第六話 毒花は三人で摘む
聖花温室の毒花事件まで、残り六時間。
フィルブランテは、鏡の中の自分と睨み合っていた。
淡い金髪は一分の乱れもなく結い上げられ、学院の白い制服には氷薔薇の徽章が光っている。青紫の瞳にも、寝不足はほとんど表れていない。
完璧な公爵令嬢だった。
ただし、右腕だけは肩から指先まで包帯で巻かれている。
「過剰ではありませんか」
フィルブランテが訴えると、背後のミレーヌは包帯の端をさらに締めた。
「昨夜、安静を命じられたお嬢様が、夜半に三度も寝台を抜け出そうとなさらなければ、ここまで固定する必要はございませんでした」
「資料を取りに行こうとしただけです」
「一度目は」
「二度目もです」
「二度目は窓を開けていらっしゃいました」
「換気ですわ」
「縄梯子を持って?」
フィルブランテは鏡から目を逸らした。
昨夜、第一演習班は旧文書庫で〈双月の契約〉と、世界を物語の役へ縛る〈運命式〉を発見した。
その直後、次の事件が三か月前倒しされ、今日の正午に起きると判明したのである。
大人しく眠れる方がおかしい。
「お兄様も、同じことをなさったそうです」
ミレーヌが淡々と告げた。
「兄ではございません」
「ルーシェ様から、夜明け前に三度、迎賓寮の窓から脱出しようとなさったと」
「……回数まで同じとは、あの馬鹿」
「お嬢様?」
「何でもございません」
ミレーヌが、鏡越しにフィルブランテを見つめる。
「昨夜のお話は、事実なのですね」
「どのお話でしょう」
「アマンテルス様と、以前はご兄弟であったと」
フィルブランテの肩が止まった。
リゼットとイザベルにだけ話したつもりだった。
「どなたから」
「治療室で、お二人が普通に兄、弟と呼び合っておられました」
「……負傷で意識が混濁していたのです」
「そういうことにしておきましょう」
「信じるのですか」
思わず尋ねた。
ミレーヌは包帯を留め、フィルブランテの右手へ白い手袋を重ねる。
「お嬢様はお嬢様です。以前どのようなお姿で、どなたの弟でいらしたとしても、私がお仕えしてきた日々が消えるわけではございません」
「ですが、今のわたくしは、以前のフィルブランテと同じでは」
「昨日も申し上げました。幼い頃からお仕えしております」
ミレーヌの声は静かだった。
「変わったところも、変わらないところも存じております。お嬢様が何者かは、私が決めることではございません」
フィルブランテは鏡の中の少女を見る。
唐傘輝。
フィルブランテ。
どちらか一方ではない。
リゼットが言ったように、今の自分は自分なのだろう。
「ありがとうございます」
「感謝は、安静の命令を守ることでお示しください」
「本日は無理です」
「存じております」
ミレーヌはため息をつき、フィルブランテへ一枚の紙を差し出した。
「星読塔から、夜明けに届きました」
差出人はノエル・エルミナージュ。
前置きも挨拶もなく、一行だけ書かれている。
――聖花温室を閉鎖すると、術式の発動時刻が早まる。閉鎖は推奨しない。
「何を試したんだ、あいつ」
「お嬢様」
「何を試したのでしょう、あの方は」
言い直しても、疑問は消えない。
フィルブランテは壁の時計を見た。
午前六時。
正午まで、残り六時間。
「馬車を」
「すでに用意しております」
「反対なさらないのですか」
「してもお聞きにならないでしょう」
「理解が早くて助かります」
「ただし、私も同行いたします。魔力の使用は治癒師が許可した範囲まで。一時間ごとに休憩。食事を抜かない。単独行動は禁止です」
「条件が多すぎませんか」
「では、屋敷へ残られますか」
「承知いたしました」
即答した。
ミレーヌが満足そうに頭を下げる。
「それでは参りましょう、お嬢様」
◇
午前七時。
王立ルクシア学院の治療室では、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルが、窓枠へ片足を掛けていた。
「アマンテルス様」
背後から呼ばれ、アマンテルスはゆっくり振り返る。
リゼットが、薬湯の盆を両手で持って立っていた。
若草色の瞳が、開いた窓、窓枠の足、結ばれたシーツの順に動く。
「おはよう、リゼット」
「どちらへ行かれるのですか」
「朝の散歩」
「二階の窓から?」
「魔族領では一般的だ」
「ルーシェさんは、一般的ではないと言っていました」
扉の陰から、桃色の髪がのぞく。
「申し訳ございません、アマンテルス様。昨日、危険なときは情報を共有するとお約束しましたので」
「それとこれとは違うだろ」
「脱走も危険です」
リゼットは盆を机へ置き、アマンテルスのもとへ歩み寄った。
「寝台へ戻ってください」
「事件まで五時間だぞ」
「朝食まで十五分です」
「優先順位がおかしい」
「お腹が空いていたら、魔法も使えません」
「正論で殴るの、フィルブランテに似てきたな」
「褒め言葉ですか?」
「たぶん」
アマンテルスは窓枠から足を下ろした。
その瞬間、包帯の下で呪いが疼き、右腕から力が抜ける。
身体が傾いた。
「危ない!」
リゼットが支えようとする。
だがアマンテルスの方が背が高く、二人まとめて床へ倒れそうになった。
影が反射的に伸び、壁へ突っ張る。
どうにか転倒は避けた。
「大丈夫だ」
「大丈夫な人は、今、倒れかけません」
「足を滑らせただけ」
「窓から出ていたら、そのまま落ちていました」
「影で何とかする」
「その影が不安定なんでしょう?」
言い返せない。
旧文書庫で〈怪物〉の役を強制された影は、まだアマンテルスの意思へ完全には戻っていなかった。
強い魔力を使うと、影が必要以上に広がる。
耳元では時折、原作のアマンテルスの台詞が響く。
『すべて、わたくしが抱けばよい』
アマンテルス自身の悪い癖と、この身体に刻まれた自己犠牲が重なり、呪いにとって都合のよい形になっている。
「分かった。飯を食ってから行く」
「本当ですか?」
「約束する」
リゼットがじっと見る。
「何だよ」
「アマンテルス様の約束は、どのくらい信じてよいのか考えています」
「失礼だな」
「昨日、一人で影を押さえないと約束した直後、一人で押さえていました」
「緊急事態だった」
「今日は、わたしも一緒に行きます」
「駄目だ」
「どうしてですか」
「狙われてるのはお前だ」
アマンテルスは窓の外へ視線を向けた。
朝日に照らされた硝子の建物。
聖花温室。
