論できない。


 フィルブランテは小さく息を吐いた。


「三十分だけです」


「一刻」


「半刻」


「三刻の一」


「それは、どのくらいですか」


「三十分」


 レオンハルトは、少し笑った。


「最初から、そう言えばいい」


「わたくしは、交渉の余地を確認しただけです」


「そうか」


 王太子は、机の横に置かれていた包みを差し出す。


 中には、焼いた魚と柔らかい黒パンが入っていた。


 魔侯領式の香辛料と、王国式の塩漬け果実が添えられている。


「誰が選んだのですか」


「船長とリゼットが」


「殿下では?」


 レオンハルトは、少しだけ視線を逸らした。


「私は、何が食べられるかを聞かれた」


 フィルブランテは、包みを受け取った。


 完璧な贈り物ではない。


 王太子が一人で選んだわけでもない。


 それでも、彼が自分の休息を気にしていたことは伝わる。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 レオンハルトは、帳簿の別の束を持ち上げた。


「この分は、私が確認する」


「数を間違えたら」


「君に報告する」


「……お願いします」


 少し離れた場所で、アマンテルスが黒い日傘を肩へ担いだまま、その様子を見ていた。


「フィル」


「何ですか」


「休めと言われて、ちゃんと休むの、偉いな」


「兄貴が言うと腹が立つ」


「何でだよ」


「兄貴は、言われても休まないからです」


「今日は休んだ」


「いつ」


「朝、椅子に座った」


「それは休息ではありません」


 アマンテルスは、カイラスの方を見る。


 淡紫の髪の魔族青年は、帆柱へ雷の細い線を走らせ、木材のひびを確かめていた。


「カイラス、俺は休んだよな」


「椅子に座って、港の不審な船を三隻数えていた」


「休みながらできるだろ」


「それは見張りだ」


 全員から、同時にため息が聞こえた。


「アマンテルス様」


 ルーシェが、海色の布を手に近づく。


「こちらを腕へ巻いてくださいませ」


「何だ、それ」


「呪いの残りを測る魔力紐です。カイラス様とノエル様が、勝手に測定を始めないよう、先に記録するものです」


「勝手に、は余計だ」


 ノエルが、船の舷側から言った。


「僕は、必ず聞く」


「聞いた後、断られても三回くらい聞くでしょう」


 フィルブランテが言う。


「二回」


「減っていません」


 ノエルは、少し考えた。


「一回にする」


「約束ですよ」


「記録して」


 フィルブランテは手帳を開いた。


 誰かの癖は、すぐには変わらない。


 けれど、変えようとしたことを残せば、次に思い出せる。


 それもまた、記録の一つだった。


     ◇


 昼を過ぎた頃、船渠へネレア・カリオスがやって来た。


 水鱗族の少女は、前より少し厚い外套を着ている。


 父のカリオスが、少し離れた場所で荷役の手伝いをしていた。


 ネレアの手には、港湾組合が作った新しい記録札がある。


「フィルブランテ様」


「ネレアさん。何かありましたか」


「はい。監査官の方が、ベロア主任の倉庫から出てきた荷札を見せてくださいました」


 少女は札を差し出す。


 荷札には、救難船の名前がある。


 〈暁なき潮騒〉。


 出航予定。


 双月の二日前。


 そして、船へ積み込むはずの食料と水の内訳。


「これは、今朝の帳簿と同じです」


 フィルブランテは言った。


「でも、ここだけ違います」


 ネレアが指したのは、港の地下水路の番号だった。


 救難船の飲料水を積むとき、地下水路の水門を開ける予定になっている。


 そこへ、見慣れない記号が書き足されていた。


 中心のない円。


「水門へ、黒水の種を流すつもりかもしれません」


 ノエルが、すぐに言った。


「船の飲料水へ混ざれば、出航後に根が育つ」


「船を海の上で沈めるために」


 アマンテルスの声が低くなる。


「水門はどこですか」


「第三埠頭の倉庫から、灯台の地下へ続く古い水路です」


 ネレアは、唇を噛む。


「火事のあと、監査官が封鎖したはずでした。でも、荷札は今日の日付です」


 誰かが、まだ水路を使っている。


 救難船の水を汚し、海の上で沈めるために。


「今すぐ調べる」


 アマンテルスが言った。


「待ってください」


 フィルブランテは、兄の前へ立つ。


「水路の情報だけなら、罠の可能性があります」


「罠でも、飲料水を汚されたら困る」


「だから、行かないとは言いません。ですが、船を空けすぎないでください」


 第三埠頭の火事。


 灯台を狙った工作。


 敵は、誰かを一つの場所から引き離し、別の場所を壊そうとする。


 救難信号が本物でも偽物でも、全員が同じ方向へ走れば、残った場所が沈む。


「二班に分けましょう」


 フィルブランテは言った。


「アマンテルス様、シリル様、リゼットさん、カイラス様、わたくしで水路へ。ノエル様、レオンハルト殿下、マレア船長、ルーシェ、カリオスさんとネレアさんは船に残り、給水設備と月読盤を守る」


