第八話 星は失われた島を指す
ローデリア・ハルディンが悪役候補にされかけた礼拝から、五日後。
星読塔の最上階には、机より大きな星図が広げられていた。
円形の室内を囲む窓は、昼でも夜の空を映している。魔術で再現された星々が、青黒い天井をゆっくり巡り、その下では数百枚の結晶板が淡く光っていた。
ノエル・エルミナージュは、星図の中央で三日間ほとんど寝ていない顔をしていた。
白銀の髪はいつも以上に乱れ、琥珀色の瞳の下には濃い隈がある。
しかし本人は、寝不足よりも、星図の端でちらつく一点を気にしているらしい。
「そこ、また消えました」
フィルブランテが言う。
「消えたんじゃない。位相がずれた」
「同じことでは?」
「違う。消えるなら、記録にも残らない。ずれるなら、存在はしているが、観測する側の基準から外れている」
「聞いているだけで眠くなります」
アマンテルスが、窓際の長椅子から言った。
アマンテルスは黒い日傘を閉じ、紫の外套にくるまっている。魔力疲労の治療後で、学院長からは「本日は星読塔から出ないこと」と念を押されていた。
本人は、塔から出ないという条件を守りつつ、最上階の窓を開けて外へ出る方法を考えている顔をしている。
フィルブランテは先回りして、窓の留め金を氷で固定した。
「何をする」
「換気の事故防止です」
「まだ何もしてないだろ」
「しようとしたでしょう」
「してない」
「今、しようとした顔をしていました」
「顔で犯罪を決めるな」
リゼットが、星図の近くから少し笑った。
「お二人の会話を聞くと、少し安心します」
「どこがだ」
アマンテルスとフィルブランテの声が重なる。
五日前の礼拝堂事件以降、第一演習班は表向き、学院の〈種族間危機管理演習〉の準備を進めている。
実際には、四十八家へ広がる不正な流通と、運命式の支点を調べていた。
オーギュストは財務局の調査官を各領地へ派遣し、ローデリアとイザベルはそれぞれの家族へ事情を伝え始めた。
そして第一演習班は、セラフィナの最後の言葉――黄昏島を探して――を手掛かりに、古代結界の全体像を追っている。
「黄昏島は、地図から消されたのではありません」
ノエルが星図の一点へ杖を置く。
西の海にあるはずの場所。
王国の地図では、ただの波模様しか描かれていない海域。
「正確には、地図が島を指せなくされている。航路記録、星図、海流図、魔力地図。すべての基準が、同じ一点を避けるよう歪んでいる」
「運命式と同じ?」
リゼットが尋ねる。
「構造は似ている。結果だけを固定し、そこへ至る経路をいくつも作る。黄昏島へ着かないという結果を、地図と人の認識へ押しつけている」
「島は、実際に存在するのですね」
フィルブランテは星図へ近づいた。
「存在する。ただ、誰も見つけられない」
ノエルは結晶板を一枚持ち上げた。
その中には、夜空を映した記録がある。
「三日前、双月の契約の術式図と、星読塔の観測結果を重ねた。白い月と黒い月が同じ高さへ来る夜、海上にだけ生まれる星の空白がある」
杖の先で星図をなぞる。
無数の星の間に、星のない円が浮かぶ。
中心のない円。
虚無教団が紋章として使っている形。
だが本来は、失われた契約の空席を示す印。
「空白の中心ではなく、その外縁を航行すれば島へ入れる」
「次の双月は?」
レオンハルトが尋ねた。
王太子は壁際の椅子へ座っている。今日は制服ではなく、王家の紋章を外した濃紺の簡素な上着だ。学院長から「演習班の会議では、王太子として結論を急がないこと」と注意されたらしい。
それでも姿勢だけは、どこまでも真っ直ぐだった。
「十九日後」
ノエルが答える。
「そこを逃せば、次は半年後」
「十九日」
アマンテルスが繰り返す。
「短いな」
「急いで出航すれば、間に合う?」