原作では、リゼットが治癒訓練中に毒花の花粉を吸い、三日間、生死の境をさまよう。
フィルブランテが公爵領から毒花を取り寄せたと疑われ、悪役としての評判が決定的になる事件だ。
「だから行くんです」
リゼットは言った。
「わたしがいなければ、事件が別の人へ向かうかもしれません」
「危険だと分かってる場所へ、本人を連れていけるか」
「危険だと知らないまま、誰かを代わりにする方が嫌です」
「それでも」
「助けさせると約束しました」
また、その言葉だった。
アマンテルスは舌打ちしたくなった。
自分で結んだ約束なのだから、誰にも文句は言えない。
「絶対に、俺より前へ出るな」
「アマンテルス様より前は、危険の中心では?」
「細かいことはいい」
「よくありません。第一演習班で決めましょう」
「お前、本当にフィルブランテに似てきたな」
「今度は、褒め言葉として受け取ります」
リゼットは薬湯の椀を差し出した。
緑色の液体から、薬草とは思えない臭いが立ち上る。
「これを飲んだら、朝食です」
「毒花より先に、これで死にそうなんだけど」
「治癒院の先生が、よく効くと」
「効く薬と飲める薬は別だろ」
「飲まなければ、フィルブランテ様へ報告します」
アマンテルスは黙って椀を受け取った。
敵が増えた気がした。
◇
午前八時。
第一演習班は、聖花温室前の植物学準備室へ集まった。
長机の中央には、ノエルが保存した運命式の黒いインクと、温室の見取り図が置かれている。
フィルブランテ。
アマンテルス。
リゼット。
レオンハルト。
シリル。
ノエル。
さらにエレオノーラ学院長、温室管理責任者のオルガ・メイフェルト教授、ミレーヌ、ルーシェが立ち会っていた。
「最初に申し上げます」
オルガ教授は、土で汚れた作業着の腕を組んだ。
五十代半ばの女性で、短く切った灰緑色の髪に、蔓草の髪飾りを差している。
「植物を傷つける方は、身分にかかわらず温室から叩き出します。殿下もです」
「承知しました」
レオンハルトは真面目に頷いた。
「話が早くて助かります。学院長から、正午に毒花が発生する可能性があると伺いました。しかし、昨夜から教員総出で調べても、毒性植物は一株も見つかっておりません」
「見つからないよう作られている可能性があります」
フィルブランテは見取り図へ目を落とす。
「原作では、公爵領から届いた鉢が証拠になる」
小声でアマンテルスへ言う。
「鉢そのものに毒がなくて、後から生えるのかもな」
アマンテルスも小さく返した。
レオンハルトが二人を見る。
「何か?」
「イデルバルディ公爵領から届いた鉢は、何個ございますか」
フィルブランテが表向きの質問へ変えた。
オルガ教授は帳簿を開く。
「四十八。春期入学生の実習用です。銀鈴草、清明百合、朝露蘭。いずれも治癒薬の材料となる無毒の植物です」
「現在も四十八ですか」
「昨日までは」
教授の声が低くなる。
「今朝、数え直したところ、四十九ありました」
室内が静まった。
「一鉢、増えている?」
リゼットが尋ねる。
「ええ。ですが、どれが増えたものか分かりません。鉢も植物も、ほかと同じです」
「四十九鉢すべてに、公爵家の印が?」
「底にございます」
オルガ教授は一枚の拓本を机へ置いた。
氷薔薇を囲む、三本の麦穂。
イデルバルディ公爵家の園芸事業で使われる印である。
「本物です」
フィルブランテは認めた。
誰かが偽造した、と即座に否定しない。
それを聞いた教授の目が鋭くなる。
「では、公爵家から毒花が?」
「印が本物であることと、現在の公爵家が送ったことは別です。出荷記録を確認させてください」
ミレーヌが、用意していた書類を机へ並べる。
「公爵家の記録では、学院へ送った鉢は四十八。出荷日は五日前、責任者は領内園芸局のバルトン。王都西門、学院倉庫、温室で、それぞれ数量確認を受けております」
「どこまでは四十八でした?」
シリルが尋ねる。
「昨日の正午、学院倉庫へ入った時点までです」
「倉庫から温室へ運ぶ間に増えた」
「その可能性が高いでしょう」
レオンハルトは学院長を見る。
「運搬担当者は」
「学生奉仕員が八名、園芸局員が二名、学院職員が三名。全員を別室で待機させています」
「誰かを犯人と決めつけてはなりません」
フィルブランテは言った。
「教本事件では、イザベル本人も術式に利用されました」
「しかし、鉢が勝手に歩くわけではない」
オルガ教授が険しい顔をする。
「普通の鉢なら」
ノエルが初めて口を開いた。
彼は夜明けから温室周辺の魔力を測定していたらしく、机の端には記録用の結晶板が積まれている。目の下には薄い隈があるが、本人は気にしていない。
「運命式の接続先は温室全体。特定の一鉢ではない」
「どういうことです?」
リゼットが問う。
「昨夜、温室の閉鎖を学院長へ提案した。許可を出す直前、発動時刻が正午から午前八時へ変化した」
「待ってください」
フィルブランテは顔を上げた。
「閉鎖を試すとは、実際に命令を出そうとしたのですか」
「そう」
「もし即座に発動していたら?」
「学院長が、閉鎖命令へ署名する前に止めた」
「そういう問題ではありません」
「必要な実験だった」
「誰にも相談せずに?」
「相談すれば、意見の集約に時間がかかる」
「その間に発動した可能性があります!」
ノエルは理解できないようにフィルブランテを見る。
「だから、発動しない限界を計算した」
「計算が間違っていたら、人が死んでいたのです!」
「間違っていない」
「結果論です!」
二人の間の空気が張り詰める。
ノエルに悪意はない。
危険を早く知り、対処するために行動した。
それでも、巻き込まれる人間の意思を確認していない。
「ノエル」
リゼットが静かに呼んだ。
敬称が消えている。
少年の琥珀色の目が動く。
「旧文書庫で、資料より人を優先すると約束しました」
「昨夜は、全員が安全な場所にいた」
「温室で働く方たちがいます」
「閉鎖前に避難させる予定だった」
「知らない間に実験へ使われたことは、変わりません」
ノエルは黙った。
オルガ教授も、厳しい目で彼を見ている。
「……次からは、先に話す」
「次からではなく、今もです」
「何を?」
「まだ話していない結果があるでしょう」
ノエルは数秒、リゼットを見つめた。
やがて、黒いインクの瓶へ杖を向ける。
