第四話 悪役令嬢は先に謝る
エルネシア暗殺未遂事件から、半年が過ぎた。
王立ルクシア学院の正門前で、フィルブランテ・アソート・イデルバルディは馬車を降りた。
春の風が、淡い金髪を揺らす。
視線を上げれば、白い石造りの校舎と、空へ伸びる五本の塔が見えた。中央の蒼玻璃講堂を囲むように、政治・礼法科、騎士科、神学・治癒科、外交・魔術科の校舎が配置され、その奥には星読塔の銀色の屋根が光っている。
ゲームの開始画面。
何百回と見た場所だった。
違うのは、画面の端に数値も選択肢も表示されていないことだけではない。
「お嬢様」
背後からミレーヌが声をかける。
「お顔の色が優れません。お痛みになりますか」
「いいえ」
フィルブランテは右手の手袋を、左手でそっと押さえた。
呪いを凍結した痕は、半年を経ても消えていない。
普段は黒い霜のような模様が手首へ残るだけだが、強制イベントが近づくと、針で刺されるように痛む。
今朝から、その痛みは十段階で四。
原作が始まったのだ。
「緊張しているだけですわ」
「お嬢様が、入学式で?」
「わたくしにも緊張することくらいあります」
「存じております。ですが、それをお認めになることは珍しいかと」
ミレーヌの指摘は相変わらず鋭い。
フィルブランテは返事をせず、正門の先へ視線を向けた。
新入生、在校生、保護者、使用人。色とりどりの制服と礼服が行き交っている。
その中で、明らかに空白になっている場所があった。
黒と紫の制服。
濡羽色の髪。
赤紫の瞳と、隠す気のない黒曜石の角。
アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルが、魔族留学生たちを従えて立っている。
人族の学生は、彼女の周囲だけを不自然に避けていた。
本人は気にしていないような顔で、学院案内を逆さに持っている。
フィルブランテは目を細めた。
アマンテルスがこちらへ気づく。
黒い日傘が、ほんの少しだけ傾いた。
合図である。
白い日傘を右へ二度。
黒い日傘を左へ一度。
この半年で二人が決めた、遠距離用の簡単な暗号だった。
意味は、〈異常なし〉。
アマンテルスは案内図をさりげなく上下へ返した。
フィルブランテは見なかったことにした。
暗殺未遂事件の後、二人を取り巻く状況は変わった。
エルネシアは生存し、人族と魔族の和平交渉は継続された。
捕らえた給仕と助祭からは、互いに面識がないという証言しか得られなかった。二人とも借金や家族の病を理由に、顔を隠した仲介者から依頼を受けていた。魔族側の実行役は行方不明のままである。
銀杯に残った〈晶析眼〉の記録によって、フィルブランテが呪毒を入れていないことは証明された。
しかし、暗殺計画を事前に知っていた理由と、運搬箱に押されたイデルバルディ家の印については、解明できていない。
無実ではある。
だが、潔白ではない。
社交界の評価は、そんな曖昧な場所へ落ち着いた。
フィルブランテを救国の令嬢と称える者もいれば、魔族と裏で取引する危険人物と囁く者もいる。
破滅値は下がっていない。
ただ、形を変えただけだ。
「おはよう、フィルブランテ」
聞き慣れ始めた声に振り向く。
王太子レオンハルトが、正門の階段を上ってきた。学院の白と青の制服をまとい、王族を示す銀の肩章を着けている。その半歩後ろには、騎士科の制服を着たシリルがいた。
「おはようございます、殿下」
フィルブランテは礼を取った。
「学院内では、そこまで畏まらなくてよい。ここでは私も学生だ」
「王太子でなくなるわけではございませんわ」
「そう答えると思った」
レオンハルトは小さく笑った。
暗殺未遂の夜以降、彼は以前よりフィルブランテへ話しかけるようになった。
監視の意味もあるのだろう。
だが、それだけではない。
彼は婚約者が何を考えているのか、自分が今までほとんど知らなかったと気づき始めている。
「腕の具合は?」
「問題ございません」
「治癒師の報告では、魔力を多く使えば痛むと」
「日常生活に支障はございません」
「質問への答えが少しずれている」
「殿下も、以前より細かくなりましたわね」
「そなたが以前より隠し事をするからだ」
否定できない。
フィルブランテが扇を開こうとしたところで、風を切る音がした。
目の前を黒い紙片が横切り、レオンハルトの肩へ張りつく。
地図の一部だった。
三人が同時に、紙の飛んできた方を見る。
アマンテルスが、空になった手を上げていた。
「失礼。人族の案内図は、随分と風に弱いのですね」
「逆さにお持ちでしたからではなくて?」
フィルブランテが返す。
周囲の学生たちが、緊張した顔で二人を見た。
半年の間に、〈白氷の薔薇〉と〈宵闇の魔女〉の不仲は、王都で有名になっている。
園遊会で宣戦布告。
暗殺事件の最中にも激しい口論。
証拠の共同検証では、互いの主張へ何度も反論。
すべては秘密同盟を隠すための演技だったが、途中から半分ほど本気の兄弟喧嘩になっていたことは否定できない。
「公爵令嬢は、相変わらず細かなことをご覧になる」
「魔侯令嬢が、見過ごせない間違いをなさるからですわ」
「学院へ入る前から仲が良いな」
レオンハルトが呟く。
「どこをご覧になれば、その結論へ至るのです?」
「殿下、お疲れでは?」
二人の声が重なった。
シリルが、何かを堪えるように口元を覆う。
アマンテルスとフィルブランテは同時に彼を睨んだ。
「失礼いたしました」
シリルは無表情へ戻った。
そのとき、正門の外で馬がいなないた。
一台の乗合馬車が、予定より速い勢いで坂道を上ってくる。
車輪が石へ乗り上げた。
馬車の扉が開く。
「きゃっ――!」
蜂蜜色の髪が、春の光の中へ投げ出された。
少女が荷物ごと地面へ落ちる。
原作の開始イベントだった。
平民の特待生リゼット・アーヴェインが、学院へ到着する。
馬車を降りる際に足を滑らせ、偶然近くにいた攻略対象が助ける。
誰が助けたかによって、最初の好感度が加算される。
王太子ルートならレオンハルト。
騎士ルートならシリル。
魔術師ルートなら、荷物だけが魔法で浮かぶ。
隠しルートではカイラスが現れる。
フィルブランテはその分岐を知っていた。
そして、今の位置ならレオンハルトが助けるはずだった。
「危ない!」
王太子が一歩踏み出す。
同時に、アマンテルスの影が地面を走った。
