第七話 帳簿は嘘をつかない
聖花温室の毒花事件から、三日後。
イデルバルディ公爵領へ向かう馬車の中で、フィルブランテ・アソート・イデルバルディは、窓の外を流れる田園を眺めていた。
春の小麦が、風に合わせて波打っている。
遠くには水路が走り、その両側に白い石造りの倉庫と、低い屋根の農家が並んでいた。王都から西へ半日。肥沃な土と河川交易を持つこの土地は、セレディア王国の穀倉であり、イデルバルディ家の基盤でもある。
ゲームでは、背景の一枚だった。
フィルブランテの実家。
彼女が追放された後、二度と訪れられない場所。
「緊張してるか?」
向かいの座席から、アマンテルスが小声で尋ねる。
アマンテルスは魔族使節としての外出許可を得て、第一演習班の調査に同行していた。黒と紫の旅装、長い濡羽色の髪、そして人族の視線を避けるつもりのない黒曜石の角。
狭い馬車の中でも、彼女は黒い日傘を膝へ抱えている。
「緊張していない」
フィルブランテは即答した。
「嘘だな」
「何を根拠に」
「さっきから、窓の留め金を四回確認した」
「三回だ」
「増えてるじゃねえか」
「兄貴」
「失礼。公爵令嬢」
その会話を聞いていたリゼットが、向かいで小さく笑った。
「でも、少し分かります」
「何がですか」
「わたしも救護院へ帰る前は、緊張します。知っている場所なのに、前と同じように迎えてもらえるか不安で」
若草色の瞳が、窓の外の田園を見た。
「フィルブランテ様も、そうですか?」
フィルブランテは答えを探した。
父と、まともに話した記憶は少ない。
フィルブランテの記憶には、幼い頃の父の背中がある。抱き上げてもらったこと。母と三人で薬園を歩いたこと。誕生日に、氷で作った小さな鳥を見せて褒められたこと。
だが母が亡くなってから、父は忙しくなった。
食事は別々。
会話は必要事項だけ。
王太子妃教育の成果を問われ、失敗をしないことだけを求められる。
フィルブランテは、父に愛されていないと思うようになった。
フィルブランテ自身は、そう簡単に決めつけたくない。
けれど、会って確かめるのは怖かった。
「そう、かもしれません」
正直に答える。
アマンテルスが黒い日傘の柄を指で回す。
「大丈夫だ。駄目そうなら、俺が話をそらす」
「兄貴が父上と話して、どう話をそらすんだ」
「魔族領の経済について聞かれたら、適当に難しいことを言う」
「父上は財務卿だぞ」
「じゃあ、政治の話にする」
「もっと駄目だ」
アマンテルスは考え込んだ。
「小動物の話は?」
「なぜ父上と?」
「分からん。猫とか好きかもしれないだろ」
「父上が猫の話で機嫌を直すなら、僕が二年も悩んでいない」
「そりゃそうか」
兄は、気の利いた慰めを言えない。
その代わり、困っている弟の横にいる。
フィルブランテはそれで少しだけ息が楽になる。
「到着いたします」
御者の声が響く。
馬車が緩やかに減速した。
レオンハルト、シリル、ノエルの乗る後続馬車も、窓の外に見える。
今回の調査は、学院長の許可と、王太子の立会いのもとで行われる第一演習班の課外活動として正式に認められた。
表向きの目的は、聖花温室へ現れた旧印と、慈善薬園の植物流通の照合。
本当の目的は、セラフィナ・イデルバルディが十年前に残した記録を探し、母の死と虚無教団の関係を確かめることだった。
馬車の扉が開く。
フィルブランテは一度だけ、深く息を吸った。
そしてフィルブランテとして、故郷の地へ足を下ろした。
◇
イデルバルディ公爵邸は、王都の邸宅よりも簡素だった。
白い石の外壁に、青灰色の屋根。過度な装飾はなく、門から玄関まで続く道には、色とりどりの薬草が植えられている。庭園ではなく、畑に近い。
幼いフィルブランテは、この道で母の手を引きながら、花の名前を教わった。
鎮痛に使う月白草。
眠りを助ける星蜜花。
傷口を閉じる銀葉。
そして、毒にも薬にもなる黒根花。
記憶が鮮やかすぎて、フィルブランテは足を止めかけた。
「フィルブランテ様」
玄関の前で待っていた老執事が、深く一礼する。
「お帰りなさいませ」
その声に、胸の奥が痛んだ。
ゲームでは、ここに帰るイベントはない。
だから、どんなふうに迎えられるのか知らなかった。
「ただいま戻りました、グレゴール」
言葉が自然に出た。
老執事の目元が、わずかに緩む。
「旦那様がお待ちです」
応接室へ通される間、使用人たちは皆、表情を整えていた。
フィルブランテが元気そうに見えることへ安堵している者。
魔族令嬢を連れて帰ってきたことへ困惑する者。
聖女候補と王太子までいることへ、何が起きたのか理解できない者。
当然だ。
娘が学校の友人を連れて帰省する、というには顔ぶれが重すぎる。
王太子。
魔族使節団の令嬢。
騎士団長子息。
天才魔術師。
そして聖花紋を持つ平民の特待生。
政治的には、小さな会談に近い。
「フィルブランテ」
応接室の扉が開いた。
室内の窓際に、一人の男が立っていた。
深い藍色の髪。青紫の瞳。仕立てのよい濃紺の礼服。机の上には帳簿と封書が積まれ、腰には王国財務卿を示す金の印章が下がっている。
オーギュスト・イデルバルディ。
フィルブランテの父。
フィルブランテは、父の顔を見た。