「温室を閉じても、鉢をすべて処分しても、術式は別の場所へ接続する。対象はリゼット・アーヴェイン。結果は、聖花の暴走とフィルブランテへの疑惑」
室内の視線が、リゼットとフィルブランテへ集まった。
「最初から、それを言ってください」
リゼットの声は震えていた。
怒っている。
それでも目を逸らさない。
「怖いからこそ、知っていたいんです」
「知れば、判断が鈍ることもある」
「それも、わたしが決めます」
ノエルは目を伏せた。
「……分かった」
短い答えだった。
しかし今度は、言い訳を続けなかった。
「では、目的を整理します」
レオンハルトが会議を戻す。
「第一に、正午の発動まで温室内の全員を守る。第二に、リゼットの聖花暴走を防ぐ。第三に、フィルブランテへ疑惑を集中させない形で証拠を保存する」
「毒花の発生そのものを止めないのですか」
オルガ教授が問う。
「止める方法が見つかれば止めます。ただし、無理に消せば別の場所へ移る」
フィルブランテは見取り図を指した。
「正午まで通常通り温室を運用しながら、全員が把握した状態で監視します。学生の実習は中止。ただし中止理由は設備点検とし、術式へ〈閉鎖〉と判断させない。教員と使用人は必要最小限に絞り、全員へ危険を説明します」
「本人の意思で、残るか退くか選ばせるのですね」
学院長が確認する。
「はい」
「私は残ります」
オルガ教授が即答した。
「植物を守るため、ではありません。私の管理する施設で、学生を傷つけさせないためです」
「わたくしも残ります」
ミレーヌが言う。
「お嬢様の監視が必要ですので」
「わたしもです」
ルーシェが翼を小さく広げた。
「アマンテルス様は、気づくと危険の中央にいらっしゃいますから」
「俺の扱い、ひどくないか」
「実績です」
フィルブランテ、ミレーヌ、リゼットの声が重なる。
アマンテルスは黙った。
「ほかの職員は避難させましょう」
レオンハルトが決める。
「シリルは温室外周と避難経路。私は正面の防護結界。ノエルは術式解析。三人は中央で毒花へ対処する」
「三人?」
リゼットが尋ねる。
「君、フィルブランテ、アマンテルス嬢だ。教本を修復したときの連携が必要になる」
レオンハルトはフィルブランテとアマンテルスを見る。
「ただし、どちらかが倒れれば即座に中止する。異論は?」
「倒れた本人が大丈夫だと言っても?」
アマンテルスが問う。
「中止する」
「厳しくないか」
「そなたの大丈夫は信用できない」
「殿下まで」
「実績だ」
今度はレオンハルトまで同じことを言った。
シリルが小さく笑う。
アマンテルスは不満そうだったが、反対はしなかった。
「では、始めましょう」
フィルブランテは時計を見る。
正午まで、残り四時間。
◇
聖花温室は、学院中央棟と神学・治癒科棟の間に建つ、巨大な硝子の宮殿だった。
乳白色の柱が半円形の天井を支え、朝の光を受けた無数の硝子板が虹を作っている。
内部は四区画に分かれていた。
日光を好む薬草を育てる〈陽光区〉。
湿地植物を集めた〈水鏡区〉。
魔力に反応する花を育てる〈感応区〉。
聖花紋の訓練に使う中央の〈花冠区〉。
問題の四十九鉢は、花冠区の外周へ並んでいた。
白い清明百合。
銀色の鈴を下げる銀鈴草。
淡い青の朝露蘭。
どれも原作の背景で見た植物である。
毒性はない。
見た目にも異常はない。
「一鉢ずつ調べます」
フィルブランテは手袋を外し、最初の鉢へ指を置いた。
〈晶析眼〉が開く。
鉢に触れた魔力の履歴が、青白い層となって浮かび上がる。
製陶職人。
公爵領園芸局の検品官。
運搬係。
学院職員。
人の手は多い。
だが、呪いの痕跡はない。
「一番、異常なし」
「記録する」
ノエルが結晶板へ書き込む。
二番。
三番。
十番。
二十番。
どれも同じだった。
アマンテルスは鉢の影へ自分の影を重ね、土の内部を調べる。
「根にも変なものはない。種も、虫も、呪具もなし」
「本当に四十九番目だけが違うのでしょうか」
リゼットが列を見渡す。
「違いが分かれば、もう見つかっています」
オルガ教授は葉の裏を確認しながら答えた。
「植物の種類も数も合っています。増えたのは鉢だけで、株の総数は昨夜の記録と同じです」
「鉢が一つ増え、どこかの株が分けられた?」
「そのようです」
フィルブランテは出荷時の配置図を見る。
四十八鉢を、温室内で均等に置く予定だった。
現在は四十九鉢。
円形の花冠区を、隙間なく囲んでいる。
「数を増やした目的は、中身ではない」
フィルブランテは中央へ立ち、鉢の並びを見る。
「配置です。四十九で、初めて円が閉じる」
ノエルが顔を上げた。
「七の二乗。古代術式で、結果を固定する数」
「鉢全体が術式陣になっている?」
「可能性が高い」
ノエルは杖で床を照らした。
肉眼では見えない細い線が、鉢と鉢の間をつないでいる。
運命式の黒いインクと同じ色。
線は四十九鉢を一つの円へ結び、中心の花冠区へ集まっていた。
その中心に、リゼットがいる。
「離れろ」
アマンテルスがリゼットの腕を引く。
同時に、円全体がわずかにずれた。
黒い線が床を這い、リゼットの足元へ追いつく。
「対象を中心にする術式です」
フィルブランテは息を呑む。
「どこへ移動しても、陣の中心が追う」
「鉢を一つ外す」
シリルが最も近い鉢へ手を伸ばした。
「待って」
ノエルの警告より早く、鉢が持ち上がる。
円の一部が開いた。
次の瞬間、隣の銀鈴草が根元から二つに分かれた。
土が盛り上がり、空の場所へ新しい鉢が生える。
陶器、土、植物。
何もないところから複製された。
再び四十九。
円が閉じる。
「運命式が、必要な道具を補完した」
ノエルの声へ興奮が混じる。
リゼットが睨む。
「面白がっている場合ですか」
「面白いことと、危険なことは両立する」
「反省していませんね」
「事前に情報は共有した」
「最低条件を達成しただけです」
ノエルは少し不満そうだった。
「鉢を壊しても増えるなら、円を構成する意味を変える必要がある」
フィルブランテは四十九鉢を見た。
「毒を生む陣ではなく、毒を閉じ込める陣へ」
「術式の目的を書き換える?」
「わたくしの氷晶で、配置の意味を別の記録として固定できれば」
「危険です」
ミレーヌが即座に止めた。
「右腕の使用制限を超えます」
「まだ使っていません」
「使うおつもりでしょう」
「必要なら」
「中止条件をお忘れですか」
フィルブランテは黙った。