リゼットが尋ねる。
「中立都市アウローラから船を出せば、航海は七日。準備を含めても、ぎりぎり間に合う」
「なら、行こう」
アマンテルスは即答した。
「兄貴」
フィルブランテが止める。
「何だよ」
「何だよではありません。島の位置が分かっただけで、どのような危険があるかも、出航の許可を得られるかも、まだ」
「調べれば分かる」
「準備は必要だ」
「準備しながら行けば」
「航海は馬車と違います!」
声が少し大きくなった。
ノエルが結晶板へ何かを書き込む。
「記録。唐傘兄弟は、未知の危険に対して、予定調和的に衝突する」
「何を書いてる」
アマンテルスが睨む。
「衝突の原因。兄は探索優先、弟は安全優先」
「違う」
フィルブランテは即座に否定した。
「僕は安全だけを優先しているのではなく、成功率を」
「ほら、予定調和」
ノエルは真顔で、結晶板へ二重線を引いた。
「弟君、研究者の遊びに付き合うな」
「誰が弟君ですか」
「自分で言っている」
「アマンテルス様、よろしいでしょうか」
星読塔の扉の外から、ルーシェの声が響いた。
アマンテルスの顔が、わずかに強張る。
夢魔族の侍女は、普段ならノックの直後に扉を開けて入ってくる。
今日は返答を待っている。
「入れ」
アマンテルスが言う。
扉が開いた。
ルーシェはいつもの桃色の髪を乱し、手に黒い羽根のついた小筒を持っていた。夢魔族の影梟便だ。
封蝋は、ルヴィンイヴル魔侯家の三日月の印。
しかも、その上へ赤い緊急印が重ねられている。
「魔侯領から?」
レオンハルトが立ち上がる。
「はい。カイラス様から、至急アマンテルス様へと」
アマンテルスは小筒を受け取る。
指先が、ほんの少し震えていた。
魔族の正式な手紙は、受け取る側の影へ触れて開封する。
アマンテルスは自分の影を封蝋へ伸ばした。
三日月の蝋が静かに割れる。
中から現れたのは紙ではなく、淡紫の雷光だった。
空中へ、若い男の姿が映る。
夜色の肌。
淡紫の髪。
金色の瞳と、後ろへ湾曲した角。
カイラス・ヴェイル・ノクサル。
アマンテルスの幼なじみであり、和平派ノクサル家の次男。
そして原作では、リゼットを守るため、暴走したアマンテルスを討つ青年。
『アマンテルス』
投影のカイラスは、挨拶を省いた。
『今、話せるか』
「話せる。何があった」
アマンテルスの声が低くなる。
『灰銀峡谷の北側監視所が襲われた』
室内の空気が変わった。
『襲撃したのは、人族の兵ではない。魔族の狩人装備を着た者たちだ。だが死者の傷から、人族の光術式も検出されている』
「偽装襲撃」
フィルブランテが呟く。
ザハルは、人族と魔族のどちらにも恐怖を植えつける。
片方だけの犯行に見せるのではなく、互いが互いを疑うよう、両方の術式を残す。
『父上は、七氏族の臨時会議を招集した。主戦派は、休戦協定の破棄と、峡谷への軍の派遣を要求している』
「叔父上は」
アマンテルスが問う。
『ガレウス将軍が、先頭で要求している』
アマンテルスの影が床で揺れた。
ガレウス・ドラク。
アマンテルスの叔父。
魔族主戦派の将軍。
原作では、アマンテルスの悲嘆を煽り、復讐軍の指揮官へ仕立てる男だ。
『さらに、監視所の近くで、セレディア王家の紋章が刻まれた矢が見つかった』
レオンハルトの表情が険しくなる。
「王家の矢に見せかけたものか」
『まだ判断できない』
カイラスは投影越しに、レオンハルトを見る。
『だが、魔侯領では既に噂が広がっている。王国は、休戦中に攻撃の準備をしていた、と』
「王国側でも、魔族の襲撃だと伝わるでしょう」
フィルブランテは言った。
「同じ噂を両側へ流せば、誰も証拠を見る前に怒り始める」
『だからこそ、私はアマンテルスに帰還を求める』
カイラスの金色の瞳が、アマンテルスへ向く。