記憶の中より老けている。
母が亡くなってから、十年経ったのだから当然だ。
けれどゲーム画面では、ただ「厳格な父」と紹介されただけだった男が、目の前では娘の姿を確かめるように、じっとこちらを見ていた。
「父上」
フィルブランテは礼を取る。
「ご多忙の中、時間をいただき感謝いたします」
「堅い挨拶はよい」
オーギュストは言った。
声は低く、感情が読めない。
「王太子殿下。魔侯令嬢。遠路をお運びいただき、恐縮です」
「突然の訪問を許していただき、感謝します」
レオンハルトが礼を返す。
アマンテルスも、魔族令嬢として優雅に頭を下げた。
「セラフィナ夫人の記録に関する調査と伺いました。娘が、ご迷惑をおかけしているのではありませんか」
フィルブランテの心が少し沈んだ。
まず心配ではなく、迷惑をかけているかを問う。
フィルブランテが父との会話で傷ついていた理由が分かる気がした。
だが、アマンテルスが一歩前へ出る。
「迷惑はかけられておりませんわ」
アマンテルスの声は、驚くほど穏やかだった。
「フィルブランテ様がいなければ、王都で多くの方が傷ついておりました」
フィルブランテが横目で兄を見る。
父の前で小動物の話をするよりは、ずっとましだ。
オーギュストの視線が、娘へ戻る。
「そうか」
短い答えだった。
褒められたわけでもない。
けれど、その声にはほっとした響きがあった。
「まず、話を聞こう。資料は書斎にある」
◇
書斎の壁一面には、帳簿が並んでいた。
公爵領の税、農作物の収穫、河川輸送、王国への納入、慈善事業への支出。数字の背表紙が、年代順に整然と並ぶ。
フィルブランテは部屋へ入った瞬間、この身体に残る記憶がざわめくのを感じた。
幼い頃、父の留守中にここへ忍び込み、帳簿を絵本のように眺めた。
母に見つかり、数字は人の暮らしだと教えられた。
父には叱られた。
それでも、母は笑っていた。
「セラフィナの私物は、彼女が亡くなった後、すべて封印した」
オーギュストは書斎の奥にある細い扉を開けた。
「薬園の記録も、ここに移している」
「なぜです」
フィルブランテは思わず尋ねた。
「なぜ、わたくしへ何もお話しにならなかったのですか」
父の背中が止まる。
他の者たちも、声を出さない。
この場で問うべきではない。
調査を優先すべきだ。
分かっている。
それでも、十年前の記録を見た直後では、抑えられなかった。
「母上は、危険を知っていた。記録を残していた。わたくしが見つけることを、考えていたように見えました」
「フィルブランテ」
「父上は、何をご存じだったのです」
オーギュストはゆっくり振り返った。
厳格な財務卿の顔ではない。
娘へどう答えるべきか分からない父親の顔だった。
「知っていたことは少ない」
やがて彼は言った。
「セラフィナは、病に倒れる二年前から、薬草流通と慈善事業の帳簿を調べていた。私は彼女へ、政敵の不正でも見つけたのかと尋ねた」
「母上は何と?」
「ただ、数字が合わないと」
父は書斎の机へ手を置いた。
「救護院へ送ったはずの薬草と、各地へ配った助成金。そのどちらも帳簿には正しく記されていた。だが現場の報告だけが、少しずつ違っていた」
「父上も調べなかったのですか」
「調べた」
低い声だった。
「だが、私の調査官が王都へ戻る途中で襲われた。帳簿の写しは消え、証言者は口を閉ざした。私は、王国財務局の一部が関わっていると考えた」
「だから、母上の記録を封じた」
「お前を巻き込みたくなかった」
フィルブランテの胸が痛む。
父は何も知らなかったわけではない。
何もしていなかったわけでもない。
守ろうとして、娘から遠ざけた。
セラフィナと同じだ。
一人で抱え、説明せず、守るために離れる。
「それで、守れましたか」
自分でも冷たい声だと思った。
オーギュストの顔から、血の気が引く。
「……守れなかった」
室内に沈黙が落ちる。
レオンハルトが何か言おうとして、やめた。
アマンテルスは一歩だけフィルブランテの近くへ寄るが、口を挟まない。
これは兄が代わりに戦うべきことではない。
フィルブランテ自身が、父と向き合わなければならない。
「わたくしは、母上が亡くなったとき」
フィルブランテの声が、胸の奥から聞こえる。
「父上が、泣いてくださらなかったから。わたくしが悪い子だったから、見放されたのだと思いました」
オーギュストの目が揺れる。
「違う」
初めて、父の声が強くなった。
「お前は悪くない。セラフィナが亡くなった後、私は何をすればよいか分からなかった。夫としても、父としても。泣けば、お前まで壊れると思った」
「母上と同じです」
フィルブランテは静かに言った。
「一人で抱えて、わたくしを守ろうとして、何も話してくださらなかった」
「そうだ」
父は目を伏せた。
「私は、間違えた」
簡単な言葉ではない。
財務卿として、多くの人の前で判断を下してきた男が、娘の前で間違いを認めている。
フィルブランテはすぐには許せなかった。
けれど、父が向き合おうとしていることは分かる。
「今からでも、記録を見せていただけますか」
「もちろんだ」
オーギュストは扉の向こうへ進んだ。
フィルブランテも続く。