リゼットの身体が、落下する寸前で黒い影に受け止められる。
荷物はレオンハルトが両腕で抱えた。
片方の鞄が開き、中から衣服と本と乾燥させた薬草が飛び出す。
シリルが風を起こし、散らばる前に空中でまとめた。
三人の攻略対象候補が、結果的に一人の少女を同時に助けていた。
原作にない光景である。
フィルブランテは額を押さえたくなった。
アマンテルスを見る。
魔族令嬢は、何もしていないような顔で日傘を構えている。
だが影は、明らかに彼女の足元から伸びていた。
目が合う。
アマンテルスの唇が小さく動いた。
――反射で。
フィルブランテは扇の陰で返す。
――知るか。
「大丈夫か?」
レオンハルトが、リゼットへ手を差し出した。
少女は影の上で目を瞬き、慌てて立ち上がる。
「は、はい! ありがとうございます! 荷物まで……あっ」
差し出された手を取ろうとして、相手の顔を見た。
制服の肩章。
王家の紋章。
リゼットの顔から血の気が引いた。
「お、王太子殿下!?」
「学院内では、同じ学生だ。気にしなくてよい」
「無理です!」
あまりに率直な返答だった。
レオンハルトが目を瞬く。
シリルが今度こそ、明確に笑いを漏らした。
「笑わないでください!」
「すまない。殿下へそのように答える者は珍しいので」
「だって無理なものは無理です! わたし、昨日まで救護院で子どもたちの洗濯をしてたんですよ!?」
リゼットは叫んでから、周囲の視線に気づいた。
顔を真っ赤にし、縮こまる。
「……申し訳ございません」
「謝る必要はない」
レオンハルトは楽しそうだった。
原作通りだ。
王族として扱わない少女の率直さに、彼が初めて興味を持つ。
フィルブランテの胸の奥へ、冷たい感情が差し込んだ。
――殿下が、笑っていらっしゃる。
――わたくしには、そのようなお顔を。
フィルブランテの感情だった。
嫉妬。
寂しさ。
十年以上、完璧な婚約者であろうとしながら、一度も得られなかった気安い笑顔。
フィルブランテはその感情を否定しなかった。
フィルブランテが悪いわけではない。
ただ、感情のまま少女を傷つければ、原作と同じ道へ進む。
フィルブランテは一度息を吐き、リゼットへ近づいた。
少女がこちらに気づく。
若草色の瞳が、大きく見開かれた。
「フィルブランテ・アソート・イデルバルディです」
フィルブランテは名乗った。
「殿下の婚約者として、また学院の先輩として、あなたを歓迎いたします。リゼット・アーヴェインさん」
「ど、どうして、わたしの名前を?」
しまった。
まだ名乗っていない。
フィルブランテは一瞬で言い訳を組み立てた。
「特待生の名簿を拝見しました。聖花紋を発現した方が入学なさると伺っております」
「あ、そうだったんですね」
素直に納得した。
信じやすすぎる。
原作で何度も罠にかかった理由が、開始一分で理解できた。
「鞄の留め金が壊れていますわ」
フィルブランテは地面へ落ちた荷物を見る。
「ミレーヌ。予備の革紐を」
「こちらに」
なぜ持っているのかは考えない。
ミレーヌは何でも持っている。
フィルブランテが紐を受け取ろうとしたとき、リゼットは慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です。自分で直せますから」
「そうですか。では、これはお渡しします。使うかどうかはあなたが決めなさい」
革紐を差し出す。
リゼットは戸惑いながらも、両手で受け取った。
「ありがとうございます、フィルブランテ様」
若草色の瞳が、まっすぐフィルブランテを見る。
そこに恐れはある。
だが、敵意はない。
原作では、この出会いの直後にフィルブランテが身分の違いを指摘し、リゼットを萎縮させる。
最初の選択肢が変わった。
フィルブランテの腕に残る黒い霜が、かすかに痛んだ。
変更を記録するような痛みだった。
「荷物を運ぼう」
レオンハルトが言う。
「えっ、殿下にですか!?」
「私が持っているのだから、このまま行く方が早い」
「でも、王太子殿下に下着の入った鞄を持たせるなんて!」
場が凍った。
リゼットは自分の発言に気づき、両手で顔を覆った。
アマンテルスが、離れた場所で肩を震わせている。
フィルブランテは兄へ鋭い視線を送った。
笑うな。
アマンテルスが口元を日傘で隠す。
無理だ。
そのやり取りを、リゼットだけが不思議そうに見ていた。
◇
入学式は、蒼玻璃講堂で行われた。
天井一面へ青い魔法硝子が張られ、春の日差しを水底のように変えている。
壇上には学院長エレオノーラ、各科の教授、王族と教会の代表が並ぶ。
新入生席の最前列にはレオンハルトとフィルブランテ。
外交留学生席にはアマンテルスとカイラス。
そして神学・治癒科の列の中ほどに、リゼットが座っていた。
フィルブランテは学院長の挨拶を聞きながら、原作イベントの時刻を頭の中で確認する。
教本破損事件は、入学初日の放課後に起きる。
神学・治癒科の教室で、リゼットの机へ置かれた聖花学の教本が破られる。
現場を最初に見つけるのは、フィルブランテの取り巻き、イザベル・ローゼン。
彼女は「フィルブランテ様が平民の特待生を快く思っていない」と周囲へ語り、後日、フィル本人も否定しない。
小さな事件だ。
処罰も注意だけで終わる。
だが、これがフィルブランテとリゼットの対立を、学院全体へ印象づける最初の一歩になる。
教本を守るだけなら簡単だった。
リゼットの席を一日中監視する。
教本を事前に預かる。
偽物と取り替える。
けれど、杯を凍らせてもエルネシアへ呪いが届いた。
教本だけを守れば、次は制服が裂かれるかもしれない。
靴が隠されるかもしれない。
誰かが怪我を負うかもしれない。
大切なのは物ではなく、〈フィルブランテがリゼットを迫害した〉という結果を成立させないことだ。
「――本年度より、二年ぶりに〈種族間危機管理演習〉を再開いたします」
学院長の言葉に、講堂がざわめいた。
フィルブランテは顔を上げた。
「本演習では、所属科、身分、種族を越えた班を作り、学院内外で発生する問題へ共同で対処していただきます」
原作に、この発表はなかった。
少なくとも入学初日には。
「昨年、我が王国は魔侯領からの使節を迎えました。その場で起きた不幸な事件を、対立の理由にしてはなりません。理解とは、同じ場所で失敗するところから始まるものです」
