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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第六話 毒花は三人で摘む

聖花温室の毒花事件まで、残り六時間。


 フィルブランテは、鏡の中の自分と睨み合っていた。


 淡い金髪は一分の乱れもなく結い上げられ、学院の白い制服には氷薔薇の徽章が光っている。青紫の瞳にも、寝不足はほとんど表れていない。


 完璧な公爵令嬢だった。


 ただし、右腕だけは肩から指先まで包帯で巻かれている。


「過剰ではありませんか」


 フィルブランテが訴えると、背後のミレーヌは包帯の端をさらに締めた。


「昨夜、安静を命じられたお嬢様が、夜半に三度も寝台を抜け出そうとなさらなければ、ここまで固定する必要はございませんでした」


「資料を取りに行こうとしただけです」


「一度目は」


「二度目もです」


「二度目は窓を開けていらっしゃいました」


「換気ですわ」


「縄梯子を持って?」


 フィルブランテは鏡から目を逸らした。


 昨夜、第一演習班は旧文書庫で〈双月の契約〉と、世界を物語の役へ縛る〈運命式〉を発見した。


 その直後、次の事件が三か月前倒しされ、今日の正午に起きると判明したのである。


 大人しく眠れる方がおかしい。


「お兄様も、同じことをなさったそうです」


 ミレーヌが淡々と告げた。


「兄ではございません」


「ルーシェ様から、夜明け前に三度、迎賓寮の窓から脱出しようとなさったと」


「……回数まで同じとは、あの馬鹿」


「お嬢様?」


「何でもございません」


 ミレーヌが、鏡越しにフィルブランテを見つめる。


「昨夜のお話は、事実なのですね」


「どのお話でしょう」


「アマンテルス様と、以前はご兄弟であったと」


 フィルブランテの肩が止まった。


 リゼットとイザベルにだけ話したつもりだった。


「どなたから」


「治療室で、お二人が普通に兄、弟と呼び合っておられました」


「……負傷で意識が混濁していたのです」


「そういうことにしておきましょう」


「信じるのですか」


 思わず尋ねた。


 ミレーヌは包帯を留め、フィルブランテの右手へ白い手袋を重ねる。


「お嬢様はお嬢様です。以前どのようなお姿で、どなたの弟でいらしたとしても、私がお仕えしてきた日々が消えるわけではございません」


「ですが、今のわたくしは、以前のフィルブランテと同じでは」


「昨日も申し上げました。幼い頃からお仕えしております」


 ミレーヌの声は静かだった。


「変わったところも、変わらないところも存じております。お嬢様が何者かは、私が決めることではございません」


 フィルブランテは鏡の中の少女を見る。


 唐傘輝。


 フィルブランテ。


 どちらか一方ではない。


 リゼットが言ったように、今の自分は自分なのだろう。


「ありがとうございます」


「感謝は、安静の命令を守ることでお示しください」


「本日は無理です」


「存じております」


 ミレーヌはため息をつき、フィルブランテへ一枚の紙を差し出した。


「星読塔から、夜明けに届きました」


 差出人はノエル・エルミナージュ。


 前置きも挨拶もなく、一行だけ書かれている。


 ――聖花温室を閉鎖すると、術式の発動時刻が早まる。閉鎖は推奨しない。


「何を試したんだ、あいつ」


「お嬢様」


「何を試したのでしょう、あの方は」


 言い直しても、疑問は消えない。


 フィルブランテは壁の時計を見た。


 午前六時。


 正午まで、残り六時間。


「馬車を」


「すでに用意しております」


「反対なさらないのですか」


「してもお聞きにならないでしょう」


「理解が早くて助かります」


「ただし、私も同行いたします。魔力の使用は治癒師が許可した範囲まで。一時間ごとに休憩。食事を抜かない。単独行動は禁止です」


「条件が多すぎませんか」


「では、屋敷へ残られますか」


「承知いたしました」


 即答した。


 ミレーヌが満足そうに頭を下げる。


「それでは参りましょう、お嬢様」


     ◇


 午前七時。


 王立ルクシア学院の治療室では、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルが、窓枠へ片足を掛けていた。