アマンテルスが通りすがりに小さく囁く。
「よく言った」
「まだ終わってない」
「知ってる」
それでも、兄の声は少し誇らしげだった。
◇
封印された薬園資料室は、書斎の奥にあった。
窓は閉じられ、棚の上には薄い埃が積もっている。帳簿、種子標本、土壌の瓶詰め、薬草の押し花。中央には、母が使っていたらしい氷晶記録器が置かれていた。
アマンテルスは、部屋へ入った途端に影を広げた。
「誰か、最近ここへ入ってる」
「封印鍵は私とグレゴールしか持っていない」
オーギュストの声が硬くなる。
「窓も扉も、開けられた痕跡はありません」
シリルが周囲を確認する。
ノエルは氷晶記録器へ近づき、杖をかざした。
「鍵を開けなくても、記録だけを読める術式がある。教会系統の無属性術」
「誰かが見たということですか」
リゼットが尋ねる。
「見た。あるいは、見ようとした。完全には解析できない」
フィルブランテは棚の最下段へ目を向けた。
母が残した鉢は、ここに分けて置かれているはずだ。
十年前の記録に、そうあった。
「父上。慈善薬園で使われていた、底へ氷薔薇の印がある鉢は?」
「四十八鉢あった」
オーギュストは答えた。
「セラフィナの死後、管理責任者が、各地の救護院へ譲渡した。私が許可した」
フィルブランテの顔が上がる。
「なぜです」
「薬園を閉じた以上、植物を枯らすわけにはいかなかった。救護院なら、治癒草を必要とする者へ届くと思った」
「届け先の記録はありますか」
「ある」
父が帳簿を取り出す。
ノエルが素早く受け取り、頁をめくった。
「四十八件」
フィルブランテの背筋が冷える。
聖花大聖堂の地下にあった、四十八個の鉢。
異なる貴族家の紋章。
十年前、母が分けた四十八鉢。
教団はそれを追跡し、回収し、あるいは複製して、別の家を悪役に仕立てるための道具にしている。
「届け先を読み上げて」
フィルブランテが言う。
ノエルは帳簿を見た。
「ローゼン伯爵家救護院。ハルディン子爵家救護院。ヴェルナール男爵領の診療所。――」
名前が続く。
どれも王国各地の中小貴族家だ。
王都の大派閥ではない。
財政が不安定で、教会の慈善事業へ頼らざるを得ない家。
イザベルの家も、その中にあった。
「父上」
フィルブランテは帳簿を見る。
「この四十八家へ、同じ頃から借金や不正の疑いが増えていませんか」
オーギュストの表情が変わった。
「なぜ、それを」
「答えてください」
「……ある」
父は別の帳簿を引き出した。
王国財務局の調査記録。
「十年前から、各地の救護院へ配られた助成金の不足が報告されている。だが、帳簿上では支出済みだ。領主が横領したのではないかと、中央では疑われてきた」
「実際は?」
「証拠がなかった。各家も、説明できなかった。薬草も資金も届いていないのに、受領印だけはある」
受領印。
偽造された証拠。
フィルブランテの断罪へ使われる、イデルバルディ家の印。
毒花事件で現れた旧印。
同じ手口が、十年前から四十八家へ使われている。
「一つずつ、悪役を作るため」
リゼットが呟く。
「領主や令嬢を、横領者や加害者に見せるために」
「それだけじゃない」
アマンテルスが、壁の地図へ影を伸ばした。
四十八家の領地を示す印が、王国と魔侯領の境界へ散らばっている。
灰銀峡谷を囲むように。
「鉢の配置だ」
「配置?」
レオンハルトが問う。
「温室の四十九鉢と同じ。個別に見れば、ただの慈善事業と領地だ。でも地図に置くと、線になる」
アマンテルスの影が、四十八の印をつなぐ。
王国西部から北東の峡谷まで、ゆるやかな弧を描く。
もう一つの弧は、魔侯領の境界をかすめる。
二つの線が重なり、二つの月を形作った。
双月の契約の術式図。
「結界の支点」
ノエルが低く言った。
「四十八家の救護院と薬園は、古い結界の地脈上にある。セラフィナ夫人は、薬草の流通を調べていて、結界の支点まで見つけていた」
「教団は、その支点へ毒を入れている」
フィルブランテの声が乾く。
「人を悪役にし、家を孤立させ、領地の信頼を壊す。そのたびに結界の支点が弱る」
「なぜ、そこまでして」
リゼットが尋ねる。
「結界を奪うためでしょう」
レオンハルトが答えた。
「光と闇の共同契約を壊し、片方だけが管理できる形へ変える。そのために、人族と魔族の不信を育てている」
オーギュストは地図の前で動けなくなっていた。
十年前、妻が追っていたもの。
自分が封印した帳簿。
そこに、王国規模の陰謀が隠されている。
「私は」
父の声がかすれた。
「セラフィナが何を見つけたのか、理解しようとしなかった」
「今、理解すればいい」
アマンテルスが言った。
ぶっきらぼうな言葉だった。
だが、責める声ではない。
「分かってから、どうするかだ」
オーギュストは、魔族令嬢を見る。
その赤紫の瞳に、以前の娘の友人としての顔ではないものを見たのかもしれない。
「……そうだな」
彼は深く息を吸った。
「財務卿として、四十八家の助成金と流通記録を再調査する。ただし、中央から一斉に調べれば、教団へ警戒される」
「一軒ずつ、表向きは別の理由で」
フィルブランテが続ける。