学院長の視線が、フィルとアマンへ向く。
暗殺未遂を受けて、予定が変わった。
自分たちの行動が、新しいイベントを作っている。
フィルブランテは離れた席のアマンテルスを見た。
アマンテルスもこちらを見ている。
学院長は名簿を開いた。
「第一演習班。政治・礼法科、フィルブランテ・アソート・イデルバルディ」
来た。
「外交・魔術科、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル」
予想通り。
「神学・治癒科、リゼット・アーヴェイン」
講堂の中ほどで、椅子が鳴った。
リゼットが立ち上がりかけ、慌てて座り直している。
「騎士科、シリル・グランツ」
シリルが無言で頭を下げた。
「魔術研究科、ノエル・エルミナージュ」
星読塔に近い席で、白銀の短髪をした少年が興味なさそうに欠伸をする。
主要人物が、ほぼ全員同じ班へ集められた。
ゲームなら攻略しやすい便利な配置。
現実なら、爆発物を同じ箱へ詰めたようなものだ。
学院長が名簿を閉じる。
「第一班の監督役は、レオンハルト王太子殿下にお願いいたします」
フィルブランテは目を閉じた。
逃げ道まで塞がれた。
反対側から、アマンテルスの押し殺した笑い声が聞こえた気がした。
◇
入学式が終わると、新入生は所属科ごとに教室へ移動した。
政治・礼法科の教室では、フィルブランテの周囲へ貴族令嬢たちが集まってくる。
「フィルブランテ様、ご入学おめでとうございます」
「同じ科で学べますこと、光栄に存じます」
「先ほどの平民の方、随分と殿下へ馴れ馴れしくなさっていましたわね」
来た。
フィルブランテは最後の声へ視線を向けた。
栗色の巻き髪。
愛らしい顔立ち。
薄桃色の制服飾り。
イザベル・ローゼン伯爵令嬢。
原作でフィルブランテの取り巻きとして登場し、嫌がらせの証言を重ね、最後はすべての罪を主人へ被せる少女。
だが、目の前のイザベルは、想像していたよりも幼く見えた。
笑顔は完璧なのに、指先が落ち着きなく制服の袖をつまんでいる。
「馴れ馴れしい、とは?」
フィルブランテが尋ねる。
「殿下へ礼を失した口を利き、お荷物まで持たせていましたでしょう。身分をわきまえるよう、どなたかが教えるべきではございません?」
周りの令嬢たちが同意する。
原作のフィルブランテなら、ここで曖昧に微笑む。
それが取り巻きへの許可になる。
自分では何も命じず、周囲が意を汲んでリゼットを傷つける。
後に問われれば「わたくしは存じません」と答える。
完全な嘘ではない。
だからこそ、誰も責任を取らない。
「不要ですわ」
フィルブランテははっきり告げた。
令嬢たちが黙る。
「アーヴェインさんの振る舞いに問題があれば、教師が指導します。わたくしたちが罰を与える権利はございません」
「ですが、殿下のご婚約者として、お心を痛められたのでは?」
イザベルが食い下がる。
フィルブランテの胸に、朝の嫉妬がよみがえった。
傷つかなかった、と言えばフィルブランテの感情を否定する。
だから、正直に答えた。
「少し、羨ましくは思いました」
取り巻きたちが目を輝かせる。
「でしたら、やはり――」
「ですが、それはわたくしと殿下の問題です。アーヴェインさんを傷つけてよい理由にはなりません」
イザベルの笑顔が止まった。
フィルブランテは彼女の目を見る。
「わたくしのため、と言いながら、わたくしの知らない場所で誰かを罰することは許しません。よろしいですね」
教室に、冷たい沈黙が落ちた。
「……承知いたしました」
イザベルは頭を下げた。
声は素直だった。
だが、袖をつかむ指へ力が入っている。
フィルブランテの右腕が痛んだ。
黒い霜が、手袋の内側で脈打つ。
原作の流れを止めた反応か。
あるいは、別の何かが動き出したのか。
「フィルブランテ様」
イザベルは顔を上げた。
「放課後、少しだけお時間をいただけませんか。お話ししたいことがございます」
「ええ」
「ありがとうございます」
彼女は笑った。
今度の笑顔は、ひどく怯えて見えた。
◇
昼休み。
学院図書館の北閲覧室には、双傘同盟の臨時作戦本部が作られていた。
もちろん正式名称ではない。
単に、利用者が少なく、窓の外に影梟舎の屋根が見える場所を、二人が勝手に選んだだけである。
「入学初日から好感度イベントを三人分まとめて踏ませるって、どういうことだよ」
アマンテルスは長机へ突っ伏した。
黒い角が書棚へ当たりそうになり、フィルブランテが手で押し戻す。
「兄貴が影を出したからだろ」
「落ちるのが見えたら、身体が勝手に動くだろ」
「結果、レオンハルトが荷物、シリルが中身、兄貴が本人を助けた。リゼットの初期好感度がどう分配されたか分からない」
「別にいいだろ。誰とくっついても」
「問題は、イベントの順序が変わることだ。好感度によって登場時期が変わる人物もいる」
「人の感情を数値で考えるなって、前に言ってなかったか?」
フィルブランテは黙った。
アマンテルスが勝ち誇った顔をする。
「ほらな」
「計算することと、操作することは違う」
「苦しいぞ、公爵令嬢」
「うるさい、魔族令嬢」
図書館の司書がこちらを見る。
二人は同時に口を閉じた。
公の場では敵対している二人が、昼休みに同じ机で小声の口論をしている。十分に怪しい。
机の中央には、学院案内を装った作戦表があった。
フィルブランテは教本破損事件の欄を指す。
「発生予定は今日の放課後。場所は神学・治癒科の第一教室。リゼットの教本を破るのは、イザベルの取り巻きの誰か。イザベル本人は発見者として現れる」
「先に教本を預かるか」
「さっき言った通り、物だけ守っても修正力が別の手段を選ぶ」
「じゃあ、リゼット本人を見張る」
「僕たちが?」
「何か問題あるか」
「入学初日に、悪役令嬢と魔族令嬢が平民の聖女候補を尾行するんだぞ。目撃された瞬間、原作以上の噂になる」
「確かに悪役っぽいな」
「感心するな」
アマンテルスは椅子へ座り直した。
「イザベル本人に警告したんだろ」
「ああ。嫌がらせを許さないと、取り巻き全員の前で言った」
「なら、普通は止まる」
「普通ならな」
二人の腕に残った呪いの痕が、同時に疼いた。
杯の事件で学んだ。
運命の修正力は、方法に執着しない。
必要なのは、悪役令嬢が主人公を迫害したという結果。