「アマンテルス様」


 背後から呼ばれ、アマンテルスはゆっくり振り返る。


 リゼットが、薬湯の盆を両手で持って立っていた。


 若草色の瞳が、開いた窓、窓枠の足、結ばれたシーツの順に動く。


「おはよう、リゼット」


「どちらへ行かれるのですか」


「朝の散歩」


「二階の窓から?」


「魔族領では一般的だ」


「ルーシェさんは、一般的ではないと言っていました」


 扉の陰から、桃色の髪がのぞく。


「申し訳ございません、アマンテルス様。昨日、危険なときは情報を共有するとお約束しましたので」


「それとこれとは違うだろ」


「脱走も危険です」


 リゼットは盆を机へ置き、アマンテルスのもとへ歩み寄った。


「寝台へ戻ってください」


「事件まで五時間だぞ」


「朝食まで十五分です」


「優先順位がおかしい」


「お腹が空いていたら、魔法も使えません」


「正論で殴るの、フィルブランテに似てきたな」


「褒め言葉ですか?」


「たぶん」


 アマンテルスは窓枠から足を下ろした。


 その瞬間、包帯の下で呪いが疼き、右腕から力が抜ける。


 身体が傾いた。


「危ない!」


 リゼットが支えようとする。


 だがアマンテルスの方が背が高く、二人まとめて床へ倒れそうになった。


 影が反射的に伸び、壁へ突っ張る。


 どうにか転倒は避けた。


「大丈夫だ」


「大丈夫な人は、今、倒れかけません」


「足を滑らせただけ」


「窓から出ていたら、そのまま落ちていました」


「影で何とかする」


「その影が不安定なんでしょう?」


 言い返せない。


 旧文書庫で〈怪物〉の役を強制された影は、まだアマンテルスの意思へ完全には戻っていなかった。


 強い魔力を使うと、影が必要以上に広がる。


 耳元では時折、原作のアマンテルスの台詞が響く。


『すべて、わたくしが抱けばよい』


 アマンテルス自身の悪い癖と、この身体に刻まれた自己犠牲が重なり、呪いにとって都合のよい形になっている。


「分かった。飯を食ってから行く」


「本当ですか?」


「約束する」


 リゼットがじっと見る。


「何だよ」


「アマンテルス様の約束は、どのくらい信じてよいのか考えています」


「失礼だな」


「昨日、一人で影を押さえないと約束した直後、一人で押さえていました」


「緊急事態だった」


「今日は、わたしも一緒に行きます」


「駄目だ」


「どうしてですか」


「狙われてるのはお前だ」


 アマンテルスは窓の外へ視線を向けた。


 朝日に照らされた硝子の建物。


 聖花温室。


 原作では、リゼットが治癒訓練中に毒花の花粉を吸い、三日間、生死の境をさまよう。


 フィルブランテが公爵領から毒花を取り寄せたと疑われ、悪役としての評判が決定的になる事件だ。


「だから行くんです」


 リゼットは言った。


「わたしがいなければ、事件が別の人へ向かうかもしれません」


「危険だと分かってる場所へ、本人を連れていけるか」


「危険だと知らないまま、誰かを代わりにする方が嫌です」


「それでも」


「助けさせると約束しました」


 また、その言葉だった。


 アマンテルスは舌打ちしたくなった。


 自分で結んだ約束なのだから、誰にも文句は言えない。


「絶対に、俺より前へ出るな」


「アマンテルス様より前は、危険の中心では?」


「細かいことはいい」


「よくありません。第一演習班で決めましょう」


「お前、本当にフィルブランテに似てきたな」


「今度は、褒め言葉として受け取ります」


 リゼットは薬湯の椀を差し出した。


 緑色の液体から、薬草とは思えない臭いが立ち上る。


「これを飲んだら、朝食です」


「毒花より先に、これで死にそうなんだけど」


「治癒院の先生が、よく効くと」


「効く薬と飲める薬は別だろ」


「飲まなければ、フィルブランテ様へ報告します」


 アマンテルスは黙って椀を受け取った。


 敵が増えた気がした。


     ◇


 午前八時。


 第一演習班は、聖花温室前の植物学準備室へ集まった。


 長机の中央には、ノエルが保存した運命式の黒いインクと、温室の見取り図が置かれている。


 フィルブランテ。


 アマンテルス。


 リゼット。


 レオンハルト。


 シリル。


 ノエル。


 さらにエレオノーラ学院長、温室管理責任者のオルガ・メイフェルト教授、ミレーヌ、ルーシェが立ち会っていた。


「最初に申し上げます」


 オルガ教授は、土で汚れた作業着の腕を組んだ。


 五十代半ばの女性で、短く切った灰緑色の髪に、蔓草の髪飾りを差している。


「植物を傷つける方は、身分にかかわらず温室から叩き出します。殿下もです」


「承知しました」


 レオンハルトは真面目に頷いた。


「話が早くて助かります。学院長から、正午に毒花が発生する可能性があると伺いました。しかし、昨夜から教員総出で調べても、毒性植物は一株も見つかっておりません」


「見つからないよう作られている可能性があります」


 フィルブランテは見取り図へ目を落とす。


「原作では、公爵領から届いた鉢が証拠になる」


 小声でアマンテルスへ言う。


「鉢そのものに毒がなくて、後から生えるのかもな」


 アマンテルスも小さく返した。


 レオンハルトが二人を見る。


「何か?」


「イデルバルディ公爵領から届いた鉢は、何個ございますか」


 フィルブランテが表向きの質問へ変えた。


 オルガ教授は帳簿を開く。


「四十八。春期入学生の実習用です。銀鈴草、清明百合、朝露蘭。いずれも治癒薬の材料となる無毒の植物です」


「現在も四十八ですか」


「昨日までは」


 教授の声が低くなる。


「今朝、数え直したところ、四十九ありました」


 室内が静まった。


「一鉢、増えている?」


 リゼットが尋ねる。


「ええ。ですが、どれが増えたものか分かりません。鉢も植物も、ほかと同じです」


「四十九鉢すべてに、公爵家の印が?」


「底にございます」


 オルガ教授は一枚の拓本を机へ置いた。


 氷薔薇を囲む、三本の麦穂。


 イデルバルディ公爵家の園芸事業で使われる印である。


「本物です」


 フィルブランテは認めた。


 誰かが偽造した、と即座に否定しない。


 それを聞いた教授の目が鋭くなる。


「では、公爵家から毒花が?」


「印が本物であることと、現在の公爵家が送ったことは別です。出荷記録を確認させてください」


 ミレーヌが、用意していた書類を机へ並べる。


「公爵家の記録では、学院へ送った鉢は四十八。出荷日は五日前、責任者は領内園芸局のバルトン。王都西門、学院倉庫、温室で、それぞれ数量確認を受けております」


「どこまでは四十八でした?」


 シリルが尋ねる。


「昨日の正午、学院倉庫へ入った時点までです」


「倉庫から温室へ運ぶ間に増えた」


「その可能性が高いでしょう」


 レオンハルトは学院長を見る。


「運搬担当者は」


「学生奉仕員が八名、園芸局員が二名、学院職員が三名。全員を別室で待機させています」


「誰かを犯人と決めつけてはなりません」


 フィルブランテは言った。


「教本事件では、イザベル本人も術式に利用されました」


「しかし、鉢が勝手に歩くわけではない」


 オルガ教授が険しい顔をする。


「普通の鉢なら」


 ノエルが初めて口を開いた。


 彼は夜明けから温室周辺の魔力を測定していたらしく、机の端には記録用の結晶板が積まれている。目の下には薄い隈があるが、本人は気にしていない。


「運命式の接続先は温室全体。特定の一鉢ではない」


「どういうことです?」


 リゼットが問う。


「昨夜、温室の閉鎖を学院長へ提案した。許可を出す直前、発動時刻が正午から午前八時へ変化した」


「待ってください」


 フィルブランテは顔を上げた。


「閉鎖を試すとは、実際に命令を出そうとしたのですか」


「そう」


「もし即座に発動していたら?」


「学院長が、閉鎖命令へ署名する前に止めた」


「そういう問題ではありません」


「必要な実験だった」


「誰にも相談せずに?」


「相談すれば、意見の集約に時間がかかる」


「その間に発動した可能性があります!」


 ノエルは理解できないようにフィルブランテを見る。


「だから、発動しない限界を計算した」


「計算が間違っていたら、人が死んでいたのです!」


「間違っていない」


「結果論です!」


 二人の間の空気が張り詰める。


 ノエルに悪意はない。


 危険を早く知り、対処するために行動した。


 それでも、巻き込まれる人間の意思を確認していない。


「ノエル」


 リゼットが静かに呼んだ。


 敬称が消えている。


 少年の琥珀色の目が動く。


「旧文書庫で、資料より人を優先すると約束しました」


「昨夜は、全員が安全な場所にいた」


「温室で働く方たちがいます」


「閉鎖前に避難させる予定だった」


「知らない間に実験へ使われたことは、変わりません」


 ノエルは黙った。


 オルガ教授も、厳しい目で彼を見ている。


「……次からは、先に話す」


「次からではなく、今もです」


「何を?」


「まだ話していない結果があるでしょう」


 ノエルは数秒、リゼットを見つめた。


 やがて、黒いインクの瓶へ杖を向ける。


「温室を閉じても、鉢をすべて処分しても、術式は別の場所へ接続する。対象はリゼット・アーヴェイン。結果は、聖花の暴走とフィルブランテへの疑惑」


 室内の視線が、リゼットとフィルブランテへ集まった。


「最初から、それを言ってください」


 リゼットの声は震えていた。


 怒っている。


 それでも目を逸らさない。


「怖いからこそ、知っていたいんです」


「知れば、判断が鈍ることもある」


「それも、わたしが決めます」


 ノエルは目を伏せた。


「……分かった」


 短い答えだった。


 しかし今度は、言い訳を続けなかった。


「では、目的を整理します」


 レオンハルトが会議を戻す。


「第一に、正午の発動まで温室内の全員を守る。第二に、リゼットの聖花暴走を防ぐ。第三に、フィルブランテへ疑惑を集中させない形で証拠を保存する」


「毒花の発生そのものを止めないのですか」


 オルガ教授が問う。


「止める方法が見つかれば止めます。ただし、無理に消せば別の場所へ移る」


 フィルブランテは見取り図を指した。


「正午まで通常通り温室を運用しながら、全員が把握した状態で監視します。学生の実習は中止。ただし中止理由は設備点検とし、術式へ〈閉鎖〉と判断させない。教員と使用人は必要最小限に絞り、全員へ危険を説明します」