「それぞれの領主へ、あなたが悪役に仕立てられている可能性があるとは言えない。けれど、受領印と流通の差を本人と共有し、記録を複製させる」
「そのためには、相手から信じてもらわなければならない」
「ええ」
フィルブランテは頷く。
悪役を一人ずつ作る仕組みなら、一人ずつ、誰かが孤立しない仕組みへ変える。
時間はかかる。
最速ではない。
それでも確実に、運命式の根を切っていく。
「その前に」
ノエルが帳簿の一頁を指した。
「今日、危険になる人物がいる」
全員が彼を見る。
頁の余白に、黒いインクが浮かび上がっていた。
誰も書いていない文字。
――第三の配役を確認。
――贖罪者、イザベル・ローゼン。
――悪役候補、ローデリア・ハルディン。
室内の空気が凍る。
「ローデリア?」
フィルブランテは名を知っていた。
ハルディン子爵家の長女。
学院の二年生で、政治・礼法科の成績上位者。控えめで、真面目で、父の領地にある救護院を支援している令嬢。
原作では、名前だけが資料に出る。
王太子ルートの終盤、戦争反対派の貴族として失脚する家の一つ。
「今日の午後、学院で創立記念礼拝がある」
レオンハルトが言う。
「ハルディン子爵家は、毎年、救護院への寄付金を式典で納める」
「イザベルは?」
リゼットが問う。
「謹慎中で、神学科書庫の奉仕活動をしているはずです」
フィルブランテの背中を冷たいものが走る。
贖罪者。
イザベルが、自分の罪を償おうとする気持ちを利用される。
ローデリアを悪役へ仕立てるための証人か、実行役にされる。
「時刻は」
アマンテルスが尋ねる。
ノエルは黒い文字の端へ杖を近づけた。
「午後三時。あと二時間半」
「戻るぞ」
アマンテルスが言う。
迷いはない。
「待ってください」
オーギュストが止めた。
「ローデリア・ハルディンは、私の監督下にある貴族家の娘だ。私も同行する」
「財務卿が学院へ?」
シリルが驚く。
「正当な理由がある。慈善事業の記録に不正の疑いがある以上、寄付式典を確認する必要がある」
「父上」
フィルブランテは父を見る。
オーギュストは少しだけ困ったように笑った。
「今度は、一人で帳簿を閉じない」
母と同じことをしない。
娘を遠ざけない。
言葉にはしていない。
それでも、その意志は伝わった。
「ですが、危険です」
「お前に言われたくはない」
父の返答に、フィルブランテは目を瞬く。
アマンテルスが横で笑いをこらえている。
「父上、冗談を」
「言えることくらいある」
オーギュストは書斎の机から、古い帳簿と氷晶記録器を手に取った。
「行こう。娘の学園行事に、父が出席して何が悪い」
その言い方が少しぎこちなくて。
フィルブランテは、初めて父の前で自然に笑った。
◇
学院へ戻る馬車の中は、行きより狭く感じられた。
オーギュストが同乗したからではない。
二時間半という制限時間が、全員の呼吸を短くしているからだ。
ノエルは帳簿を膝へ広げ、四十八家の支点と学院の地脈を計算している。シリルは礼拝堂の出入り口と避難経路を紙へ書き出し、レオンハルトは王太子として式典を中止する権限と、その場合の運命式の反応を検討していた。
リゼットは、膝の上で手を組んでいる。
聖花温室で無理をした反動が残っているのか、顔色が少し悪い。
「リゼットさん」
フィルブランテが声をかける。
「具合はいかがですか」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません。顔色が悪い」
「フィルブランテ様もです」
「わたくしは確認する側です」
「その理屈はずるいです」
リゼットは困ったように笑った。
「でも、少し怖いです。イザベル様が、また誰かに利用されるかもしれない。ローデリア様が、何も知らないのに悪い人にされるかもしれない」
「怖くて当然です」
「フィルブランテ様は怖くないんですか」
フィルブランテは答えようとして、やめた。
怖い。
次の事件が早まり、未来を知っていることが役に立たなくなりつつある。
父と少し話せた直後に、また誰かを失うかもしれない。
怖くないわけがない。
「怖いです」
正直に答える。
「ですが、怖いことを理由に一人で決めないようにしています。今は皆さんがいますから」
リゼットの表情が、少しだけやわらいだ。
反対側から、アマンテルスが手を伸ばす。
何も言わず、フィルブランテの左手を一度だけ叩いた。
大丈夫だ、という兄の癖だ。
公爵令嬢と魔族令嬢の姿では、ひどく奇妙な励ましに見える。
けれど、フィルブランテには十分だった。
「到着まで、四十分」
ノエルが言う。
「術式の記録から、ローデリア・ハルディンを悪役候補へ固定するためには、イザベル・ローゼンの自発的な証言が必要」
「自発的?」
レオンハルトが眉をひそめる。
「脅されて話しても、術式には自発と記録されるのか」
「言葉として本人が選べば。だから、脅迫は術式の外側に残る」
「なら、イザベルに先に選ばせる」
アマンテルスが言う。
「教団の言うことを聞かないって」
「脅迫されている相手へ、簡単に言うな」
フィルブランテは止める。
「分かってる。だから、借金を人質に取られても選べるよう、別の道を作る」
オーギュストが帳簿を閉じた。