実行するのがイザベルでなくてもよい。
教本でなくてもよい。
「人間関係を変えるしかない」
フィルブランテが言った。
「リゼットが、僕を犯人だと思わなければいい。周囲が一つの証言だけで決めつけなければ、事件が起きても破滅の連鎖には入らない」
「でも、お前は今までリゼットと話したことがない」
「今朝、革紐を渡した」
「それで友達になったつもりか?」
「違う」
「じゃあ、何だよ」
「これから謝る」
アマンテルスが目を瞬いた。
「まだ何もしてないのに?」
「これから何か起きる。そしてフィルブランテは、過去に彼女のような平民の使用人へ冷たく当たったことがある」
フィルブランテの中に、いくつもの記憶がある。
失敗した侍女へ、使えない者は不要だと言った。
礼を間違えた下級貴族の娘を、人前で笑った。
自分へ向けられる期待と恐怖に耐えられず、より弱い相手へ完璧さを要求した。
教本を破ってはいない。
リゼットをまだ傷つけてもいない。
だが、フィルブランテに落ち度がなかったわけではない。
「無実を証明するだけじゃ、足りないんだ」
アマンテルスはしばらく黙り、それから頷いた。
「分かった。俺も一緒に行く」
「兄貴は来るな」
「何でだよ」
「悪役令嬢が平民の少女を呼び出し、魔族令嬢を護衛につけて謝罪するのか? 脅迫にしか見えない」
「遠くから見張る」
「だから、それが尾行だ」
「じゃあ偶然を装う」
「兄貴に自然な演技は無理だ」
「失礼だな。半年間、魔侯令嬢をやってるんだぞ」
「今朝、案内図を逆さに持ってた」
「文字の向きが人族と魔族で違うんだよ」
「同じ共通語だろ」
司書が二度目の視線を送る。
二人はまた黙った。
そのとき、窓を小さく叩く音がした。
一羽の影梟が、硝子の外で翼を広げている。
アマンテルスが窓を開けると、梟は机へ降り、足に結ばれた紙片を差し出した。
ルーシェからの報告だった。
短い一文。
――リゼット・アーヴェインの教本は、昼の時点ですでに図書館へ返却されています。
フィルブランテは紙片を二度読んだ。
「返却?」
「入学日に配られたばかりじゃないのか」
「そうだ。リゼットはまだ一度も開いていないはずだ」
教本が、原作より早く動いている。
「場所は」
アマンテルスが立ち上がる。
「神学科書庫」
「行くぞ」
「待て。目立つ」
「もう始まってるなら、目立つかどうかは後だ」
フィルブランテは一秒だけ考え、作戦表を畳んだ。
「正面から行く。こそこそすれば、見つかったとき不利になる」
「はいはい、政治的意味」
「分かってきたじゃないか」
「お前の兄だからな」
二人は立ち上がった。
司書が深いため息をついた。
「閲覧室では、お静かに」
「失礼いたしました」
二人は声をそろえて謝り、今度こそ司書に怪訝な顔をされた。
◇
神学科書庫は、聖花温室に隣接する古い建物の地下にあった。
石造りの階段を下りると、乾いた紙と薬草の匂いがする。壁一面の棚には、聖花学、治癒術、教会史の教本が年度別に収められていた。
入り口には、白い法衣を着た司書補が一人いる。
「フィルブランテ様、アマンテルス様。こちらは神学科の管理区域でございます」
「存じております」
フィルブランテは正式な閲覧許可証を差し出した。
作戦を考えている間に、ミレーヌへ手配させたものだ。
アマンテルスが横から紙を見る。
「いつの間に」
「兄貴が案内図と戦っていた頃」
「聞こえておりますが」
司書補が眉をひそめる。
「失礼。魔族領の慣用表現ですわ」
「どんな慣用表現だよ」
フィルブランテはアマンテルスの足を踏んだ。
「何か?」
「何でもございませんわ」
許可証に問題はない。
司書補は不承不承、二人を中へ通した。
新入生用の教本は、最奥の棚へまとめられている。
フィルブランテは背表紙の番号を追った。
政治科、騎士科、魔術科。
神学・治癒科。
リゼット・アーヴェインの名が記された教本は、すぐ見つかった。
見た目には、何の異常もない。
「まだ破られてないな」
アマンテルスが小声で言う。
「触るな」
「分かってる」
フィルブランテは右手の手袋を外した。
黒い霜の痕が空気へ触れ、わずかに痛む。
教本へ手をかざし、〈晶析眼〉を開く。
右目の視界が青く染まった。
紙に触れた魔力の履歴が、薄い層となって浮かぶ。
製本職人。
学院の検品官。
配布係の教師。
リゼットの指先。
そして、教会系統の光魔力。
その中へ、不自然な空白があった。
誰かが触れた痕跡ではない。
触れたという事実そのものが、削り取られている。
「記録が消されてる」
「ザハルか?」
「本人とは限らない。でも教会の術式だ」
フィルブランテは教本の表紙を開いた。
最初の頁は無傷。
二頁目。
三頁目。
中央まで進んだところで、黒い糸が見えた。
頁と頁の間に挟まった、細い魔力の線。
教本を一定の角度まで開けば、糸が引かれる。
すると、綴じ糸が内側から切れ、頁が破れる。
誰かが破る必要はない。
リゼット本人が教本を開けば、自分の手で壊すことになる。
「仕掛け型か」
アマンテルスが影を伸ばす。
「待て」
「切るだけだ」
「杯と同じだ。仕掛けを止めれば、別の経路へ移る可能性がある」
「じゃあ、どうする」
フィルブランテは教本を閉じ、周囲の棚を見る。
事件の結果は、リゼットの教本が破られ、フィルブランテの一派が疑われること。
実行者が不要になったなら、より厄介だ。
「この本を証拠として封印する。リゼットには別の教本を渡す」
「それじゃ、また別の物が壊れるぞ」
「だから、本人に話す」
「暗殺を予知した次は、教本が破れる未来を知ってると?」
「全部は話さない。危険な細工が見つかったとだけ伝える」
アマンテルスは少し考えた。
「リゼットが信じなかったら?」
「それでも、彼女自身に選ばせる」
フィルブランテが教本へ封印布をかけようとした、そのときだった。
背後で、紙の裂ける音がした。
二人が振り返る。
棚から離れた場所に、イザベルが立っていた。
栗色の髪は乱れ、顔は青ざめている。
両手に、一冊の教本を抱えていた。
表紙には、リゼット・アーヴェインの名。
フィルブランテの前にあるものと、同じ名前。
二冊目。
イザベルの腕の中で、教本の頁がひとりでに裂けていく。
一枚。
二枚。
見えない指が引きちぎるように。
「違います」
イザベルの唇が震える。
「わたくしでは、ありません」