「本人の意思で、残るか退くか選ばせるのですね」


 学院長が確認する。


「はい」


「私は残ります」


 オルガ教授が即答した。


「植物を守るため、ではありません。私の管理する施設で、学生を傷つけさせないためです」


「わたくしも残ります」


 ミレーヌが言う。


「お嬢様の監視が必要ですので」


「わたしもです」


 ルーシェが翼を小さく広げた。


「アマンテルス様は、気づくと危険の中央にいらっしゃいますから」


「俺の扱い、ひどくないか」


「実績です」


 フィルブランテ、ミレーヌ、リゼットの声が重なる。


 アマンテルスは黙った。


「ほかの職員は避難させましょう」


 レオンハルトが決める。


「シリルは温室外周と避難経路。私は正面の防護結界。ノエルは術式解析。三人は中央で毒花へ対処する」


「三人?」


 リゼットが尋ねる。


「君、フィルブランテ、アマンテルス嬢だ。教本を修復したときの連携が必要になる」


 レオンハルトはフィルブランテとアマンテルスを見る。


「ただし、どちらかが倒れれば即座に中止する。異論は?」


「倒れた本人が大丈夫だと言っても?」


 アマンテルスが問う。


「中止する」


「厳しくないか」


「そなたの大丈夫は信用できない」


「殿下まで」


「実績だ」


 今度はレオンハルトまで同じことを言った。


 シリルが小さく笑う。


 アマンテルスは不満そうだったが、反対はしなかった。


「では、始めましょう」


 フィルブランテは時計を見る。


 正午まで、残り四時間。


     ◇


 聖花温室は、学院中央棟と神学・治癒科棟の間に建つ、巨大な硝子の宮殿だった。


 乳白色の柱が半円形の天井を支え、朝の光を受けた無数の硝子板が虹を作っている。


 内部は四区画に分かれていた。


 日光を好む薬草を育てる〈陽光区〉。


 湿地植物を集めた〈水鏡区〉。


 魔力に反応する花を育てる〈感応区〉。


 聖花紋の訓練に使う中央の〈花冠区〉。


 問題の四十九鉢は、花冠区の外周へ並んでいた。


 白い清明百合。


 銀色の鈴を下げる銀鈴草。


 淡い青の朝露蘭。


 どれも原作の背景で見た植物である。


 毒性はない。


 見た目にも異常はない。


「一鉢ずつ調べます」


 フィルブランテは手袋を外し、最初の鉢へ指を置いた。


 〈晶析眼〉が開く。


 鉢に触れた魔力の履歴が、青白い層となって浮かび上がる。


 製陶職人。


 公爵領園芸局の検品官。


 運搬係。


 学院職員。


 人の手は多い。


 だが、呪いの痕跡はない。


「一番、異常なし」


「記録する」


 ノエルが結晶板へ書き込む。


 二番。


 三番。


 十番。


 二十番。


 どれも同じだった。


 アマンテルスは鉢の影へ自分の影を重ね、土の内部を調べる。


「根にも変なものはない。種も、虫も、呪具もなし」


「本当に四十九番目だけが違うのでしょうか」


 リゼットが列を見渡す。


「違いが分かれば、もう見つかっています」


 オルガ教授は葉の裏を確認しながら答えた。


「植物の種類も数も合っています。増えたのは鉢だけで、株の総数は昨夜の記録と同じです」


「鉢が一つ増え、どこかの株が分けられた?」


「そのようです」


 フィルブランテは出荷時の配置図を見る。


 四十八鉢を、温室内で均等に置く予定だった。


 現在は四十九鉢。


 円形の花冠区を、隙間なく囲んでいる。


「数を増やした目的は、中身ではない」


 フィルブランテは中央へ立ち、鉢の並びを見る。


「配置です。四十九で、初めて円が閉じる」


 ノエルが顔を上げた。


「七の二乗。古代術式で、結果を固定する数」


「鉢全体が術式陣になっている?」


「可能性が高い」


 ノエルは杖で床を照らした。


 肉眼では見えない細い線が、鉢と鉢の間をつないでいる。


 運命式の黒いインクと同じ色。


 線は四十九鉢を一つの円へ結び、中心の花冠区へ集まっていた。


 その中心に、リゼットがいる。


「離れろ」


 アマンテルスがリゼットの腕を引く。


 同時に、円全体がわずかにずれた。


 黒い線が床を這い、リゼットの足元へ追いつく。


「対象を中心にする術式です」


 フィルブランテは息を呑む。


「どこへ移動しても、陣の中心が追う」


「鉢を一つ外す」


 シリルが最も近い鉢へ手を伸ばした。


「待って」


 ノエルの警告より早く、鉢が持ち上がる。


 円の一部が開いた。


 次の瞬間、隣の銀鈴草が根元から二つに分かれた。


 土が盛り上がり、空の場所へ新しい鉢が生える。


 陶器、土、植物。


 何もないところから複製された。


 再び四十九。


 円が閉じる。


「運命式が、必要な道具を補完した」


 ノエルの声へ興奮が混じる。


 リゼットが睨む。


「面白がっている場合ですか」


「面白いことと、危険なことは両立する」


「反省していませんね」


「事前に情報は共有した」


「最低条件を達成しただけです」


 ノエルは少し不満そうだった。


「鉢を壊しても増えるなら、円を構成する意味を変える必要がある」


 フィルブランテは四十九鉢を見た。


「毒を生む陣ではなく、毒を閉じ込める陣へ」


「術式の目的を書き換える?」


「わたくしの氷晶で、配置の意味を別の記録として固定できれば」


「危険です」


 ミレーヌが即座に止めた。


「右腕の使用制限を超えます」


「まだ使っていません」


「使うおつもりでしょう」


「必要なら」


「中止条件をお忘れですか」


 フィルブランテは黙った。


 アマンテルスが横から口を挟む。


「一人で四十九全部を固定するから無理なんだ。俺の影で線をまとめる。フィルブランテは一つだけ記録しろ」


「兄貴の腕も同じ状態だ」


「同時にやれば負担は半分」


「計算根拠は」


「兄弟の勘」


「却下」


「即答するな」


「勘で魔力負荷を決めるな」


「では、僕が計算する」


 ノエルが結晶板を持ち上げた。


「影で四十九の接続を一つへ束ね、氷で目的を固定する場合、二人への負荷は単独時の三十一パーセントまで下がる」


「ほら見ろ」


「ただし、運命式が抵抗しなければ」


「後から条件を足すな」


「最初から含まれている」


 フィルブランテは考える。


 発動前に陣の意味を変えられれば、最も安全だ。


 だが、前回も退路を固定し、上書きされた。


 運命式は、自分たちの対策を学んでいる。


「今は固定しません」


 フィルブランテは決めた。


「術式を刺激すれば、正午前に発動する可能性があります。ノエル、負荷計算だけ用意してください。兄貴は影で四十九鉢の経路を把握。リゼットは、自分の聖花紋の変化を教えてください」