「ローゼン伯爵家の負債は、財務局で再調査する。証文が教団の不正流通と結びつくなら、返済の凍結を命じられる」
「今からですか」
「馬車の中でも命令書は書ける」
父は印章を取り出す。
筆を走らせ、短い文書を作る。
ローゼン伯爵家の負債について、強制取り立てと財産処分を即時停止する。
調査終了まで、債権者との接触を禁じる。
財務卿の印が押される。
「これをイザベルへ渡せば、脅迫の材料が一つ消える」
「一つだけです」
フィルブランテは言う。
「家族への脅しが、ほかにもあるかもしれない」
「なら、そこも調べる」
オーギュストは娘を見る。
「お前が、先に一人で抱えずに話したように」
フィルブランテは少し黙った。
父は、今までとは違う。
まだ距離はある。
母の死の理由も分からない。
すぐに以前の家族へ戻れるわけではない。
それでも、同じ方向を向くことはできる。
「はい」
フィルブランテは頷いた。
◇
午後二時五十分。
王立ルクシア学院の礼拝堂には、多くの学生と貴族が集まっていた。
創立記念礼拝。
毎年、王家と有力貴族が救護院への寄付を表明し、聖花教会の神官が祝福を与える行事である。
白い石の壁へ、色硝子から差し込む光が揺れている。
祭壇の前には寄付金の箱と、各家の紋章を刻んだ帳簿が並ぶ。
その一つに、ハルディン子爵家の黒金の紋章があった。
礼拝堂の前列には、ローデリア・ハルディンが立っている。
濃い栗色の髪を低く結い、控えめな藍色の制服を着た二年生の令嬢。隣にいる父親の代わりに、寄付文書を捧げる役目を担っていた。
フィルブランテは彼女を遠くからしか見たことがない。
資料に出る名前。
失脚する家の娘。
今のローデリアは、ただ緊張しながら紙を持つ、真面目そうな先輩だった。
「イザベルはどこだ」
アマンテルスが小声で尋ねる。
フィルブランテは周囲を探した。
書庫奉仕中なら、本来は礼拝へ出席しない。
しかし、神学科書庫と礼拝堂は地下通路でつながっている。
「まだ来ていない」
「黒い文字が示した時刻まで、あと十分」
ノエルの声は冷静だが、杖を握る手には力が入っていた。
レオンハルトは、祭壇の脇にいる大司教ザハルを見た。
白い法衣。
変わらぬ慈愛の笑み。
彼は学生たちへ祝福の言葉を語っている。
「救護とは、誰かの痛みを自らの痛みとして受け取ることです。支える者と支えられる者が、それぞれの役目を正しく果たすとき、世界は調和します」
役目。
フィルブランテの腕に残る黒い霜が、ひりつく。
ザハルは、こちらを見ていない。
だが、話は明らかに自分たちへ向けられている。
「殿下」
シリルが低く言う。
「礼拝堂の東側通路に、通常より多くの神官がいます」
「教団の者か」
「不明です。ただ、入口と窓際へ均等に配置されています」
「避難経路を塞ぐ気かもしれない」
レオンハルトの指が剣の柄へかかる。
「今すぐ式典を中止すれば?」
フィルブランテは考える。
運命式は、〈ローデリアを悪役候補へ固定する〉結果を求めている。
式典を止めれば、別の場所で寄付金の不正が発覚し、彼女へ疑惑が向くかもしれない。
だが、罠が発動するのを待てば、人が傷つく。
「中止はしません」
意外にも、オーギュストが言った。
「ただし、式典の内容を変える」
彼は王太子の前へ進み、財務卿の印章を取り出した。
「本日、慈善事業の資金と薬草流通について、王国財務局による緊急監査を開始します。寄付金は教会へ引き渡さず、王家と各領主の共同名義で保管する」
「父上?」
フィルブランテが驚く。
「虚無教団が資金を利用している可能性がある以上、目の前の帳簿をそのまま渡すわけにはいかない」
オーギュストは礼拝堂全体へ聞こえる声で告げた。
「本日の寄付は、各家の善意を記録し、被支援者へ確実に届けるため、すべての帳簿を公開のもとで照合します」
ざわめきが起きる。
大司教ザハルの微笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「財務卿閣下」
ザハルは柔らかな声で言う。
「教会の慈善を疑っておいでですか」
「慈善そのものを疑ってはおりません」
オーギュストは答える。
「だからこそ、疑念の残らぬ形で届ける必要があります」
「この場で突然の監査は、寄付者の名誉を傷つける恐れが」
「名誉を守るためです。善意が不正利用されたなら、寄付者も、受け取るべき者も傷つく」
父の声は、揺れなかった。
帳簿を閉じてきた男が、今は公の場で帳簿を開こうとしている。
フィルブランテは胸の奥が熱くなるのを感じた。
そのとき、礼拝堂の西扉が開いた。
イザベル・ローゼンが、息を切らして立っている。
制服の袖は乱れ、包帯の取れた右手には、新しい傷があった。
「イザベル!」
リゼットが駆け寄ろうとする。
しかしイザベルは、こちらへ来なかった。
祭壇の前。
ローデリアのいる方へ、まっすぐ歩き出す。
足元には、黒い文字が絡みついている。
――贖罪者。
――偽りを告げよ。
フィルブランテは、黒い文字を見た。
ほかの者には見えない。
だが、イザベルの顔には、明らかに怯えが浮かんでいた。
「止めろ!」
アマンテルスが影を伸ばす。