アマンテルスが横から口を挟む。
「一人で四十九全部を固定するから無理なんだ。俺の影で線をまとめる。フィルブランテは一つだけ記録しろ」
「兄貴の腕も同じ状態だ」
「同時にやれば負担は半分」
「計算根拠は」
「兄弟の勘」
「却下」
「即答するな」
「勘で魔力負荷を決めるな」
「では、僕が計算する」
ノエルが結晶板を持ち上げた。
「影で四十九の接続を一つへ束ね、氷で目的を固定する場合、二人への負荷は単独時の三十一パーセントまで下がる」
「ほら見ろ」
「ただし、運命式が抵抗しなければ」
「後から条件を足すな」
「最初から含まれている」
フィルブランテは考える。
発動前に陣の意味を変えられれば、最も安全だ。
だが、前回も退路を固定し、上書きされた。
運命式は、自分たちの対策を学んでいる。
「今は固定しません」
フィルブランテは決めた。
「術式を刺激すれば、正午前に発動する可能性があります。ノエル、負荷計算だけ用意してください。兄貴は影で四十九鉢の経路を把握。リゼットは、自分の聖花紋の変化を教えてください」
「分かりました」
「俺は分かったけど、今、兄貴って」
レオンハルトとシリルが同時にこちらを見る。
リゼットが素早く咳払いをした。
「魔族領の慣用表現です」
「もう無理があると思います」
ルーシェが率直に言う。
フィルブランテは聞こえなかったことにした。
◇
午前十時。
四十九鉢の検分が終わった。
どの鉢にも、毒はなかった。
どの植物にも、呪いはなかった。
違いは、四十九番目の鉢だけが、ほかの鉢より古いことだった。
「この印をご覧ください」
ミレーヌが鉢の底を布で拭う。
氷薔薇と三本の麦穂。
ほかと同じ公爵家の印に見える。
だが、薔薇の外側に、細い円が一つ追加されていた。
「旧印です」
フィルブランテの声が低くなる。
「十年前まで、イデルバルディ家の慈善薬園で使われていました」
「十年前?」
レオンハルトが問う。
「母上が亡くなる前までです」
セラフィナ・イデルバルディ。
フィルブランテの母。
表向きは病死。
けれど、彼女は亡くなる前、聖花教会の資金と薬草流通を密かに調べていた。
その記憶が、フィルブランテの中に断片としてある。
夜遅くまで帳簿を見る母。
娘が入ると、笑って紙を閉じる。
薬草の匂いが染みた指で、フィルブランテの髪を撫でる。
最後の冬。
『もし、お母様がいなくなっても、記録は嘘をつかないわ』
幼いフィルブランテには、意味が分からなかった言葉。
「お嬢様」
ミレーヌが心配そうに見る。
「大丈夫です」
フィルブランテは鉢へ手をかざした。
〈晶析眼〉を開く。
古い魔力の層が、幾重にも重なっている。
土。
水。
薬草。
運搬者。
十年分の履歴。
その最深部に、よく似た氷属性の魔力があった。
冷たいのに、触れられると胸が温かくなる。
フィルブランテの記憶が、先に答えを出した。
「母上の魔力です」
「この鉢を、母君が?」
「ええ。少なくとも一度、記録術を施しています」
「毒花事件と、お母様の死が関係しているのでしょうか」
リゼットが尋ねる。
「分かりません」
フィルブランテは正直に答えた。
「今、深く読めば、記録を取り出せるかもしれません。ただし、運命式まで刺激する危険があります」
「正午まで待ちましょう」
レオンハルトが言った。
「発動を止めた後で、全員立ち会いのもと調べる」
「同意します」
フィルブランテは鉢から手を離した。
母の記録を、今すぐ見たい。
そう思う感情は強い。
それでも、一人で触れなかった。
アマンテルスが隣へ来て、小声で言う。
「よく我慢したな」
「子ども扱いするな」
「褒めたんだよ」
「兄貴に褒められると腹が立つ」
「何でだ」
「昔からだ」
アマンテルスは少し笑った。
「俺も一緒に見る」
「分かってる」
フィルブランテは短く答えた。
◇
午前十一時。
温室で働く職員へ、危険が説明された。
何も起きていない段階で、正午に毒花が発生するかもしれないと告げる。
当然、反応はさまざまだった。
信じられないと言う者。
すぐに帰りたいと言う者。
植物を残して避難できないと言う者。
オルガ教授は一人ずつ話を聞き、残る者と退く者を分けた。
最終的に温室へ残ったのは、第一演習班の六人、学院長、オルガ教授、ミレーヌ、ルーシェ。
計十名。
ほかの職員は、正午までに周辺棟からも避難した。
シリルは外周へ風の防壁を張り、花粉や香りが外へ漏れないよう調整する。
レオンハルトは正面扉を閉じず、いつでも避難できる幅だけ開け、光の結界で固定した。
ノエルは四十九鉢と、三人の魔力変化を同時に記録する。
「リゼット」
彼は結晶板を持ったまま呼びかけた。
「聖花紋へ測定術を接続していい?」
リゼットが目を瞬く。
「今、許可を取りましたか?」
「必要だと判断した」
「誰が?」
「昨日の君と、今日のフィルブランテ」
ノエルは真顔だった。
「僕の判断だけでは足りないらしい」
成長なのか、皮肉なのか分からない。
リゼットは少し笑った。
「痛くありませんか」
「ない。外したいと言えば、すぐ外す」
「では、お願いします」
ノエルが杖を向ける前に、もう一度確認する。
「今から接続する」
「はい」
無色の光が、リゼットの胸元にある聖花紋へ触れた。
結晶板へ、花弁の数と魔力の流れが表示される。
「何か変ですか?」
「平常値を知らないから比較できない」
「では、今の測定は」
「これが平常値になる」
「先に言ってください」
「聞かれなかった」
「許可を取るだけでは、まだ足りませんね」
ノエルは結晶板へ、その言葉まで書き留めた。
「何を記録したんですか」
「許可には、目的の説明が必要」
リゼットは何も言えなくなった。
少し離れた場所で、アマンテルスが笑っている。
「楽しそうだな、兄貴」
「いや。あいつ、フィルブランテより面倒な相手を見つけたと思って」
「聞こえています」
リゼットが二人を睨む。
フィルブランテは時計へ視線を戻した。
午前十一時三十分。
残り三十分。
右腕の黒い霜が、少しずつ痛みを増している。
リゼットの聖花紋も、花弁が一枚ずつ増えていた。
アマンテルスの影は、光が強くなるにつれ、本人の意思より濃く広がっている。
三人の力が、正午へ向かって引き寄せられている。
「発動前から、私たちを一つの術式へ組み込んでいます」
フィルブランテは言った。