足元には、破れた頁が散らばっていた。
その一枚一枚へ、イデルバルディ家の氷薔薇に似た紋様が浮かんでいる。
「手を離せ!」
アマンテルスが叫ぶ。
イザベルは本を投げ出そうとした。
だが指が表紙から離れない。
薄い光の糸が、彼女の手首へ巻きついている。
「た、助けて……」
アマンテルスの影が伸びる。
同時に、フィルブランテの腕に残る黒い霜が燃えるように痛んだ。
目の前へ、原作の光景が重なる。
破れた教本。
泣くリゼット。
証言するイザベル。
冷たく見下ろすフィルブランテ。
役者が足りない。
主人公がいない。
それでも舞台は、先に始まろうとしている。
「影で糸を押さえろ。切るな!」
フィルブランテが命じる。
「分かった!」
アマンテルスの影がイザベルの腕へ絡み、光の糸の動きを止める。
フィルブランテは床に扇を広げた。
氷晶の線が、散らばる紙片を囲む。
「記録を固定する。誰も頁に触れるな!」
光の糸が激しく暴れた。
影から逃れようと形を変え、イザベルの指へ食い込む。
血が一滴、教本へ落ちた。
その瞬間、紙片の氷薔薇が赤く染まる。
術式の対象が変わった。
教本の破損から、イザベルの負傷へ。
杯のときと同じだ。
方法を止めれば、別の結果へ進む。
「兄貴、糸を僕の方へ流せ!」
「また受ける気か!」
「凍らせるだけだ!」
「お前の腕はまだ治ってない!」
「イザベルが死んだら、僕が口封じしたことにされる!」
「そこかよ!」
「それだけじゃない!」
フィルブランテはイザベルの前へ膝をついた。
怯えきった青い瞳が、自分を見る。
「イザベル。聞こえますか」
「フィル、ブランテ様」
「あなたは、この教本を破ろうとしましたか」
「……はい」
アマンテルスが目を見開く。
フィルブランテは表情を変えなかった。
「誰かに命じられたのですか」
「手紙が、届いて……お父様の借金を、なくしてくださると。教本を、書庫へ戻すだけでよいと」
「破るとは聞いていなかった?」
「はい。信じて、ください」
「信じるかどうかは、後で決めます」
イザベルの顔が絶望に染まる。
フィルブランテは続けた。
「ですが、今はあなたを助けます。そのために、あなた自身の意思が必要です」
「わたくしの……?」
「その本を手放したいと、声に出して言いなさい。命令された役を拒むのです」
光の糸が、さらに強く指へ食い込む。
イザベルが悲鳴を上げた。
「早く!」
「わ、わたくしは……」
唇が震える。
父親の顔が浮かんでいるのだろう。
借金。
家門の没落。
教団からの脅迫。
彼女は悪意だけで動いたのではない。
だからといって、罪が消えるわけではない。
それでも、選び直すことはできる。
「わたくしは、この教本を壊したくありません!」
イザベルが叫んだ。
「フィルブランテ様を陥れたくありません! アーヴェインさんを傷つけたくありません!」
光の糸が、一瞬だけ緩んだ。
「今だ!」
アマンテルスの影が糸を引き剥がす。
フィルブランテの氷晶が、その形を固定する。
糸は空中で凍り、細い硝子のように砕けた。
教本が床へ落ちる。
イザベルの指は自由になった。
傷は深いが、命に関わるほどではない。
アマンテルスが息を吐く。
「助かった」
「まだだ」
フィルブランテは二冊の教本を見た。
一冊は本物。
もう一冊は、いつの間にか作られた偽物。
偽物の表紙には、リゼットの名だけでなく、フィルブランテの魔力印まで複製されている。
事件は、起こる準備を終えている。
後は発見者と被害者を舞台へ置くだけだ。
そして階段の上から、足音が聞こえた。
「こちらです。書庫から大きな音が」
司書補の声。
複数人が下りてくる。
フィルブランテは素早く状況を確認した。
床に散らばった破れた頁。
負傷したイザベル。
影を伸ばすアマンテルス。
氷晶の扇を持つフィルブランテ。
どう見ても、二人でイザベルを脅して教本を破らせた現場である。
「兄貴。逃げるなよ」
「誰に言ってる」
「僕たちにだ」
アマンテルスは意味を理解し、影を引かなかった。
足音が近づく。
現れたのは、神学科の教師、司書補、数名の学生。
そして、その後ろにリゼットがいた。
若草色の目が、床の紙片へ向く。
「わたしの、教本……?」
原作の場面が完成した。
周囲の学生が息を呑む。
「フィルブランテ様が」
「魔族令嬢まで」
「やはり、平民の特待生を」
囁きが始まる。
フィルブランテの頭へ、強制イベントの残響が流れ込んだ。
『身分をわきまえなさい』
『殿下のお側へ近づかないで』
『あなたのような者に、この学院はふさわしくない』
原作のフィルブランテが言った言葉。
まだ口にしていない言葉。
それでも周囲は、フィルブランテがそう言うのを待っている。
役を演じろと、舞台が迫ってくる。
右腕の黒い霜が、手袋の下で広がる。
フィルブランテは扇を閉じた。
そして、リゼットへ向かって頭を下げた。
「申し訳ございません、アーヴェインさん」
全員が黙った。
原作には存在しない台詞だった。
「え……?」
リゼットが目を見開く。
「あなたの教本を危険から守れませんでした。事件が起きる可能性を知りながら、対処が遅れたことをお詫びいたします」
「お嬢様!」
ミレーヌの声が階段の上から飛んだ。
いつの間にか駆けつけている。
その後ろにはレオンハルトとシリルもいた。
これで主要人物がそろった。
公開断罪の縮図のようだった。
ただ一つ違うのは、フィルブランテが先に罪を認めたことだ。
「待ってください」
リゼットが言った。
「フィルブランテ様が、破ったんですか?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして謝るんです?」
「防げたかもしれないからです」
「それは、あなたのせいじゃありません」
あまりに真っすぐな否定だった。
フィルブランテは顔を上げる。
リゼットは床へ膝をつき、破れた頁を一枚拾った。
氷薔薇の印を見つめる。
「これ、フィルブランテ様の魔法ですか?」
「似せてありますが、違います。わたくしの氷晶は、術者の記録を保存します。この紋様には記録がない。見た目だけの偽物です」
「なら、それを皆さんへ説明すればいいんですよね」
「信じていただけるとは限りません」
「でも、わたしは信じます」
フィルブランテは言葉を失った。
「なぜです」