『二日後、ルヴィンイヴル魔侯領で七氏族会議を開く。お前は魔侯家の後継候補として出席しろ』
「二日後?」
アマンテルスは眉を寄せた。
『急すぎる』
『峡谷で次の襲撃が起きれば、会議を待たず戦端が開く』
「俺が帰って、何ができる」
『和平派の票が一つ増える。主戦派へ、魔侯家が戦争を望んでいないと示せる』
「それだけじゃないだろ」
アマンテルスの声が冷たくなる。
カイラスが一瞬、沈黙した。
『お前がいなければ、ガレウス将軍は、お前を人族の魔術に傷つけられた被害者として利用する。お前がいれば、利用される前に自分で話せる』
「人族の学院で、呪いを受けたことを?」
『そうだ』
「俺が何を言っても、主戦派が聞かなければ同じだ」
『それでも、お前がいなければ始まらない』
投影の声は硬い。
けれど、アマンテルスを政治の駒として呼び戻すだけではないことが、フィルブランテには分かった。
カイラスは、アマンテルスがここで傷を負ったと聞き、心配している。
しかし和平を守るためなら、アマンテルス一人を会議へ立たせることも、原作の彼なら選ぶ。
その危うさを、兄はまだ知らない。
「アマンテルス様は、今、呪いの後遺症が残っています」
リゼットが投影へ言った。
「長距離転移と政治会議へ、すぐに向かうのは危険です」
『リゼット・アーヴェインか』
カイラスの目が細くなる。
『君が聖花紋の少女だな』
「はい」
『アマンテルスを止められるなら、止めてほしい』
「自分で決めることです」
リゼットは静かに答えた。
「でも、危険なことは危険だと伝えます。止めるかどうかは、アマンテルス様が選びます」
カイラスが少し意外そうな顔をした。
『そうか』
その短い返答に、どこか苦いものが混じっている。
「俺は帰る」
アマンテルスが言った。
「二日後までに魔侯領へ行く」
「兄貴」
フィルブランテが口を挟む。
「ただし」
アマンテルスは続けた。
「一人では行かない。今までのように、俺が魔族領で一人で戦って、お前が王国で一人で調べる形にはしない」
フィルブランテは言葉を失った。
アマンテルスの視線が、まっすぐこちらへ向く。
「一緒に来るか」
答えは簡単ではない。
フィルブランテは王国の公爵令嬢で、王太子の婚約者だ。
魔侯領へ同行すれば、王国の保守派は必ず騒ぐ。
まして休戦協定が揺らぐ今、人族の高位貴族が魔族領へ入ることは、外交問題になり得る。
それでも、アマンテルスを一人で行かせれば、原作の流れへ近づく。
主戦派に利用され、呪いを抱え、孤立する。
フィルブランテは、兄が「一人では行かない」と言った意味を理解していた。
「僕は」
返事をする前に、レオンハルトが言った。
「王国の代表として、私も同行する」
全員が王太子を見る。
「監視所で見つかった矢が王家のものなら、王国側に説明する責任がある。偽造なら、それを証明する必要がある」
「殿下が魔侯領へ行けば、外交使節になる」
フィルブランテが言う。
「七氏族会議へ、王太子が出ることは」
「危険だ」
レオンハルトは頷いた。
「だが、王国が何も言わず、魔族領だけに帰還と会議を任せれば、疑念はさらに深まる。私は剣を持って行かない。使節として行く」
「僕も行く」
ノエルが続けた。
「監視所に残った術式を見れば、光と闇の偽装が解析できる。黄昏島の座標にも、魔侯領側の星図が必要」
「お前は行くと思ってた」
アマンテルスが言う。
「未知の資料があるから」
「それだけですか」
リゼットが尋ねる。
ノエルは少し考えた。
「アマンテルスの呪いの変化も、観測したい」
「それも、本人の許可が必要です」
「分かってる」
ノエルはアマンテルスを見る。
「同行中、呪いの変化を記録していい?」
「何をする」
「測定と、必要なら封印補助。採取はしない」