「フィルが水路へ行くのか」


 アマンテルスが問う。


「帳簿の記号と水路の術式を照合できるのは、わたくしです」


「危険だ」


「兄貴も行くなら、同じです」


「俺は戦える」


「わたくしも、記録できます」


 フィルブランテは一度、深く息を吸う。


「それに、水路で何かが起きたとき、兄貴は一人で抱え込むでしょう。だから、わたくしが行きます」


 アマンテルスは、すぐに反論できなかった。


 自分が黒水の前で何をしたか、覚えているからだ。


「分かった」


 やがて、兄は答えた。


「でも、危なくなったら先に言え」


「兄貴もです」


「おう」


「本当に?」


「……言う」


 リゼットが、そっと笑った。


「では、わたしも記録しておきます」


     ◇


 古い地下水路の入口は、第三埠頭の倉庫裏にあった。


 火事で焼けた壁の下。


 半ば崩れた石段を下りると、冷たい水の匂いが強くなる。


 壁には、百年前の王国語と月影文字が混じっていた。


 アウローラが、王国と魔侯領のどちらにも属さない港であるより前から、この水路は海と街をつないでいる。


 水は、人を選ばない。


 だからこそ、毒を流せば、誰を選ばず傷つける。


「足元に気をつけて」


 カイラスが言う。


 淡紫の雷が、暗い通路を照らす。


 水面には、細い青い光が流れている。


 月読盤の水路とつながる、魔力の導線だ。


 その中へ、黒い糸のようなものが混じっていた。


「黒水の種」


 リゼットが、小さく言う。


「まだ根にはなっていません。でも、水へ触れると」


「広がる」


 アマンテルスが続ける。


 黒い影を水面へ伸ばし、糸の動きを止める。


 だが、影が近づいた瞬間、通路の奥から声が響いた。


『助けて』


 少女の声。


 ネレアの声だった。


『水が、来る。お父さんが――』


 アマンテルスが、一歩踏み出す。


「ネレア?」


 その背中を、フィルブランテが掴んだ。


「待って」


「聞こえた」


「ネレアさんは、船渠にいるはずです」


「でも声が」


「本人の声か、確かめましょう」


 アマンテルスの顔に、一瞬だけ苛立ちが浮かぶ。


 助けを求める声を疑う。


 それは、嫌なことだ。


 声が本物なら、迷っている間に誰かが死ぬかもしれない。


 だが、黒水はその焦りを利用する。


 救助を諦めるためにではない。


 救助者を一人にするために。


 フィルブランテは胸元の潮記の貝を取り出した。


「ネレアさんへ、連絡します」


 貝殻の螺旋が、薄い青に光る。


「ネレアさん。聞こえますか。フィルブランテです」


 数秒後、貝から小さな声がした。


『フィルブランテ様? はい。船渠にいます。今、お父さんと水の樽を』


 通路の奥で聞こえた声と、貝から聞こえた声。


 同じ声。


 しかし、少し違う。


 奥の声は、ネレアが昨日、帳簿を抱えたときの息遣いと同じだった。


 記録された声。


「偽物です」


 ノエルの言葉を思い出す。


 記録は、対象を閉じ込めるためのものではない。


 対象が自分で選んだことを残すためのものだ。


 誰かの声を、本人の意思と関係なく使えば、それは記録ではない。


「ネレアさん。船の飲料水は無事ですか」


『はい。マレア船長とノエル様が確認しています。黒い糸が一度、給水管へ来ましたが、船の方へ入る前に止めました』


 船の方にも、工作があった。


 やはり、水路への声は、彼らを引き離すための罠だ。


「分かりました。ネレアさんは、そこから動かないでください」


『はい』


 通路の奥で、偽の声がまた響く。


『助けて』


 今度は、少年の声だった。


 知らない声。


『ここに、いる』


「偽物かもしれない」


 シリルが言う。


「だが、誰かがいる可能性もある」


「行きます」


 リゼットが答えた。


 フィルブランテは頷く。