「今朝、鞄の紐をくれたから?」
「その程度で人を信用してはいけません」
「じゃあ、今、先に謝ってくれたから」
「それも理由として弱い」
「それなら、教本より先に、怪我をした方を心配しているからです」
リゼットの視線が、イザベルへ移る。
フィルブランテは無意識に、彼女を庇う位置へ立っていた。
「本当にわたしを嫌って教本を破ったなら、その人を助けたりしないと思います」
「人は、疑いを逸らすために善行を使うこともあります」
「フィルブランテ様は、わたしに信じてほしくないんですか?」
予想していなかった問いだった。
フィルブランテは答えられない。
信じてほしい。
だが、ゲームの主人公だからではない。
自分の処刑を防ぐ証言者だからでもない。
目の前の少女に、フィルブランテは悪人だと決めつけてほしくない。
「……信じていただけるなら、嬉しく思います」
「はい」
リゼットは笑った。
レオンハルトが、静かに二人を見ている。
原作で、フィルの嫉妬を深めるはずだった王太子の視線。
今は、婚約者の知らなかった一面を見ようとしていた。
「話を戻そう」
彼が書庫へ入る。
「何が起きたのか、順に説明してほしい」
フィルブランテはイザベルを見た。
彼女は青ざめ、床へ座り込んでいる。
「わたくしが、お話しします」
かすれた声だった。
「イザベル」
「フィルブランテ様。わたくしは、あなたを裏切りました」
「事実を話してください。評価は、その後です」
イザベルは震えながら、教本を返却するよう命じられたこと、父の借金を盾に脅されたことを話した。
差出人の名はない。
手紙は読むと灰になった。
書庫へ本を置けば、借金の証文を返すと約束された。
「破れるとは、知りませんでした。でも、アーヴェインさんを困らせるためのことだとは、分かっていました」
イザベルはリゼットへ向き直った。
「申し訳、ございません」
深く頭を下げる。
リゼットは困ったように、フィルブランテとイザベルを交互に見た。
「顔を上げてください」
「許して、くださるのですか」
「分かりません」
その答えに、全員が少し驚いた。
リゼットは自分の胸元を握る。
「教本を壊されそうになったのは、悲しいです。フィルブランテ様を悪い人に見せようとしたのも、よくないと思います。でも、ご家族のことを言われたら、わたしも何をするか分かりません」
若草色の瞳が、イザベルをまっすぐ見る。
「だから、今すぐ許すとは言えません。でも、どうしてこうなったのか、一緒に確かめたいです」
リゼットは、善良だが万能ではない。
傷つけば悲しい。
騙されれば怒る。
それでも相手の事情を聞こうとする。
ゲームの主人公ではなく、一人の少女だった。
「それで、よろしいのです」
フィルブランテは言った。
「許すことを、誰かに急かされる必要はありません」
イザベルの目から涙が落ちた。
リゼットは少し迷ってから、彼女へ手巾を差し出した。
「これは貸すだけです。まだ許してませんから」
「……はい」
アマンテルスが、フィルブランテの隣で小さく笑った。
「強いな、あの子」
「聞こえますわよ、魔侯令嬢」
リゼットが振り返る。
アマンテルスはすぐに令嬢の顔へ戻った。
「褒めたのですわ、アーヴェインさん」
「ありがとうございます。ええと……助けてくださったのも、アマンテルス様ですよね」
「公爵令嬢が先に命じましたので」
「兄貴」
「事実だろ」
「お二人は、本当は仲が良いんですか?」
書庫の空気が止まった。
アマンテルスとフィルブランテは、同時にリゼットを見る。
「まさか」
「あり得ませんわ」
また声が重なった。
リゼットの目が細くなる。
「やっぱり仲が良いんですね」
「どこを見れば、そうなるのです?」
「殿下と同じことを言うのね」
レオンハルトが笑う。
フィルブランテは嫌な予感を覚えた。
原作のリゼットは、好感度によって攻略対象の感情を読み取る選択肢を得る。
しかし、兄弟関係を見抜く能力などなかったはずだ。
「まあ、今はそれより」
リゼットは破れた頁へ視線を戻した。
「この本、直せますか?」
「同じ内容の教本は用意できます」
「そうじゃなくて、この本です」
彼女は紙片を両手で包む。
「誰かが悪いことに使ったまま捨てるのは、嫌です」
指の間から、淡い光がこぼれた。
白い花弁が、一枚。
また一枚。
破れた頁の上へ舞い落ちる。
聖花紋。
リゼットの治癒魔法が、傷ついた紙へ反応している。
本来は生き物へしか作用しないはずの力だった。
だが教本には、イザベルの血と、運命の修正力が残っている。
光は傷と呪いをまとめて引き出そうとした。
「待って!」
フィルブランテが止めるより早く、黒い糸が紙から飛び出した。
リゼットの指へ絡みつく。
「アーヴェインさん!」
アマンテルスの影が反射的に伸びる。
黒い糸を包み、リゼットの手から引き離す。
しかし、呪いを影へ収容した瞬間、アマンテルスの腕に残る古傷が開いた。
黒い文字が肩へ駆け上がる。
「兄貴!」
「大丈夫、止められる!」
「一人でやるな!」
フィルブランテはアマンテルスの影へ氷晶を重ねた。
杯の夜と同じ。
闇で呪いを受け止め、氷で形を固定する。
だが、前回と違う力が加わった。
リゼットの白い花弁が、影と氷の間へ入り込む。
呪いだけを、薄い膜のように剥がしていく。
アマンテルスの影から黒い糸が分離する。
フィルブランテの氷晶が、その術式情報を保存する。
最後にリゼットの光が、紙へ残った傷を閉じた。
三色の魔力が、一瞬だけ円を描いた。
白い花。
黒い影。
青い結晶。
黄昏晶花陣。
まだ誰も、その名を知らない。
けれど、三人の力は初めて完全な形でつながった。
破れた教本の頁が、元へ戻る。
継ぎ目には、三色の細い花模様が残った。
「治った……?」
リゼットが目を丸くする。
「お前、今のどうやった?」
アマンテルスが尋ねる。
「お前?」
「あなた」
「今、アマンテルス様、フィルブランテ様をお前って」
「魔族領の慣用表現ですわ」
「先ほども聞きました、その言い訳」
司書補が冷たく指摘する。
フィルブランテは咳払いをした。
「アーヴェインさん。今の力を、もう一度使えますか?」
「分かりません。破れたところが痛そうだと思ったら、勝手に」
やはり、まだ制御できていない。
だが一つ、確かなことがある。
杯の夜、二人だけでは呪いを分離できなかった。