「俺の影へ、勝手に触るな」
「触れる必要があるときは、先に聞く」
「……なら、いい」
ノエルは小さく頷いた。
以前なら、許可を求めずに研究を始めていた。
わずかな変化だ。
だが、誰かを役や対象として扱わないためには、小さな変化を積み重ねるしかない。
「わたしも行きます」
リゼットが言った。
フィルブランテが、思わず彼女を見る。
「リゼットさん」
「聖花紋と黄昏島のことを調べるなら、わたしも関係があります。それに、魔族領で怪我をする人がいるかもしれません」
「危険です」
「知っています」
「今回は、学院の中ではありません」
「それも分かっています」
リゼットは胸元の聖花紋を押さえる。
「でも、わたしは毎回、守られるだけではいたくない。昨日の温室でも、礼拝堂でも。皆さんがわたしの魔法を必要としてくださったように、わたしも皆さんを助けたいです」
誰かのために自分を削ろうとするのではない。
自分の意思として、同行を選んでいる。
それでも、フィルブランテは不安だった。
「リゼットさんが行くなら」
シリルが言った。
「護衛として、私も同行します」
「当然だろ」
アマンテルスが頷く。
「これで六人」
「第一演習班が、そのまま外交使節になるのですか」
フィルブランテは頭を抱えたくなった。
学院長が聞けば、間違いなく条件を増やす。
「正確には、第一演習班の一部を含む王国使節団です」
レオンハルトが真面目に訂正する。
「外務局、学院、財務局、魔侯領側の同意を得る」
「父上は、許可しないと思います」
「では、私から説明する」
「殿下が?」
「フィルブランテは、今回の調査で重要な証拠を読み取れる。公爵家が四十八家の記録を追う以上、同行は合理的だ」
合理的。
フィルブランテがよく使う言葉だ。
それをレオンハルトが、彼女を連れて行く理由に使っている。
「でも、フィルブランテ様が望まないなら」
リゼットが言った。
「行かなくていいと思います」
全員の視線が、フィルブランテへ集まった。
兄と一緒に行くか。
王国の公爵令嬢として、火種になる場所へ向かうか。
母の記録と黄昏島の手掛かりを追うか。
怖い。
だが、怖いからといって兄を一人にするのは、もう選ばない。
「行きます」
フィルブランテは答えた。
「ただし、兄貴の護衛ではありません。イデルバルディ家の記録者として、必要な証拠を確認しに行きます」
「分かってる」
アマンテルスが笑った。
「俺も、お前の護衛じゃない。魔侯家の代表として、お前と一緒に行く」
「兄弟で随分ややこしい言い方をするな」
シリルが、初めて露骨に呆れた声を出した。
「兄弟ではありません」
「はいはい」
「否定が弱いです」
リゼットが言う。
アマンテルスは笑い、フィルブランテは顔を覆った。
投影の中で、カイラスはそのやりとりを黙って見ていた。
やがて彼は、アマンテルスへ視線を戻す。
『使節団の受け入れは、私が整える。ただし、会議まで時間がない。明日、北門の転移塔へ来い』
「分かった」
『アマンテルス』
カイラスが呼び止める。
『無理はするな』
「お前が言うのか」
『私は無理をするが、君にはしてほしくない』
「最悪の理屈だな」
アマンテルスの声は軽い。
だが、少しだけやわらかい。
『会議で会おう』
投影が消えた。
淡紫の雷光だけが、空中へ短く残る。
◇
使節団の出発は、驚くほど早く決まった。
オーギュストは、四十八家と結界支点の地図を見せられた後、フィルブランテの同行へ反対しなかった。
ただし、父としてではなく財務卿として、条件を三つ付けた。
第一に、イデルバルディ家の調査官二名を同行させること。
第二に、魔侯領内で得た記録を、王国と魔侯領の双方で複製すること。
第三に、娘が危険を感じたときは、どの会議よりも先に撤退すること。