「教本事件で成立した連携を、運命式が学習したのでしょう」
「こちらの力を利用して、毒花を咲かせる気か」
アマンテルスが四十九鉢を見る。
「リゼットの光で植物を活性化。俺の闇で毒を根へ保存。フィルブランテの氷で、公爵家の犯行という記録を固定する」
「わたしたちの魔法が、悪いことに使われるんですか」
リゼットの声が震える。
「使わせません」
フィルブランテは即答した。
「力に善悪はありません。目的を選ぶのは、わたくしたちです」
旧文書庫で見た言葉。
強いられた善は光を焼き、強いられた悪は闇を喰らい、偽られた記録は未来を閉ざす。
ならば三人が自由に目的を選べば、同じ力を別の結果へ向けられる。
「事前に、役割を決めます」
フィルブランテは二人を見る。
「リゼットは毒と植物、毒と人を分ける。兄貴は分けた毒を影へ収容する。僕が毒の術式と履歴を固定する」
「前回と同じですね」
「違います。前回は偶然、反応しました。今回は自分たちで選び、順序を決めます」
「自由意思の確認」
ノエルが口を挟む。
「双月の契約には、三者の自由意思が必要と書かれていた」
「そうです」
フィルブランテはリゼットへ尋ねる。
「危険です。それでも、ご自分の力を使いますか」
リゼットは少し考えた。
「怖いです」
正直な答えだった。
「でも、使いたいです。温室の花も、ここにいる皆さんも、傷つけたくありません。全部を一人で治すのではなく、お二人へ助けてもらいます」
フィルブランテは頷き、アマンテルスを見る。
「兄貴は?」
「俺は毒を受け止める」
「全部ではありません」
「分かってる。影の容量を超える前に言う」
「本当に?」
「約束する」
「痛みも隠さない」
「細かいな」
「約束を追加します」
「……分かった」
アマンテルスは右手を差し出した。
「お前は?」
「記録します」
フィルブランテはその手へ左手を重ねた。
「誰が何をしたか。どこから毒が来たか。わたくしたちが何を選んだか。すべて残します」
リゼットが二人の手へ、自分の手を載せた。
三人の魔力が、触れた場所でかすかに循環する。
白い光。
黒い影。
青い氷。
まだ術ではない。
ただの約束だ。
それでも、運命式の黒い線が、一瞬だけ揺らいだ。
「反応した」
ノエルが記録する。
「運命式より先に、目的が固定された」
「名前を付けるか?」
アマンテルスが言う。
「今ですか」
「技名があった方が、合わせやすいだろ」
「子どもですか」
「そう言いながら、フィルブランテは考えてる顔だ」
「考えていません」
「リゼットは?」
「えっ、わたしですか?」
三人が真剣に悩み始めたところで、レオンハルトが咳払いをした。
「命名は、生き延びてからにしてほしい」
「正論だな」
「殿下の正論だけは素直に聞くんですね」
「弟の正論は聞き飽きた」
「あとで覚えておけ」
緊張が少しだけ緩む。
時計の針が、正午五分前を指した。
◇
午前十一時五十九分。
温室の光が変わった。
太陽は雲へ隠れていない。
それでも硝子天井を通る光が、白から薄い紫へ染まっていく。
四十九鉢の植物が、同時に葉を閉じた。
銀鈴草の鈴が、風もないのに鳴る。
清明百合の白い花弁へ、黒い筋が走る。
朝露蘭の青い花が、血のような赤へ変わった。
「始まります」
フィルブランテが扇〈アルブム〉を開く。
アマンテルスの影が床へ広がる。
リゼットは胸元の聖花紋へ手を置いた。
「全員、配置へ!」
レオンハルトの声が響く。
シリルの風が温室の外周を巡り、花粉の流れを中央から逸らす。
ノエルの結晶板へ、魔力数値が急激に上がった。
「発動まで、十秒」
四十九鉢の黒い線が、一斉に光る。
「九」
円が閉じる。
「八」
リゼットの聖花紋が、本人の意思を無視して開き始める。
「七」
アマンテルスの影が、鉢の根へ引かれる。
「六」
フィルブランテの右腕から、氷晶が床へ伸びる。
「五」
公爵家の旧印が、四十九鉢すべてに浮かび上がった。
「四」
正面扉が勝手に閉じようとする。
レオンハルトの光結界が軋み、開いた状態を保つ。
「三」
温室中央の土が盛り上がる。
「二」
巨大な蕾が、リゼットの足元から生えた。
「一」
正午の鐘が鳴った。
蕾が開く。
黒い花だった。
人の背丈を超える花弁の中央に、白い牙のような雄しべが並んでいる。
花は最初の息を吸った。
そして、紫色の霧を吐き出した。
「風よ!」
シリルが槍を回す。
霧が中央へ渦を巻き、温室の外へ漏れるのを防ぐ。
だが花粉は風に逆らい、リゼットへ集まる。
対象が決められている。
「光壁を!」
レオンハルトが剣を振る。
白い結界がリゼットの前へ立った。
紫の霧が光へ触れる。
次の瞬間、倍の濃さへ増えた。
「光が毒花を活性化している!」
ノエルが叫ぶ。
「殿下、結界を消して!」
「しかし、リゼットが」
「私たちが守ります!」
フィルブランテの言葉に、レオンハルトが歯を食いしばる。
自分の光を消せば、リゼットが無防備になる。
英雄として守るなら、結界を強める場面だ。
だが、光が毒を増やしている。
「任せる!」
レオンハルトは光壁を消した。
霧がリゼットへ押し寄せる。
アマンテルスが前へ出た。
「俺の影へ!」
黒い幕が立ち上がり、紫の毒を吸い込む。
毒花が歓喜するように震えた。
四十九鉢の根を通り、さらに多くの毒が影へ流れ込む。
「兄貴、量は!」
「まだ二割!」
「嘘をつくな!」
「三割!」
「ノエル!」
「影の容量、四十二パーセント。上昇中」
「全部言うなよ!」
「痛みも隠さない約束」
「お前は約束してないだろ!」
アマンテルスの腕へ黒い文字が広がる。
四十九鉢の毒だけではない。
晩餐会の呪い。
旧文書庫の怪物の印。
影に残っていた古傷が、毒を受けて一斉に開く。
黒い角が伸び、先端から影が滴った。
「アマンテルス様!」
ルーシェが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
叫んだ瞬間、アマンテルスは自分で気づいた。
また一人で抱え込もうとしている。
リゼットが、アマンテルスの横へ並んだ。
「約束しました」
「分かってる。頼む!」
迷う前に言った。
リゼットは頷き、両手を開く。
「聖花よ。毒と命を、分けて!」
白い花弁が舞った。
紫の霧へ触れ、植物の魔力と毒の術式を一枚ずつ剥がしていく。
しかし、毒花の根は深い。
温室の薬草すべてとつながっている。