アマンテルスが収容し、フィルブランテが固定しても、傷と呪いは結びついたままだった。
リゼットの力があれば、切り離せる。
この少女が必要だ。
攻略対象の好感度を上げるための主人公としてではない。
兄弟の破滅を防ぐ、対等な仲間として。
「アーヴェインさん」
フィルブランテは彼女へ向き直った。
「お願いがございます」
「何でしょう」
「今後も、わたくしたちと一緒に、この教本を狙った者を調べていただけませんか」
リゼットは驚いた。
「わたしが、ですか?」
「あなたは被害者です。事件の説明を受け、自分の意見を述べる権利があります。それに、今の力についても調べる必要がございます」
「でも、わたしは平民で、魔法の勉強も始めたばかりで」
「関係ありませんわ」
アマンテルスが言った。
「力が足りなければ、私たちが補います。私たちに足りないものは、あなたが持っている」
フィルブランテは兄を見る。
それは原作知識から出た言葉ではなかった。
アマンテルス自身が、先ほど三人の力を感じて出した答えだ。
「怖くはありませんか」
リゼットが尋ねる。
「わたしが、魔族と人族の混ざった変な魔法を使ったこと」
アマンテルスの赤紫の瞳が、わずかに細くなった。
彼女の中に眠る魔族の血を、感じ取ったのかもしれない。
だが、今は言わない。
「変ではありませんわ」
フィルブランテが先に答えた。
「役に立つかどうか以前に、あなたの力です。誰かが勝手に善悪を決めるものではありません」
リゼットはしばらく黙っていた。
やがて、三色の花模様が残る教本を胸へ抱く。
「わたしにも、調べさせてください」
声は震えている。
それでも、目を逸らさなかった。
「誰がイザベル様を脅したのか。どうしてフィルブランテ様を悪者にしようとしたのか。わたしの力が何なのか。知りたいです」
「決まりだな」
アマンテルスが笑う。
「待て」
フィルブランテはすぐに止めた。
「何だよ」
「秘密同盟へ入れるには、説明することが多すぎる。兄貴の正体まで話すわけにはいかない」
「誰が正体まで言うって言った」
「兄貴は口が滑る」
「お前もさっき兄貴って呼んだぞ」
リゼットが首を傾げる。
「兄貴?」
二人は凍りついた。
「魔族領の」
「慣用表現はもう結構です」
司書補が遮った。
レオンハルトが口元を押さえ、シリルは明後日の方向を見ている。
イザベルまで、涙の跡を残したまま小さく笑った。
フィルブランテは頭痛を覚えた。
破滅値とは別の種類の痛みだった。
◇
教本破損事件は、その日のうちに学院長預かりとなった。
二冊の教本、光の糸を閉じ込めた氷晶、イザベルの証言は、学院長室へ封印された。
リゼット本人が「フィルブランテに破られたのではない」と明言したため、原作のような公の非難には発展しなかった。
しかし、噂を完全に止めることはできなかった。
悪役令嬢が平民の特待生を懐柔した。
魔族令嬢が禁術で証人を操った。
王太子が婚約者の罪を揉み消した。
人は、見たものより、信じたい筋書きを選ぶ。
そして筋書きは、原作と似た形へ寄ろうとしている。
夕刻。
フィル、アマン、リゼット、イザベル、レオンハルト、シリルは学院長室へ呼ばれた。
エレオノーラ学院長は、三色の花模様が残る教本を机へ置いている。
「まず、ローゼン嬢」
学院長の声は厳しかった。
「事情があったとはいえ、他者を害する意図を持って教本を移した事実は消えません。あなたには一か月の謹慎と、神学科書庫での奉仕活動を命じます」
「承知いたしました」
イザベルは頭を下げた。
「また、父君の負債については学院から王国財務局へ調査を要請します。脅迫に用いられた以上、個人の問題ではありません」
イザベルが顔を上げる。
「ですが、それでは父が」
「不正があれば裁かれます。正当な負債であれば、返済方法を考えます。いずれにせよ、あなた一人が背負うことではありません」
彼女の目に、また涙が浮かんだ。
「はい」
学院長は次に、フィルとアマンを見る。
「お二人の行動により、被害は最小限に抑えられました」
「当然のことをしたまでですわ」
フィルブランテが答える。
「その当然を実行できる者は多くありません。ただし、独自に事件を予測し、関係者へ十分な説明をしないまま動いた点は問題です」
「申し訳ございません」
「特にアマンテルス嬢。書庫の影を無断で封鎖し、司書補の警報術式を三つ破壊しましたね」
「必要な措置でした」
「修繕費の請求先は、魔侯家でよろしいですか」
アマンテルスが黙った。
「私が半分負担いたします」
フィルブランテが言う。
「お前――あなたは関係ないでしょう」
「命令したのはわたくしです」
「姉妹喧嘩は後になさい」
学院長室が静まった。
エレオノーラ自身も、わずかに目を見開いている。
フィルブランテはゆっくり振り返った。
リゼットが口を両手で覆う。
レオンハルトは天井を見た。
シリルは肩を震わせている。
アマンテルスは、小声で言った。
「今、姉妹って」
「聞き間違いですわ」
「でも、学院長が」
「言葉の綾です」
エレオノーラは咳払いをした。
「失礼。あまりに息が合っていたもので」
「合っておりません」
「最悪ですわ」
また声が重なった。
学院長はこめかみを押さえた。
「話を進めます」
机の教本を開く。
修復された頁へ残る三色の花模様が、淡く光った。
「これは、既存のどの魔法体系にも当てはまりません。光が呪いを分離し、闇が収容し、氷が情報を固定している。三人の魔力が、一つの目的のために完全な循環を作っています」
学院長の視線が、リゼットへ向く。
「アーヴェイン嬢。あなたの聖花紋は、一般に知られる治癒術とは異なります。今後、学院の管理下で訓練を受けてください」
「はい」
「フィルブランテ嬢、アマンテルス嬢。お二人にも、術式の研究へ協力を願います」
「承知いたしました」
「異存はございません」
「そこで、第一演習班の最初の課題を変更します」
嫌な予感がした。
「本件を、班として調査しなさい」
「学院長」
レオンハルトが口を挟む。
「学生へ任せるには、危険が大きすぎます」
「もちろん、教員と王国の捜査官が監督します。ですが、敵はすでに学生を利用し、お三方の魔力を標的にしている。何も知らないまま守られる方が危険です」
学院長は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