「はい。ただし、声だけを頼りに走りません。通路の構造と、水の流れを記録しながら進みます」


「偽物でも、助けを呼ぶ声は捨てない」


 アマンテルスが言う。


「でも、偽物に一人で連れていかれない」


 兄の言葉に、フィルブランテは少しだけ笑う。


「それです」


 五人は、一列になって進んだ。


 先頭はシリル。


 その後ろに、アマンテルスとカイラス。


 中央にリゼット。


 最後にフィルブランテ。


 だが、最後尾のフィルブランテだけが孤立しないよう、アマンテルスの影が彼女の足元へ細く伸びている。


 フィルブランテは気づいていた。


 気づいたが、何も言わなかった。


     ◇


 通路の奥には、古い水門室があった。


 鉄の扉は半分開き、そこから黒い水が漏れている。


 壁際には、大きな水車。


 水車の中央に、中心のない円が刻まれていた。


 水車が回れば、黒水の種が給水路へ送られる。


 救難船だけではない。


 港の飲料水。


 市場の井戸。


 漁船の水樽。


 人族も魔族も、区別なく汚染される。


 そして、誰かが誰かへ毒を入れたと、互いに疑う。


「止める」


 アマンテルスが言う。


「水車を壊せば、水路が崩れます」


 フィルブランテが止める。


「上の港が沈むかもしれない」


「じゃあ、回転を止める」


「黒水が逆流します」


「なら、どうする」


 水車の下から、少年の声がした。


『ここだ』


 今度は、声だけではない。


 鉄格子の奥に、小さな手が見えた。


 水に濡れた指。


 少年が、一人、狭い水路に閉じ込められている。


 十歳にも満たない。


 耳の後ろに、小さな水鱗族の鰭がある。


「本物だ」


 リゼットが駆け寄ろうとする。


 しかし鉄格子の周囲には、黒い根が絡みついている。


 少年の片腕へ、根が巻きつき始めていた。


「止まって」


 フィルブランテが言う。


「格子へ触れると、水門が開く術式です」


「子どもがいる」


 リゼットの声が震える。


「分かっています」


 フィルブランテも、震えていた。


 目の前に助けを求める子どもがいる。


 分析している間に、根が深く絡む。


 でも、急げば水路全体が開く。


 また二択だ。


 助けるか。


 守るか。


 どちらかを捨てるか。


「名前を聞かせて」


 フィルブランテは、格子の向こうへ声をかけた。


 少年は、泣きながら顔を上げる。


「ト、トウマ」


「トウマさん。今から助けます。けれど、格子をすぐ壊すと、港の水が危なくなるかもしれません」


「ぼく、待てる」


 小さな声だった。


「でも、痛い」


 リゼットが、目を閉じる。


 白い花弁が、格子の隙間を通り抜け、黒い根と少年の腕をそっと分け始める。


「痛みを軽くします。無理なら、すぐ言ってね」


 トウマは、涙をこぼしながら頷いた。


「水車の回転軸に、三つの術式があります」


 ノエルがいれば、すぐに式を分解できる。


 しかし今、ノエルは船を守っている。


 それが正しいと、フィルブランテは思う。


 全員がここへ来ていれば、救難船の給水路は今頃汚染されていた。


 だから、いない仲間の力を使う。


「ノエル様」


 フィルブランテは潮記の貝へ呼びかける。


「水門室の術式を、氷晶の記録から読み取れますか」


『映像を送って』


 貝から声が返る。


 フィルブランテは、扇〈アルブム〉を水車へ向けた。


 青い結晶が、回転軸の魔力を映す。


 その映像が、潮記の貝の水音へ流れ込む。


 少し遅れて、ノエルの声が聞こえた。


『三重術式。格子、回転軸、給水路が同じ核につながっている。格子だけを壊すと、水門が全開になる』


「安全に開ける方法は」


『核を、三方向から同時に外す。フィルブランテは水車の履歴を固定。アマンテルスは黒水を器に入れる。リゼットは子どもと根を分離。カイラスとシリルは、水路の圧力を逃がす』