「分かりました」


「俺は分かったけど、今、兄貴って」


 レオンハルトとシリルが同時にこちらを見る。


 リゼットが素早く咳払いをした。


「魔族領の慣用表現です」


「もう無理があると思います」


 ルーシェが率直に言う。


 フィルブランテは聞こえなかったことにした。


     ◇


 午前十時。


 四十九鉢の検分が終わった。


 どの鉢にも、毒はなかった。


 どの植物にも、呪いはなかった。


 違いは、四十九番目の鉢だけが、ほかの鉢より古いことだった。


「この印をご覧ください」


 ミレーヌが鉢の底を布で拭う。


 氷薔薇と三本の麦穂。


 ほかと同じ公爵家の印に見える。


 だが、薔薇の外側に、細い円が一つ追加されていた。


「旧印です」


 フィルブランテの声が低くなる。


「十年前まで、イデルバルディ家の慈善薬園で使われていました」


「十年前?」


 レオンハルトが問う。


「母上が亡くなる前までです」


 セラフィナ・イデルバルディ。


 フィルブランテの母。


 表向きは病死。


 けれど、彼女は亡くなる前、聖花教会の資金と薬草流通を密かに調べていた。


 その記憶が、フィルブランテの中に断片としてある。


 夜遅くまで帳簿を見る母。


 娘が入ると、笑って紙を閉じる。


 薬草の匂いが染みた指で、フィルブランテの髪を撫でる。


 最後の冬。


『もし、お母様がいなくなっても、記録は嘘をつかないわ』


 幼いフィルブランテには、意味が分からなかった言葉。


「お嬢様」


 ミレーヌが心配そうに見る。


「大丈夫です」


 フィルブランテは鉢へ手をかざした。


 〈晶析眼〉を開く。


 古い魔力の層が、幾重にも重なっている。


 土。


 水。


 薬草。


 運搬者。


 十年分の履歴。


 その最深部に、よく似た氷属性の魔力があった。


 冷たいのに、触れられると胸が温かくなる。


 フィルブランテの記憶が、先に答えを出した。


「母上の魔力です」


「この鉢を、母君が?」


「ええ。少なくとも一度、記録術を施しています」


「毒花事件と、お母様の死が関係しているのでしょうか」


 リゼットが尋ねる。


「分かりません」


 フィルブランテは正直に答えた。


「今、深く読めば、記録を取り出せるかもしれません。ただし、運命式まで刺激する危険があります」


「正午まで待ちましょう」


 レオンハルトが言った。


「発動を止めた後で、全員立ち会いのもと調べる」


「同意します」


 フィルブランテは鉢から手を離した。


 母の記録を、今すぐ見たい。


 そう思う感情は強い。


 それでも、一人で触れなかった。


 アマンテルスが隣へ来て、小声で言う。


「よく我慢したな」


「子ども扱いするな」


「褒めたんだよ」


「兄貴に褒められると腹が立つ」


「何でだ」


「昔からだ」


 アマンテルスは少し笑った。


「俺も一緒に見る」


「分かってる」


 フィルブランテは短く答えた。


     ◇


 午前十一時。


 温室で働く職員へ、危険が説明された。


 何も起きていない段階で、正午に毒花が発生するかもしれないと告げる。


 当然、反応はさまざまだった。


 信じられないと言う者。


 すぐに帰りたいと言う者。


 植物を残して避難できないと言う者。


 オルガ教授は一人ずつ話を聞き、残る者と退く者を分けた。


 最終的に温室へ残ったのは、第一演習班の六人、学院長、オルガ教授、ミレーヌ、ルーシェ。


 計十名。


 ほかの職員は、正午までに周辺棟からも避難した。


 シリルは外周へ風の防壁を張り、花粉や香りが外へ漏れないよう調整する。


 レオンハルトは正面扉を閉じず、いつでも避難できる幅だけ開け、光の結界で固定した。


 ノエルは四十九鉢と、三人の魔力変化を同時に記録する。


「リゼット」


 彼は結晶板を持ったまま呼びかけた。


「聖花紋へ測定術を接続していい?」


 リゼットが目を瞬く。


「今、許可を取りましたか?」


「必要だと判断した」


「誰が?」


「昨日の君と、今日のフィルブランテ」


 ノエルは真顔だった。


「僕の判断だけでは足りないらしい」


 成長なのか、皮肉なのか分からない。


 リゼットは少し笑った。


「痛くありませんか」


「ない。外したいと言えば、すぐ外す」


「では、お願いします」


 ノエルが杖を向ける前に、もう一度確認する。


「今から接続する」


「はい」


 無色の光が、リゼットの胸元にある聖花紋へ触れた。


 結晶板へ、花弁の数と魔力の流れが表示される。


「何か変ですか?」


「平常値を知らないから比較できない」


「では、今の測定は」


「これが平常値になる」


「先に言ってください」


「聞かれなかった」


「許可を取るだけでは、まだ足りませんね」


 ノエルは結晶板へ、その言葉まで書き留めた。


「何を記録したんですか」


「許可には、目的の説明が必要」


 リゼットは何も言えなくなった。


 少し離れた場所で、アマンテルスが笑っている。


「楽しそうだな、兄貴」


「いや。あいつ、フィルブランテより面倒な相手を見つけたと思って」


「聞こえています」


 リゼットが二人を睨む。


 フィルブランテは時計へ視線を戻した。


 午前十一時三十分。


 残り三十分。


 右腕の黒い霜が、少しずつ痛みを増している。


 リゼットの聖花紋も、花弁が一枚ずつ増えていた。


 アマンテルスの影は、光が強くなるにつれ、本人の意思より濃く広がっている。


 三人の力が、正午へ向かって引き寄せられている。


「発動前から、私たちを一つの術式へ組み込んでいます」


 フィルブランテは言った。


「教本事件で成立した連携を、運命式が学習したのでしょう」


「こちらの力を利用して、毒花を咲かせる気か」


 アマンテルスが四十九鉢を見る。


「リゼットの光で植物を活性化。俺の闇で毒を根へ保存。フィルブランテの氷で、公爵家の犯行という記録を固定する」


「わたしたちの魔法が、悪いことに使われるんですか」


 リゼットの声が震える。


「使わせません」


 フィルブランテは即答した。


「力に善悪はありません。目的を選ぶのは、わたくしたちです」


 旧文書庫で見た言葉。


 強いられた善は光を焼き、強いられた悪は闇を喰らい、偽られた記録は未来を閉ざす。


 ならば三人が自由に目的を選べば、同じ力を別の結果へ向けられる。


「事前に、役割を決めます」


 フィルブランテは二人を見る。


「リゼットは毒と植物、毒と人を分ける。兄貴は分けた毒を影へ収容する。僕が毒の術式と履歴を固定する」


「前回と同じですね」


「違います。前回は偶然、反応しました。今回は自分たちで選び、順序を決めます」


「自由意思の確認」


 ノエルが口を挟む。


「双月の契約には、三者の自由意思が必要と書かれていた」


「そうです」


 フィルブランテはリゼットへ尋ねる。


「危険です。それでも、ご自分の力を使いますか」


 リゼットは少し考えた。


「怖いです」


 正直な答えだった。


