第五話 その役は、お断りします
「口止めのお話をいたしましょう」
フィルブランテ・アソート・イデルバルディが微笑むと、リゼットとイザベルはそろって一歩後ずさった。
夕暮れの学院廊下。
窓の外では、入学初日の授業を終えた学生たちが寮へ向かっている。離れた中庭からは楽しげな声が聞こえてくるが、四人の間に流れる空気だけは、今にも凍りつきそうだった。
原因の半分は、フィルブランテの笑顔である。
もう半分は、その隣で腹を抱えているアマンテルスだった。
「笑っている場合か、兄貴」
フィルブランテは口元を動かさずに言った。
「だって、お前の顔が怖すぎる。完全に証人を消す悪役令嬢だぞ」
「誰のせいだと思ってる」
「俺?」
「ほかにいるか」
アマンテルスは笑うのをやめようとして、失敗した。
リゼットが、恐る恐る手を挙げる。
「あの、フィルブランテ様」
「何でしょう、リゼットさん」
「口止めというのは、具体的には……」
「話し合いですわ」
「本当に?」
「もちろんです」
「魔法で記憶を消したりは?」
「いたしません」
「誰にも言えなくなる呪いをかけたり」
「いたしません」
「人の来ない森へ連れていったり」
「リゼットさんの中で、わたくしは何者なのです?」
「怖い貴族の方です」
即答だった。
午前中、自分で認めたことなので反論できない。
アマンテルスがまた吹き出す。
フィルブランテは兄の脇腹へ肘を入れようとして、魔族令嬢の礼装を思い出し、ぎりぎりで止めた。代わりに踵で靴の先を踏む。
「痛っ」
「どうかなさいましたか、アマンテルス様」
「公爵令嬢に足を踏まれましたわ」
「人聞きの悪い。偶然です」
「目を見ながら踏んだでしょう?」
「お二人とも」
イザベルがおずおずと声を挟んだ。
右手には、書庫で負った傷を覆う包帯が巻かれている。
「やはり、ご兄弟なのですか?」
アマンテルスとフィルブランテは同時に黙った。
ごまかすなら今だ。
魔族領の慣用表現。
発音が似た別の言葉。
極度の疲労による聞き間違い。
フィルブランテの頭へ複数の案が浮かび、すべてを却下する。
二人はこの少女たちへ、事件の調査に協力してほしいと頼んだばかりだ。
その直後から嘘を重ねるのは、対等な関係ではない。
「場所を変えましょう」
フィルブランテはため息をついた。
「ここでは、誰に聞かれるか分かりません」
◇
学院図書館の北閲覧室は、入学初日にして二度目の秘密会議へ使われることになった。
窓と扉を閉め、アマンテルスが影の防音膜を張る。
四人は長机を囲んだ。
フィルブランテとアマンテルスが片側。
リゼットとイザベルが反対側。
事情聴取というより、停戦交渉のような配置だった。
「最初に確認します」
フィルブランテは両手を机の上で組んだ。
「廊下で聞いた内容を、どなたかへ話しましたか」
「いいえ」
リゼットが答える。
「わたくしも、誰にも」
イザベルが続いた。
「今後、許可なく他言しないと約束できますか」
「約束します」
リゼットは迷わない。
イザベルも頷いた。
「フィルブランテ様には、命を救っていただきました。ご迷惑になることは、決していたしません」
「恩を理由に、口を閉ざす必要はありません」
フィルブランテが言うと、イザベルは戸惑った顔をした。
「ですが」
「あなたが自分で必要だと判断した場合だけ、秘密にしてください。借りを返すためでも、わたくしが公爵令嬢だからでもなく」
「それでは、何を基準に判断すれば」
「話すことで、誰が傷つき、誰が守られるかです」
フィルブランテは一度、兄を見る。
アマンテルスが小さく頷いた。
「私たちは」
フィルブランテは言葉を選んだ。
「今の家とは異なる場所で、兄弟として過ごした記憶を持っています」
リゼットの若草色の目が丸くなる。
イザベルは理解できないように瞬いた。
「異なる場所、とは?」
「今はお話しできません」
「前世、ということでしょうか」
イザベルの問いに、アマンテルスが肩をすくめる。
「たぶん、それが一番近い。俺が兄で、こいつが弟だった」
「俺」
リゼットが反応する。
アマンテルスは咳払いをした。
「私が兄で、こちらが弟でしたの」
魔族令嬢の優雅な声で説明されると、余計に奇妙である。
リゼットはアマンテルスとフィルブランテを交互に見た。
「今は、お二人とも女性ですよね」
「見れば分かるだろ」
「兄貴」
「見ればお分かりになるでしょう」
「言い直しても遅いです」
イザベルは包帯を巻いた手で額を押さえた。
「つまり、魔侯令嬢であるアマンテルス様が兄で、公爵令嬢であるフィルブランテ様が弟。お二人は以前、別の場所で暮らしていて、今はその記憶を共有している……」
「だいたい合ってる」
「どうして、お互いだと分かったのです?」
「合言葉があるんです」
リゼットが身を乗り出す。
「どんな?」
「それは教えられません」
「どうしてですか」
「本人確認に使えなくなるからです」
「それもそうですね」
素直に引き下がった。
アマンテルスは椅子の背へもたれた。
「信じるのか? 普通はもっと疑うだろ」
「お二人の魔力を見たからです」
リゼットが胸元へ手を置く。
「教本を直したとき、アマンテルス様の影と、フィルブランテ様の氷が、ずっと前から一緒に使われていたみたいに重なりました。魔法の種類は全然違うのに、息だけが同じだったんです」
フィルブランテは少し驚いた。
ゲームの数値では分からない感覚だ。
「魂が似ている、ということでしょうか」
「似ているというより……」
リゼットは考え込む。
「同じ家へ帰る道を知っている感じです」
アマンテルスの目が、わずかに柔らかくなった。
フィルブランテは窓の外へ視線を逃がす。
言葉にされると、気恥ずかしい。
「それで、何を秘密にすればよいのでしょう」
イザベルが尋ねた。
「お二人が前世で兄弟だったことですか」
「それだけです」
フィルブランテは答えた。
ゲームの世界へ転生したこと。
未来の事件を知っていること。
二年後に二人とも死ぬこと。
そこまでは、まだ言えない。
信じていないからではない。
知れば、二人まで教団の標的になる。
「いつか、すべて話せるときが来れば話します」
「分かりました」
リゼットは頷いた。
「誰にも言いません。でも、代わりに一つだけお願いがあります」