黒い文字を押さえようとした瞬間、礼拝堂の色硝子が一斉に鳴った。
白い光が、イザベルとローデリアの間へ降りる。
光の壁。
影を弾くための術式だ。
ザハルは祭壇の前で、何もしていないように両手を組んでいる。
「イザベル様?」
ローデリアが戸惑って尋ねた。
イザベルは、震える手に一通の書状を持っていた。
ハルディン家の印。
「わたくしは」
声が震える。
「ハルディン様が、救護院への寄付金を横領する場面を見ました」
礼拝堂が静まり返る。
ローデリアの顔から、血の気が引いた。
「何を、おっしゃるのです」
「わたくしは、書庫で、帳簿を」
言葉に合わせ、黒い文字がイザベルの喉へ絡みつく。
これは彼女の意思ではない。
だが、声は彼女のものだ。
運命式は、本人の口から偽りを言わせる。
フィルブランテは光の壁を見る。
物理的に破れば、礼拝堂へ影響が出る。
アマンテルスの影を強めれば、また怪物の印が反応する。
イザベルを止めれば、運命式はローデリア本人の失言や、別の証人を作るかもしれない。
先に、彼女へ選択肢を渡す。
「イザベル!」
フィルブランテは叫んだ。
光の壁の外から、財務卿の命令書を掲げる。
「見なさい!」
イザベルの目が、こちらへ動く。
「ローゼン伯爵家の負債について、強制取り立てと財産処分を停止する命令書です。あなたのお父様が脅されている件も、すでに財務局が調べます」
黒い文字が、イザベルの首を締める。
彼女は苦しそうに息を吸った。
「そんな、ことをしても……父は」
「守れます」
オーギュストが一歩前へ出る。
「私は財務卿オーギュスト・イデルバルディ。あなたの父君を、借金を理由に脅す者がいるなら、取引の正当性から調べる。あなたが一人で、罪を被る必要はない」
イザベルの目から涙が落ちる。
黒い文字が、なおも命じる。
――贖罪せよ。
――かつての罪を償うため、次の罪を引き受けよ。
「わたくしは」
イザベルの唇が動く。
「わたくしは、以前、フィルブランテ様を裏切りました」
フィルブランテは息を止める。
「アーヴェインさんの教本を、書庫へ戻しました。あれは、わたくしが選んだことです」
周囲の学生がざわめく。
イザベルは顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、ローデリアを見る。
「だから、今度は正しく償いたい。何もしていない方へ、嘘を言うことではありません」
黒い文字が、激しく揺れる。
贖罪者の印が、足元で割れた。
しかし光の壁は消えない。
役を一つ拒んでも、悪役候補の印はローデリアの足元へ残っている。
運命式は、別の方法で彼女を孤立させる。
祭壇の寄付箱が、ひとりでに開いた。
中から金貨ではなく、黒い土があふれ出す。
土の中には、白い根が絡みついていた。
毒花事件と同じ根。
そして根の先には、ハルディン家の印が刻まれた小さな鉢がある。
「偽の証拠を、目の前に出した」
ノエルが呟く。
「ローデリアを悪役候補にするための、第二条件」
学生たちの視線が、ローデリアへ向く。
彼女は震えながら、寄付文書を握っている。
原作には名前しかなかった令嬢。
今、悪役にされようとしている。
フィルブランテは白い日傘を、床へ置いた。
「ローデリア様」
声をかける。
「こちらへ」
「ですが、わたくしの家の印が」
「印があるからといって、あなたが犯人とは限りません」
「でも、皆様が」
「皆様が決める前に、あなた自身が何を知っていて、何を知らないかを話してください」
「わたくしは……」
ローデリアは泣きそうな顔で、寄付文書を見る。
背後には、教団の根。
前には、疑う学生たち。
逃げれば、悪役になる。
黙っても、悪役になる。
運命式が、彼女へ選択肢を与えない。
だからフィルブランテは、もう一つの選択肢を作る。
「分からないなら、分からないとおっしゃってください」
ローデリアが顔を上げる。
「それは、無責任では」
「分からないことまで、自分の罪にする方が無責任です。調べるのは、ここにいる皆の役目です」
レオンハルトが、フィルブランテの隣へ立った。
「王太子として宣言する。ハルディン子爵家への疑惑は、証拠の検証が終わるまで、誰も口にすることを許さない」
シリルは光の壁の外周へ回り、槍で床を打つ。
風が礼拝堂全体へ広がり、黒い土と根を隔離する。
「魔力痕を保全します。触れないでください」
ノエルが杖を掲げる。
「根に残る術式を解析する。誰が植えたかは、これから記録を読む」
リゼットが、光の壁へ手を当てた。
「イザベル様。あなたも、ここへ来てください」
「でも、わたくしは」
「一人で償わなくていいです」
リゼットの言葉に、イザベルの足が動く。
光の壁が、彼女を戻そうとする。
アマンテルスが、奥歯を噛んだ。
「今度は、俺たちが道を作る」
黒い影が光の壁へ伸びる。
怪物として光を喰らうのではない。
壁の中へ絡む運命式の文字だけを、丁寧に影へ包む。
「フィルブランテ!」
「分かってる!」
フィルブランテの扇が開く。
青い氷晶が、影に包まれた黒い文字へ触れる。
いつ、どこで、誰が、壁を作ったのか。
記録を固定する。
リゼットの聖花が、光の壁と黒い運命式を分ける。