「でも、使いたいです。温室の花も、ここにいる皆さんも、傷つけたくありません。全部を一人で治すのではなく、お二人へ助けてもらいます」


 フィルブランテは頷き、アマンテルスを見る。


「兄貴は?」


「俺は毒を受け止める」


「全部ではありません」


「分かってる。影の容量を超える前に言う」


「本当に?」


「約束する」


「痛みも隠さない」


「細かいな」


「約束を追加します」


「……分かった」


 アマンテルスは右手を差し出した。


「お前は?」


「記録します」


 フィルブランテはその手へ左手を重ねた。


「誰が何をしたか。どこから毒が来たか。わたくしたちが何を選んだか。すべて残します」


 リゼットが二人の手へ、自分の手を載せた。


 三人の魔力が、触れた場所でかすかに循環する。


 白い光。


 黒い影。


 青い氷。


 まだ術ではない。


 ただの約束だ。


 それでも、運命式の黒い線が、一瞬だけ揺らいだ。


「反応した」


 ノエルが記録する。


「運命式より先に、目的が固定された」


「名前を付けるか?」


 アマンテルスが言う。


「今ですか」


「技名があった方が、合わせやすいだろ」


「子どもですか」


「そう言いながら、フィルブランテは考えてる顔だ」


「考えていません」


「リゼットは?」


「えっ、わたしですか?」


 三人が真剣に悩み始めたところで、レオンハルトが咳払いをした。


「命名は、生き延びてからにしてほしい」


「正論だな」


「殿下の正論だけは素直に聞くんですね」


「弟の正論は聞き飽きた」


「あとで覚えておけ」


 緊張が少しだけ緩む。


 時計の針が、正午五分前を指した。


     ◇


 午前十一時五十九分。


 温室の光が変わった。


 太陽は雲へ隠れていない。


 それでも硝子天井を通る光が、白から薄い紫へ染まっていく。


 四十九鉢の植物が、同時に葉を閉じた。


 銀鈴草の鈴が、風もないのに鳴る。


 清明百合の白い花弁へ、黒い筋が走る。


 朝露蘭の青い花が、血のような赤へ変わった。


「始まります」


 フィルブランテが扇〈アルブム〉を開く。


 アマンテルスの影が床へ広がる。


 リゼットは胸元の聖花紋へ手を置いた。


「全員、配置へ!」


 レオンハルトの声が響く。


 シリルの風が温室の外周を巡り、花粉の流れを中央から逸らす。


 ノエルの結晶板へ、魔力数値が急激に上がった。


「発動まで、十秒」


 四十九鉢の黒い線が、一斉に光る。


「九」


 円が閉じる。


「八」


 リゼットの聖花紋が、本人の意思を無視して開き始める。


「七」


 アマンテルスの影が、鉢の根へ引かれる。


「六」


 フィルブランテの右腕から、氷晶が床へ伸びる。


「五」


 公爵家の旧印が、四十九鉢すべてに浮かび上がった。


「四」


 正面扉が勝手に閉じようとする。


 レオンハルトの光結界が軋み、開いた状態を保つ。


「三」


 温室中央の土が盛り上がる。


「二」


 巨大な蕾が、リゼットの足元から生えた。


「一」


 正午の鐘が鳴った。


 蕾が開く。


 黒い花だった。


 人の背丈を超える花弁の中央に、白い牙のような雄しべが並んでいる。


 花は最初の息を吸った。


 そして、紫色の霧を吐き出した。


「風よ!」


 シリルが槍を回す。


 霧が中央へ渦を巻き、温室の外へ漏れるのを防ぐ。


 だが花粉は風に逆らい、リゼットへ集まる。


 対象が決められている。


「光壁を!」


 レオンハルトが剣を振る。


 白い結界がリゼットの前へ立った。


 紫の霧が光へ触れる。


 次の瞬間、倍の濃さへ増えた。


「光が毒花を活性化している!」


 ノエルが叫ぶ。


「殿下、結界を消して!」


「しかし、リゼットが」


「私たちが守ります!」


 フィルブランテの言葉に、レオンハルトが歯を食いしばる。


 自分の光を消せば、リゼットが無防備になる。


 英雄として守るなら、結界を強める場面だ。


 だが、光が毒を増やしている。


「任せる!」


 レオンハルトは光壁を消した。


 霧がリゼットへ押し寄せる。


 アマンテルスが前へ出た。


「俺の影へ!」


 黒い幕が立ち上がり、紫の毒を吸い込む。


 毒花が歓喜するように震えた。


 四十九鉢の根を通り、さらに多くの毒が影へ流れ込む。


「兄貴、量は!」


「まだ二割!」


「嘘をつくな!」


「三割!」


「ノエル!」


「影の容量、四十二パーセント。上昇中」


「全部言うなよ!」


「痛みも隠さない約束」


「お前は約束してないだろ!」


 アマンテルスの腕へ黒い文字が広がる。


 四十九鉢の毒だけではない。


 晩餐会の呪い。


 旧文書庫の怪物の印。


 影に残っていた古傷が、毒を受けて一斉に開く。


 黒い角が伸び、先端から影が滴った。


「アマンテルス様!」


 ルーシェが駆け寄ろうとする。


「来るな!」


 叫んだ瞬間、アマンテルスは自分で気づいた。


 また一人で抱え込もうとしている。


 リゼットが、アマンテルスの横へ並んだ。


「約束しました」


「分かってる。頼む!」


 迷う前に言った。


 リゼットは頷き、両手を開く。


「聖花よ。毒と命を、分けて!」


 白い花弁が舞った。


 紫の霧へ触れ、植物の魔力と毒の術式を一枚ずつ剥がしていく。


 しかし、毒花の根は深い。


 温室の薬草すべてとつながっている。


 無理に毒だけを剥がせば、植物の生命まで裂ける。


 清明百合の花弁が落ち始めた。


 銀鈴草の茎が折れる。


「植物が死にます!」


 オルガ教授が叫ぶ。


 リゼットの顔が青ざめる。


「わたしが、傷つけて」


「違う!」


 アマンテルスが毒を押さえながら怒鳴る。


「お前は助けようとしてる! 力を止めるな!」


「でも」


「一人で全部、きれいに分けようとするな!」


 それは自分へ言うべき言葉でもあった。


 リゼットの光が揺れる。


 フィルブランテは扇を床へ突き立てた。


「植物と毒が結びついた時点を固定します!」


 青い氷晶が、四十九鉢の根を可視化する。


 いつ。


 どこで。


 どの魔力が。


 生命と呪いを結びつけたのか。


 履歴が青い線となって浮かび上がる。


 昨日、学院倉庫から運ばれたときではない。


 五日前、公爵領を出たときでもない。


 十年前。


 四十九番目の古い鉢へ、最初の黒い種が埋められている。


 そこから運命式が、現在の四十八鉢へ毒の結果を複製した。


「元は一つです!」


 フィルブランテは叫ぶ。


「古い鉢の種だけを分離すれば、ほかの植物は助かります!」


「場所は!」


 シリルが問う。


 四十九鉢は円形に並び、どれが古い鉢か見た目では分からない。


 フィルブランテの〈晶析眼〉には、一本の青い線が見えている。


 花冠区の北西。


 十七番目。


「北西、氷印の鉢!」


 シリルが風を蹴り、一気に移動する。


 鉢を持ち上げようとした瞬間、黒い根が床へ縫いつけた。


「動かない!」


「壊せば増えます!」


「なら、土だけを抜く!」


 シリルは槍の穂先を外し、柄を土へ差し込んだ。