「何でしょう」
「わたしが何かを知らないせいで危険になるときは、教えてください」
フィルブランテはすぐに答えられなかった。
もっともな要求だ。
秘密にして守ることと、知らないまま危険へ置くことは、同じではない。
「約束します」
「兄貴も」
「分かってる」
「口で言ってください」
「危険なときは話す。約束する」
リゼットは満足そうに笑った。
イザベルも、少し遅れて口を開く。
「わたくしも、お約束いたします。ただし、父の件と教本の件については、調査に必要なことをすべてお話しします」
「ええ。それは秘密にしてはなりません」
「それから」
イザベルは恐る恐るアマンテルスを見る。
「失礼を承知で伺いますが、現在も男性のお心なのでしょうか」
アマンテルスとフィルブランテが固まった。
「その質問、必要か?」
「兄貴、口調」
「必要なのですか?」
「学院の更衣室や寮で、問題になるかと」
非常に現実的な指摘だった。
フィルブランテは額へ手を当てる。
「記憶と人格はありますが、この身体の感覚や感情もあります。単純に以前のままではありません」
「私も同じだ」
アマンテルスが続ける。
「この身体の記憶を夢で見る。家族を見たとき、俺の知らないはずの感情が出てくる。今はもう、どこまでがアマンテルスで、どこからが俺自身か、分けられない」
いつになく真面目な声だった。
リゼットは考えるように首を傾げた。
「では、今のお二人は、お二人なんですね」
「説明になってないぞ」
「でも、そうとしか言えません」
アマンテルスは少し笑った。
「まあ、それでいい」
フィルブランテも頷いた。
完全な説明ではない。
それでも、否定されなかったことに安堵している自分がいた。
「では、会議を終わります」
「待ってください」
リゼットがまた手を挙げた。
「今後、お二人を何とお呼びすれば?」
「今まで通りでお願いします」
「二人きりのときは、兄上と弟君でも?」
「やめてください」
「面白そうだな」
「兄貴」
「冗談だ」
「それなら、双傘同盟では?」
イザベルが小さく言った。
アマンテルスとフィルブランテは、そろって彼女を見た。
「どうして、その名前を」
「昨日、園遊会の記事を整理していた際、白と黒の日傘が重なっている挿絵を拝見しました。それで、勝手に」
本当の同盟名と同じだった。
偶然にしては出来すぎている。
リゼットが目を輝かせる。
「素敵ですね、双傘同盟」
「正式名称では」
「正式名称だぞ」
「兄貴!」
「もう二人に知られたんだからいいだろ」
「わたしも入れますか?」
リゼットが尋ねた。
フィルブランテが断る前に、アマンテルスが答える。
「教本の件を調べるんだ。もう協力者だろ」
「では、三本になりますね」
「三傘同盟?」
「語呂が悪い」
「わたし、傘を持っていません」
「そこからか」
イザベルが、初めて自然に笑った。
重かった空気が、少しだけ軽くなる。
口止め会議は、脅迫も記憶消去もなく終わった。
代わりに、双傘同盟は二人の協力者と、一つの新しい約束を得た。
◇
翌日の放課後。
第一演習班は、星読塔の地下入り口へ集合した。
参加者は六名。
フィルブランテ、アマンテルス、リゼット、シリル、ノエル。
そして監督役のレオンハルトである。
イザベルは謹慎中のため参加を許されなかったが、脅迫状と父の負債について、知っていることをすべて書面にまとめていた。
地下へ続く扉の前には、エレオノーラ学院長が立っている。
「旧文書庫は、学院創立以前の聖堂を利用した施設です」
学院長は六名を見回した。
「現在使われている書庫より古い資料が保管されていますが、百年前の戦争以降、立ち入りを制限しています。古い防犯魔術が残っているため、決して単独行動をしないように」
「危険なら、学生を入れるべきではありません」
レオンハルトが言った。
「だからこそ、監督役として殿下にお願いしました」
「私一人で、全員を守れるとは限りません」
「全員を守ろうとなさらないことです」
学院長の返答に、レオンハルトは眉を寄せた。
「何を」
「殿下が全員を守るのではなく、全員で互いを守る。それが演習班です」
王太子は黙った。
フィルブランテはその横顔を見る。
彼は常に、命じる側であろうとする。
公平で、正しく、誰より責任を負う王になるために。
だが、それはアマンテルスの自己犠牲とは別の形で、他人へ役割を渡せないということでもある。
「遅れた」
無感情な声が、階段の上から落ちてきた。
白銀の短髪をした少年が、大量の紙束を抱えて下りてくる。
ノエル・エルミナージュ。
宮廷魔導院長の養子で、十七歳にして学院の教授陣と共同研究を行う天才魔術師。
昨日の教本事件では、入学式後すぐ星読塔へ籠もり、騒ぎがほぼ終わってから書庫へ現れた。
彼は挨拶もせず、アマンテルスとフィルブランテの腕を見た。
「痕は残っている?」
「初対面に近い相手へ、ほかに言うことはないのですか」
フィルブランテが問う。
「昨日会った。名前も知っている」
「礼儀の話をしています」
「礼儀は研究結果に影響しない」
「協力者の機嫌に影響します」
ノエルは少し考えた。
「では、お加減はいかがですか。痕を見せてください」
「順番が変わっただけですわ」
アマンテルスが笑う。
「面白いやつだな」
ノエルは今度はアマンテルスを見る。
「君の影には、歓迎晩餐会の呪いが残っている。昨日、教本から呪いを吸収したとき、古い痕と新しい術式が反応した。血液と魔力組織を採取したい」
「断る」
「理由は?」
「嫌だから」
「研究すれば、呪いを除去できるかもしれない」
「それでも、今は断る」
ノエルは理解できないように、赤紫の瞳を見つめた。
「除去できる可能性より、採取への不快感を優先する?」
「私の身体だ。優先順位は私が決める」
アマンテルスの声へ、もともとの冷たさが混じった。
「ノエル様」
リゼットが二人の間へ入る。
「相手が嫌だと言ったら、理由が分からなくても止めるべきだと思います」
「君は昨日、制御できない魔法を使った」
「はい」
「君の血液も採取したい」
「嫌です」
「なぜ」
「針が怖いので」
「治癒術を使えば痛みは」
「怖いものは怖いです」
ノエルはまた考え込んだ。