無理に毒だけを剥がせば、植物の生命まで裂ける。
清明百合の花弁が落ち始めた。
銀鈴草の茎が折れる。
「植物が死にます!」
オルガ教授が叫ぶ。
リゼットの顔が青ざめる。
「わたしが、傷つけて」
「違う!」
アマンテルスが毒を押さえながら怒鳴る。
「お前は助けようとしてる! 力を止めるな!」
「でも」
「一人で全部、きれいに分けようとするな!」
それは自分へ言うべき言葉でもあった。
リゼットの光が揺れる。
フィルブランテは扇を床へ突き立てた。
「植物と毒が結びついた時点を固定します!」
青い氷晶が、四十九鉢の根を可視化する。
いつ。
どこで。
どの魔力が。
生命と呪いを結びつけたのか。
履歴が青い線となって浮かび上がる。
昨日、学院倉庫から運ばれたときではない。
五日前、公爵領を出たときでもない。
十年前。
四十九番目の古い鉢へ、最初の黒い種が埋められている。
そこから運命式が、現在の四十八鉢へ毒の結果を複製した。
「元は一つです!」
フィルブランテは叫ぶ。
「古い鉢の種だけを分離すれば、ほかの植物は助かります!」
「場所は!」
シリルが問う。
四十九鉢は円形に並び、どれが古い鉢か見た目では分からない。
フィルブランテの〈晶析眼〉には、一本の青い線が見えている。
花冠区の北西。
十七番目。
「北西、氷印の鉢!」
シリルが風を蹴り、一気に移動する。
鉢を持ち上げようとした瞬間、黒い根が床へ縫いつけた。
「動かない!」
「壊せば増えます!」
「なら、土だけを抜く!」
シリルは槍の穂先を外し、柄を土へ差し込んだ。
風が渦を作り、植物の根を傷つけず、中央の種だけを押し上げる。
黒い種が姿を現した。
親指ほどの大きさ。
表面へ、中心のない円が刻まれている。
「見つけた!」
「触らないで!」
リゼットの白い花弁が、黒い種を包む。
毒と植物の根を分離する。
今度は対象が一つだ。
清明百合も銀鈴草も傷つけず、黒い糸だけが一本ずつ外れていく。
「兄貴!」
「任せろ!」
アマンテルスの影が、分離された毒を受け止める。
一度に吸収しない。
影の中へ七つの小さな区画を作り、毒を分散して収容する。
「容量、六十一パーセント」
ノエルが報告する。
「まだ行ける!」
「痛みは!」
フィルブランテが問う。
「十段階で七!」
今度は最初から正直だった。
「八になったら交代!」
「誰とだよ!」
「僕が固定します!」
フィルブランテは氷晶をアマンテルスの影へ重ねる。
黒い毒が、青い結晶の中へ術式として保存される。
しかし右腕の包帯が、内側から赤く染まり始めた。
旧文書庫の傷が開いている。
「フィルブランテ!」
「十段階で六!」
「聞く前に言うな!」
「隠すなと言ったのは兄貴だろ!」
リゼットが二人を見た。
「お二人とも、まだ続けられますか!」
「当然!」
「続けます!」
「では、わたしも!」
三人の声が重なる。
白い花弁が毒を分ける。
黒い影が毒を抱く。
青い氷晶が由来を記す。
循環が生まれた。
リゼットが一人で毒を浄化しようとすれば、負担が光へ集中する。
アマンテルスが一人で吸収すれば、影が怪物へ変わる。
フィルブランテが一人で固定すれば、毒ごと自分の身体へ凍結される。
三人なら、力が一か所に留まらない。
互いの限界へ達する前に、次の者へ流れていく。
運命式の黒い線が、三色の魔力を奪おうとする。
聖女は一人で浄化せよ。
怪物は一人で呪いを抱け。
悪役は偽りの記録を残せ。
役割を強いる声が、温室全体へ響く。
「お断りします!」
リゼットが叫んだ。
「わたしは一人で癒やしません!」
「俺も一人で抱えない!」
アマンテルスが続く。
「わたくしは、起きた事実を偽らない!」
フィルブランテの扇が大きく開く。
三人の足元へ、術式陣が広がった。
白い聖花を中心に、黒い影が円を作り、青い氷晶が花弁の輪郭を記す。
昼と夜の間。
光と闇が重なる黄昏。
そこへ、記録の花が咲く。
「術式が自律安定した」
ノエルが目を見開く。
「三人の自由意思を核にしている。運命式が上書きできない」
黒い毒花が咆哮した。
牙のような雄しべを開き、残った毒を一気に吐き出す。
「シリル!」
レオンハルトが呼ぶ。
「分かっています!」
風が毒を中央へ集める。
「殿下、光は外側へ!」
ノエルが指示する。
「毒へ触れず、温室の硝子だけを守って!」
レオンハルトの光が、今度は三人を直接覆わない。
硝子天井と外壁へ広がり、毒を閉じ込めながら逃げ道を守る。
英雄としてすべてを倒すのではない。
仲間が力を使える場所を作る。
「オルガ教授、根の保護を!」
学院長が命じる。
教授の地属性魔法が、無毒の植物の根だけを土へ固定する。
「ミレーヌ、ルーシェ! 負傷者の確認を!」
二人の侍女が、それぞれの主人だけでなく、温室全体を回る。
十人の力が、一つの目的へつながる。
三人の術式陣が、完成した。
黒い種から最後の毒が抜ける。
リゼットの光が、種と呪いを完全に分けた。
アマンテルスの影が、呪いを七つの器へ収める。
フィルブランテの氷晶が、七つを一つの証拠へ固定する。
透明な結晶の中に、黒い花が咲いた。
同時に、巨大な毒花が崩れ始める。
黒い花弁は紫の霧へ戻らず、白い紙片となって舞った。
紙片には、イデルバルディ公爵家の印が書かれている。
すべて偽りの証拠。
フィルブランテは逃さず、氷晶の中へ取り込む。
「記録しました!」
最後の一枚が結晶へ入った瞬間、運命式の円が砕けた。
四十九番目の鉢だけが消える。
残ったのは、最初から出荷された四十八鉢。
清明百合が白さを取り戻す。
銀鈴草が澄んだ音を鳴らす。
朝露蘭の赤が青へ戻る。
正午の鐘が、十二回目を打ち終えた。
温室に、静寂が落ちた。
「終わった……?」
リゼットが呟く。
胸元の聖花紋から、一枚の白い花弁が落ちる。
花弁は三人の間を回り、青と黒の縁取りを得た。
そして、空気へ溶けた。
「終わりました」
フィルブランテは答えた。
その途端、右腕から力が抜けた。
身体が傾く。
「フィル!」
レオンハルトが駆け寄るより早く、アマンテルスの影が支えた。
「中止条件」
「もう終わった後です」
「倒れたら中止って言っただろ」
「だから、終わるまで倒れませんでした」
「屁理屈」
「兄貴に言われたくない」
アマンテルスも顔色が悪い。
リゼットが二人の腕へ触れようとして、止まる。
「触れてもいいですか」