イザベルへ届いた手紙の灰を、魔術で復元したものだった。
文面はほとんど読めない。
ただ、末尾に一つの記号が残っている。
中心のない円。
虚無教団の紋章。
「この印に関する記録は、学院地下の旧文書庫にあります」
「旧文書庫?」
アマンテルスが反応する。
ゲーム内で、隠し通路へ入るために使う区域だ。
「明日の放課後、第一演習班で調査を開始します」
原作では、入学初日に教本を破られたリゼットが、王太子へ慰められる。
フィルブランテはそれを見て嫉妬を深め、二度目の嫌がらせへ進む。
今は違う。
リゼットはフィルを信じると決めた。
イザベルは自分の罪を告白した。
アマンは二人を守った。
攻略対象たちは、事件を自分の目で見た。
物語は確かに変わっている。
だが敵も、原作になかった手を使い始めた。
「最後に」
学院長がフィルブランテを見る。
「フィルブランテ嬢。アーヴェイン嬢へ、まだ伝えることがあるのでは?」
フィルブランテは少し考えた。
教本を守れなかったことは謝った。
事件についても説明した。
それでも残っているもの。
フィルブランテが、入学前から抱えていた偏見。
平民は高位貴族より劣ると考え、努力を見ようとしなかったこと。
それはフィルブランテが行ったことではない。
だが、今の自分の中にも記憶と感情として存在している。
フィルブランテはリゼットへ向き直った。
「アーヴェインさん。わたくしは、あなたを知る前から、平民出身という理由だけで軽く見ておりました」
リゼットが驚く。
「今朝お会いするまで、あなた個人がどのような方か考えたこともありませんでした。教本を破ってはいません。けれど、誰かがあなたを傷つけても仕方がないと思える土台を、わたくしも作っていたのです」
「フィルブランテ様」
「申し訳ございませんでした」
二度目の謝罪。
今度は、起こらなかった事件のためではない。
フィルブランテが実際に抱いていた傲慢さのためだった。
リゼットは困ったように笑う。
「わたしも、フィルブランテ様を、怖い貴族の方だと思っていました」
「それは、間違っておりませんわ」
「そこは否定してください」
「事実ですので」
アマンテルスが笑いを噛み殺す。
リゼットも、つられるように笑った。
「では、お互いに、これから知っていけばいいですか?」
「ええ」
「よろしくお願いします、フィルブランテ様」
差し出された手。
ゲームなら、攻略対象へ向けられるはずだった選択肢。
今は悪役令嬢へ向けられている。
フィルブランテはその手を取った。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。リゼットさん」
初めて、名前だけで呼んだ。
右腕の黒い霜が、わずかに薄くなった。
完全には消えない。
だが、痛みは十段階で一まで下がった。
破滅値が、初めて動いた。
◇
学院長室を出た後、アマンテルスとフィルブランテは廊下の窓辺で立ち止まった。
リゼットはイザベルとともに治療室へ向かい、レオンハルトとシリルは学院の警備責任者へ報告に行った。
二人きりではない。
廊下の先には学生がいる。
それでも、小声なら話せる。
「先に謝るとは思わなかった」
アマンテルスが言った。
「僕もだ」
「お前が考えた作戦じゃないのか」
「最初は、事件が起きたら謝ろうとは思ってた。でも、あそこまで言うつもりはなかった」
「フィルブランテの気持ち?」
「たぶん。僕の気持ちでもある」
窓の外では、夕日が白い校舎を染めている。
「原作のフィルブランテがやったことを、全部僕が背負う必要はないと思う。でも、彼女の身体と立場だけを使って、過去は自分に関係ないって言うのも違う」
「難しく考えるな」
「兄貴は考えなさすぎる」
「今、謝りたいと思ったから謝った。それでいいだろ」
「結果的にはな」
「リゼットも信じるって言った」
「信じやすすぎて心配だ」
「あれは、お前を見て決めたんだろ」
フィルブランテは少し黙った。
相手の意思を尊重する。
自分を信じるという選択も、勝手に過小評価してはいけないのかもしれない。
「それより兄貴」
「何だ」
「リゼットの前で、僕をお前って呼んだな」
「お前も俺を兄貴って呼んだ」
「緊急事態だった」
「俺もだ」
「次からは暗号名を使う」
「フィルとアマンでいいだろ」
「咄嗟に出ない」
「じゃあ白傘と黒傘」
「怪しすぎる」
「一号と二号」
「僕が一号だ」
「兄が一号だろ」
「同着なんだから早い者勝ちだ」
「まだ勝負続いてるのかよ」
二人の口論へ、背後から声が加わった。
「やっぱり、ご兄弟なんですか?」
アマンテルスとフィルブランテは、ゆっくり振り返った。
治療室へ行ったはずのリゼットが、廊下の角から顔を出している。
隣には、包帯を巻いたイザベルもいた。
「忘れ物を取りに戻ったら、聞こえてしまって」
「違いますわ」
「あり得ません」
また声が重なった。
リゼットは確信した顔で頷いた。
「分かりました。秘密なんですね」
「何も分かっていませんわ」
「誰にも言いません」
「ですから」
「フィルブランテ様がお姉様で、アマンテルス様が妹さんですか?」
アマンテルスが吹き出した。
フィルブランテは言葉を失った。
「逆だ」
「兄貴!」
「あ」
廊下に沈黙が落ちた。
リゼットの若草色の瞳が、これ以上ないほど大きくなる。
イザベルは包帯を巻いた手で口元を覆った。
フィルブランテは頭を抱えた。
教本破損事件は回避した。
リゼットとの敵対も防いだ。
破滅値は下がり、新しい協力関係も生まれた。
その代わり。
転生以来、最大の秘密が、入学初日にして危機を迎えていた。
「兄貴。そこに直れ」
「待て、フィルブランテ。話せば分かる」
「魔族領では、どうやって正座するんだ?」
「この服で正座は無理だろ!」
「では、立ったまま説教します」
リゼットが小さく手を挙げた。
「あの、わたしたちは席を外した方が」
「いえ」
フィルブランテは最高位の公爵令嬢にふさわしい微笑みを浮かべた。
「口止めのお話もございますので、残ってくださいませ」
リゼットとイザベルの顔が引きつった。
アマンテルスだけが、声を上げて笑っていた。
原作最初の悪役令嬢イベントは、こうして終わった。
誰一人、原作通りの役を演じないまま。