どうやら拒絶されること自体ではなく、理由が自分の論理へ当てはまらないことに困っているらしい。
「分かった。今日は採らない」
「今日は?」
「明日、気が変わるかもしれない」
「毎日断りますわよ」
「毎日尋ねる」
アマンテルスが面白そうに笑った。
「根性あるな」
「感心しないでください」
フィルブランテはため息をついた。
攻略対象との初会話としては、最低に近い。
それでも原作よりはましだった。
原作のアマンテルスは、ノエルから魔力組織を無断で採取され、それが後の拘束と実験へつながる。
今回は最初に拒否を伝えた。
小さな違いだが、重要である。
「全員、そろいましたね」
学院長が古い鍵を取り出す。
「ここから先は、記録のないものを勝手に持ち出さないこと。見つけた資料は、その場で複製してください」
「罠が作動した場合は?」
シリルが尋ねる。
「班で対処を。危険と判断すれば、この鐘を鳴らしなさい」
学院長はレオンハルトへ、小さな銀の鐘を渡した。
「私が扉を開きます」
鍵が回る。
重い石扉が、長い眠りから覚めるように軋んだ。
冷たい空気が、隙間から流れ出す。
その中へ、古い紙の匂いと、かすかな月下香が混じっていた。
アマンテルスの表情が変わる。
「この匂い」
「知っているのか?」
レオンハルトが問う。
「魔族領の葬送で使う香りです。人族の聖堂にあるのは、おかしい」
扉の向こうには、地下へ続く螺旋階段があった。
壁へ彫られた装飾の半分は聖花。
もう半分は、削り取られている。
わずかに残る曲線が、三日月に見えた。
「行きましょう」
フィルブランテが言った。
六人は灯りを手に、階段を下り始めた。
◇
旧文書庫の第一扉には、一つの文章が刻まれていた。
光は、進むべき道を示す。
その下に、深い傷がある。
何者かが一行分の文字を、刃物で削り取っていた。
最後の行だけが残る。
記録は、歩んだ道を未来へ残す。
「欠けている」
リゼットが傷へ指を近づける。
「触るな」
シリルがすぐに止めた。
「古い魔術が残っている可能性がある」
「すみません」
「謝る必要はない。ただ、危険を確認してからにしよう」
シリルは風の流れを送り、傷の内部を探った。
「毒や針はない。魔力反応はある」
「見せて」
ノエルが前へ出る。
杖の先から無色の光を照射した。
傷の奥へ、黒い文字の欠片が浮かび上がる。
「闇属性。削られる前は、別の文章があった」
「読めるか」
レオンハルトが尋ねる。
「全部は無理。でも最初の文字は、闇か影。最後は、守る」
アマンテルスは扉を見上げた。
「光が道を示し、闇が道を守り、記録が未来へ残す」
「どうして分かる?」
「魔族領に似た祈りがある。『月は帰る道を示し、影は眠る者を守り、歌は名を未来へ残す』」
「人族の聖堂と魔族の葬送が、同じ構造を持っている?」
ノエルの琥珀色の目に、初めて明確な興味が宿った。
「扉の術式を調べたい。全員、三歩下がって」
「開けられるのか?」
「公式記録では、光属性の鍵で開く」
ノエルはリゼットを見る。
「君の聖花魔法を、中央の窪みへ」
扉の中央には、花の形をしたくぼみがある。
リゼットは不安そうにフィルブランテを見た。
「大丈夫でしょうか」
「無理に使う必要はありません」
「いえ。調べたいです」
リゼットは扉の前へ立ち、両手を重ねた。
白い花弁が生まれ、中央のくぼみへ吸い込まれる。
扉全体に、光の線が走った。
錠が一つ、外れる音がする。
だが、扉は開かない。
次の瞬間、光の線が逆流した。
「下がれ!」
レオンハルトがリゼットを引く。
白い閃光が弾ける直前、アマンテルスの影が扉を覆った。
光を吸収し、暴走を止める。
「やっぱり足りない」
アマンテルスが言う。
「光だけじゃ開かない。闇の鍵も必要だ」
「公式記録が間違っている?」
「書き換えられたんだろ。文章まで削ってある」
アマンテルスは扉の右側へ手を置いた。
影が、削られた文字の溝を満たしていく。
消された一行が、黒い光となって戻った。
闇は、立ち止まる者を守る。
二つ目の錠が外れる。
それでも扉は動かない。
「記録が必要」
ノエルが傷を観察しながら言った。
「二つの魔力が、この場に存在した事実を固定する術式」
全員の視線が、フィルブランテへ向いた。
「わたくしですか」
「君の氷晶は、魔力履歴を保存する」
ノエルが当然のように答える。
「血を採らない代わりに、力を使って」
「取引になっておりませんわ」
それでもフィルブランテは手袋を外した。
黒い霜の痕が、扉の魔力へ反応して疼く。
リゼットの光。
アマンテルスの闇。
二つを壊さず、同じ時刻に存在したものとして結晶へ刻む。
右手を扉へ当てた。
青白い氷が、光と影の境界をなぞる。
三つ目の錠が外れた。
石扉が、ゆっくり内側へ開く。
冷たい風が六人の髪を揺らした。
扉の向こうには、円形の書庫が広がっていた。
三層分の書棚が壁を埋め、中央には二つの月を組み合わせた大きな床絵がある。
一つは白。
一つは黒。
重なった部分だけが、薄い青に輝いていた。
「こんな場所、教会史の教本には載っていない」
レオンハルトが呟く。
「載せたくないのでしょう」
フィルブランテは開いた扉の文章を見た。
光と闇が、並んで道を作っている。
人族が教える歴史では、光の聖女が魔族の闇を退け、世界を守ったことになっている。
だが、この扉は違う。
闇は敵ではなく、光とともに鍵を構成していた。
「面白い」
ノエルだけが、子どものような顔で笑った。
◇
円形書庫の内部は、ゲーム画面より広かった。
アマンテルスは中央の床絵を横切り、左奥の書棚へ向かう。
「虚無教団の記録は、たしかこの辺りだ」
「どうして分かるんですか」
リゼットの問いに、アマンテルスの足が止まる。
「勘ですわ」
「さっきから、迷わず歩いていますよね」
「魔族は地下で方向感覚がよいのです」
「本当ですか、アマンテルス様」
「本当なわけないでしょう」
カイラスはここにいない。
代わりにフィルブランテが即座に否定した。
「公爵令嬢」
「何です」
「少しは合わせろ」
「雑な嘘へ合わせる方が難しい」
「お二人とも」
レオンハルトが声を低くする。
「何か知っているなら、演習班へ共有してほしい」
アマンテルスとフィルブランテは黙った。