ノエルの言葉を思い出したのだろう。
「ええ」
「頼む」
三人がもう一度、手を重ねる。
今度の光は、毒を分けるためではない。
二人の傷を癒やすために、リゼット自身が選んだ光だった。
◇
毒花事件による死者は、出なかった。
温室の職員も、第一演習班も、軽度の魔力疲労と小さな傷だけで済んだ。
四十八鉢の植物も、すべて生き残った。
そして、透明な氷晶の中には、黒い毒花、偽造された公爵家の印、毒が広がった経路、運命式の構造が保存されている。
証拠を一つの組織へ預けないため、学院、王家、魔侯領の立会人が同時に確認し、ノエルが三つの複製を作った。
フィルブランテは温室の中央で、集まった教員と学生へ説明することを選んだ。
隠せば、新しい噂が生まれる。
ならば、分かっている事実と、分からないことを分けて公表する。
「事件に用いられた鉢には、イデルバルディ公爵家の真正な旧印がございました」
ざわめきが起きる。
レオンハルトが何か言おうとしたが、フィルブランテは自分で続けた。
「しかし、公爵家の現在の出荷記録は四十八鉢。運命式が作り出した四十九番目の鉢には、十年前の魔力履歴が残っております。誰が、どのように旧印を利用したかは、現在調査中です」
「では、公爵家は無関係なのですか」
学生の一人が尋ねる。
「無関係とは申しません。公爵家の管理していた鉢が用いられた以上、保管と記録を調べる責任がございます」
「フィルブランテ様が、毒花を入れたのですか」
別の声。
「いいえ」
答えたのはリゼットだった。
若草色の瞳が、集まった人々を見回す。
「フィルブランテ様は、毒がどこから来たかを見つけ、証拠を残してくださいました。アマンテルス様は毒を受け止め、温室の外へ出さないでくださいました。お二人がいなければ、わたしも、ここにいる皆さんも無事ではなかったと思います」
「しかし、公爵令嬢と魔族令嬢が組んで」
「組んではいけないのですか?」
リゼットは尋ね返した。
相手の学生が言葉に詰まる。
「人族と魔族は、敵だと」
「わたしは今日、助けていただきました。目の前で起きたことより、誰かから聞いた敵という言葉を信じるのですか?」
強い声ではない。
ただ、自分が見たことを語る声だった。
アマンテルスは少し驚いた顔でリゼットを見る。
フィルブランテも、何も付け加えなかった。
彼女自身が選び、自分の言葉で話している。
それを利用するのではなく、任せる。
ざわめきは消えない。
だが、全員が同じ噂へ流されることもなかった。
オルガ教授が前へ出る。
「温室管理責任者として申し上げます。本日の対応は、第一演習班全員の判断によるものです。公爵令嬢だけの功績でも、責任でもありません」
シリルも続く。
「外周の封鎖記録と、鉢の搬入記録は騎士科で保管する。疑うのであれば、証拠を確認してほしい」
ノエルは氷晶を持ち上げた。
「術式の複製は星読塔で閲覧できる。ただし、触れる前に許可を取って」
「誰の許可ですか」
リゼットが尋ねる。
「僕の。危険だから」
「そこは正しいですね」
少しだけ笑いが起きた。
運命式が望んだ結果は、フィルブランテ一人へ疑惑を集めることだった。
だが今、証言も責任も、複数の人間へ分かれている。
悪役を一人作る余地が、少しずつ狭まっていく。
「ところで」
エレオノーラ学院長が、三人の足元へ残る術式陣を見た。
白い花。
黒い影。
青い結晶。
「先ほどの術は、誰が設計したのです?」
「設計というほどでは」
フィルブランテが答える。
「三人で役割を決め、教本事件の連携を再現しただけです」
「名前は?」
アマンテルスが嬉しそうに反応する。
「まだない。今、決めるところだった」
「兄貴、余計なことを」
学院長の眉が上がる。
「兄貴?」
「魔族領の慣用表現です」
「そろそろ別の言い訳を考えた方がよろしいかと」
ミレーヌが冷静に言う。
リゼットは足元の模様を見つめた。
「黄昏みたいです」
「黄昏?」
「光と闇が一緒にあって、氷の花が咲いているから」
学院長の表情が変わった。
「〈黄昏晶花陣〉」
静かに名を告げる。
「ご存じなのですか」
「旧い記録に、名前だけ残っています。聖花の巫女、月影の守、晶術の記録者が用いた、呪いを消さずに由来まで保存する術」
双月の契約へ記されていた、三人の役割。
失われた術が、名前も知らない三人の自由意思によって再現された。
「偶然ではありませんね」
フィルブランテは言った。
「ええ。おそらく、あなた方の力が特別なのではありません」
学院長は三人を見る。
「互いを道具にせず、役目を強いず、同じ目的を選んだことが条件なのでしょう」
アマンテルスが少し不満そうにする。
「必殺技じゃないのか」
「兄貴は何を期待していたんだ」
「名前が付くなら、もっと派手な」
「毒花を一株も枯らさず封じたのです。十分に派手ですよ」
リゼットが笑う。
「じゃあ、次は掛け声を決めよう」
「決めません」
「三人で合わせるなら必要だろ」
「必要ありません」
「わたしは、少しあった方が」
「リゼットさん?」
「何でもありません」
リゼットは透から目を逸らした。
兄側へ引き込まれ始めている。
フィルブランテは今後の会議運営に、不安を覚えた。
◇
夕刻。
温室から人が去った後、第一演習班と学院長は四十九番目の鉢があった場所へ残った。
鉢そのものは運命式が砕けたときに消えた。
しかし、鉢の最深部にあった記録だけは、フィルブランテの氷晶へ保存されている。
透明な結晶の中で、古い氷薔薇の印が光っていた。
「準備はよろしいですか」
学院長が尋ねる。
フィルブランテは頷く。
「はい」
「無理だと思えば、すぐに中止してください」
「分かっています」
「アマンテルス嬢」
「俺――私も止めます」
「リゼット嬢」
「わたしもです」
一人で記録を読むのではない。
全員が立ち会い、危険を分ける。
フィルブランテは結晶へ右手を添えた。
〈晶析眼〉を、最深部まで開く。
視界が青く染まる。
十年前の温室が現れた。
現在の聖花温室ではない。
イデルバルディ公爵領の慈善薬園。
夕暮れの硝子室で、一人の女性が鉢へ魔法を施している。
淡い金髪。
青紫の瞳。
フィルブランテとよく似た横顔。
「母上」
フィルブランテの声ではない。
身体の奥から、幼いフィルブランテの声が漏れた。
セラフィナ・イデルバルディ。
女性は背後を振り返る。