 風が渦を作り、植物の根を傷つけず、中央の種だけを押し上げる。


 黒い種が姿を現した。


 親指ほどの大きさ。


 表面へ、中心のない円が刻まれている。


「見つけた!」


「触らないで!」


 リゼットの白い花弁が、黒い種を包む。


 毒と植物の根を分離する。


 今度は対象が一つだ。


 清明百合も銀鈴草も傷つけず、黒い糸だけが一本ずつ外れていく。


「兄貴!」


「任せろ!」


 アマンテルスの影が、分離された毒を受け止める。


 一度に吸収しない。


 影の中へ七つの小さな区画を作り、毒を分散して収容する。


「容量、六十一パーセント」


 ノエルが報告する。


「まだ行ける!」


「痛みは!」


 フィルブランテが問う。


「十段階で七!」


 今度は最初から正直だった。


「八になったら交代!」


「誰とだよ!」


「僕が固定します!」


 フィルブランテは氷晶をアマンテルスの影へ重ねる。


 黒い毒が、青い結晶の中へ術式として保存される。


 しかし右腕の包帯が、内側から赤く染まり始めた。


 旧文書庫の傷が開いている。


「フィルブランテ!」


「十段階で六!」


「聞く前に言うな!」


「隠すなと言ったのは兄貴だろ!」


 リゼットが二人を見た。


「お二人とも、まだ続けられますか!」


「当然!」


「続けます!」


「では、わたしも!」


 三人の声が重なる。


 白い花弁が毒を分ける。


 黒い影が毒を抱く。


 青い氷晶が由来を記す。


 循環が生まれた。


 リゼットが一人で毒を浄化しようとすれば、負担が光へ集中する。


 アマンテルスが一人で吸収すれば、影が怪物へ変わる。


 フィルブランテが一人で固定すれば、毒ごと自分の身体へ凍結される。


 三人なら、力が一か所に留まらない。


 互いの限界へ達する前に、次の者へ流れていく。


 運命式の黒い線が、三色の魔力を奪おうとする。


 聖女は一人で浄化せよ。


 怪物は一人で呪いを抱け。


 悪役は偽りの記録を残せ。


 役割を強いる声が、温室全体へ響く。


「お断りします!」


 リゼットが叫んだ。


「わたしは一人で癒やしません!」


「俺も一人で抱えない!」


 アマンテルスが続く。


「わたくしは、起きた事実を偽らない!」


 フィルブランテの扇が大きく開く。


 三人の足元へ、術式陣が広がった。


 白い聖花を中心に、黒い影が円を作り、青い氷晶が花弁の輪郭を記す。


 昼と夜の間。


 光と闇が重なる黄昏。


 そこへ、記録の花が咲く。


「術式が自律安定した」


 ノエルが目を見開く。


「三人の自由意思を核にしている。運命式が上書きできない」


 黒い毒花が咆哮した。


 牙のような雄しべを開き、残った毒を一気に吐き出す。


「シリル!」


 レオンハルトが呼ぶ。


「分かっています!」


 風が毒を中央へ集める。


「殿下、光は外側へ!」


 ノエルが指示する。


「毒へ触れず、温室の硝子だけを守って!」


 レオンハルトの光が、今度は三人を直接覆わない。


 硝子天井と外壁へ広がり、毒を閉じ込めながら逃げ道を守る。


 英雄としてすべてを倒すのではない。


 仲間が力を使える場所を作る。


「オルガ教授、根の保護を!」


 学院長が命じる。


 教授の地属性魔法が、無毒の植物の根だけを土へ固定する。


「ミレーヌ、ルーシェ! 負傷者の確認を!」


 二人の侍女が、それぞれの主人だけでなく、温室全体を回る。


 十人の力が、一つの目的へつながる。


 三人の術式陣が、完成した。


 黒い種から最後の毒が抜ける。


 リゼットの光が、種と呪いを完全に分けた。


 アマンテルスの影が、呪いを七つの器へ収める。


 フィルブランテの氷晶が、七つを一つの証拠へ固定する。


 透明な結晶の中に、黒い花が咲いた。


 同時に、巨大な毒花が崩れ始める。


 黒い花弁は紫の霧へ戻らず、白い紙片となって舞った。


 紙片には、イデルバルディ公爵家の印が書かれている。


 すべて偽りの証拠。


 フィルブランテは逃さず、氷晶の中へ取り込む。


「記録しました!」


 最後の一枚が結晶へ入った瞬間、運命式の円が砕けた。


 四十九番目の鉢だけが消える。


 残ったのは、最初から出荷された四十八鉢。


 清明百合が白さを取り戻す。


 銀鈴草が澄んだ音を鳴らす。


 朝露蘭の赤が青へ戻る。


 正午の鐘が、十二回目を打ち終えた。


 温室に、静寂が落ちた。


「終わった……?」


 リゼットが呟く。


 胸元の聖花紋から、一枚の白い花弁が落ちる。


 花弁は三人の間を回り、青と黒の縁取りを得た。


 そして、空気へ溶けた。


「終わりました」


 フィルブランテは答えた。


 その途端、右腕から力が抜けた。


 身体が傾く。


「フィル!」


 レオンハルトが駆け寄るより早く、アマンテルスの影が支えた。


「中止条件」


「もう終わった後です」


「倒れたら中止って言っただろ」


「だから、終わるまで倒れませんでした」


「屁理屈」


「兄貴に言われたくない」


 アマンテルスも顔色が悪い。


 リゼットが二人の腕へ触れようとして、止まる。


「触れてもいいですか」


 ノエルの言葉を思い出したのだろう。


「ええ」


「頼む」


 三人がもう一度、手を重ねる。


 今度の光は、毒を分けるためではない。


 二人の傷を癒やすために、リゼット自身が選んだ光だった。


     ◇


 毒花事件による死者は、出なかった。


 温室の職員も、第一演習班も、軽度の魔力疲労と小さな傷だけで済んだ。


 四十八鉢の植物も、すべて生き残った。


 そして、透明な氷晶の中には、黒い毒花、偽造された公爵家の印、毒が広がった経路、運命式の構造が保存されている。


 証拠を一つの組織へ預けないため、学院、王家、魔侯領の立会人が同時に確認し、ノエルが三つの複製を作った。


 フィルブランテは温室の中央で、集まった教員と学生へ説明することを選んだ。


 隠せば、新しい噂が生まれる。


 ならば、分かっている事実と、分からないことを分けて公表する。


「事件に用いられた鉢には、イデルバルディ公爵家の真正な旧印がございました」


 ざわめきが起きる。


 レオンハルトが何か言おうとしたが、フィルブランテは自分で続けた。


「しかし、公爵家の現在の出荷記録は四十八鉢。運命式が作り出した四十九番目の鉢には、十年前の魔力履歴が残っております。誰が、どのように旧印を利用したかは、現在調査中です」


「では、公爵家は無関係なのですか」


 学生の一人が尋ねる。


「無関係とは申しません。公爵家の管理していた鉢が用いられた以上、保管と記録を調べる責任がございます」


「フィルブランテ様が、毒花を入れたのですか」


 別の声。


「いいえ」


 答えたのはリゼットだった。


 若草色の瞳が、集まった人々を見回す。


「フィルブランテ様は、毒がどこから来たかを見つけ、証拠を残してくださいました。アマンテルス様は毒を受け止め、温室の外へ出さないでくださいました。お二人がいなければ、わたしも、ここにいる皆さんも無事ではなかったと思います」