リゼットとの約束が、早くも重くなる。
知らないせいで危険になるときは話す。
この場所で、隠し通路の存在を伏せるのは危険かもしれない。
「断片的な知識があります」
フィルブランテが答えた。
「出所は、今は明かせません。ですが、旧文書庫の左奥に、さらに地下へ続く通路がある可能性が高い」
「どうして学院長も知らない情報を?」
「それも、お話しできません」
「信用しろというのか」
「いいえ。わたくしたちの言葉だけで判断しないでください。実際に調べ、間違っていれば捨ててください」
レオンハルトはフィルブランテを見つめる。
暗殺未遂の夜と同じ答えだった。
信じろとは言わない。
検証する機会を求める。
「分かった」
王太子は頷いた。
「まず左奥を調べる。ただし、単独では動かない」
「でしたら、この棚の裏です」
アマンテルスが七番目の書棚を指した。
フィルブランテは嫌な予感を覚える。
「兄貴。何をする気だ」
「近道がある」
「何の」
「隠し通路を開ける手順の短縮」
「普通に調べろ」
「正式な手順だと、三つの資料を順番に戻す必要がある。ここの留め金を影で押せば、処理を飛ばせる」
「ゲームと現実を一緒にするな」
「大丈夫だ。百回は成功した」
「画面の中でだろ!」
止めるより早く、アマンテルスの影が書棚の下へ潜り込んだ。
かちり、と金属音がした。
次の瞬間。
七番目の書棚が、アマンテルスの方へ倒れてきた。
「アマンテルス!」
シリルが風を放つ。
重い棚が空中で一瞬止まり、レオンハルトが光の壁で支えた。
フィルブランテはアマンテルスの襟をつかみ、後ろへ引きずる。
棚は床へ倒れず、元の位置へ戻された。
書物だけが、雨のようにアマンテルスへ降り注ぐ。
数秒後。
黒い髪と角の上へ本を積み上げた魔族令嬢が、床へ座り込んでいた。
「おかしい」
「何がです」
「ここ、棚が開くはずだった」
「本日の演習報告書へ、〈魔侯令嬢、書棚へ敗北〉と記録します」
「やめろ」
リゼットが本を拾いながら、笑いを堪えている。
シリルは無表情だが、肩が揺れていた。
ノエルだけが、倒れかけた棚の下へしゃがみ込む。
「留め金はあった」
「ほら見ろ」
「でも、影で押したせいで防犯機構が作動した。光、闇、記録の三つを、決められた順序で入れなければ開かない」
「古代人は融通が利かないな」
「正規手順を無視した方が悪いです」
フィルブランテは落ちた本を一冊拾った。
背表紙には、古い王国語で〈境界祭祀記録・第二巻〉とある。
棚へ戻そうとして、違和感を覚えた。
埃の跡が、四角く抜けている。
本が三冊、最近動かされた形跡。
「兄貴」
「今、反省してる」
「違う。結果的には当たりだ」
「ほらな」
「調子に乗るな」
フィルブランテは三冊の題名を読む。
〈境界祭祀記録・第二巻〉。
〈月影葬送歌・注釈〉。
〈晶花公爵家年代記〉。
光、闇、記録。
「この三冊です」
ノエルが本を受け取り、魔力の残留を調べる。
「昨日、誰かが触れている。痕跡を消そうとしているけど、完全ではない」
「学院長以外に、ここへ入れる者は?」
レオンハルトが問う。
「記録上はいない。でも、隠し通路があるなら別」
三冊を、書棚に刻まれた窪みへ順番に戻す。
境界祭祀記録へリゼットの光。
月影葬送歌へアマンテルスの闇。
公爵家年代記へフィルブランテの氷。
三つの留め金が、今度は正しい順序で外れた。
書棚が音もなく横へ滑る。
アマンテルスが得意げな顔をした。
「結局、開いただろ」
「兄貴が何もしなくても開きました」
「三冊が動いてるって分かったのは、棚が倒れたからだ」
「偶然です」
「結果を出した偶然は、実力って言うんだよ」
「言いません」
現れたのは、狭い通路だった。
階段がさらに地下へ続いている。
壁には、中心のない円が並んでいた。
虚無教団の紋章。
だが、どの円も新しく刻まれたものではない。
学院の創立より古く見える。
「教団が、学院を作る前からここにいた?」
リゼットが不安そうに言う。
「違う」
ノエルが壁へ顔を近づける。
「この印には、悪意を示す魔力構造がない。もともとは別の意味だった可能性が高い」
「別の意味?」
「欠けているもの。空席。完成していない契約」
フィルブランテは円の中心へ指を近づける。
触れずに〈晶析眼〉を開いた。
青い視界の中で、古い文字が浮かび上がる。
――一方の月が欠けるとき、契約は円を失う。
――空席を忘れるな。
「警告だったのですわ」
フィルブランテは読み上げた。
「中心のない円は、何かを奪う印ではない。欠けたものがあると伝える印です」
「それを虚無教団が、自分たちの紋章へ使った」
レオンハルトの声が低くなる。
「歴史から何かを欠かせた者たちが、欠落そのものを力へ変えたのかもしれません」
フィルブランテは削られた扉の言葉を思い出した。
光だけを残し、闇を消した。
人族だけを守護者とし、魔族を敵へ変えた。
中心のない円は、その空席を示していたのではないか。
「先へ進もう」
レオンハルトが言う。
「ここからは、罠がある前提で動く。シリルが先頭。アマンテルス嬢は影で床と壁を確認。ノエルは術式の解析。フィルブランテとリゼットは中央。私は後方を守る」
命令は明確だった。
だが学院長の言葉を思い出したのか、彼は一度、全員を見る。
「異論があれば言ってほしい」
以前なら、命じて終わっていただろう。
小さな変化だった。
「リゼットさんを中央の最内側へ」
フィルブランテが提案する。
「古代術式が聖花紋へ反応する可能性があります。わたくしと殿下で左右を挟みましょう」
「分かった」
「俺――私は、先頭のシリル様と並びます。影は距離があると精度が落ちる」
「危険では?」
「だから二人で行く」
アマンテルスはシリルを見る。
「異存は?」
「ない。あなたが無茶をしなければ」
「初対面に近いのに、弟みたいなことを言うな」
「弟?」
「魔族領の慣用表現です」
リゼットとフィルブランテの声が重なった。
シリルは怪訝な顔をしたが、追及しなかった。
六人は隊列を組み、狭い階段を下りていった。
◇
階段の先には、正方形の小部屋があった。
中央の台座へ、一冊の大きな記録書が置かれている。
表紙は白と黒の革を半分ずつ継ぎ合わせ、中央を青い金具で留めていた。