白い花弁が一枚ずつ、壁から黒い字を剥がしていく。
「黄昏晶花陣」
学院長の声が、礼拝堂の入り口から響いた。
いつの間にか、エレオノーラが教員たちと立っている。
「三人とも、無理はしないように」
「今、無理をしない方が無理ですわ!」
フィルブランテが叫び返す。
自分でも珍しい言葉だった。
アマンテルスが隣で、少し笑う。
「元気そうだな」
「兄貴は集中しろ!」
三人の力が、光の壁を崩す。
壁そのものは壊さない。
人を閉じ込め、役を強いる黒い術式だけを分離する。
最後に、リゼットが手を伸ばした。
「イザベル様!」
イザベルの手が、リゼットの手を取る。
同時に、光の壁が砕けた。
砕けた光は花弁へ変わり、黒い土の上へ降る。
根が苦しむように縮み、寄付箱の中へ戻っていく。
だが、根の一部はすでにローデリアの足元へ伸びていた。
今度は彼女を、黒い土の中へ引き込もうとする。
「ローデリア様、動かないで!」
フィルブランテが叫ぶ。
彼女は足を引こうとする。
その瞬間、黒い根が足首へ絡みついた。
運命式が望むのは、彼女を罪の現場へ閉じ込め、逃げようとした悪役にすること。
シリルが槍を振る。
風の刃が根を断とうとして、途中で止まった。
「切れば、根が地下の地脈へ逃げます!」
ノエルの警告。
「なら、引き抜く」
アマンテルスが言う。
「待て、兄貴。影で直接触れば、呪いが」
「前と同じじゃない。今度は、分ける」
アマンテルスはローデリアを見る。
彼女は恐怖で震えている。
けれど、引きずり込まれながらも、寄付文書を手放していない。
「ローデリア」
アマンテルスは敬称を外して呼んだ。
兄が無意識に、誰かを役ではなく名前で呼ぶときの声だった。
「自分で出る気があるか」
「……あります」
「本当に?」
「あります。わたくしは、逃げたくありません。何が起きているか、知りたい」
「分かった」
アマンテルスは影を伸ばす。
根を力で引き抜くのではない。
ローデリアの足元と、黒い根の間へ薄い影を差し込む。
彼女自身が一歩を踏み出せるだけの隙間を作る。
「今だ」
ローデリアは、震える足を持ち上げた。
根が抵抗する。
フィルブランテの氷晶が、根の由来を固定する。
リゼットの光が、ローデリアの足首と呪いを分離する。
彼女は一歩、黒い土の外へ出た。
その一歩で、足元の〈悪役候補〉の印が砕けた。
黒い根が叫ぶように震え、寄付箱の中へ沈む。
アマンテルスの影が蓋を閉じる。
ノエルが無属性術で金具を封じ、レオンハルトが光の結界で外周を固定した。
礼拝堂に、ようやく空気が戻る。
ローデリアは、リゼットとフィルブランテの手を借りて立っていた。
足首には黒い痣が残っている。
だが、目はまだ死んでいない。
「ありがとうございます」
彼女は小さく言った。
「わたくし、何も知らなくて」
「知らないことは、罪ではありません」
フィルブランテは答えた。
「これから知ればよいのです」
その言葉は、三日前の自分へ向けたものでもあった。
◇
式典は中止となり、礼拝堂は王家と学院の管理下へ置かれた。
ハルディン家の寄付箱、黒い根、イザベルが持っていた偽造書状、そして床に残った運命式は、三者立会いのもとで封印された。
オーギュストは、集まった学生と貴族へ明確に告げた。
「本件は、ハルディン子爵家の不正を示すものではない。むしろ、何者かが同家の印を利用し、疑惑を作ろうとした可能性が高い」
ローデリアの父は、遠くの領地にいる。
娘が一人で疑われる場面を、父はまだ知らない。
だからこそ、ここで公式の言葉を残す必要があった。
「私は財務卿として、ハルディン家とローゼン家を含む四十八家の助成金、薬草流通、受領記録を再調査する。個人の噂だけで、誰かを罪人にすることは許さない」
大司教ザハルは、最後まで穏やかな表情を崩さなかった。
「賢明なご判断です、閣下。若い令嬢方の名誉が守られることを、私も祈っております」
「祈るだけではなく、教会の帳簿も提出していただきます」
オーギュストは即座に返した。
一瞬だけ。
ザハルの瞳から、慈愛が消えた。
だがそれを見たのは、アマンテルスとフィルブランテだけだった。
「もちろん」
大司教は微笑む。
「神の御前で、隠すべきものなどございませんから」
彼はそう言い、白い法衣を翻して礼拝堂を去った。
アマンテルスの影が、その後ろ姿を追おうとする。
フィルブランテが、兄の袖をつかんだ。
「今は追うな」
「分かってる。証拠もなしに、あいつへ飛びかかるほど馬鹿じゃない」
「本当に?」
「最近は考えてから殴る」
「殴る前提をやめろ」
その会話を聞いたレオンハルトが、深くため息をついた。
「二人とも。少なくとも学院内では、暴力を前提にした議論をしないでくれ」
「殿下、わたくしたちは大変平和的ですわ」
「どこが」
アマンテルスとフィルブランテの声が重なる。
今度は、レオンハルトもシリルも笑った。
緊張が少しだけほどける。
◇
日が傾く頃、礼拝堂の控室には、第一演習班とイザベル、ローデリア、オーギュストが集まっていた。
ローデリアの足首は、リゼットの治癒で痛みが引いている。
イザベルの右手には、負債凍結の命令書がある。