「父上は、以前なら十個は条件を付けたと思います」
出発前の夜、フィルブランテが言うと、オーギュストは困ったように眉を動かした。
「十個考えた。八個は、ミレーヌに却下された」
ミレーヌは、横で静かに頷く。
「旦那様のご心配は理解できますが、お嬢様が自らお決めになった同行です。必要以上の拘束は、今回の目的と矛盾いたします」
「味方が増えてるな」
アマンテルスが言う。
「兄貴は黙っていろ」
オーギュストが、アマンテルスを見る。
「魔侯令嬢」
「何でしょう」
「娘を頼む、とは言わない」
アマンテルスの表情が変わる。
「それを言えば、二人とも無理をするだろう。だから、無事に戻れ」
「分かった」
アマンテルスは少し間を置き、頭を下げた。
「フィルを一人にしない」
父の前で、幼なじみを呼ぶような自然な声だった。
オーギュストはそれを訂正しなかった。
「お二人とも」
ミレーヌが、旅装の裾を整えながら言う。
「魔侯領の礼法について、最終確認をいたします」
フィルブランテは、机の上の紙を見た。
右手を胸へ当て、深く礼をする――人族式。
互いの影を触れ合わせ、敵意がないと示す――魔族式。
「影を触れ合わせる、とありますが」
レオンハルトが尋ねる。
「どの程度、近づけばよいのですか」
「相手の影へ、自分の影を重ねるだけですわ」
アマンテルスが答える。
「ただし、角や翼には、許可なく触れないでください。魔族にとっては、かなり失礼です」
「分かった」
レオンハルトは真剣に頷く。
「白い花も避けた方がよいでしょうか」
「歓迎の場では、控えた方が無難です」
リゼットが言う。
「白い花は、魔族領では死者への手向けなんですよね」
「覚えていたか」
アマンテルスが少し驚く。
「前に聞きましたから」
「それで十分だ。知らないことは、聞けばいい」
カイラスの言葉が、ふと頭をよぎる。
和平のためなら、身近な一人を犠牲にしてよいと考える青年。
けれど、今日の彼はリゼットへ、アマンテルスを止めてほしいと頼んだ。
少しずつ、誰もが変わっている。
それでも、運命式は変化を利用してくる。
だからこそ、次の会議が怖い。
◇
翌朝。
北門の転移塔には、薄い霧がかかっていた。
王国の使節団は、レオンハルト、フィルブランテ、リゼット、シリル、ノエル。
公爵家の調査官二名と、王家の外務官三名。
そして、アマンテルスとルーシェ。
学院長は、転移塔の前で一人ずつの顔を見ていた。
「皆さん、目的を忘れないでください」
「休戦協定を守ること」
レオンハルトが答える。
「黄昏島へ至る情報を集めること」
ノエルが続ける。
「四十八家と教団の不正な流通を調べること」
フィルブランテが言う。
「無事に帰ること」
リゼットが最後に言った。
アマンテルスは、その言葉を聞いて少し笑う。
「一番大事なのが最後に来たな」
「順番ではありません」
リゼットは真面目な顔で答えた。
「全部、大事です」
学院長も頷く。
「その通りです。誰かを助けるために、誰かが一人で死ぬことは許しません」
その言葉が、アマンテルスとフィルブランテへまっすぐ届く。
兄弟は目を合わせた。
「聞いたな」
「聞いた」
「今度は、途中で置いていくなよ」
「兄貴こそ、勝手に先へ行くな」
「それはお前もだ」
「……同着ということで」
「まだ勝負してるのか?」
シリルが呆れる。
「勝負ではありません」
フィルブランテは言い切った。
「生存競争です」
「それも大概だ」
転移塔の魔法陣が光り始める。
アマンテルスの影が、石床へ広がる。
彼女は魔族式の挨拶として、影を皆の足元へそっと重ねた。
最初に応じたのはリゼットだった。
白い制服の裾から伸びた小さな影が、黒い影へ触れる。
レオンハルト、シリル、ノエルも続く。