壁には二人の人物を描いた古い壁画がある。
一人は、花冠を戴く人族の女性。
もう一人は、月形の角を持つ魔族の女性。
二人は向かい合うのではなく、背中合わせに立っていた。
花冠の女性は、外へ光を放つ。
角を持つ女性は、その光が散らないよう影で包む。
足元では、三人目の人物が結晶板へ何かを書き記している。
「聖女が、魔族と一緒に」
リゼットが壁画へ近づく。
「公式の建国神話では、初代聖女が魔族の侵攻を退け、灰銀峡谷へ結界を築いたことになっている」
レオンハルトの顔は険しい。
「この絵では、魔族も結界を作っている」
「記録者の紋章を見てください」
フィルブランテが壁画の下部を指す。
結晶板へ刻まれた、氷の薔薇。
イデルバルディ家の旧紋章だった。
「公爵家が、光と闇の契約を記録した?」
「それを、後世の誰かが隠した」
アマンテルスが台座の本を見る。
「これが〈双月の契約〉か」
その言葉に、全員が振り返る。
「知っているのですか?」
リゼットが尋ねた。
「名前だけ。ゲーム――」
アマンテルスが止まる。
フィルブランテは兄の靴を踏んだ。
「痛っ」
「何か?」
「公爵令嬢の足が」
「偶然ですわ」
「明らかに狙っただろ」
「お二人とも、後にしてください」
今度はレオンハルトに止められた。
アマンテルスは咳払いをする。
「古い魔族の伝承で、名前だけ聞いたことがあります。光と闇、二つの月が世界を覆う契約」
「魔族領では残っているのか」
「子守歌の一節に。歴史として教わるわけじゃない」
アマンテルスの記憶の中に、母エルネシアの歌がある。
眠れ、白い月。
眠れ、黒い月。
二つの光が重なるまで。
幼い頃は意味を考えなかった歌。
今、この壁画を見ると、まったく違って聞こえる。
「本を開く前に、術式を調べる」
ノエルが台座へ近づいた。
杖から無色の光を伸ばし、表紙の上をなぞる。
「古代術式が三層。保存、認証、因果固定」
「因果固定?」
フィルブランテが反応する。
「結果と原因を結び、途中の経路が変わっても成立させる術式」
歓迎晩餐会の呪い。
教本を止めても、別の方法で役割を完成させようとした力。
「運命の修正力と、同じ構造ですか」
「名前は知らない。でも、君たちの腕にある痕と似ている」
ノエルはアマンテルスとフィルブランテの手袋を見る。
「大規模な因果固定術式が、この学院全体にあるのかもしれない」
「学院だけではありません」
フィルブランテは首を横へ振る。
「エルネシア様の事件は、王城で起きました」
「なら、王都全体。あるいは王国全体」
ノエルの声に、恐怖はない。
むしろ新しい問題を得た研究者の熱がある。
「仮の名称が必要だ。運命を式として固定するから、〈運命式〉と呼ぶ」
「随分と簡単に決めますのね」
「不都合なら後で変える」
「同着同盟よりはましだな」
アマンテルスが言い、フィルブランテは無言で睨んだ。
ノエルは気にせず、解析を続ける。
「本を開くには、六人分の魔力が必要」
「六人?」
「台座の周囲に、六つの窪みがある」
花、月、氷晶、剣、盾、目。
リゼット。
アマンテルス。
フィルブランテ。
レオンハルト。
シリル。
ノエル。
まるで、今日ここへ来る全員を知っていたような配置だった。
「古代の装置が、私たちを待っていたとでも?」
シリルが警戒する。
「違う」
ノエルが床へしゃがみ込む。
「五つは古い。でも〈目〉の窪みだけ、最近追加されている」
「誰かが、私たちに開けさせようとしている」
レオンハルトが銀の鐘へ手を伸ばす。
「撤退するべきだ」
「待ってください」
リゼットが台座の本を見る。
「この中に、イザベル様を脅した人の手掛かりがあるかもしれません」
「罠である可能性が高い」
「分かっています。でも、何も知らないまま次を待つ方が怖いです」
レオンハルトは答えない。
守るためなら、撤退が正しい。
だが、リゼット本人が進むことを選んでいる。
「全員の意見を聞こう」
王太子は言った。
「私は撤退を提案する。ただし、最終判断は班で行う」
「俺は開ける」
アマンテルスがすぐに答える。
「敵が俺たちをここへ呼んだなら、向こうも何かを見せたい。見た上で罠を壊す」
「危険です」
シリルが言う。
「だが、次の攻撃を防ぐ情報が必要なのも事実。鐘をいつでも鳴らせる状態なら、進む方に賛成する」
「僕は開けたい」
ノエルの答えは予想通りだった。
「資料の内容と罠の構造、両方を見たい」
「研究目的だけですか」
リゼットが尋ねる。
「ほかに必要?」
「危険になったら、資料より人を優先すると約束してください」
ノエルは黙った。
「資料を失えば、将来もっと多くの人が危険になる可能性がある」
「それでも、今ここにいる人を、勝手に犠牲へしないでください」
「非効率だ」
「はい。でも、お願いします」
ノエルはリゼットを見つめた。
やがて、わずかに顔を背ける。
「努力する」
「約束です」
「……約束する」
リゼットが笑う。
ノエルはなぜ笑われたのか分からない顔をした。
「フィルブランテは?」
レオンハルトが尋ねる。
全員の視線がフィルブランテへ集まる。
危険性だけを考えれば、撤退すべきだ。
敵が用意した窪みに、わざわざ魔力を入れるなど論外である。
だが、教本事件を防いでも、別の手段が使われた。
相手の仕組みを知らなければ、ずっと後手へ回る。
「開きます」
フィルブランテは答えた。
「ただし、先に退路を固定します。扉が閉じないよう氷晶で記録し、学院長の鐘へアマンテルスの影をつなぐ。何かあれば、殿下が鳴らさなくても外へ警報が届くようにします」
「できるのか?」
「兄貴が協力すれば」
全員が静まった。
フィルブランテは目を閉じた。
「……アマンテルス様が協力なされば」
「もう遅いと思います」
リゼットが小声で言う。
「聞かなかったことにしてくれ」
アマンテルスは平然としている。
レオンハルトが何か尋ねたそうにしたが、今は優先順位を守った。
「では、準備後に開く。異常があれば即座に中止する」
六人は台座を囲んだ。
フィルブランテの氷晶が退路を固定する。
アマンテルスの影が銀の鐘と学院長のもとをつなぐ。
シリルが風の膜を張り、リゼットを中心へ置く。
ノエルが術式の変化を監視する。
レオンハルトが剣の窪みへ光を入れた。