記録の中で、幼い娘を見つけたように微笑んだ。
『フィル。まだ起きていたの?』
小さな足音が近づく。
視界の下から、幼い手が伸びる。
『お母様、何をなさっているの?』
『大切なことを、鉢に覚えてもらっているのよ』
『鉢も、覚えるの?』
『ええ。人は都合の悪いことを忘れるけれど、土と氷は正直だから』
セラフィナは笑い、鉢の底へ氷薔薇の印を刻む。
次の瞬間、表情が真剣なものへ変わった。
幼いフィルブランテを、使用人へ預けて遠ざける。
一人になった硝子室で、記録結晶へ向き直った。
『この記録を見つけた方へ』
十年前の声が、現在の温室へ響く。
『聖花教会の薬草流通に、不自然な数字があります。救護院へ送られたはずの治癒草が消え、代わりに、灰銀峡谷から運ばれた黒い種が王都へ入っています』
ノエルが記録用結晶へ内容を写す。
レオンハルトの顔が険しくなる。
『調査を続けるうち、古い文書で〈中心のない円〉を見つけました。教会が異端として封じた印です。けれど、これは邪悪な印ではありません。忘れられた契約の、空席を示しています』
虚無教団の紋章。
中心のない円。
セラフィナは、十年前から同じものを追っていた。
『わたくしが調べていることは、すでに知られています。この記録を公爵家の書庫へ置けば消されるでしょう。教会へ預ければ、なおさらです。だから薬園の鉢へ分けて残します』
映像が乱れる。
黒い線が、記録へ入り込んでいる。
十年後に埋められた毒の種が、過去の記録まで喰らおうとしている。
「氷で固定します」
フィルブランテが力を込める。
右腕へ痛みが走る。
「五」
聞かれる前に告げた。
アマンテルスの影が結晶を支える。
「こっちは三。まだ行ける」
リゼットの花弁が、セラフィナの記録と黒い種の汚染を分ける。
三人で、過去の声を守る。
『フィル』
セラフィナが、記録の向こうから呼んだ。
偶然、娘が見る可能性を考えたのか。
それとも母親の直感か。
『もし、あなたがこの記録を見ているのなら、お母様はもう、そばにいないかもしれません』
フィルブランテの胸が締めつけられる。
フィルブランテの記憶が、泣いている。
『ごめんなさい。あなたへ何も話さず、一人で守ろうとしました』
アマンテルスが隣で、息を止めた。
それはアマンテルスが選びかけた道でもある。
すべてを一人で抱え、家族へ説明せず、守るために離れる。
『けれど、どうか同じことをしないで。記録は、一人で抱えるためにあるのではありません。誰かへ渡し、一緒に考えるためにあるのです』
映像が大きく揺れる。
最後の言葉が、雑音に埋もれる。
『聖花は、一人では――』
音が途切れる。
黒い種の汚染が、記録の終端を喰い破った。
「まだあります!」
リゼットが花弁を伸ばす。
アマンテルスの影が、消えかけた言葉を包む。
フィルブランテの氷が、一瞬だけ形を戻す。
『――黄昏島を、探して』
そこで記録は砕けた。
温室へ、夕暮れの光が戻る。
透明な結晶の中には、セラフィナの最後の言葉だけが残っている。
黄昏島。
現在の王国地図には存在しない場所。
双月の契約の地図にだけ、名を消されて描かれていた島。
「お母様は、教団と双月の契約を調べていた」
フィルブランテは呟いた。
「そして、殺された可能性がある」
レオンハルトが低く続ける。
「まだ断定はできません」
そう答えながら、フィルブランテの声は震えていた。
母は病死した。
そう教えられてきた。
しかし、調査を知られ、記録を隠し、娘へ別れの言葉を残している。
偶然とは思えない。
アマンテルスが、フィルブランテの肩へ手を置いた。
「一人で調べるなよ」
「分かってる」
「お前は、考え始めると一人で全部やろうとする」
「兄貴にだけは言われたくない」
「だから言うんだよ」
フィルブランテは兄を見る。
アマンテルスの赤紫の瞳は、冗談を言っていなかった。
「双傘同盟の次の目標だ」
「黄昏島を探す?」
「その前に、母上の記録を全部集める。公爵領の薬園に、ほかの鉢が残ってるかもしれない」
「兄貴」
「何だ」
「母上って呼ぶな」
「お前の母上なら、俺の母上でもあるだろ」
「エルネシア様を僕に母上と呼べと言った仕返しか?」
「仕返しじゃない。兄弟なら普通だ」
フィルブランテは反論しようとして、やめた。
胸の痛みが、ほんの少しだけ軽くなる。
「……勝手にしろ」
「はいはい、弟君」
「その呼び方はやめろ」
二人の小さな口論を、リゼットが静かに見ていた。
「わたしも、一緒に探します」
フィルブランテが振り返る。
「危険です」
「危険なときは話すと、約束しました」
「話すことと、同行することは別です」
「助けさせるとも、約束しました」
今度はアマンテルスが笑う。
「俺が追加した約束だな」
「兄貴」
「もう諦めろ。こいつは来る」
リゼットは三色の花模様が残る手を、胸元で握った。
「セラフィナ様の言葉が、本当なら。聖花は一人では何かが足りない。わたしも、自分の力のことを知りたいです」
フィルブランテはしばらく考え、頷いた。
「では、第一演習班として調査を提案します。全員の同意と、学院長の許可を得た上で」
「相変わらず固いな」
「兄貴が柔らかすぎるんだ」
「では、決まりですね」
リゼットが笑った。
温室の外で、夕鐘が鳴る。
毒花事件は終わった。
フィルブランテへ用意された二つ目の罪は、証拠と証言を分かち合うことで、悪役一人の物語にならずに済んだ。
その代わり、十年前に閉じられた母の死と、地図から消された島への道が開いた。
破滅を一つ避けるたび、知らなかった真実が現れる。
フィルブランテは氷晶へ残る母の言葉を見つめた。
記録は、一人で抱えるためにあるのではない。
誰かへ渡し、一緒に考えるためにある。
その隣には、黒い影を伸ばす兄がいる。
向かいには、白い花を持つ少女がいる。
今度こそ、一人ではない。
だが同じ頃。
王都の聖花大聖堂では、大司教ザハルが、枯れた黒い種を指先で転がしていた。
「黄昏晶花陣まで、再現しましたか」
種は砕け、灰となって落ちる。
祭壇の下には、四十八個の小さな鉢が並んでいた。
いずれにも、異なる貴族家の紋章が刻まれている。
「セラフィナ。あなたの記録は、十年を経ても厄介ですね」
ザハルは一つの鉢へ水を注ぐ。
土の中から、白い根が伸びた。
「ですが、娘は母より多くのものを守ろうとしている。ならば、失ったときの絶望も、より深い」