光と影が、床の上で一瞬だけ重なった。
敵意はない。
同じ場所へ戻るために、共に進む。
魔侯領の挨拶には、本来そんな意味があるのだと、アマンテルスはこの身体に残る記憶から知っている。
転移の光が、全員を包んだ。
視界が白く染まり、次の瞬間には夜があった。
永夜に近い北東の地。
黒い岩山の間を、紫の川が流れている。
空には二つの月。
一つは白く、一つは淡い藍に輝いていた。
ルヴィンイヴル魔侯領。
アマンテルスが生まれ、原作では滅びへ向かった場所。
アマンテルスは夜の空気を吸った。
懐かしいという感情が、胸を満たす。
それは自分のものではないはずなのに。
「帰ってきたな」
低い声が響く。
転移塔の階段下に、カイラス・ヴェイル・ノクサルが立っていた。
淡紫の髪を夜風になびかせ、金色の瞳で使節団を見上げている。
彼の後ろには、夜魔族、獣魔族、石角族の護衛たちが並ぶ。
全員が武装していた。
出迎えにしては、物々しい。
カイラスはまず、アマンテルスへ近づいた。
影を触れ合わせる。
アマンテルスの影が、ほんの少し遅れて応じた。
「傷は」
「死んでない」
「そういう答えを聞いているんじゃない」
「十段階で二」
「信用できない」
「本当だ」
「測定を」
「許可を取れ」
「……測定してもいいか」
カイラスは、少し不本意そうに尋ねた。
アマンテルスは目を瞬く。
ノエルが横で、結晶板へ何かを書き込んでいる。
「いいぞ」
カイラスの雷光が、アマンテルスの影へ触れる。
数秒後、彼の顔が険しくなった。
「二ではない。六だ」
「細かいな」
「大きく違う」
「お前もノエルと同類か」
「誰だ、それは」
「研究者です」
ノエルが名乗る。
「ノエル・エルミナージュ。無属性術式を扱う」
「カイラス・ヴェイル・ノクサル。雷属性。アマンテルスの監視役」
「監視役?」
リゼットが小さく繰り返す。
「幼なじみのはずでは」
カイラスは一瞬だけ黙った。
「両方だ」
アマンテルスが横から言う。
「政治って、そういう面倒な役目を勝手に増やすんだよ」
「お前も、魔侯家の後継候補だ」
「だから面倒なんだろ」
カイラスはため息をついた。
それから、王国使節団へ正式に向き直る。
「ルヴィンイヴル魔侯領へ、ようこそ。歓迎の言葉を述べたいところだが、時間がない」
彼は、夜の地平線を指した。
遠く、灰銀峡谷の方向。
紫の空が、わずかに赤く染まっている。
「二時間前。峡谷南側で、二度目の爆発があった」
空気が凍る。
「死者は」
レオンハルトが尋ねる。
「魔族の監視兵三名。人族側の被害は、まだ分からない」
「休戦協定は」
「両国とも、まだ破棄していない」
カイラスの金色の瞳が、暗く光る。
「だが七氏族会議は、予定より早まった。今夜だ」
アマンテルスの影が、足元で揺れる。
今夜。
到着してすぐ、主戦派と向き合う。
原作なら、アマンテルスは怒りと悲しみを煽られ、王国への復讐を選ぶ。
だが、今は隣にフィルブランテがいる。
リゼットがいる。
王太子も、騎士も、魔術師もいる。
そして目の前には、幼なじみであり監視役でもあるカイラスがいる。
役を選ばされる前に、自分で選ぶ。
それがどれほど難しくても。
「案内しろ」
アマンテルスは言った。
「会議へ行く」
カイラスは頷いた。
その直後、星読塔から持ち出した結晶板が、フィルブランテの鞄の中で強く震えた。
取り出すと、黄昏島を示していた星の空白が、別の形へ変わっている。
島を指すはずの線が、灰銀峡谷の地下へ伸びていた。
そして、黒い文字が一行だけ浮かぶ。
――双月が揃う前に、片方を沈めよ。
白い月。
黒い月。
どちらを指すのか。
それとも、光と闇の契約者を指すのか。
答えを考える時間は、もう残されていなかった。