「始める」
六人が、それぞれの印へ手を置いた。
◇
記録書が開いた。
最初の頁には、二つの月が描かれていた。
白い月と、黒い月。
その下に、古い王国語と魔族文字が併記されている。
――双月の契約。
――光は傷を見つけ、闇は傷を抱き、晶は傷の由来を記す。
――いずれも欠けることなかれ。
頁が、自動的にめくられる。
百二十三年前。
灰銀峡谷で大規模な魔力災害が発生した。
人族の聖花巫女と、魔族の月影守が共同で災害を封じた。
イデルバルディ家の晶術師が、両者の契約を記録した。
後に、その災害は「魔族の侵攻」として歴史へ残された。
魔族側の署名は削られ、共同契約は聖女一人の奇跡へ書き換えられた。
「王国の建国神話が」
レオンハルトの声が震える。
「嘘だったのか」
「一部を消した記録です」
フィルブランテは頁へ触れず、文字を追った。
「すべてが嘘とは限りません。ただ、魔族が結界を作った事実は隠されています」
「王家が隠した?」
「まだ分かりません。百年前の王が命じたのか、教会が行ったのか、それ以外か」
アマンテルスは魔族文字の署名へ顔を近づける。
削り跡の下に、一文字だけ残っている。
ルヴィン――。
アマンテルスの家名と同じ始まり。
「魔侯家が、最初の契約者だった」
アマンテルスの声が低くなる。
「それなのに、人族を襲った側にされた」
影が床で揺れる。
怒りはアマンテルスのものだけではない。
アマンテルスの記憶が、家族と氏族の屈辱を訴えている。
「落ち着け」
フィルブランテが言う。
「怒るなって言うのか」
「違う。怒る相手を間違えるな。ここにいる人間全員へ向けるな」
アマンテルスはレオンハルトを見る。
王太子は、逃げずにその視線を受けていた。
「王家の名で、調べる」
レオンハルトが言う。
「この記録が真実なら、我が国は百年、魔侯領の功績を奪い、敵と教えてきた。知らなかったでは済まされない」
「殿下ご自身が書き換えたわけではありません」
リゼットが言う。
「それでも、王家の利益となった歴史だ。責任はある」
「責任と罪は、同じではない」
フィルブランテは王太子を見る。
先ほど、自分がリゼットへ謝った理由と同じだった。
やっていないことまで罪として背負う必要はない。
だが、得てきた利益と、今変えられる制度から目を逸らしてもいけない。
「まず、事実を確かめましょう」
フィルブランテは言った。
「謝罪も責任も、その後です」
レオンハルトは頷いた。
記録書の頁が、さらにめくられる。
次に現れたのは、術式図だった。
大陸全体へ張り巡らされた線。
王都、学院、灰銀峡谷、魔侯領、そして地図から消された島。
複数の結界拠点が、二つの月を描くようにつながっている。
学院の位置には、〈双月廟〉と記されていた。
「この下に、まだ施設がある」
ノエルが図を読み取る。
「旧文書庫は入り口にすぎない。結界の中枢が、さらに地下にある」
「ゲームでアマンテルスが暴走した場所」
アマンテルスが小さく呟く。
「何ですか?」
リゼットが聞く。
「何でもない」
「危険なことなら、話す約束です」
アマンテルスは言葉に詰まった。
約束してから、まだ一日も経っていない。
「ここは、私が死ぬかもしれない場所だ」
全員の顔が変わった。
「どういう意味です」
シリルが問う。
「詳しくは言えない。でも、私はこの学院の地下で、大きな呪いを取り込む可能性がある。その結果、皆へ危害を加えるかもしれない」
「いつ?」
「二年後。たぶん」
「たぶん?」
「未来はもう変わってる」
アマンテルスは自分の腕を押さえた。
「母上が生きた時点で、同じことが起きる保証はない。でも、場所が同じなら、危険は残ってる」
レオンハルトが何かを尋ねようとする。
その前に、ノエルがアマンテルスの手首を見た。
「君たちは未来を知っている?」
「断片的に」
フィルブランテが答えた。
「それ以上は、今は話せません」
「興味深い」
「実験対象を見る目をなさらないで」
「では、何を見る目ならいい?」
「仲間です」
リゼットが言った。
ノエルは彼女を見る。
「定義が曖昧だ」
「一緒に危険な場所へ入り、秘密を聞いて、それでも助けたいと思う相手です」
「助けたいかは、まだ分からない」
「では、分かるまで一緒に調べましょう」
ノエルはまた考え込んだ。
記録書の頁が止まった。
最後の記録だった。
――契約の維持には、三者の自由意思を必要とする。
――光、闇、記録。いずれかを役へ縛れば、契約は歪む。
――強いられた善は光を焼き、強いられた悪は闇を喰らい、偽られた記録は未来を閉ざす。
フィルブランテはその文章を読み、息を止めた。
役へ縛る。
聖女、魔女、悪役令嬢。
原作の役そのものだった。
「この契約が歪んだものが、運命式?」
ノエルが術式を追う。
「自由意思を確認する部分が削られ、役と結果だけが固定されている。誰かが古代結界を、物語の型へ作り替えた」
その瞬間。
記録書の中央から、白い紙が一枚せり上がった。
ほかの頁とは違う。
新しい紙。
乾いていない黒いインク。
文字が、その場で書かれていく。
――配役を確認。
――聖女、リゼット・アーヴェイン。
リゼットの足元に、白い花の印が浮かぶ。
――英雄、レオンハルト・ヴァン・セレディア。
王太子の足元へ、剣の印。
――盾、シリル・グランツ。
騎士の足元へ、円盾。
――観測者、ノエル・エルミナージュ。
魔術師の足元へ、開いた目。
――悪役、フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。
フィルブランテの足元へ、棘に囲まれた薔薇。
――怪物、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。
アマンテルスの足元へ、角を持つ黒い影。
「全員、印から離れろ!」
レオンハルトが叫ぶ。
六人は動こうとした。
だが足が床から離れない。
役を示す印が、靴の裏へ貼りついている。
背後で、石扉が閉まり始めた。
フィルブランテの氷晶が退路を固定している。
アマンテルスの影も鐘へつながっている。
準備したはずだった。
しかし、閉じる扉は氷を砕かない。
氷晶へ刻まれた〈開いている扉〉という記録そのものを、別の結果へ書き換えていく。