「しかし、公爵令嬢と魔族令嬢が組んで」


「組んではいけないのですか?」


 リゼットは尋ね返した。


 相手の学生が言葉に詰まる。


「人族と魔族は、敵だと」


「わたしは今日、助けていただきました。目の前で起きたことより、誰かから聞いた敵という言葉を信じるのですか?」


 強い声ではない。


 ただ、自分が見たことを語る声だった。


 アマンテルスは少し驚いた顔でリゼットを見る。


 フィルブランテも、何も付け加えなかった。


 彼女自身が選び、自分の言葉で話している。


 それを利用するのではなく、任せる。


 ざわめきは消えない。


 だが、全員が同じ噂へ流されることもなかった。


 オルガ教授が前へ出る。


「温室管理責任者として申し上げます。本日の対応は、第一演習班全員の判断によるものです。公爵令嬢だけの功績でも、責任でもありません」


 シリルも続く。


「外周の封鎖記録と、鉢の搬入記録は騎士科で保管する。疑うのであれば、証拠を確認してほしい」


 ノエルは氷晶を持ち上げた。


「術式の複製は星読塔で閲覧できる。ただし、触れる前に許可を取って」


「誰の許可ですか」


 リゼットが尋ねる。


「僕の。危険だから」


「そこは正しいですね」


 少しだけ笑いが起きた。


 運命式が望んだ結果は、フィルブランテ一人へ疑惑を集めることだった。


 だが今、証言も責任も、複数の人間へ分かれている。


 悪役を一人作る余地が、少しずつ狭まっていく。


「ところで」


 エレオノーラ学院長が、三人の足元へ残る術式陣を見た。


 白い花。


 黒い影。


 青い結晶。


「先ほどの術は、誰が設計したのです?」


「設計というほどでは」


 フィルブランテが答える。


「三人で役割を決め、教本事件の連携を再現しただけです」


「名前は?」


 アマンテルスが嬉しそうに反応する。


「まだない。今、決めるところだった」


「兄貴、余計なことを」


 学院長の眉が上がる。


「兄貴?」


「魔族領の慣用表現です」


「そろそろ別の言い訳を考えた方がよろしいかと」


 ミレーヌが冷静に言う。


 リゼットは足元の模様を見つめた。


「黄昏みたいです」


「黄昏?」


「光と闇が一緒にあって、氷の花が咲いているから」


 学院長の表情が変わった。


「〈黄昏晶花陣〉」


 静かに名を告げる。


「ご存じなのですか」


「旧い記録に、名前だけ残っています。聖花の巫女、月影の守、晶術の記録者が用いた、呪いを消さずに由来まで保存する術」


 双月の契約へ記されていた、三人の役割。


 失われた術が、名前も知らない三人の自由意思によって再現された。


「偶然ではありませんね」


 フィルブランテは言った。


「ええ。おそらく、あなた方の力が特別なのではありません」


 学院長は三人を見る。


「互いを道具にせず、役目を強いず、同じ目的を選んだことが条件なのでしょう」


 アマンテルスが少し不満そうにする。


「必殺技じゃないのか」


「兄貴は何を期待していたんだ」


「名前が付くなら、もっと派手な」


「毒花を一株も枯らさず封じたのです。十分に派手ですよ」


 リゼットが笑う。


「じゃあ、次は掛け声を決めよう」


「決めません」


「三人で合わせるなら必要だろ」


「必要ありません」


「わたしは、少しあった方が」


「リゼットさん?」


「何でもありません」


 リゼットは透から目を逸らした。


 兄側へ引き込まれ始めている。


 フィルブランテは今後の会議運営に、不安を覚えた。


     ◇


 夕刻。


 温室から人が去った後、第一演習班と学院長は四十九番目の鉢があった場所へ残った。


 鉢そのものは運命式が砕けたときに消えた。


 しかし、鉢の最深部にあった記録だけは、フィルブランテの氷晶へ保存されている。


 透明な結晶の中で、古い氷薔薇の印が光っていた。


「準備はよろしいですか」


 学院長が尋ねる。


 フィルブランテは頷く。


「はい」


「無理だと思えば、すぐに中止してください」


「分かっています」


「アマンテルス嬢」


「俺――私も止めます」


「リゼット嬢」


「わたしもです」


 一人で記録を読むのではない。


 全員が立ち会い、危険を分ける。


 フィルブランテは結晶へ右手を添えた。


 〈晶析眼〉を、最深部まで開く。


 視界が青く染まる。


 十年前の温室が現れた。


 現在の聖花温室ではない。


 イデルバルディ公爵領の慈善薬園。


 夕暮れの硝子室で、一人の女性が鉢へ魔法を施している。


 淡い金髪。


 青紫の瞳。


 フィルブランテとよく似た横顔。


「母上」


 フィルブランテの声ではない。


 身体の奥から、幼いフィルブランテの声が漏れた。


 セラフィナ・イデルバルディ。


 女性は背後を振り返る。


 記録の中で、幼い娘を見つけたように微笑んだ。


『フィル。まだ起きていたの?』


 小さな足音が近づく。


 視界の下から、幼い手が伸びる。


『お母様、何をなさっているの?』


『大切なことを、鉢に覚えてもらっているのよ』


『鉢も、覚えるの?』


『ええ。人は都合の悪いことを忘れるけれど、土と氷は正直だから』


 セラフィナは笑い、鉢の底へ氷薔薇の印を刻む。


 次の瞬間、表情が真剣なものへ変わった。


 幼いフィルブランテを、使用人へ預けて遠ざける。


 一人になった硝子室で、記録結晶へ向き直った。


『この記録を見つけた方へ』


 十年前の声が、現在の温室へ響く。


『聖花教会の薬草流通に、不自然な数字があります。救護院へ送られたはずの治癒草が消え、代わりに、灰銀峡谷から運ばれた黒い種が王都へ入っています』


 ノエルが記録用結晶へ内容を写す。


 レオンハルトの顔が険しくなる。