「それで、水門は」


『上の船で、僕とマレアが給水路の出口を逆流防止術で閉じる。レオンハルトが港の井戸へ光の封鎖を張る。ネレアとカリオスが、近くの人を水から離す』


 遠くにいる仲間が、同じ術式へ加わる。


 声だけでつながる。


 けれど、誰か一人へ負担を押しつけない。


「できますか」


 カイラスが問う。


「やります」


 フィルブランテが答える。


「全員、今の場所で」


     ◇


 水車が、さらに速く回り始めた。


 教団は、こちらが術式を解こうとしていることを察したのだろう。


 黒水の糸が、水門室の壁から一斉に伸びる。


 アマンテルスの影へ。


 フィルブランテの氷晶へ。


 リゼットの花弁へ。


 それぞれの役を、一人ずつ沈めるために。


「始めるぞ」


 アマンテルスが言った。


 黒い影が、根を包む。


 ただし、影は抱え込まない。


 細い糸となって、潮記の貝の声へ、港の仲間へ伸びる。


「根とトウマさんを分けます」


 リゼットの白い花弁が、少年の腕へ触れる。


 根が暴れ、花弁を黒く染める。


 リゼットの顔が苦痛に歪む。


「一人で引き受けないで」


 フィルブランテが言う。


「花弁の色を送ってください」


「分かりました」


 リゼットは、花弁の一枚を潮記の貝へ触れさせた。


 船渠にいるマレアへ、呪いの性質が伝わる。


 水盤の向こうで、船長の声が響いた。


『海水じゃない。港の地下に溜まった古い悲鳴を、種に混ぜている。水で洗い流そうとするな。潮の流れで、根だけを引き離す』


 マレアの水術が、遠くの給水口から逆に流れ込む。


 冷たい水が、黒水の根だけを押し戻す。


「回転軸、固定します」


 フィルブランテが扇を振る。


 青い氷晶が、水車の中心へ刺さる。


 水車の回転が、目に見えるほど遅くなる。


 同時に、偽造されていた術式の履歴が浮かぶ。


 白い法衣。


 中心のない円。


 そして、黒い船〈月影の羅針盤〉へ荷を運ぶ複数の影。


 証拠が浮かび上がる。


 だが、氷晶へ黒い文字が走った。


 ――記録者よ。


 ――兄を救いたければ、お前が沈め。


 フィルブランテの足元に、黒水が絡む。


 水車を固定するほど、黒水は氷晶へ流れ込む。


 今なら、ここで自分の記録ごと沈めれば、アマンテルスの影へかかる負荷を減らせる。


 耳の奥で、兄に似た声がする。


 もういい。


 俺のことはいい。


 記録を守れ。


 その声は、アマンテルスの声に似ている。


 けれど、透本人ではない。


 兄なら、今、こんな顔をする。


 根を抱えながら、無茶をしている顔。


 フィルブランテは、氷晶から目を離さずに叫んだ。


「兄貴!」


「何だ!」


「僕、今、沈みそうです!」


 自分でも、ひどく変な報告だと思った。


 だがアマンテルスは、すぐに答えた。


「分かった!」


「分かった、ではありません。助けてください!」


「今、行く!」


 黒い影が、根を保ったまま、フィルブランテの足元へ伸びる。


 兄が一人で根を抱えたら、また同じになる。


「一人で来ないで!」


「じゃあ、皆で来い!」


 アマンテルスの声と同時に、潮記の貝が一斉に光った。


 船渠の仲間。


 港の仲間。


 灯台の月読盤。


 分散された記録が、青い糸になって水門室へ集まる。


 レオンハルトの光が、フィルブランテの足元の黒水を照らす。


 ノエルの無属性術が、黒い文字を分解する。


 マレアの水が、根だけを水車から剥がす。


 ネレアの声が、潮記の貝から聞こえる。


『フィルブランテ様、わたしも見ています。帳簿の写し、持っています!』


 ネレアの小さな声が、青い結晶の一部になる。


 記録は、フィルブランテ一人のものではない。


 彼女が沈んでも、残る。