「あり得ない」
フィルブランテの右腕が焼けるように痛む。
「僕の記録が、上書きされてる」
「影も切られた!」
アマンテルスの足元から伸びていた黒い糸が、中心のない円に呑まれる。
レオンハルトが銀の鐘を鳴らした。
音は響かない。
鐘の内部から、紙片があふれ出した。
部屋中を白い紙が舞う。
その一枚一枚に、同じ言葉が書かれていた。
――役を演じよ。
――役を演じよ。
――役を演じよ。
リゼットの身体から、本人の意思に反して聖花の光があふれ出す。
光は負傷者を探すように広がり、まだ誰も傷ついていないと知ると、最も近くにいたノエルの腕を焼いた。
「きゃっ! 止まって!」
「光が治療対象を作ろうとしている」
ノエルは焼けた腕を見ながら、冷静に言う。
「聖女が癒やすという結果を成立させるため、先に傷を作った」
シリルの身体が勝手に動いた。
リゼットの前へ立ち、剣を抜く。
守る相手も、攻撃する敵も確認せず、盾の役を実行しようとしている。
「身体が、命令を」
レオンハルトの光剣もひとりでに形成された。
切っ先は、アマンテルスへ向く。
英雄が怪物を討つ。
原作通りの構図。
「殿下!」
「私の意思ではない!」
レオンハルトは両手で剣を押さえる。
それでも光は強まり、アマンテルスの影を焼き始めた。
アマンテルスの角から、黒い魔力が噴き出す。
怪物として英雄へ襲いかかるために。
「ふざけるな」
アマンテルスは自分の右腕を左手でつかんだ。
「誰が、お前の筋書き通りに」
影が暴れ、レオンハルトの光とぶつかる。
フィルブランテの周囲では、破れた頁が集まり始めた。
紙は人の形を作る。
泣き崩れるリゼット。
剣を向けるレオンハルト。
指を差す学生たち。
中央に立つ、悪役令嬢フィルブランテ。
『お前がすべてを命じたのだろう』
『聖女を妬み、魔族と手を結び、王国を裏切った』
『悪役は、お前だ』
紙人形たちが声を重ねる。
フィルブランテの右腕から黒い霜が広がった。
頭の奥へ、断罪の言葉が流れ込む。
否定しなければ。
自分は無実だと証明しなければ。
リゼットより正しく、誰より完璧でなければ。
衝動が喉まで上がる。
「違う」
フィルブランテは呟いた。
紙人形が近づく。
『悪役らしく、聖女を憎め』
「違うと言っている!」
氷が爆発した。
紙人形をまとめて凍らせる。
だが砕いても、紙片が再び集まる。
「兄貴!」
アマンテルスは光剣を影で受け止め、動けない。
シリルは自分の身体と戦っている。
ノエルは術式を観察し続けていた。
「ノエル!」
フィルブランテは叫んだ。
「見ているだけでなく、止める方法を!」
「僕の役は観測者。術式が、思考と身体を分離している」
「役に従うな!」
「命令への抵抗は、術式解析より非効率だ」
「先ほど約束したでしょう!」
リゼットが叫ぶ。
制御できない光に腕を焼かれながら、それでもノエルを見る。
「資料より、人を優先すると!」
ノエルの琥珀色の目が揺れた。
約束。
魔術契約でもない。
破っても罰はない。
非効率で、曖昧な言葉。
それでも少年は、杖を持つ手へ力を込めた。
「僕は」
足元の目の印が光る。
観測しろ。
手を出すな。
すべてを理解するまで、対象が壊れても見続けろ。
「僕は、観測者じゃない」
ノエルは杖を逆さに持った。
「今日は、第一演習班の一員だ」
先端ではなく、柄で自分の足元を殴る。
目の印へ亀裂が入った。
術式が一瞬、揺らいだ。
「全員、役ではなく名前を呼んで!」
リゼットが言う。
「名前?」
「この魔法は、わたしたちを役へ縛っています。なら、役ではないわたしたちを、互いに思い出させるんです!」
理屈として正しいかは分からない。
だが、今はほかにない。
「シリル!」
レオンハルトが呼ぶ。
「私を守るな。リゼットの光を、誰もいない天井へ流せ!」
騎士の灰色の瞳が動く。
「命令ですか」
「違う。頼む!」
シリルは剣を握り直した。
守る対象の前へ立つのではなく、風を天井へ向ける。
リゼットからあふれる光が、風に運ばれて上空へ逸れた。
盾の印へ亀裂が入る。
「レオンハルト!」
フィルブランテが王太子の名を呼ぶ。
「英雄をやめて、剣を捨ててください!」
「王太子へ、随分な頼みだな」
「今は同じ班の一人です!」
レオンハルトはアマンテルスへ向いていた光剣を、両手で床へ叩きつけた。
剣が砕け、英雄の印へ亀裂が走る。
「アマンテルス!」
今度はリゼットが呼ぶ。
「一人で影を押さえないでください。わたしにも手伝わせて!」
「近づいたら危ない!」
「危険なときは話すと約束しました!」
「話しただろ!」
「助けさせるとは約束していません!」
「そこまで言ってない!」
「では、今、約束してください!」
こんな状況で契約を追加しようとするとは思わなかった。
アマンテルスは笑いそうになった。
そのわずかな緩みへ、リゼットの光が差し込む。
怪物として膨れ上がろうとする影から、呪いだけを剥がしていく。
「分かった!」
アマンテルスは叫んだ。
「助けろ、リゼット!」
初めて、名前だけで呼んだ。
怪物の印が割れた。
残るは、聖女と悪役。
リゼットの光はまだ止まらない。
傷を作り、治すという役割を繰り返そうとする。
フィルブランテの紙人形は数を増し、彼女へ罪を認めさせようと迫る。
「フィルブランテ様!」
リゼットが呼ぶ。
「わたしは、あなたを悪い人だと思っていません!」
「知っています!」
「なら、わたしを聖女だと思わないでください!」
予想外の言葉だった。
「わたしは、何でも治せる聖女じゃありません! 魔法は失敗するし、怖いし、針も嫌いです!」
「最後の情報は今、必要ですか?」
「必要です! わたしはリゼットです!」
聖女の印が強く輝く。
役へ戻そうと、光がリゼットの身体を縛る。
フィルブランテは紙人形の間を進んだ。
悪役なら、聖女を妬む。
悪役なら、手を取らない。
だからこそ、フィルブランテはリゼットへ右手を伸ばした。
「リゼット!」
少女が、その手をつかむ。
「フィル!」
初めて敬称のない名で呼ばれた。
白い花と、棘の薔薇がぶつかる。
対立するはずの二つの印が、手の中で重なった。
「あなたは聖女ではない」
フィルブランテは言う。
「わたくしも悪役ではない。少なくとも、それだけではありません」