彼女はそれを、何度も確かめるように見つめていた。
「本当に、父の家は」
「調査が終わるまで、強制的な処分は行わせない」
オーギュストが答える。
「ただし、負債がすべて消えるとは約束できない。だが、脅迫者の都合で人生を決めさせることはしない」
「それで十分です」
イザベルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「感謝は、これからの証言で示しなさい。脅迫の手紙、仲介者の特徴、書庫で聞いたこと。小さなことでも構わない」
「はい」
イザベルが頷く。
以前のように、フィルブランテの取り巻きとして命令を待つ顔ではなかった。
自分の判断で話そうとする顔だった。
「ローデリア様は」
リゼットが尋ねる。
「大丈夫ですか」
「まだ、大丈夫とは言えません」
ローデリアは正直に答えた。
「家の印が使われていました。父が何かを知っているのか、わたくしには分かりません。皆様の前で、嘘をついたと疑われたことも怖かった」
彼女は手元の寄付文書を見た。
「でも、分からないことまで自分の罪にしないでよいと、フィルブランテ様はおっしゃいました」
「ええ」
「ですから、わたくしも調べます。ハルディン領の救護院と、寄付金の記録を。父にも、隠さず話します」
ローデリアは、フィルブランテをまっすぐ見た。
「一人で調べないよう、誰かに頼みます」
フィルブランテは頷いた。
母が残した言葉が、別の誰かへ渡っていく。
記録は、一人で抱えるためにあるのではない。
誰かへ渡し、一緒に考えるためにある。
「必要であれば、第一演習班へお知らせください」
レオンハルトが言う。
「学院の外であっても、できる限り協力する」
「ありがとうございます、殿下」
ローデリアは礼を取った。
それを見ていたノエルが、結晶板から顔を上げる。
「記録を一つ追加」
「何ですか」
フィルブランテが尋ねる。
「運命式は、悪役候補を固定するために、本人の不正ではなく、周囲の『そうであってほしい』という解釈を利用している」
「今さらですか」
アマンテルスが言う。
「今までは仮説だった。今日、イザベルの証言が拒絶された後、根と偽造書状で第二の疑いを作った。方法は変わっても、必要なのはローデリアが孤立すること」
ノエルは結晶板へ図を書き始める。
「なら対策も、証拠だけでは足りない。疑われた者へ、本人が話せる場所と、複数の証人が必要」
「人の関係を、また数式にするのですか」
リゼットが問いかける。
「数式にすれば、足りない条件が分かる」
「人は条件だけではありません」
「分かってる」
ノエルは少し間を置いて、続けた。
「だから、条件に名前を書く」
結晶板に、六つの名前が並ぶ。
フィルブランテ。
アマンテルス。
リゼット。
レオンハルト。
シリル。
ノエル。
その下に、イザベルとローデリアも加わった。
「一人で疑われたとき、話を聞く相手が一人もいない状態を、危険域と定義する。名前が増えれば、危険域は下がる」
「それ、ただの友達じゃないか?」
アマンテルスが言う。
「友達は定義が曖昧だ」
「同盟仲間です」
リゼットが笑う。
「双傘同盟の」
フィルブランテは反論しかけ、やめた。
同盟の名前を知っている者が、いつの間にか増えている。
白い傘と黒い傘だけだったはずが、今は八人の名前が結晶板にある。
秘密は減った。
危険も増えた。
それでも、孤立は減っている。
それなら悪くない。
「父上」
フィルブランテはオーギュストへ向き直った。
「公爵領の薬園に、まだ母上の記録が残っている可能性があります」
「分かっている」
「調査を続けたい」
「許可する」
父はすぐに答えた。
以前なら、危険だから駄目だと言っただろう。
今は、条件を付けた。
「ただし、公爵家の護衛と、財務局の調査官を付ける。お前一人で、あるいは学生だけで入ることは認めない」
「……承知しました」
フィルブランテは素直に頷いた。
アマンテルスが少し驚いた顔をする。
「何だよ」
「いや。お前が一回で聞くとは」
「合理的な条件だからな」
「前は、危機管理がどうとか言って窓から」
「兄貴」
父の前で、その話はやめてほしい。
オーギュストは聞こえなかったふりをした。
ただし、少しだけ口元が緩んでいた。
◇
その夜。
聖花大聖堂の地下で、大司教ザハルは、四十八個の鉢のうち一つを持ち上げた。
表面に刻まれた紋章は、ハルディン子爵家のもの。
鉢の中には、枯れた白い根が残っている。
「一つ、失いました」
黒衣の人物が言った。
「いいえ」
ザハルは、根を指先で砕く。
「ローデリア・ハルディンは、今、自分が疑われたことを知りました。父を信じたい気持ちと、領地の記録を恐れる気持ちを抱えた」
「ですが、彼女は孤立しなかった」
「今は」
大司教は微笑んだ。
砕けた根から、黒い種が一つ落ちる。
「人は、救われた直後が最も脆い。信じた者が一つでも裏切れば、次は自ら望んで役を求めるでしょう」
ザハルは別の鉢へ手を伸ばす。
そこに刻まれていたのは、王国北部の辺境伯家の紋章だった。
「次は、傘を持たない者から始めましょう」
暗闇の中で、四十七個の鉢が静かに光った。