 だから沈んでいいのではない。


 皆が持っているから、誰も沈めない。


「晶析、分散」


 フィルブランテは、扇を水面へ振り下ろした。


 青い結晶が、黒水の術式を細かな欠片に分ける。


 欠片は、潮記の貝の声を辿って、各地の記録媒体へ飛ぶ。


 水車の回転軸が、完全に止まった。


「今だ!」


 カイラスの雷が、鉄格子の錠を断つ。


 シリルの風が、水圧を横の排水路へ流す。


 リゼットの花弁が、トウマの腕から最後の根を引き剥がす。


 アマンテルスの影が、黒水の核を小さな器へ閉じ込める。


 ただし、その器はアマンテルス一人の影ではない。


 カイラスの雷文。


 フィルブランテの氷晶。


 リゼットの花弁。


 そして遠くの仲間の記録が、器の外側を支える。


 水門室に、大きな水音が響く。


 黒水は、港の給水路へ流れ込む前に、古い排水路へ引き戻された。


 鉄格子が開く。


 アマンテルスが、狭い水路へ手を伸ばした。


「トウマ、出られるか」


 少年は、泣きながら頷く。


 小さな体を、アマンテルスの影がそっと持ち上げる。


 子どもは黒い影を怖がらなかった。


 むしろ、影の中に星が見えることを、不思議そうに眺めていた。


「きれい」


「そうか」


 アマンテルスは少しだけ笑う。


 影から子どもを受け取ったリゼットが、傷を確かめる。


「大丈夫。腕は治せるよ」


 トウマは、泣き疲れた顔で頷いた。


 水門室の奥、黒水が引いた壁際には、もう一人、倒れている者がいた。


 青灰色の外套。


 長い髪。


 手首には、鉄の枷。


 胸元には、銀の羅針盤が下がっている。


「誰ですか」


 フィルブランテが尋ねる。


 アマンテルスが影を近づけると、倒れていた人物がゆっくり顔を上げた。


 年は二十代半ばだろう。


 水鱗族の薄い鰭を持つ青年。


 瞳は、夜の海のような深い青だった。


「……マレア船長は」


 青年が、かすれた声で言う。


「灯台にいます」


「よかった」


 彼は、それだけ言って目を閉じかける。


「待ってください。お名前を」


 リゼットが、治癒の花弁を彼の傷へ触れさせる。


 青年は、少ししてから答えた。


「イオ・セルリアン。月読盤の、潮路補佐だ」


 アマンテルスとフィルブランテが目を見合わせる。


 月を読める者。


 海の魔女の船を、実際に導く水先案内人。


 教団は、マレアへ協力を求めていなかった。


 イオを攫い、月影の羅針盤へ乗せるつもりだったのだ。


「教団の船は、どこへ向かう」


 アマンテルスが問う。


 イオの瞳が、恐怖で揺れる。


「黄昏島」


「いつ出る」


「予定より早い。双月の二日前ではない」


 青年は、震える手で胸元の羅針盤を握る。


「五日後の、月のない夜。黒水の航路を使って」


 フィルブランテの手帳の文字が、急に重くなる。


 出航まで八日。


 その前提が、もう崩れている。


 教団は、三日早く海へ出る。


 こちらが旗なき救難船を整えるのを待たずに。


「船を、急がせる」


 アマンテルスが言う。


「急がせます」


 フィルブランテは答えた。


 ただし、今度は一人で帳簿を抱えない。


 潮記の貝を、耳元へ近づける。


「皆さん。予定が変わりました」


 船渠、灯台、港の記録札から、仲間の声が返る。


 誰も一人で聞かない。


 誰も一人で決めない。


 偽物の救難信号は、彼らを罠へ誘った。


 だがその罠の底には、本当に助けを求める声があった。


 だから、救助を諦めなかったことは間違いではない。


 次は、五日後の海。


 黒い船が、黄昏島へ向けて沈むように出航する。


 その前に、旗なき救難船は海へ出なければならない。

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