「はい!」
リゼットの光が、傷を作るためではなく、フィルブランテの腕に残る黒い霜を見つけた。
本人が癒やしたいと選んだ傷へ流れる。
フィルブランテの氷晶が、その選択を記録する。
役を示す二つの印が、同時に砕けた。
部屋中を舞っていた紙片が止まる。
術式が、六人を縛る先を失った。
「今です!」
ノエルが叫ぶ。
「記録書の新しい頁を破壊して!」
アマンテルスの影が紙を押さえる。
レオンハルトの光が、文字を照らす。
シリルの風が、乾いていないインクを浮かせる。
リゼットの聖花が、古い契約と新しい罠を分離する。
フィルブランテの氷が、罠の術式だけを固定した。
最後にノエルが、無属性の杖で因果の接続を断ち切る。
新しい頁が、音もなく二つに裂けた。
中心のない円が床へ落ちる。
石扉が開いた。
今度は、フィルブランテの氷晶が記録した通りの状態へ戻っている。
銀の鐘が、遅れて大きく鳴った。
六人はしばらく動けなかった。
息だけが、暗い小部屋へ重なる。
「全員、無事か」
レオンハルトが尋ねる。
「腕を少し焼かれた」
ノエルが答える。
「僕は観測者をやめたから、正確な全体記録はない」
「冗談を言えるのですか」
フィルブランテが驚く。
「今のは冗談?」
「違ったのですか」
「分からない」
リゼットが笑った。
シリルも剣を鞘へ戻し、息を吐く。
「殿下。お怪我は」
「ない。そなたは?」
「問題ありません」
「私を庇っていないのだから、正直に言っていい」
シリルは一瞬、目を見開く。
「……右肩を痛めました。治療を受けます」
「そうしてくれ」
小さな会話だった。
だが、盾と英雄ではなく、二人の学生として言葉を交わしている。
「兄貴」
フィルブランテはアマンテルスの腕を見る。
怪物の印は消えたが、黒い文字が肩まで広がっている。
「十段階で?」
「三」
「嘘」
「五」
「まだ」
「七」
「治療を受けるぞ」
「お前もな」
「分かってる」
「珍しい」
「今回は一人じゃないからな」
二人は顔を見合わせた。
アマンテルスが、ほんの少しだけ笑う。
助けを求めた。
弟だけではなく、リゼットへ。
原作のアマンテルスにはできなかったことだ。
◇
エレオノーラ学院長と警備教員が到着した後、六人は旧文書庫から救出された。
〈双月の契約〉は学院長室へ移され、王家、魔侯領、イデルバルディ家の三者で複製を管理することになった。
新しい頁に使われた紙は、現在の王都で流通するもの。
インクも乾いていなかった。
罠は百年前から残っていたのではない。
つい最近、誰かが追加した。
しかも六人の配役を、正確に知った上で。
治療室で右肩へ包帯を巻かれながら、シリルが言った。
「第一演習班が今日、旧文書庫へ入ると知っていた者は限られる」
「学院長、担当教員、警備責任者。それから、私たち」
レオンハルトが数える。
「イザベルへ届いた手紙を復元した術者もです」
フィルブランテが付け加える。
「教会から派遣された記録修復師でしたわ」
「教会が、また」
アマンテルスの声が険しくなる。
「まだ断定はできません」
フィルブランテは止めた。
「教会全体と虚無教団を分けて考える必要があります。助祭の中にも、事情を知らず利用された者がいました」
「分かってる」
「本当に?」
「お前、俺を何だと思ってる」
「先に殴って後から考える兄」
「最近は考えてから殴る」
「殴るのは確定なのですね」
リゼットが呆れた顔をする。
ノエルは寝台の横で、罠から剥がした黒いインクを観察していた。
「この運命式には、次の接続先がある」
全員が彼を見る。
「切断する前、一部を保存した」
「資料より人を優先すると約束したでしょう」
リゼットが言う。
「全員が安全になった後で保存した」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「時間差は〇・七秒。安全の定義による」
アマンテルスが笑う。
「こいつ、タイムアタック向きだな」
「仲間へ引き込まないでください」
フィルブランテは黒いインクの入った結晶瓶を見る。
「次の接続先とは?」
ノエルが杖をかざす。
瓶の中でインクが動き、簡単な地図を描いた。
学院中央棟。
神学・治癒科棟。
その間にある、硝子張りの建物。
「聖花温室」
リゼットが呟く。
フィルブランテの腕に残る黒い霜が、強く疼いた。
原作の第二事件。
聖花温室への毒花混入。
公爵領から運ばれた鉢が証拠となり、フィルブランテの嫌がらせが、初めて殺人未遂へ変わる事件。
本来の発生は、入学から三か月後。
だが教本事件は、予定より早く書庫へ移された。
敵はすでに原作の順序を変えている。
「日付は分かりますか」
フィルブランテが尋ねる。
「術式に時刻指定がある」
ノエルは瓶の表面へ浮かぶ数字を読む。
「明日の正午」
治療室が静まった。
「三か月後じゃないのかよ」
アマンテルスが小声で言う。
「こちらが早く動いた分、向こうも早めた」
フィルブランテは寝台から立ち上がろうとした。
ミレーヌの手が、肩を押し戻す。
「どちらへ?」
「聖花温室ですわ」
「治療が終わっておりません」
「事件は明日です」
「腕が治らなければ、明日の事件へ対処できません」
正論だった。
アマンテルスも立とうとして、ルーシェとリゼットに左右から止められている。
「放せ。今から調べる」
「アマンテルス様も治療が先です」
「そうです。助けさせると約束したばかりでしょう」
「二人がかりはずるいぞ」
「兄貴。今回は諦めろ」
「お前も押さえられてるだろ」
第一演習班の最初の調査は、重大な秘密を発見し、全員が生還したという点では成功だった。
ただし、翌日の正午までに次の死亡フラグを止めなければならない。
残り時間は、十八時間。
そして双傘同盟の兄弟は、そろって治療室の寝台へ縫い止められていた。
「フィルブランテ」
「何だ」
「どっちが先に抜け出す?」
「両方、朝まで寝る。それが最速だ」
「タイムアタックの精神を忘れたのか」
「生存率を上げるための最適化だ」
「じゃあ、先に治った方が勝ち」
「子どもか」
リゼットが二人の間で、深いため息をついた。
「本当に、ご兄弟なんですね」
今度は、二人とも否定しなかった。