『調査を続けるうち、古い文書で〈中心のない円〉を見つけました。教会が異端として封じた印です。けれど、これは邪悪な印ではありません。忘れられた契約の、空席を示しています』


 虚無教団の紋章。


 中心のない円。


 セラフィナは、十年前から同じものを追っていた。


『わたくしが調べていることは、すでに知られています。この記録を公爵家の書庫へ置けば消されるでしょう。教会へ預ければ、なおさらです。だから薬園の鉢へ分けて残します』


 映像が乱れる。


 黒い線が、記録へ入り込んでいる。


 十年後に埋められた毒の種が、過去の記録まで喰らおうとしている。


「氷で固定します」


 フィルブランテが力を込める。


 右腕へ痛みが走る。


「五」


 聞かれる前に告げた。


 アマンテルスの影が結晶を支える。


「こっちは三。まだ行ける」


 リゼットの花弁が、セラフィナの記録と黒い種の汚染を分ける。


 三人で、過去の声を守る。


『フィル』


 セラフィナが、記録の向こうから呼んだ。


 偶然、娘が見る可能性を考えたのか。


 それとも母親の直感か。


『もし、あなたがこの記録を見ているのなら、お母様はもう、そばにいないかもしれません』


 フィルブランテの胸が締めつけられる。


 フィルブランテの記憶が、泣いている。


『ごめんなさい。あなたへ何も話さず、一人で守ろうとしました』


 アマンテルスが隣で、息を止めた。


 それはアマンテルスが選びかけた道でもある。


 すべてを一人で抱え、家族へ説明せず、守るために離れる。


『けれど、どうか同じことをしないで。記録は、一人で抱えるためにあるのではありません。誰かへ渡し、一緒に考えるためにあるのです』


 映像が大きく揺れる。


 最後の言葉が、雑音に埋もれる。


『聖花は、一人では――』


 音が途切れる。


 黒い種の汚染が、記録の終端を喰い破った。


「まだあります!」


 リゼットが花弁を伸ばす。


 アマンテルスの影が、消えかけた言葉を包む。


 フィルブランテの氷が、一瞬だけ形を戻す。


『――黄昏島を、探して』


 そこで記録は砕けた。


 温室へ、夕暮れの光が戻る。


 透明な結晶の中には、セラフィナの最後の言葉だけが残っている。


 黄昏島。


 現在の王国地図には存在しない場所。


 双月の契約の地図にだけ、名を消されて描かれていた島。


「お母様は、教団と双月の契約を調べていた」


 フィルブランテは呟いた。


「そして、殺された可能性がある」


 レオンハルトが低く続ける。


「まだ断定はできません」


 そう答えながら、フィルブランテの声は震えていた。


 母は病死した。


 そう教えられてきた。


 しかし、調査を知られ、記録を隠し、娘へ別れの言葉を残している。


 偶然とは思えない。


 アマンテルスが、フィルブランテの肩へ手を置いた。


「一人で調べるなよ」


「分かってる」


「お前は、考え始めると一人で全部やろうとする」


「兄貴にだけは言われたくない」


「だから言うんだよ」


 フィルブランテは兄を見る。


 アマンテルスの赤紫の瞳は、冗談を言っていなかった。


「双傘同盟の次の目標だ」


「黄昏島を探す?」


「その前に、母上の記録を全部集める。公爵領の薬園に、ほかの鉢が残ってるかもしれない」


「兄貴」


「何だ」


「母上って呼ぶな」


「お前の母上なら、俺の母上でもあるだろ」


「エルネシア様を僕に母上と呼べと言った仕返しか?」


「仕返しじゃない。兄弟なら普通だ」


 フィルブランテは反論しようとして、やめた。


 胸の痛みが、ほんの少しだけ軽くなる。


「……勝手にしろ」


「はいはい、弟君」


「その呼び方はやめろ」


 二人の小さな口論を、リゼットが静かに見ていた。


「わたしも、一緒に探します」


 フィルブランテが振り返る。


「危険です」


「危険なときは話すと、約束しました」


「話すことと、同行することは別です」


「助けさせるとも、約束しました」


 今度はアマンテルスが笑う。


「俺が追加した約束だな」


「兄貴」


「もう諦めろ。こいつは来る」


 リゼットは三色の花模様が残る手を、胸元で握った。


「セラフィナ様の言葉が、本当なら。聖花は一人では何かが足りない。わたしも、自分の力のことを知りたいです」


 フィルブランテはしばらく考え、頷いた。


「では、第一演習班として調査を提案します。全員の同意と、学院長の許可を得た上で」


「相変わらず固いな」


「兄貴が柔らかすぎるんだ」


「では、決まりですね」


 リゼットが笑った。


 温室の外で、夕鐘が鳴る。


 毒花事件は終わった。


 フィルブランテへ用意された二つ目の罪は、証拠と証言を分かち合うことで、悪役一人の物語にならずに済んだ。


 その代わり、十年前に閉じられた母の死と、地図から消された島への道が開いた。


 破滅を一つ避けるたび、知らなかった真実が現れる。


 フィルブランテは氷晶へ残る母の言葉を見つめた。


 記録は、一人で抱えるためにあるのではない。


 誰かへ渡し、一緒に考えるためにある。


 その隣には、黒い影を伸ばす兄がいる。


 向かいには、白い花を持つ少女がいる。


 今度こそ、一人ではない。


 だが同じ頃。


 王都の聖花大聖堂では、大司教ザハルが、枯れた黒い種を指先で転がしていた。


「黄昏晶花陣まで、再現しましたか」


 種は砕け、灰となって落ちる。


 祭壇の下には、四十八個の小さな鉢が並んでいた。


 いずれにも、異なる貴族家の紋章が刻まれている。


「セラフィナ。あなたの記録は、十年を経ても厄介ですね」


 ザハルは一つの鉢へ水を注ぐ。


 土の中から、白い根が伸びた。


「ですが、娘は母より多くのものを守ろうとしている。ならば、失ったときの絶望も、より深い」

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